第一三戦車大隊は、スモレンスクから西へ。ミンスクへと向かっていた。ここはすでにドイツ占領下の地域。本来なら、安全圏のはずだった。だが——
「警戒を緩めるな。」
ブリュージュの声はいつもより低かった。理由は明確だった。パルチザン。目に見えない敵。どこに潜んでいるか分からない。天候も悪い。道はぬかるみ、視界も悪い。
そして——民間人。
敵か味方か分からない存在。戦場とは違う種類の緊張が、そこにあった。やがて、ミンスクに到着する。かつての激戦地。焼けた建物。崩れた街並み。戦いの痕跡が、まだ色濃く残っていた。ブリュージュは、わずかに視線を逸らす。本来なら、立ち寄りたくない場所だった。
だが——ここは都合がいい。ステファニーたちを切り離すには都合がよすぎた。
「・・・はぁ。」
まだ、何も伝えていない。伝えればどうなるか。分かっている。だからこそ——言えない。
「閣下。」
ホフマンの声がした。
「怖いのですか?」
静かな問いだった。ブリュージュは、答えなかった。答えられなかった。ホフマンは小さく息を吐く。
「——私とベッカーも、いずれは離れる身です。」
淡々と続ける。
「時間の問題でしょう。」
それが現実だった。ブリュージュは、わずかに頷く。
「そう・・・だな。」
短く、それだけ。次の瞬間だった。銃声が鳴り響く。乾いた音が、空気を裂く。
「——ッ!」
全員が顔を上げる。次の一発。そして、また一発。
「パルチザンだ!」
誰かが言う。外に出るのは危険だった。視界が悪い。位置も分からない。
「ホフマン、出るな。」
ブリュージュがホフマンに低く命じる。腰の拳銃を引き抜き、安全装置を外す。静寂。
いや——完全な静寂ではない。外では、断続的に銃声が響いている。近いのか?いや、遠いのか?どこから撃っているのか、分からない。時間だけが、ゆっくりと過ぎていく。冷や汗が、背を伝う。誰も、口を開かない。そのとき扉が勢いよく開いた。
「——ッ!」
反射的に、銃口が向く。
「・・・待て。」
ブリュージュが低く言う。
そこにいたのは——エリアスだった。息が荒い。顔色も悪い。ただならぬ様子。
「エリアス、どうした?」
短く問う。エリアスは、言葉を絞り出す。
「ステファニーが・・・!」
息を整える間もなく。
「撃たれた!」
その一言でブリュージュのすべてが・・・変わった。
外に出た瞬間、空気が違った。湿った匂い。火薬の残り香。そして——どこから撃たれるか分からない、不気味な静けさ。
「位置は?」
ブリュージュが低く問う。
「東側の路地です!」
エリアスが指差す。
「ステファニーはその先に——!」
言い終わる前に、銃声が響く。乾いた音が近い。
「伏せろ!」
即座に身を低くする。壁に張り付きながら進む。視界の先。崩れた建物の影。そこに——人影。
「居た・・・。」
ステファニーだった。地面に倒れている。動いていない。
「ッ——!」
一瞬、思考が止まる。だが、すぐに切り替える。
「援護!」
短く叫ぶ。
ホフマンとエリアスが左右に展開する。銃声が返る。その隙に、ブリュージュは飛び出した。泥を蹴り距離を詰める。あと数歩。
そのとき——再び銃声が響く。壁に弾が当たり、破片が散る。だが、ブリュージュは止まらない。ステファニーの元へ滑り込む。
「——おい!」
必死に声をかける。反応はない。すぐに体を確認する。
「まだ生きている。」
かすかに呼吸がある。だが腹部が血塗られた。制服が血で濡れている。
「くそ・・・!」
ブリュージュは低く吐き捨てる。
「担架を——いや、ここで止血だ!」
時間がない。その場で処置するしかない。布を押し当てる。
「——ッ」
そのとき、わずかに指が動いた。
「か・・・閣下・・・?」
かすれた声。ステファニーの意識はある。
「まだ喋るな。」
焦りながらブリュージュは即座に言う。
「息を整えろ。」
ステファニーは、わずかに笑った。ほんの、微かなもの。
「・・・やられました。」
「見れば分かる。」
短く返す。
だが——その声は、少しだけ強かった。
怒りではない。焦りでもない。押し殺した何か。
「あぁ、大丈夫だ。」
