——シュプレーヴァルト。
水と森に囲まれた、奇妙なほど静かな土地。森は、とても静かだった。シュプレーヴァルトの水路は、ゆっくりと流れている。音といえば、櫂が水を押す微かな音と、風に揺れる葉の擦れる気配だけ。戦場の喧騒とは、まるで別の世界だった。
パリ休戦の後、第一三戦車大隊「皇后竜騎兵」は、この地に留め置かれていた。
再編成。
補充。
そして——休養。
それは命令として与えられた時間だった。一ヶ月ではない。数週間でもない。一年近く。丸ごと、戦わなくていい時間。だが、それを“休み”と呼べる者は、少なかった。
「・・・落ち着かないな。」
ステファニーは、小さく呟いた。視線の先には水路。揺れる水面。あまりにも静かで、現実味がない。
「いいじゃないか、平和で。」
隣にはシュミットが居り、笑う。手にはグラス。中の酒を、気軽に傾ける。ここは、森の奥にある小さな酒場だった。木造の簡素な建物。地元の人間が使う、目立たない場所。本来、軍人が立ち入るべきではない。
まして——無断でなど。
「軍規違反だ。」
ステファニーは低く言う。
「見つかれば処分だぞ・・・!」
「見つからなければ問題ない。」
シュミットはあっさりと言い、もう一口飲む。
「それに——」
ステファニーは軽く肩をすくめる。
「今くらい、いいだろ。」
その言葉に、ステファニーは何も返さなかった。否定はできる。
だが——完全には、否定できない。
店内は静かだった。客は少ない。低い声の会話と、グラスの触れ合う音だけが響く。外とは違う、別の静寂。シュミットは、二杯目を頼む。ステファニーは静止を促す。
「飲みすぎだ。」
「まだ二杯だ。」
「十分だ。」
「足りない。」
即答だった。その軽さに、違和感があった。ステファニーは、彼の手元を見る。わずかに震えている。気のせいかもしれない。だが——
「何を考えている?」
ふと、ステファニーは口に出る。シュミットは、少しだけ動きを止めた。そして、笑う。
「何も——何もない。」
短い返答。だが。それが本当ではないことくらい、分かる。シュミットはグラスを持ち上げ、そのまま一気に飲み干す。
「・・・なあ。」
シュミットはぽつりと言う。
「終わったと思うか?」
ステファニーは、答えなかった。答えられない。シュミットも、それを求めてはいなかった。
「ポーランド——」
「フランス——」
指を折るように言う。
「次はどこだろうな?」
笑っている。だが、その目は笑っていない。
「・・・東だ。」
ステファニーは静かに言う。一瞬、空気が止まる。シュミットは、ゆっくりと頷いた。
「だろうな。」
シュミットはそれ以上は言わない。言う必要がない。分かっているからだ。この静けさが、長く続かないことを。やがてシュミットは、もう一度グラスを手に取る。
「だから飲むんだよ。」
そう小さく言う。
「今のうちに——」
ステファニーは、何も言わなかった。ただ、座っている。
止めるべきか。
止める必要があるのか。
分からない。
外では、水が静かに流れている。何も変わらないように見える。
だが——確実に、時間は進んでいる。戦争もまた進んでいる。
「・・・おい。」
ステファニーが声をかける。だが返事はない。シュミットは机に突っ伏したまま、微動だにしない。
「たくっ、飲みすぎだ。」
小さくため息をつく。予想はしていた。
止められたかと言われれば、分からない。
止めるべきだったのかも、分からない。
だが——その寝顔を見ていると、苛立ちよりも先に別の感情が浮かぶ。
「・・・はぁ。」
静かに目を細める。さっきの言葉。
“終わったと思うか?”
