一九三九年八月三一日、ドイツ国境に近いグライヴィッツのラジオ局が攻撃を受けた。ドイツがこれを理由に出兵した。ポーランド侵攻の前哨戦である。九月一日、ドイツ空軍はポーランドの都市ヴィエルニを空爆した。同時刻、ダンツィヒ港に停泊していた軍艦もポーランド軍の拠点に向けて発砲した。ドイツ陸軍は北、南、西の三方からポーランドに侵攻した。第二次世界大戦はここに幕を開けた。
現在、越境を果たしたブリュージュ率いる戦車大隊に「ワルシャワに向かえ」という指令書が届く。大隊長の元に届く前に秘書官たちが目通しすることになっていた。ブリュージュの秘書官の一人であるホフマン中尉が、指令書に目を通しながらもう一人の秘書官であるベッカー少尉に話しかけた。
「現在の状況は?」
ベッカーはブリュージュ大隊長にまとめる適切な資料を集めていた。尖兵として突出している我々、戦車大隊は越境果たしたが敵軍の抵抗が小さく軽々とワルシャワ近郊まで駒を進めることができた。ベッカーがホフマンにポーランド軍の抵抗の小ささに答える。
「予期したとおりです。敵軍は有効な戦線を組織出来ず、我々は途中で小規模な反撃を受けただけでした。」
「では大隊長にそのことを通達しよう。」
ホフマンがブリュージュに伝えようとするが、代わりにブリュージュがテントから出てきた。
「呼んだかい?」
「大隊長、指令書はこちらに。」
ホフマンが敬礼しながら指令書を渡す。が、ブリュージュは敬礼を解かせた。ベッカーが状況を話す。
「大隊長、相手はチェンストホヴァに防衛線を築いて抵抗しようとしましたが、我々の機動力には及ばず、わが軍の先頭部隊に突破されました。すでにヴァルタ川の橋を制圧しています。川を渡ると首都ワルシャワまでは遠くありません。」
「・・・なるほどわかった。ウチの戦車大隊に対して戦力の疑いがある。この作戦で価値を証明するのだ。」
「「はいっ!」」
二人して返事をした。
「そういえば大隊長・・・。」
ベッカーが質問する。
「グライヴィッツのラジオ局が攻撃を受けた件について・・・。」
「その話は我々が考えることではない。我々は目の前の任務に専念するだけだ。勝利をもぎ取ることに全神経を集中しろ。いいな?」
「えぇ、わかりました。」
「じゃあ、彼女たちにも伝令を頼む。我らも打って出て行かないと・・・。」
ブリュージュはテント裏にある大隊長用のⅡ号戦車に向かっていった。
——ワルシャワ近郊。
夜明け前の空は、鈍い灰色だった。地平線の向こうに、まだ眠っているはずの都市——ワルシャワが影のように横たわっている。だがその静けさは、どこか不自然だった。まるで、これから起こることを知って息を潜めているかのように。エンジンの低い振動が、車内に絶えず響いていた。Ⅲ号戦車の内部は狭く、鉄の匂いと油の臭気が混ざり合っている。わずかな光が照明から落ち、乗員たちの顔を青白く照らしていた。
「本当に始まるんだな。」
シュミットの声は、思っていたよりも小さかった。ステファニーは答えなかった。ただ、照準器に目を当てたまま、前方の地形を確認し続ける。起伏、林、道——すべてを頭の中で組み立て、動きのパターンを描く。——停止は、死に近づく。その考えだけが、静かに浮かんでいた。
無線機が短くノイズを吐いた。
『全車両、前進準備。繰り返す——前進準備。』
その声は低く、抑えられていたが、命令であることは疑いようがなかった。ブリュージュの声だ。車内の空気が変わる。
装填手のシュミットが無言で砲弾を確認し、操縦手のエリアス・バウアーがわずかに姿勢を正す。誰も余計なことは言わない。ただ、それぞれが自分の役割に沈み込んでいく。
「・・・ステファニー。」
シュミットが、今度は少しだけ強い声で呼んだ。
「なんだ。」
「お前のやり方、本当に通用するのか?」
ほんの一瞬だけ、沈黙。
「通用させる。」
短く、それだけ答えた。遠くで、砲声が響いた。乾いた破裂音が、空気を裂く。続いて、いくつもの爆発が地面を叩き、土煙がゆっくりと立ち上がっていく。
——始まった。
『前進』
再び無線。今度は短い。同時に、車体が前へと動き出した。履帯が泥を噛み、重い鉄の塊がゆっくりと、しかし確実に進み始める。視界の中で、味方車両が列を成して進んでいくのが見えた。だがその動きは、どこか硬い。訓練通り、整然としすぎている。
