——ポーランド戦後のこと。
ホフマンとベッカーがブリュージュを取り囲むようにせわしなく動いていた。
「ベッカー、今日の電報の内容を教えてほしい。」
「わが軍は制空権と機動力を活かしてブズラ川の敵軍を包囲し、壊滅的な打撃を与えることに成功しました。」
慌ただしく答えるベッカーにブリュージュは珈琲をベッカーに出した。
「ありがとうございます。ブリュージュ大隊長。」
「あぁ、続けたまえ。」
「また数日前にワルシャワを攻撃したときはポーランド軍の強固な抵抗に遭い、撤退を余儀なくされましたが、もうポーランド軍には我々ドイツ陸軍が市街地に攻め込むのを阻止する手段は残されていないかと。」
「それはよかった。他国の動きはどうだい?」
ブリュージュの目線はホフマンに映っていた。ホフマンは背筋を伸ばしてこう答えた。
「はっ、それは私の口から——英仏ともに我が国に宣戦布告しましたが、目立った動きはありません。」
「うむ、国内の圧力を受けて宣戦布告するしかなかったのだろう。我々は素早くポーランドを攻め落とし、まだ戸惑いを隠せない英仏が何か行動を起こす前に戦いを終わらせなければならない。」
ブリュージュが先を見据えているのに対して、ベッカーは中立国であるソビエト赤軍の動向を監視していた。
「ですがその他にもソビエト赤軍がポーランド東部を占領したという報告も。」
「なにぃ!?一体どうするつもりだ!」
ホフマンが吠えるがブリュージュは慎重だった。
「ふむ・・・分け前がほしいのだろう。彼らは白ロシアとウクライナを手に入れるためにポーランドを攻めるつもりだった。だから我々が勝利する陰でソビエト赤軍が動き出したんだ。」
「大隊長、我々から文句をつけることはありませんか?」
ホフマンの焦りが見え隠れしていた。
「んいや。我々ドイツはソビエトと相互不可侵条約を締結している。早々に敵対することはないと見て良いな。」
ブリュージュの楽観的な言葉にベッカーは少し不満を払った。
「ブリュージュ大隊長、しかしながら我々は反共ではありませんでしたか?あいつらと仲良くするなどとは受け入れがたい。」
ベッカーの言い分に対してホフマンが答える。
「ベッカー、外交には永遠の友はなく、永遠の敵もない。」
「ホフマンの言う通りだ。英仏は虎視眈々と狙っている。敵が増えたら負担がより増えるのは間違いない。」
「ですが・・・」
「まぁベッカーが不安がることも解らんわけでもない。たがそこんところは政治家連中に任せた方がいい。我々は軍人だからなな——」
九月二〇日——ソビエト連邦と合意していたドイツ首相ヒトラーは、ドイツ軍をナレフ川、ヴィスワ川、サン川以東の地域から撤退させ、その地域の処理をソ連に預けた。ドイツ軍は引き続きポーランド西部の国境で残ったポーランド軍の殲滅を実行した。
一〇月六日——ルブリン地区の部隊が投降し、戦闘終結の象徴となった。運命に翻弄されてきたポーランドは、再び分割されて国が滅んだ。
簡易幕舎の中は、静かだった。外では整備の音が続いている。金属の擦れる音、短い怒号、エンジンの試運転。だがこの空間だけは、切り離されたように落ち着いていた。
中央の机を囲むように、数人が立っている。
車長、ステファニー。
装填手、シュミット。
操縦手、エリアス。
砲手、リサ。
無線手、サンドラ。
それぞれが無言で立っていた。戦闘の疲労は抜けきっていないが、姿勢は崩していない。
机の向こう側には、ホフマン中尉とベッカー少尉。二人はブリュージュの副官であり、実務と伝達を担う存在だ。二人は変わらず無駄のない動きで、場を支配していた。
「本日は、大隊の基本教義について説明する。」
ホフマンが淡々と告げる。ベッカーが紙を机に置く。そこには、わずか四行。ステファニーは視線を落とした。
——少なすぎる。
「覚えるな。」
ホフマンが言う。
「理解しろ。」
静寂が包まれる。
「これが、この部隊の戦い方だ。」
最初に口を開いたのは、エリアスだった。
「・・・ずいぶん短いな。」
操縦手らしい、率直な感想。ベッカーが一行目を指す。
「——騎兵は止まらない。」
空気がわずかに引き締まる。
「停止は死を意味する。」
エリアスが小さく頷く。
「・・・それは分かる。止まったら終わりだ。」
実感のこもった声だった。次。
「退くな、崩せ。」
リサが眉をひそめる。
「崩すって・・・砲撃で、ですか?」
「火力でもいい。だが、それだけでは足りない。」
ホフマンが答える。
「陣形そのものを壊せ。」
ステファニーが静かに補足する。
「配置、視界、連携——それを断つ。」
リサがゆっくりと息を吐く。
「・・・狙いを変えるってことね。」
「そうだ。」
三つ目。
「恐れるな、進め。」
サンドラが苦笑した。
「それ、一番無理なやつじゃない?」
無線手らしい軽さだが、目は笑っていない。
「恐怖は前提だ。」
ホフマンの声は変わらない。
「だが、止まる理由にはならない。」
サンドラは少しだけ黙り、やがて小さく頷いた。
「・・・通信、止めないようにするわ。」
最後に——
「戦場に慈悲はない。」
誰もすぐに言葉を出さなかった。空気が、重く沈む。シュミットがぽつりと呟く。
「・・・敵も、か。」
「当然だ。」
ベッカーが答える。
「躊躇すれば、死ぬ。」
短い沈黙。やがて、ステファニーが口を開く。
「・・・非合理です。」
