——雨が、止まない。幕舎の天幕を叩く音が、絶えず響いている。乾く暇がない。地面はすでに泥へと変わり、靴の裏にまとわりつく。歩くだけでも、重い。
まして——戦車となれば、なおさらだった。
机の上には、スモレンスク周辺の地図が広げられている。だが、その上に描かれた線は。現実とは、少しずれていた。
「機動戦で包囲する。」
ブリュージュが言う。短く、簡潔に。
「撃破は後回しだ。」
ホフマンとベッカーが頷く。
「まずは先に囲む。」
「そのあとは歩兵に引き渡す。それだけだ。」
それが今回の骨子だった。装甲で切り裂き、そのまま閉じる。理論としては、正しい。これまで何度も成功してきた形だ。
だが——ブリュージュは、地図を指でなぞりながら言う。
「だがもう遅い。」
ホフマンが顔を上げる。
「道路状況が悪すぎます。」
その通りだった。主要道路はぬかるみ、舗装のない道はすでに機能していない。車両は進める。
だが——速くはない。
「これじゃ回り込めない。」
ベッカーが静かに言う。
「予定通りの機動は不可能です。」
地図上では、簡単だ。だが現実では。一度足を取られれば、それだけで遅れる。
遅れれば——
「逃げられるな。」
ブリュージュが言う。敵は崩れている。だが、消えてはいない。
「ここから抜けていく。」
隙間から、時間の差で、確実に——
「大隊長、包囲より撃破するべきでは?」
ホフマンが問う。
「目の前の敵を削れば——」
「無意味だ。」
即座に切る。
「包囲できなければ、いくら撃っても終わらん。」
ホフマンは口を閉じる。理解している。だが、現実は厳しい。
「敵ではないな。」
ブリュージュが、ぽつりと言う。視線は地図ではなく、外へ。降り続く雨。
「相手は、これだ。」
天幕の外を指す。泥。水。
そして——時間。
「止まれば負ける。」
それだけだった。
「進めば間に合う・・・が、遅れれば逃がす。」
単純だ。だがその“進む”が、難しい。
「これでは消耗が出ます。」
ベッカーが言う。
「出る。出ないはずがない。」
ブリュージュは即答した。
「だが止まるな。」
それが結論だった。止まれば、すべてが崩れる。
「進み続けろ。」
「泥でも、雨でも関係ない。」
それが、命令だった。三人の間に、沈黙が落ちる。
地図の上では包囲は完成している。
だが現実は——
まだ、どこも閉じていない。
——度重なるスタック。それだけで、すべてが遅れた。ぬかるみに足を取られ、戦車は進むことすらままならない。
本来なら——機動で包囲し、敵を閉じ込め、後続に引き渡すはずだった。
だがその“機動”が、失われていた。ロシアの大地がそれを奪った。
「進めろ・・・何としてでも・・・」
ブリュージュが命じる。
「絶対に止まるな。」
それでも進まない。履帯が空転し、泥を掻き上げるだけ。無線が荒れる。
『スタック!』
『牽引が必要だ!』
『別ルートを探せ!』
混乱ではない。だが、確実に遅れていく。
「・・・くそ。」
ステファニーが小さく吐き捨てる。時間が、足りない。包囲は、時間との勝負だ。一分の遅れが、敵を逃がす。それが分かっているからこそ、焦りが募る。
「右へ回り込め!」
「距離を詰めろ!」
命令は的確だった。
だが——状況が、それを許さない。
「もう間に合わない。」
誰かが呟く。その言葉を、否定できる者はいなかった。ブリュージュも、同じだった。だが彼の視線は、別の場所にあった。
「これは他も詰まっているな。」
自分たちだけではない。周囲の部隊も、同じ状況に陥っている。進めない。閉じられない。
「これでは——」
先の作戦からブリュージュの僚車についたホフマンが言いかける。
「逃げられる。」
ブリュージュが引き取った。
「大物を、な」
その意味は、重い。名のある指揮官。逃がせば、次に現れる。より厄介な形で。
「もたもたするな!急げ!」
ステファニーが声を上げる。それでも時間は、容赦なく過ぎていく。
やがて——戦線の隙間から、敵は抜けた。組織的に。確実に。この殿を引き継いでいるのはロコソフスキーの部隊だった。粘り強い抵抗。時間を稼ぎ、穴を作り、そこを通す。見事な撤退だった。
「逃した——」
誰かが言う。否定はない。事実だった。その代償は大きい。
ブリュージュ隊の稼働率は——三二パーセント。
ステファニー隊は——五六パーセントを下回った。
特にステファニー隊の損耗は激しかった。乗員の損失。戦死者、十五名。若い兵士たち。その多くが、戻らなかった。
「・・・」
ステファニーは、何も言わなかった。言葉にできない。ただ、現実だけがそこにある。減った数。空いた席。それだけで、十分だった。ブリュージュは、その様子を見ていた。静かに。何も言わずに。
だが——内では、決まっていた。もう、連れて行けない。このまま進めば、次はさらに削られる。それは、分かりきっている。だからこそ。
「ここで終わりだ。」
小さく、呟く。誰にも聞かれない声で。この戦いを。この隊を。ここで区切る。それが、最善だと判断した。
たとえ——それが、どんな形であっても。