——遅い。
ステファニーは即座に判断した。
「エリアス、速度を上げろ。間隔を広げる。」
「命令は密集隊形だぞ!」
エリアスが戸惑う。
「このままでは的になる。」
一瞬の逡巡。だが次の瞬間、エンジンの唸りが一段強くなる。Ⅲ号戦車は、隊列からわずかに外れるようにして速度を上げた。そのときだった。前方の林の縁で、閃光が走る。次の瞬間、爆発。土と煙が跳ね上がり、すぐ隣を進んでいた車両の一つが大きく揺れた。
「敵対戦車砲!」
誰かが叫ぶ。ステファニーの視界に、わずかに動く影が映った。
「右前方、林縁——距離六百!」
「砲、準備!」
砲塔が回る。金属の軋む音。
「撃て」
発射。轟音とともに車体が震え、視界が白く弾ける。命中は確認できない。だが——
「止まるな、前進しながら再装填!」
「まだ撃つのか!?」
「位置を変える。ここに留まるな!」
履帯が再び泥を巻き上げる。戦車は動く。撃って、動いて、また撃つ。そのリズムが、戦場の中で形を持ち始めていた。砲撃の衝撃で、照準がぶれる。次弾の装填が遅れる。
「次弾、まだか!」
「装填中だ!」
そのわずかな間に——閃光。
「来るぞ!」
回避が、間に合わない。衝撃。車体が大きく揺れ、車内に鈍い音が響く。
「被弾!装甲貫通は——ない、だが・・・!」
「履帯がやられたか!?」
「まだ動ける!」
だが速度は落ちていた。周囲を見れば、味方車両の一つが炎上し、もう一つは停止している。支援の歩兵も、橋の手前で釘付けにされていた。——押し切れない。その現実が、初めてステファニーの思考に割り込んだ。
「・・・くっ!」
次の判断が、一瞬だけ遅れる。視界の中で、敵の火点がこちらを捉える。——狙われている。
「ステファニー、どうする!」
シュミットの声。だが、答えが出ない。理屈はある。選択肢もある。だが——戦場が、それを許さない。そのときだった。無線が、割り込んだ。ノイズ混じりの、低い声。
『——止まるな。』
一瞬で分かる。ブリュージュだ。
『動け。戦場では止まるな・』
次の瞬間。背後から、エンジン音が重なった。軽い。だが速い。煙の向こうから、複数の影が飛び出す。
「・・・なんだ?」
「Ⅱ号戦車だ・・・!」
小型の車体が、次々と戦場へ突入してくる。装甲は薄い。火力も足りない。だが——速い。
「散開しろ!」
ブリュージュの怒声が無線越しに響く。
『突っ込め、側面を引き裂け!』
Ⅱ号戦車隊は迷わなかった。一直線に敵陣へ向かい、土煙を上げながら左右に分かれる。その動きは、まるで——騎兵の突撃だった。
「な・・・!」
シュミットが言葉を失う。敵の火力が、一斉にそちらへ向く。機関銃、対戦車砲、あらゆる攻撃が集中する。だが、それでいい。
「今だ。」
ステファニーの目が戻る。
「敵の視線が逸れた。前進する。」
「正面からか!?」
「違う。突破する。」
エリアスがスロットルを踏み込む。Ⅲ号戦車が再び動き出す。
「全車、前進!火力を集中!」
ステファニーの声が、今度は迷いなく響く。砲撃。Ⅱ号戦車隊がかき乱した敵陣に、Ⅲ号戦車の火力が突き刺さる。陣地が崩れる。敵の射撃が乱れる。そして——
『そのまま押し切れぃ!』
ブリュージュの声。短く、命令だけ。ステファニーは答える。
「了解!」
その一言に、もう迷いはなかった。このまま押し切り橋頭堡を確保したのだった。
——橋頭堡を確保後のこと。
橋頭堡の煙は、まだ完全には消えていなかった。焼けた金属の匂いと、土の湿った空気が混ざり合い、戦場の余韻を残している。その中を、戦車隊は再編成されつつあった。損傷車両が後方へ下がり、動ける車両だけが前へと集められる。ステファニーは車外に出て、無言でその様子を見ていた。視線の先では、Ⅱ号戦車の乗員たちが素早く再整備を行っている。
その中心に——ゲオルク・フォン・ブリュージュがいた。立っているだけで分かる。あの男が、この場の軸だ。
「ステファニー少尉。」
振り向く必要はなかった。
「はい。」
「お前たちは下がれ。損耗が出ている。橋頭堡の維持に回れ。」
命令だった。簡潔で、余計な言葉はない。ステファニーは、ほんのわずかに視線を動かした。自分の隊。傷ついた車両。疲労の色が濃い乗員たち。——正しい判断だ。理屈では、理解できる。