が軽く聞こえた。だが、軽くはなかった。
あれは——不安だ。
そして、その向きは良くない。
「・・・まずいな。」
そう小さく呟く。そのときだった。ガタン、と大きな音が響く。空気が一瞬で変わる。
怒号が飛び交う。
椅子が倒れる音。
グラスが割れる音。
「な、なんだ?」
店内の視線が一斉に向く。入口近く。数人の民間人と、一人の軍人が揉み合っている。
「馬鹿野郎!」
「離せ!」
「何してんだテメェ!」
怒鳴り声が飛び交う。酒の匂いに混じって、緊張が走る。ステファニーは立ち上がる。自然と、そちらへ視線が向いた。
そして——動きが止まる。
「・・・!」
その軍人の姿を、認識した瞬間。
「閣下?」
ゲオルク・フォン・ブリュージュ。間違いない。
だが——様子が違う。
軍帽は外れ、髪は乱れ、呼吸も荒い。そして、軍服の胸元に赤い染み。あれはワイン?こぼされたのか、浴びせられたのか。どちらにせよ、きっかけはそれだろう。
「・・・っ!」
ステファニーはすぐに動こうとする。だが——
「やめなさい。」
ステファニーの横から、手が伸びる。その正体は酒場の女将だった。
「今は入らない方がいい。」
と短く言う。
「し、しかし。」
「見てなさい。」
それだけだった。有無を言わせない口調。ステファニーは一瞬だけ迷い——足を止めた。視線は、逸らさない。ブリュージュが、一人の男の腕を払う。無駄がない動き。酔っているはずなのに、崩れない。次の瞬間、もう一人が押し込まれる。机に叩きつけられ、動きが止まる。
あっという間だった。騒ぎは、急速に収まっていく。誰もそれ以上は手を出さない。空気が変わったからだ。
「・・・」
酒場に静寂が戻る。男たちの荒い呼吸だけが残る。ブリュージュは、その場に立っていた。ゆっくりと、周囲を見渡す。
そして——ステファニーと目が合う。
一瞬。本当に一瞬だけ。何かが揺れた。だが、すぐに消える。
ブリュージュは歩き出した。真っ直ぐに。こちらへ。足音が近づく。重く速い。逃げる暇も言葉を選ぶ時間もない。ステファニーの目の前で止まる。
「・・・ここで何をしている?」
ブリュージュのとても低い声がステファニーを襲う。問いではない。詰問だった。ステファニーは、反射的に背筋を伸ばす。
「・・・その・・・。」
言葉が出ない。言い訳はある。だが、どれも弱い。
「許可は?」
間髪入れずに来る。
「・・・ありません。」
「規則は?」
「・・・違反です。」
沈黙。重い空気。ステファニーに逃げ場がない。
「・・・」
ブリュージュは、何も言わない。ただ、見ている。その視線が、一番きつい。
「・・・申し訳ありません。」
ステファニーはようやく言葉を絞り出す。それしかなかった。しばらくして。ブリュージュは、小さく息を吐いた。
「・・・来い。」
短く言う。
「奥だ。」
それだけだった。踵を返す。振り返らない。命令だった。ステファニーは一瞬、シュミットを見る。まだ動かない。
「・・・すぐ戻る。」
小さく呟く。そして、ブリュージュの後を追った。酒場の奥へと。
ステファニーによってブリュージュがいる部屋の扉が閉まる。酒場の喧騒が、少しだけ遠くなった。奥の部屋は薄暗く、簡素な机と椅子があるだけだった。ブリュージュはそのまま椅子に腰を下ろす。乱暴に、というほどではない。
だが——丁寧でもない。
机の上の瓶を取り、グラスに注ぐ。一息で飲み干した。
そして——視線が、ステファニーに向く。
「軍規は百歩譲る。」
ブリュージュの低い声が部屋に響き渡る。逃げ場はない。
「ここで何をしていた?」
短い問い。ステファニーは一瞬、言葉を失う。ほんの一瞬だけ。だが、すぐに答えた。
「・・・シュミットのお守りです。」
とっさに言った。だが、嘘ではない。ブリュージュは、しばらく何も言わなかった。ただ、グラスをもう一度満たす。
「ここはな——」
ゆっくりと口を開く。
「お前たちが休める場所じゃない。」
そのまま、飲み干す。ブリュージュの喉が鳴る。顔が赤い。酒のせいだけではない。血が上っている。
まるで——赤鬼のようだった。
ステファニーは、それを見ていた。
(・・・こういう大人にはならないようにしよう)
ふと、そんなことを思う。そしてすぐに意識を戻す。
「先ほどの件ですが——」
ステファニーは静かに切り出す。
「何があったのですか?」
ブリュージュは、わずかに眉を動かした。
「大したことではない。」
と短く返す。逃げるような言い方。
だが——
「閣下が“大したことない”と言う時は、大抵そうではありません。」
ステファニーは淡々と言った。ブリュージュは、一瞬だけ沈黙する。そして小さく息を吐いた。
「くだらん話だ。」
ブリュージュはグラスを指で転がす。
「街でな、うちの部隊の話をしていた連中がいた。」
視線は、机の上。
「“皇后竜騎兵”は大したことがない、とな。抱えている兵が、お荷物だと・・・」
