Imperial Cavalry   作:クマぴょん

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【第七話 老騎兵の夜】

——シュプレーヴァルト。

 水と森に囲まれた、奇妙なほど静かな土地。森は、とても静かだった。シュプレーヴァルトの水路は、ゆっくりと流れている。音といえば、櫂が水を押す微かな音と、風に揺れる葉の擦れる気配だけ。戦場の喧騒とは、まるで別の世界だった。

 パリ休戦の後、第一三戦車大隊「皇后竜騎兵」は、この地に留め置かれていた。

再編成。

補充。

そして——休養。

それは命令として与えられた時間だった。一ヶ月ではない。数週間でもない。一年近く。丸ごと、戦わなくていい時間。だが、それを“休み”と呼べる者は、少なかった。

「・・・落ち着かないな。」

ステファニーは、小さく呟いた。視線の先には水路。揺れる水面。あまりにも静かで、現実味がない。

「いいじゃないか、平和で。」

隣にはシュミットが居り、笑う。手にはグラス。中の酒を、気軽に傾ける。ここは、森の奥にある小さな酒場だった。木造の簡素な建物。地元の人間が使う、目立たない場所。本来、軍人が立ち入るべきではない。

まして——無断でなど。

「軍規違反だ。」

ステファニーは低く言う。

「見つかれば処分だぞ・・・!」

「見つからなければ問題ない。」

シュミットはあっさりと言い、もう一口飲む。

「それに——」

ステファニーは軽く肩をすくめる。

「今くらい、いいだろ。」

その言葉に、ステファニーは何も返さなかった。否定はできる。

だが——完全には、否定できない。

 店内は静かだった。客は少ない。低い声の会話と、グラスの触れ合う音だけが響く。外とは違う、別の静寂。シュミットは、二杯目を頼む。ステファニーは静止を促す。

「飲みすぎだ。」

「まだ二杯だ。」

「十分だ。」

「足りない。」

即答だった。その軽さに、違和感があった。ステファニーは、彼の手元を見る。わずかに震えている。気のせいかもしれない。だが——

「何を考えている?」

ふと、ステファニーは口に出る。シュミットは、少しだけ動きを止めた。そして、笑う。

「何も——何もない。」

短い返答。だが。それが本当ではないことくらい、分かる。シュミットはグラスを持ち上げ、そのまま一気に飲み干す。

「・・・なあ。」

シュミットはぽつりと言う。

「終わったと思うか?」

ステファニーは、答えなかった。答えられない。シュミットも、それを求めてはいなかった。

「ポーランド——」

「フランス——」

指を折るように言う。

「次はどこだろうな?」

笑っている。だが、その目は笑っていない。

「・・・東だ。」

ステファニーは静かに言う。一瞬、空気が止まる。シュミットは、ゆっくりと頷いた。

「だろうな。」

シュミットはそれ以上は言わない。言う必要がない。分かっているからだ。この静けさが、長く続かないことを。やがてシュミットは、もう一度グラスを手に取る。

「だから飲むんだよ。」

そう小さく言う。

「今のうちに——」

ステファニーは、何も言わなかった。ただ、座っている。

止めるべきか。

止める必要があるのか。

分からない。

外では、水が静かに流れている。何も変わらないように見える。

だが——確実に、時間は進んでいる。戦争もまた進んでいる。

 

「・・・おい。」

ステファニーが声をかける。だが返事はない。シュミットは机に突っ伏したまま、微動だにしない。

「たくっ、飲みすぎだ。」

小さくため息をつく。予想はしていた。

止められたかと言われれば、分からない。

止めるべきだったのかも、分からない。

だが——その寝顔を見ていると、苛立ちよりも先に別の感情が浮かぶ。

「・・・はぁ。」

静かに目を細める。さっきの言葉。

“終わったと思うか?”

