Imperial Cavalry   作:クマぴょん

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【第十話 包囲網の綻び】

 ——雨が、止まない。幕舎の天幕を叩く音が、絶えず響いている。乾く暇がない。地面はすでに泥へと変わり、靴の裏にまとわりつく。歩くだけでも、重い。

まして——戦車となれば、なおさらだった。

机の上には、スモレンスク周辺の地図が広げられている。だが、その上に描かれた線は。現実とは、少しずれていた。

「機動戦で包囲する。」

ブリュージュが言う。短く、簡潔に。

「撃破は後回しだ。」

ホフマンとベッカーが頷く。

「まずは先に囲む。」

「そのあとは歩兵に引き渡す。それだけだ。」

それが今回の骨子だった。装甲で切り裂き、そのまま閉じる。理論としては、正しい。これまで何度も成功してきた形だ。

だが——ブリュージュは、地図を指でなぞりながら言う。

「だがもう遅い。」

ホフマンが顔を上げる。

「道路状況が悪すぎます。」

その通りだった。主要道路はぬかるみ、舗装のない道はすでに機能していない。車両は進める。

だが——速くはない。

「これじゃ回り込めない。」

ベッカーが静かに言う。

「予定通りの機動は不可能です。」

地図上では、簡単だ。だが現実では。一度足を取られれば、それだけで遅れる。

遅れれば——

「逃げられるな。」

ブリュージュが言う。敵は崩れている。だが、消えてはいない。

「ここから抜けていく。」

隙間から、時間の差で、確実に——

「大隊長、包囲より撃破するべきでは?」

ホフマンが問う。

「目の前の敵を削れば——」

「無意味だ。」

即座に切る。

「包囲できなければ、いくら撃っても終わらん。」

ホフマンは口を閉じる。理解している。だが、現実は厳しい。

「敵ではないな。」

ブリュージュが、ぽつりと言う。視線は地図ではなく、外へ。降り続く雨。

「相手は、これだ。」

天幕の外を指す。泥。水。

そして——時間。

「止まれば負ける。」

それだけだった。

「進めば間に合う・・・が、遅れれば逃がす。」

単純だ。だがその“進む”が、難しい。

「これでは消耗が出ます。」

ベッカーが言う。

「出る。出ないはずがない。」

ブリュージュは即答した。

「だが止まるな。」

それが結論だった。止まれば、すべてが崩れる。

「進み続けろ。」

「泥でも、雨でも関係ない。」

それが、命令だった。三人の間に、沈黙が落ちる。

地図の上では包囲は完成している。

だが現実は——

まだ、どこも閉じていない。

 

——度重なるスタック。それだけで、すべてが遅れた。ぬかるみに足を取られ、戦車は進むことすらままならない。

本来なら——機動で包囲し、敵を閉じ込め、後続に引き渡すはずだった。

だがその“機動”が、失われていた。ロシアの大地がそれを奪った。

「進めろ・・・何としてでも・・・」

ブリュージュが命じる。

「絶対に止まるな。」

それでも進まない。履帯が空転し、泥を掻き上げるだけ。無線が荒れる。

『スタック!』

『牽引が必要だ!』

『別ルートを探せ!』

混乱ではない。だが、確実に遅れていく。

「・・・くそ。」

ステファニーが小さく吐き捨てる。時間が、足りない。包囲は、時間との勝負だ。一分の遅れが、敵を逃がす。それが分かっているからこそ、焦りが募る。

「右へ回り込め!」

「距離を詰めろ!」

命令は的確だった。

だが——状況が、それを許さない。

「もう間に合わない。」

誰かが呟く。その言葉を、否定できる者はいなかった。ブリュージュも、同じだった。だが彼の視線は、別の場所にあった。

「これは他も詰まっているな。」

自分たちだけではない。周囲の部隊も、同じ状況に陥っている。進めない。閉じられない。

「これでは——」

先の作戦からブリュージュの僚車についたホフマンが言いかける。

「逃げられる。」

ブリュージュが引き取った。

「大物を、な」

その意味は、重い。名のある指揮官。逃がせば、次に現れる。より厄介な形で。

「もたもたするな!急げ!」

ステファニーが声を上げる。それでも時間は、容赦なく過ぎていく。

やがて——戦線の隙間から、敵は抜けた。組織的に。確実に。この殿を引き継いでいるのはロコソフスキーの部隊だった。粘り強い抵抗。時間を稼ぎ、穴を作り、そこを通す。見事な撤退だった。

「逃した——」

誰かが言う。否定はない。事実だった。その代償は大きい。

ブリュージュ隊の稼働率は——三二パーセント。

ステファニー隊は——五六パーセントを下回った。

特にステファニー隊の損耗は激しかった。乗員の損失。戦死者、十五名。若い兵士たち。その多くが、戻らなかった。

「・・・」

ステファニーは、何も言わなかった。言葉にできない。ただ、現実だけがそこにある。減った数。空いた席。それだけで、十分だった。ブリュージュは、その様子を見ていた。静かに。何も言わずに。

だが——内では、決まっていた。もう、連れて行けない。このまま進めば、次はさらに削られる。それは、分かりきっている。だからこそ。

「ここで終わりだ。」

小さく、呟く。誰にも聞かれない声で。この戦いを。この隊を。ここで区切る。それが、最善だと判断した。

たとえ——それが、どんな形であっても。

 

 

 

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