言い聞かせるように言う。
「絶対に死なせん。」
それが命令のように響く。周囲ではまだ銃声が続いている。だが、ここだけ時間が歪んでいるようだった。
「・・・」
ステファニーは、目を閉じかける。
「おい、寝るな。」
ブリュージュが強く言う。
「まだだ——」
その言葉に、わずかに反応する。意識が戻る。
「・・・はい。」
小さく。だが、確かに。生きている。それだけで、十分だった。
雨は、弱まっていた。だが地面はまだ濡れている。泥はそのまま、残っていた。簡易の担架に乗せられたステファニーは、動かない。意識はある。だが、言葉を発する力は残っていなかった。衛生兵が手早く処置を続ける。
「後送が必要です。」
ベッカーの短い報告。それで十分だった。ブリュージュは、何も言わない。ただただステファニーを見ているしか出来なかった。その顔を。その呼吸を。その“まだ生きている証を。やがて、ゆっくりと視線を上げる。周囲を見る。
シュミット。
エリアス。
リサ。
サンドラ。
そして他の少年少女たち。誰もが、こちらを見ている。答えを待っている。そのとき——
「後方へ送る。」
ブリュージュが言った。低く、はっきりと。
「全員だ。」
一瞬、空気が止まる。
「閣下?」
シュミットが思わず声を上げる。
「我々も、ですか?」
確認するように。だが——
「そうだ。」
ブリュージュは迷わない。
「これ以上、前には出さん。」
それが決断だった。誰も、すぐには言葉を返せない。納得していない。だが否定もできない。現実が、それを許さない。シュミットは、歯を食いしばる。
何かを言おうとして——やめる。代わりに、深く息を吐いた。そして一歩前に出る。
「ありがとうございます。」
頭を下げた。静かに。だが、はっきりと。ステファニーの代わりだった。その意味は、全員が理解している。ブリュージュは、何も言わない。ただ、短く頷く。それだけで十分だった。
「生き残れよ。」
ぽつりと、言う。命令ではない。願いに近い言葉。シュミットは顔を上げる。何も言わない。だが、その目はまっすぐだった。担架が持ち上げられる。ゆっくりと、動き出す。後方へ。戦場から離れていく。その列を、ブリュージュは見送った。呼び止めない。振り返らない。
ただ——その背中が見えなくなるまで、立っていた。
——ステファニーたちの戦いは、終わった。
長く続いた戦争は、やがてその幕を閉じる。多くの命が失われ、多くのものが壊れた。
だが——
それでも、生き残った者たちはいた。ステファニーも、その一人だった。傷を負い、前線を離れた彼女は、そのまま戦場に戻るとはなかった。生き延びた。それだけで、十分だった。
一方で——ゲオルク・フォン・ブリュージュは戦い続けた。
東部戦線を離れ、やがて西部戦線へ。
そして——
最後の大規模攻勢、Battle of the Bulgeに参加する。老騎兵は、最後まで戦場に立ち続けた。だが戦争の終わりとともに、彼の戦いも終わる。米軍の捕虜となり、その後、戦争裁判にかけられた。しばらくの服役。それが、彼の“戦後”の始まりだった。やがて、時は流れる。
戦争が過去となり、戦場が記憶へと変わった頃。彼らは、再び出会う。
ステファニー。
シュミット。
そして——ブリュージュ。
場所は、墓地だった。名もなき兵士たちが眠る場所。共に戦い、そして散っていった仲間たち。その前に立ち、彼らは言葉を交わすことはなかった。ただ、静かに祈る。それだけで、十分だった。やがてブリュージュが口を開く。
「——もう、終わりにしよう。」
誰に向けた言葉でもない。
だが——
確かに、そこにいた全員に届いた。戦いは終わった。そして同じ時代も、終わった。
「二度と繰り返さない。」
ステファニーが小さく言う。それは誓いだった。誰のためでもない。自分たちのための言葉。風が吹く。墓標の間を、静かに抜けていく。誰も、もう振り返らない。それぞれが、それぞれの道へと歩き出す。戦場ではない場所へ。戦うためではない未来へ。あの日の傷は、消えない。
だが——
それは確かに、広がっていった。人から人へ。時代から時代へ。静かに。確かに。波紋のように。