が軽く聞こえた。だが、軽くはなかった。

あれは——不安だ。

そして、その向きは良くない。

「・・・まずいな。」

そう小さく呟く。そのときだった。ガタン、と大きな音が響く。空気が一瞬で変わる。

怒号が飛び交う。

椅子が倒れる音。

グラスが割れる音。

「な、なんだ?」

店内の視線が一斉に向く。入口近く。数人の民間人と、一人の軍人が揉み合っている。

「馬鹿野郎!」

「離せ!」

「何してんだテメェ!」

怒鳴り声が飛び交う。酒の匂いに混じって、緊張が走る。ステファニーは立ち上がる。自然と、そちらへ視線が向いた。

そして——動きが止まる。

「・・・!」

その軍人の姿を、認識した瞬間。

「閣下?」

ゲオルク・フォン・ブリュージュ。間違いない。

だが——様子が違う。

軍帽は外れ、髪は乱れ、呼吸も荒い。そして、軍服の胸元に赤い染み。あれはワイン?こぼされたのか、浴びせられたのか。どちらにせよ、きっかけはそれだろう。

「・・・っ!」

ステファニーはすぐに動こうとする。だが——

「やめなさい。」

ステファニーの横から、手が伸びる。その正体は酒場の女将だった。

「今は入らない方がいい。」

と短く言う。

「し、しかし。」

「見てなさい。」

それだけだった。有無を言わせない口調。ステファニーは一瞬だけ迷い——足を止めた。視線は、逸らさない。ブリュージュが、一人の男の腕を払う。無駄がない動き。酔っているはずなのに、崩れない。次の瞬間、もう一人が押し込まれる。机に叩きつけられ、動きが止まる。

あっという間だった。騒ぎは、急速に収まっていく。誰もそれ以上は手を出さない。空気が変わったからだ。

「・・・」

酒場に静寂が戻る。男たちの荒い呼吸だけが残る。ブリュージュは、その場に立っていた。ゆっくりと、周囲を見渡す。

そして——ステファニーと目が合う。

一瞬。本当に一瞬だけ。何かが揺れた。だが、すぐに消える。

 ブリュージュは歩き出した。真っ直ぐに。こちらへ。足音が近づく。重く速い。逃げる暇も言葉を選ぶ時間もない。ステファニーの目の前で止まる。

「・・・ここで何をしている?」

ブリュージュのとても低い声がステファニーを襲う。問いではない。詰問だった。ステファニーは、反射的に背筋を伸ばす。

「・・・その・・・。」

言葉が出ない。言い訳はある。だが、どれも弱い。

「許可は?」

間髪入れずに来る。

「・・・ありません。」

「規則は?」

「・・・違反です。」

沈黙。重い空気。ステファニーに逃げ場がない。

「・・・」

ブリュージュは、何も言わない。ただ、見ている。その視線が、一番きつい。

「・・・申し訳ありません。」

ステファニーはようやく言葉を絞り出す。それしかなかった。しばらくして。ブリュージュは、小さく息を吐いた。

「・・・来い。」

短く言う。

「奥だ。」

それだけだった。踵を返す。振り返らない。命令だった。ステファニーは一瞬、シュミットを見る。まだ動かない。

「・・・すぐ戻る。」

小さく呟く。そして、ブリュージュの後を追った。酒場の奥へと。

 

 ステファニーによってブリュージュがいる部屋の扉が閉まる。酒場の喧騒が、少しだけ遠くなった。奥の部屋は薄暗く、簡素な机と椅子があるだけだった。ブリュージュはそのまま椅子に腰を下ろす。乱暴に、というほどではない。

だが——丁寧でもない。

机の上の瓶を取り、グラスに注ぐ。一息で飲み干した。

そして——視線が、ステファニーに向く。

「軍規は百歩譲る。」

ブリュージュの低い声が部屋に響き渡る。逃げ場はない。

「ここで何をしていた?」

短い問い。ステファニーは一瞬、言葉を失う。ほんの一瞬だけ。だが、すぐに答えた。

「・・・シュミットのお守りです。」

とっさに言った。だが、嘘ではない。ブリュージュは、しばらく何も言わなかった。ただ、グラスをもう一度満たす。

「ここはな——」

ゆっくりと口を開く。

「お前たちが休める場所じゃない。」

そのまま、飲み干す。ブリュージュの喉が鳴る。顔が赤い。酒のせいだけではない。血が上っている。

まるで——赤鬼のようだった。

ステファニーは、それを見ていた。

(・・・こういう大人にはならないようにしよう)

