——バルバロッサ作戦開始直後。
地図の上に、影が三つ落ちていた。簡素な幕舎。机の上に広げられたのは、ミンスク周辺の作戦地図。
道路、河川、集落。
すでに多くの地点に、印が打たれている。
——進撃路。
ブリュージュは、その一つを指でなぞった。
「ここまでが、第一段階だ。」
ホフマン中尉とベッカー少尉が、無言で頷く。
「敵は、まともに展開できていない。」
「組織的な抵抗も、限定的だ。」
それは事実だった。国境を越えてから、戦線は崩れ続けている。補給も、指揮も、追いついていない。
「・・・これは崩壊している。」
ホフマンが静かに言う。
「その通りだ。」
ブリュージュは即答した。
「だからこそ速い。」
ブリュージュは視線を上げる。
「追いつけていない・・・。」
誰が、とは言わない。だが、分かる。敵が。戦争そのものが追いついていないのだとを。
「ミンスクは?」
ベッカーが問う。
「包囲下に入る。時間の問題だ」
敵は抵抗している。だが、それは“戦い”ではない。崩れの中での、散発的なものだ。
「全く敵にならん。」
ホフマンが言う。ブリュージュは、わずかに視線を動かした。否定はしない。
だが——肯定もしない。
「油断するなよ。」
静かに言う。
「崩れている相手ほど、読めん。」
地図の一点を指す。
「ここを見ろ。森と湿地だ。足を取られるし、退路を誤れば、詰む。」
ブリュージュの言葉は重かった。
「だが、戦力は十分だ。」
ブリュージュは続ける。
「Ⅲ号戦車J型が主力。」
指が、隊列を示す。
「Ⅳ号D型も配備される。」
火力。
装甲。
ともに、これまでとは段違いだった。
「さらに——」
ブリュージュは一拍置いて——
「指揮車両としてL型が回る。」
大隊長。
中隊長。
小隊長。
それぞれに。
「指揮系統は、これまで以上に機能する。」
ベッカーが小さく頷く。
「通信も安定します。」
「そうだ。」
ブリュージュは言う。
「だから——速くなる。」
それがすべてだった。
「押し潰す。」
淡々と。
感情はない。
事実として。
「敵は持たんよ。」
ブリュージュの言葉に重みがかかり、ホフマンとベッカーの両名は沈黙した。だが、十分だった。ホフマンが口を開く。
「損耗はどうなってますか?」
「出る。」
ブリュージュは即答した。
「だが、問題にはならん。」
それもまた、事実だった。規模が違う。戦線の広さも。敵の数も。
そして——消耗の前提も。
ブリュージュは、地図から視線を外す。わずかに、目を細める。
「これは——西とは違う。」
誰に向けた言葉でもない。
「終わりが見えん。」
その一言だけが、少しだけ重かった。ホフマンとベッカーは、何も言わない。理解しているからだ。
「だが——」
ブリュージュが続ける。
「やることは同じだ。前に出て、崩す。」
それだけだった。地図の上で、指が止まる。ミンスクの中心地。
「ここを取る。」
静かに言う。
「終わりではない。始まりだ。」
幕舎の中で誰も、否定しなかった。
——ミンスク郊外。
ステファニーたちは、進撃の命令を待っていた。まだ戦いは始まっていない。だが、その直前の静けさが、かえって落ち着かなかった。
これから始まる戦いが——自分の軍人としての人生を、大きく左右する。
そんなことは、この時のステファニーには分かっていない。ただ何かが違う、という感覚だけがあった。空は曇っている。夏の空気は重く、じっとりと肌にまとわりつく。それでも、ときおり吹く風が、その熱をわずかに和らげた。葉が揺れ、その音が、妙に大きく感じられる。
ステファニーは、空を見上げた。このまま晴れるのではないか。そんなことを、ふと思う。
だが——すぐに、その考えを打ち消した。
戦争に、そんな都合のいい変化はない。むしろ、これから始まるものは、もっと苛烈なものだ。
ブリュージュの言葉が、頭をよぎる。戦いは、疎ましいものだと。あの男は、そう言っていた。戦場に立ちながら。それでも前に出る人間がそう言い切った。
「・・・私は・・・。」
小さく、呟く。
「何を目指しているんだろう?」
言葉が、零れる。
「どこへ向かっている?」
その先を言おうとして——
「——ファニー!ステファニー!おい、聞こえてるか?」
声が割り込んだ。シュミットだった。
「どうした?」
シュミットは軽い口調でステファニーに聞く。だが、視線は真剣だ。ステファニーは一瞬だけ黙る。そして——
「・・・何でもない。」
短く返す。突き放すように。
「そうか?」
シュミットは首を傾げる。その隣で、リサもこちらを見ている。サンドラも、無言で視線を向けていた。気にしている。それが分かる。
だが——これ以上、言葉にするつもりはなかった。
「気にするな。」
それだけ言って、視線を外す。空気が、少しだけ重くなる。そのとき無線が入る。
『——各車、前進準備。』
一瞬で、空気が変わる。思考が切り替わる。迷いも、不安も。すべて後ろに押しやられる。
「来たな。」
シュミットが小さく言う。エリアスがエンジンを始動させる。低い振動が、車内に響く。リサが砲の確認を行う。サンドラが無線を握る。それぞれが、自分の役割に戻る。ステファニーも、視線を前に向けた。もう、迷っている時間はない。
「行くか。」
ステファニーは短く言う。その言葉と同時に。戦いは、切って落とされた。