「・・・了解。」
そう答えかけて、言葉が止まる。その先で、Ⅱ号戦車隊がすでに動き出していた。軽い車体が、泥を蹴り上げながら前へ出る。ブリュージュは、振り返らない。ただ前を見ている。——あのまま行くのか。敵の抵抗がまだ残る、ワルシャワへ続く道路へ。重装甲も、十分な支援もないまま。それでも——行く。
「・・・」
胸の奥に、何かが引っかかった。理屈ではない。計算でもない。ただ、分かる。——あれは、放っておくべきじゃない。
「ステファニー?」
シュミットが怪訝そうに声をかける。
「下がるんじゃなかったのか?」
ステファニーは、短く息を吐いた。そして——
「前進する。」
「は?」
「ブリュージュ隊に続く。」
「命令は——」
「分かってる。」
だが、と続ける。
「このままでは、あの部隊は孤立する。」
「だからって——」
「支援が必要だ。」
それ以上は言わなかった。説明ではない。判断だ。一瞬の沈黙。やがて、シュミットが小さく笑う。
「・・・ほんと、お前らしいな。エリアス、聞いたな?」
「わかった。」
エリアスがエンジンを吹かす。Ⅲ号戦車が、ゆっくりと向きを変える。本来進むべきではない方向へ。前方では、Ⅱ号戦車隊の姿がすでに小さくなり始めていた。
「追いつくぞ。」
「了解!」
履帯が泥を噛む。戦車は再び前へ出る。その先にいるのは——老騎兵の背中だった。
戦いは唐突に終わった。銃声は徐々に途切れ、やがて完全に消える。残ったのは、焼けた匂いと、動かなくなった車両だけだった。ワルシャワへ続く道路は、確保されている。だがその代償は、決して軽くはなかった。
ステファニーは、砲塔から身を乗り出し、ゆっくりと周囲を見渡した。煙の向こう。Ⅱ号戦車が数両、散開したまま停止している。その配置は乱雑に見えるが——よく見れば、すべてが視界と射線を意識した位置にあった。そして、その中心に。ゲオルク・フォン・ブリュージュ大隊長がいた。
戦車の上に立ち、ただ周囲を見ている。何も言わない。だが、それだけで分かる。——この戦場は、あの男が動かした。
「・・・見てただけ、か。」
シュミットが呟く。ステファニーは答えなかった。
見ていた。ただ、それだけだった。命令を出すでもなく、介入するでもなく。ただ、老騎兵の戦い方を。
突撃。だが無謀ではない。
速度。だが無秩序ではない。
火力ではなく、動きで崩す。敵の視線を奪い、陣形を乱し、その隙を突く。——戦車でありながら、騎兵の戦い方。
「・・・非効率だ。」
小さく、そう呟いた。だが同時に、理解していた。
「だが、崩せる。」
理論ではなく、感覚で。だが確実に、戦場を支配する方法。ステファニーとシュミットら乗員は、ゆっくりと車体から降りた。足元の土はまだ温かい。そのまま、ブリュージュの方へ歩く。数歩の距離。それ以上でも、それ以下でもない。
「ブリュージュ閣下。」
ステファニーが呼びかける。ブリュージュは振り向かない。ただ、短く答えた。
「なんだ。」
「先ほどの戦い方ですが。——非効率です。」
聞いていたブリュージュたちが沈黙する。シュミットや乗員が横で息を呑む。だが、ステファニーは続ける。
「ですが——有効でした。」
風が、煙をわずかに流す。
「・・・だから。」
ステファニーは言葉を選ぶ。
「必要と判断した場合、あの戦術を採用します。」
そして、少しだけ間を置いて——
「ただし——」
ブリュージュの気配が、わずかに動いた。
「私一人では、制御しきれません。」
初めての言葉だった。“できない”と認める言葉。
「閣下が近くにいる場合に限り、使用します。」
沈黙。長くはない。だが、軽くもない。やがて——ブリュージュが、わずかに視線を向けた。
「・・・そうか。」
それだけだった。肯定とも否定ともつかない。だが——否定ではない。
「好きにしろ。」
短く言って、再び前を向く。それが答えだった。ステファニーは、静かに息を吐いた。
「了解。」
その背中を、もう一度見る。
『老騎兵』
時代遅れの戦い方。だが——確かに、戦場を生き残る術。それを、初めて“自分の中に取り込んだ”。
この戦いは、まだ始まりに過ぎなかった。ポーランドの大地を駆け抜けた装甲部隊は、その機動と破壊力をもって、世界にひとつの現実を突きつける。
——戦争は、すでに新しい形へと変わっていた。