ふと、そんなことを思う。そしてすぐに意識を戻す。

「先ほどの件ですが——」

ステファニーは静かに切り出す。

「何があったのですか?」

ブリュージュは、わずかに眉を動かした。

「大したことではない。」

と短く返す。逃げるような言い方。

だが——

「閣下が“大したことない”と言う時は、大抵そうではありません。」

ステファニーは淡々と言った。ブリュージュは、一瞬だけ沈黙する。そして小さく息を吐いた。

「くだらん話だ。」

ブリュージュはグラスを指で転がす。

「街でな、うちの部隊の話をしていた連中がいた。」

視線は、机の上。

「“皇后竜騎兵”は大したことがない、とな。抱えている兵が、お荷物だと・・・」

ステファニーは、何も言わない。ただ、聞いている。

「最初は——聞き流した。」

ブリュージュは続ける。

「どうでもいい話だ。現場も知らん連中の戯言だ。」

だが指が、わずかに止まる。

「・・・何度も聞かされるとな。さすがに、苛立つ。」

その声は、抑えている。だが、完全には抑えきれていない。

「そして——」

ほんのわずかに、間が空く。

「ダンケルクの話になった。」

空気がガラッと変わる。

「“全部逃がした”。」

その一言で静かにかつ重く落ちる。

「そこで、切れた。」

それだけだった。理由としては十分すぎた。ブリュージュは、グラスを置く。

「それで終わりだ。」

淡々と答える。

「相手にならなかった。」

事実だった。

あの動き。

あの制し方。

武術を知る者の動きだ。

老騎兵。伊達ではない。だがその手が、再び瓶に伸びる。酒を注ぐ。ためらいがない。

 ステファニーは、それを見ていた。戦場では、崩れない。どれだけ追い詰められても、冷静でいられる。

だが——酒の前では違う。簡単に、崩れる。

「・・・情けないな。」

ブリュージュが、小さく呟く。誰に向けた言葉かは分からない。

「上官になってからだ・・・。」

ぽつりと続ける。

「余計なものばかり、背負うようになった。」

短く笑う。乾いた笑い。

「昔はもっと、単純だった。」

「前に出て、叩くだけでよかった。」

グラスを持つ手が、わずかに揺れる。

「今は違う。」

「やれ責任だの、やれ評価だの——」

「全部ついてくる。・・・面倒なものだ。」

それだけだった。ステファニーは、何も言わなかった。言えなかった。理解できないわけではない。

だが——まだ、そこに立っていない。ただ一つ。分かることがある。

この男は、戦場だけでなく——その外でも、戦っている。それも。長い間、静寂が落ちる。ブリュージュは、また酒を口に運ぶ。止めない。止められない。ステファニーは、ただ立っていた。その姿を、見ているしかなかった。ステファニーは、何も言わなかった。

——言えなかった。

言葉が見つからない。

励ます言葉も。

否定する言葉も。何一つ。できないわけではない。

ただ——届く言葉が、思い浮かばなかった。

目の前の男は、壊れているわけではない。崩れているわけでもない。ただ何かを、抱えすぎている。それだけだった。ブリュージュは、黙って酒を飲んでいる。変わらない。

だが——その姿は、戦場のそれとは違う。

ふと、思う。この人は戦いに飢えているわけではない。

むしろ——知りすぎている。

そして戦争に対して、疎ましく思っている。ステファニーには理解できない。戦いは、すべてだった。戦場で勝つこと。それが、自分の価値だった。だが目の前の男は、違う。

同じ場所に立ちながら。

同じ戦場を見ながら。

まるで、別のものを見ている。

「参ったなぁ・・・。」

ブリュージュにはそんな言葉が似合うと思った。口にしていたのかは分からない。だがそういう男だと、感じた。戦いを楽しんでいるわけではない。むしろ面倒なものとして受け止めている。それでも、前に出る。やるべきだからだ。

 ステファニーは、ゆっくりと息を吐く。思い出す。自分が褒められたときのこと。その時は、単純に受け取っていた。

評価されたのだと。

認められたのだと。

だが違うのかもしれない。あれは「先を見ろ」という意味だったのではないか。戦場だけではない。その先、戦争が終わった後。そこまで考えろと。自分は、考えていなかった。戦いの先など。ただ、勝つことだけを見ていた。だがブリュージュは違う。行く当てもなく、軍に入り。騎兵となり。そして、ここまで来た。好きで選んだ道ではない。それでも、続けてきた。

「・・・真逆だな。」

ブリュージュは小さく呟く。気づいてしまったからだ。自分とは、まったく違う人間だと。そのとき——

「もういい。」

ブリュージュが低く言った。ステファニーは顔を上げる。

「今日は遅い。」

それだけだった。そして——

「シュミットを無理に連れて帰れとは言わん。」

淡々と続ける。

「上で休め。」

酒場の天井を指す。

「女将には、俺が話しておく。」

「お前も、休め。」

命令ではない。だが、逆らえない言葉だった。ステファニーは、わずかに迷う。

だが——頷く。

「・・・了解。」

それしか言えなかった。

 ブリュージュは、もうこちらを見ていない。再び、グラスに手を伸ばす。止める言葉は、出なかった。止める資格があるとも、思えなかった。ステファニーは、静かに踵を返す。扉へ向かう。背中に、何も感じない。呼び止められることもない。それでいいのだと思った。

今は、まだ何も言えない。

理解できない。

それでも——一つだけ、分かったことがある。戦いは、すべてではない。

そして——その先を見ている人間が、ここにいる。

ステファニーが扉を開けると外の空気が流れ込む。酒と、静けさが混じる。シュミットを連れて二階へ向かった。

 

 

 

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