それは——不安とともに始まる戦いだった。
第一三戦車大隊は、ハインツ・グデーリアン率いる第二装甲集団、その麾下である第一騎兵師団に編入されていた。進撃は続いている。
だが——
思ったほど、速くはない。
「妙だな。」
誰かが呟く。敵は抵抗してこない。
いや——できていない。
だがその代わりに、逃げる。散り、崩れ、後方へと流れていく。
「包囲が締まらない。」
ホフマンの声。事実だった。追い込んでいるはずなのに、閉じきれない。抜けていく。隙間から、次々と。
「・・・このままでは!」
ベッカーが言う。
「捕虜も装備も、ほとんど残らない。」
戦果としては、不十分だった。
「封鎖するぞ!」
ブリュージュが命じる。
「脱出路を断て!」
第一三戦車大隊は進路を変える。敵の退路。その一点を狙う。
だが——
『前方に敵戦車!』
無線が跳ねる。
『数台——確認!』
視界の先。森の縁。そこにいた。
低い車体。
傾斜した装甲。
見慣れない影。
「なんだ・・・あれは?」
「識別不明!」
次の瞬間。
砲撃音、着弾。土が跳ね続けた。
「散開!」
即座に命令が飛ぶ。
「回り込め!」
だが——
「弾かれる!」
リサの声が鋭くなる。
「正面装甲、抜けない!」
Ⅲ号戦車L型の砲撃が、弾かれる。信じられない光景だった。
「硬い・・・!」
ステファニーが低く言う。
「距離を詰める!」
「側面を取れ!」
機動で崩す。それしかない。だが——
「来るぞ!」
敵戦車が、前に出て撃ってくる。
「——ッ!」
鈍い衝撃。車体が大きく揺れる。
「被弾!」
エリアスが叫ぶ。
「履帯損傷、停止!」
動かない。
「くそ・・・!」
ステファニーは歯を食いしばる。
「損害は!」
「乗員無事!」
それだけが救いだった。
だが——動けない。
「まずい。」
敵が、こちらを向く。次の一撃で終わる。そのときだった。
『——前に出る!』
ブリュージュが無線を割り込む。
『全車、前進!』
大隊長のⅢ号戦車L型とⅢ号戦車J型が一斉に動く。全く躊躇がない。一直線に、敵戦車に突っ込む。
『距離を詰めろ!』
『止まるな!』
老騎兵の戦いだった。
近づく。
撃つ。
動く。
その繰り返し。敵の照準をかき乱す。
『今だ!』
敵側面、一瞬の隙に砲撃した。直後に着弾。爆発炎上する敵戦車。
『撃破!次!』
一両。続けて、もう一両。敵は数を減らす。
やがて——残りは後退した。
戦場に、静寂が戻る。
「・・・はぁ。」
ステファニーは、動かない車内で息を整える。まだ、生きている。
だが——
「私は・・・。」
小さく呟く。
「落ち目だな。」
思わず、出た言葉だった。その瞬間——
「馬鹿を言うな。」
いつの間にか、ブリュージュが立っていた。
「そんな言葉は、軽々しく使うな。」
短く。だが、強く。ブリュージュは続ける。
「生きている。それで十分だ。」
ステファニーは、何も言えなかった。
ただ——
その言葉を、受け止めるしかなかった。
捕虜は、ほとんど得られなかった。逃げられた。崩れながらも、抜けていく。それが、この戦場の現実だった。だが、一つだけ、はっきりしたことがある。敵戦車の正体だった。
「T-34・・・。」
誰かが口にする。
初期型。
76.2ミリ砲。
傾斜装甲。
そして——ディーゼルエンジン。
どれも、これまでの戦車とは違う。少なくともドイツでは、まだ到達していない構造だった。
「厄介だな。」
ブリュージュが低く言う。正面では通じない。機動で崩すしかない。だが、それにも限界がある。
「でも対処は可能です。」
ホフマンが言う。
「だが——」
ベッカーが続ける。
「詳細が分からないですね。」
その通りだった。分かっているのは、目の前の事実だけ。
装甲が硬い。
火力が高い。
それだけだ。
「我々には時間がない。」
ブリュージュは言った。それがすべてだった。解析する余裕はない。試す時間もない。
「次へ進むぞ。」
視線が地図へ落ちる。視線の先には——
スモレンスク。
ロシアの大地を流れる川の要衝。
そこを押さえる必要がある。止まることは許されない。
「準備を進めろ。」
短く命じる。ホフマンとベッカーが動き出した。
整備。
補給。
再編。
次の戦いのために。
そのとき——何者かの足音がした。
ブリュージュは振り向くとそこに立っていたのはステファニーだった。ステファニーは少しだけ、間を置いて口を開く。
「閣下。」
ブリュージュが視線を向ける。
「どうした?」
短い問い。ステファニーは、わずかに表情を緩めた。ほんの少しだけ。
「今度——私たちのテントに来ませんか?」
意外な言葉だった。ホフマンとベッカーが、わずかに視線を動かす。ステファニーは続ける。
「閣下の話を、聞きたがっている者たちがいます。」
それだけだった。理由も、説明もない。ただの誘い。戦場の中では、珍しいほどに。ブリュージュは、少しだけ黙り、すぐには答えない。
だが——
「考えておく。」
と返した。それで十分だった。ステファニーは小さく頷く。それ以上は言わない。そのまま、踵を返す。再び、戦場の中へ戻っていく。ブリュージュは、その背中を見ていた。ほんの一瞬だけ。そして視線を地図へ戻す。
スモレンスク。
その先。
さらに奥。
戦線は、まだ続いている。終わりは見えない。
そして——
戦争は、さらに深くなる。