ステファニーを除く全員の視線が集まる。
「だが、有効だ。」
その言葉に、エリアスが小さく笑う。
「結局それか。」
「結果がすべてだ。」
ステファニーは迷わず言う。シュミットが肩をすくめる。
「つまり、突っ込めってことだな。」
「違う。」
ホフマンが即答する。
「崩す。」
短く、明確に伝えた。
「そのために動く。」
リサが小さく頷く。サンドラがため息をつく。エリアスが静かに構え直す。ホフマンが、わずかに頷いた。
「理解したようだな。」
ベッカーが紙を回収する。
「以上だ。」
それだけで、授業は終わった。
だが——四つの言葉は、全員の中に残っていた。
戦場で、生きるための言葉として。
幕舎の外に出ると、空気は少し冷えていた。戦闘の熱が引き、代わりに疲労がじわじわと押し寄せてくる。空は曇っている。陽は見えないが、時間だけが確実に進んでいることは分かった。ステファニーたちは、無言のまま歩いていた。それぞれが、先ほどの言葉を反芻している。
「騎兵は止まらない」
「退くな、崩せ」
「恐れるな、進め」
「戦場に慈悲はない」
簡潔で、容赦のない言葉。だが——確かに、あの戦場と繋がっていた。
「・・・なあ。」
シュミットがぽつりと口を開く。
「結局あの人、全部あれをやってたってことだよな?」
エリアスが肩をすくめる。
「やってたどころじゃない。やらせてた、だ。」
リサが静かに言う。
「・・・あんな動き、普通できないわよ。」
サンドラが苦笑する。
「普通じゃないから、大隊長なんでしょ。」
そのときだった。
「——その“普通じゃない”を、少しは疑え。」
低い声——全員が同時に振り向く。そこには、ゲオルク・フォン・ブリュージュが立っていた。だが、その姿は、どこか違って見えた。軍帽はわずかに傾き、軍服の襟元も整っていない。顔色は悪く、目の下には明らかな疲労の影が落ちている。
そして何より——立っているだけで感じていた“圧”が、わずかに揺らいでいた。
「・・・閣下。」
ステファニーが短く呼ぶ。ブリュージュは軽く手を振った。
「大したことはない。」
そう言いながら、一歩踏み出す。だが、その動きはほんのわずかに重い。エリアスが思わず眉をひそめる。
「無理したんじゃないですか。」
「していない。」
と即答。だが間髪入れず続ける。
「年のせいだ。」
ステファニーたちは沈黙した。シュミットが思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
「いや、それ言い訳になってないですよ。」
「なっている。」
ブリュージュは真顔だった。
「若い頃なら問題なかった。今は違う。それだけだ・・・。」
どこか、妙に必死だった。サンドラが顔をそむけて小さく笑う。リサも口元を押さえている。ステファニーは、しばらくその様子を見ていた。そして——
「・・・閣下。」
再び彼を呼ぶ。ブリュージュが視線だけ向ける。
「先日の戦闘——」
ステファニーは一拍間をおいて——
「見事でした。」
その言葉に、全員の視線が集まる。シュミットも、エリアスも、リサも、サンドラも。誰も否定しない。むしろ——
「……あれ、正直すごかったです。」
「ええ。あんな突破、初めて見た。」
「怖かったけど……目、離せなかった。」
「無線越しでも分かりましたよ、あの動き。」
言葉が重なる。飾りのない、本音だった。ブリュージュは、しばらく何も言わなかった。ただ、彼らを見ている。その目に、ほんのわずかに変化があった。
「そうか。」
そう短く答える。それだけのはずだった。だが——ほんのわずかに、表情が緩んだ。すぐに消えたが。
「まだだ。」
低く唸るブリュージュ。
「まだ足りん。」
そして、ブリュージュは視線を逸らす。
「——あの程度で評価されるようでは困る。」
一歩、前へ。その背中は、再び“老騎兵”のそれに戻っていた。
「お前たちには、まだ負けられん。」
振り返らないまま、言う。軽く言い流したような口調。だが——それは確かに、本音だった。シュミットが小さく笑う。
「・・・張り合ってるじゃないですか。」
エリアスが肩を揺らす。リサが静かに目を細める。サンドラがため息混じりに笑う。ステファニーは、何も言わなかった。ただ、その背中を見ていた。
——老騎兵。未だ、前に立ち続ける存在。そして——まだ、追い越せない背中。
ブリュージュが歩き出す。その背中は、先ほどまでと変わらない。揺らぎはない。だが——ほんのわずかに、歩幅が小さい。それだけで、十分だった。ステファニーは一歩、前に出る。迷いはなかった。そのまま、ブリュージュの隣へ。何も言わず、そっと肩に手を添える。一瞬だけ、ブリュージュの動きが止まる。
「必要ない。」
低い声でうなるブリュージュ。だが、振り払おうとはしなかった。
「承知しています。」
短く返すステファニー。それでも、手は離さない。二人は、そのまま歩き出す。後ろから、シュミットたちの足音が続いた。誰も何も言わない。ただ、その背中を見ている。ステファニーは視線を上げる。老騎兵の背中。追い越すべきもの。——だが。今はまだ、前を譲る。
その背中を、支えるようにして。戦場は、まだ続くのだから。
「騎兵は止まらない」
「退くな、崩せ」
「恐れるな、進め」
「戦場に慈悲はない」
その言葉は、命令ではなかった。生き残るための、ただ一つの答えだった。