ステファニーは、何も言わない。ただ、聞いている。
「最初は——聞き流した。」
ブリュージュは続ける。
「どうでもいい話だ。現場も知らん連中の戯言だ。」
だが指が、わずかに止まる。
「・・・何度も聞かされるとな。さすがに、苛立つ。」
その声は、抑えている。だが、完全には抑えきれていない。
「そして——」
ほんのわずかに、間が空く。
「ダンケルクの話になった。」
空気がガラッと変わる。
「“全部逃がした”。」
その一言で静かにかつ重く落ちる。
「そこで、切れた。」
それだけだった。理由としては十分すぎた。ブリュージュは、グラスを置く。
「それで終わりだ。」
淡々と答える。
「相手にならなかった。」
事実だった。
あの動き。
あの制し方。
武術を知る者の動きだ。
老騎兵。伊達ではない。だがその手が、再び瓶に伸びる。酒を注ぐ。ためらいがない。
ステファニーは、それを見ていた。戦場では、崩れない。どれだけ追い詰められても、冷静でいられる。
だが——酒の前では違う。簡単に、崩れる。
「・・・情けないな。」
ブリュージュが、小さく呟く。誰に向けた言葉かは分からない。
「上官になってからだ・・・。」
ぽつりと続ける。
「余計なものばかり、背負うようになった。」
短く笑う。乾いた笑い。
「昔はもっと、単純だった。」
「前に出て、叩くだけでよかった。」
グラスを持つ手が、わずかに揺れる。
「今は違う。」
「やれ責任だの、やれ評価だの——」
「全部ついてくる。・・・面倒なものだ。」
それだけだった。ステファニーは、何も言わなかった。言えなかった。理解できないわけではない。
だが——まだ、そこに立っていない。ただ一つ。分かることがある。
この男は、戦場だけでなく——その外でも、戦っている。それも。長い間、静寂が落ちる。ブリュージュは、また酒を口に運ぶ。止めない。止められない。ステファニーは、ただ立っていた。その姿を、見ているしかなかった。ステファニーは、何も言わなかった。
——言えなかった。
言葉が見つからない。
励ます言葉も。
否定する言葉も。何一つ。できないわけではない。
ただ——届く言葉が、思い浮かばなかった。
目の前の男は、壊れているわけではない。崩れているわけでもない。ただ何かを、抱えすぎている。それだけだった。ブリュージュは、黙って酒を飲んでいる。変わらない。
だが——その姿は、戦場のそれとは違う。
ふと、思う。この人は戦いに飢えているわけではない。
むしろ——知りすぎている。
そして戦争に対して、疎ましく思っている。ステファニーには理解できない。戦いは、すべてだった。戦場で勝つこと。それが、自分の価値だった。だが目の前の男は、違う。
同じ場所に立ちながら。
同じ戦場を見ながら。
まるで、別のものを見ている。
「参ったなぁ・・・。」
ブリュージュにはそんな言葉が似合うと思った。口にしていたのかは分からない。だがそういう男だと、感じた。戦いを楽しんでいるわけではない。むしろ面倒なものとして受け止めている。それでも、前に出る。やるべきだからだ。
ステファニーは、ゆっくりと息を吐く。思い出す。自分が褒められたときのこと。その時は、単純に受け取っていた。
評価されたのだと。
認められたのだと。
だが違うのかもしれない。あれは「先を見ろ」という意味だったのではないか。戦場だけではない。その先、戦争が終わった後。そこまで考えろと。自分は、考えていなかった。戦いの先など。ただ、勝つことだけを見ていた。だがブリュージュは違う。行く当てもなく、軍に入り。騎兵となり。そして、ここまで来た。好きで選んだ道ではない。それでも、続けてきた。
「・・・真逆だな。」
ブリュージュは小さく呟く。気づいてしまったからだ。自分とは、まったく違う人間だと。そのとき——
「もういい。」
ブリュージュが低く言った。ステファニーは顔を上げる。
「今日は遅い。」
それだけだった。そして——
「シュミットを無理に連れて帰れとは言わん。」
淡々と続ける。
「上で休め。」
酒場の天井を指す。
「女将には、俺が話しておく。」
「お前も、休め。」
命令ではない。だが、逆らえない言葉だった。ステファニーは、わずかに迷う。
だが——頷く。
「・・・了解。」
それしか言えなかった。
ブリュージュは、もうこちらを見ていない。再び、グラスに手を伸ばす。止める言葉は、出なかった。止める資格があるとも、思えなかった。ステファニーは、静かに踵を返す。扉へ向かう。背中に、何も感じない。呼び止められることもない。それでいいのだと思った。
今は、まだ何も言えない。
理解できない。
それでも——一つだけ、分かったことがある。戦いは、すべてではない。
そして——その先を見ている人間が、ここにいる。
ステファニーが扉を開けると外の空気が流れ込む。酒と、静けさが混じる。シュミットを連れて二階へ向かった。