Imperial Cavalry   作:クマぴょん

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【第八話 地獄の門】

——バルバロッサ作戦開始直後。

 地図の上に、影が三つ落ちていた。簡素な幕舎。机の上に広げられたのは、ミンスク周辺の作戦地図。

道路、河川、集落。

すでに多くの地点に、印が打たれている。

——進撃路。

ブリュージュは、その一つを指でなぞった。

「ここまでが、第一段階だ。」

ホフマン中尉とベッカー少尉が、無言で頷く。

「敵は、まともに展開できていない。」

「組織的な抵抗も、限定的だ。」

それは事実だった。国境を越えてから、戦線は崩れ続けている。補給も、指揮も、追いついていない。

「・・・これは崩壊している。」

ホフマンが静かに言う。

「その通りだ。」

ブリュージュは即答した。

「だからこそ速い。」

ブリュージュは視線を上げる。

「追いつけていない・・・。」

誰が、とは言わない。だが、分かる。敵が。戦争そのものが追いついていないのだとを。

「ミンスクは?」

ベッカーが問う。

「包囲下に入る。時間の問題だ」

敵は抵抗している。だが、それは“戦い”ではない。崩れの中での、散発的なものだ。

「全く敵にならん。」

ホフマンが言う。ブリュージュは、わずかに視線を動かした。否定はしない。

だが——肯定もしない。

「油断するなよ。」

静かに言う。

「崩れている相手ほど、読めん。」

地図の一点を指す。

「ここを見ろ。森と湿地だ。足を取られるし、退路を誤れば、詰む。」

ブリュージュの言葉は重かった。

「だが、戦力は十分だ。」

ブリュージュは続ける。

「Ⅲ号戦車J型が主力。」

指が、隊列を示す。

「Ⅳ号D型も配備される。」

火力。

装甲。

ともに、これまでとは段違いだった。

「さらに——」

ブリュージュは一拍置いて——

「指揮車両としてL型が回る。」

大隊長。

中隊長。

小隊長。

それぞれに。

「指揮系統は、これまで以上に機能する。」

ベッカーが小さく頷く。

「通信も安定します。」

「そうだ。」

ブリュージュは言う。

「だから——速くなる。」

それがすべてだった。

「押し潰す。」

淡々と。

感情はない。

事実として。

「敵は持たんよ。」

ブリュージュの言葉に重みがかかり、ホフマンとベッカーの両名は沈黙した。だが、十分だった。ホフマンが口を開く。

「損耗はどうなってますか?」

「出る。」

ブリュージュは即答した。

「だが、問題にはならん。」

それもまた、事実だった。規模が違う。戦線の広さも。敵の数も。

そして——消耗の前提も。

ブリュージュは、地図から視線を外す。わずかに、目を細める。

「これは——西とは違う。」

誰に向けた言葉でもない。

「終わりが見えん。」

その一言だけが、少しだけ重かった。ホフマンとベッカーは、何も言わない。理解しているからだ。

「だが——」

ブリュージュが続ける。

「やることは同じだ。前に出て、崩す。」

それだけだった。地図の上で、指が止まる。ミンスクの中心地。

「ここを取る。」

静かに言う。

「終わりではない。始まりだ。」

幕舎の中で誰も、否定しなかった。

 

——ミンスク郊外。

ステファニーたちは、進撃の命令を待っていた。まだ戦いは始まっていない。だが、その直前の静けさが、かえって落ち着かなかった。

これから始まる戦いが——自分の軍人としての人生を、大きく左右する。

そんなことは、この時のステファニーには分かっていない。ただ何かが違う、という感覚だけがあった。空は曇っている。夏の空気は重く、じっとりと肌にまとわりつく。それでも、ときおり吹く風が、その熱をわずかに和らげた。葉が揺れ、その音が、妙に大きく感じられる。

 ステファニーは、空を見上げた。このまま晴れるのではないか。そんなことを、ふと思う。

だが——すぐに、その考えを打ち消した。

戦争に、そんな都合のいい変化はない。むしろ、これから始まるものは、もっと苛烈なものだ。

 ブリュージュの言葉が、頭をよぎる。戦いは、疎ましいものだと。あの男は、そう言っていた。戦場に立ちながら。それでも前に出る人間がそう言い切った。

「・・・私は・・・。」

小さく、呟く。

「何を目指しているんだろう?」

言葉が、零れる。

「どこへ向かっている?」

その先を言おうとして——

「——ファニー!ステファニー!おい、聞こえてるか?」

声が割り込んだ。シュミットだった。

「どうした?」

シュミットは軽い口調でステファニーに聞く。だが、視線は真剣だ。ステファニーは一瞬だけ黙る。そして——

「・・・何でもない。」

短く返す。突き放すように。

「そうか?」

シュミットは首を傾げる。その隣で、リサもこちらを見ている。サンドラも、無言で視線を向けていた。気にしている。それが分かる。

だが——これ以上、言葉にするつもりはなかった。

「気にするな。」

それだけ言って、視線を外す。空気が、少しだけ重くなる。そのとき無線が入る。

『——各車、前進準備。』

一瞬で、空気が変わる。思考が切り替わる。迷いも、不安も。すべて後ろに押しやられる。

「来たな。」

シュミットが小さく言う。エリアスがエンジンを始動させる。低い振動が、車内に響く。リサが砲の確認を行う。サンドラが無線を握る。それぞれが、自分の役割に戻る。ステファニーも、視線を前に向けた。もう、迷っている時間はない。

「行くか。」

ステファニーは短く言う。その言葉と同時に。戦いは、切って落とされた。

それは——不安とともに始まる戦いだった。

 

 第一三戦車大隊は、ハインツ・グデーリアン率いる第二装甲集団、その麾下である第一騎兵師団に編入されていた。進撃は続いている。

だが——

思ったほど、速くはない。

「妙だな。」

誰かが呟く。敵は抵抗してこない。

いや——できていない。

だがその代わりに、逃げる。散り、崩れ、後方へと流れていく。

「包囲が締まらない。」

ホフマンの声。事実だった。追い込んでいるはずなのに、閉じきれない。抜けていく。隙間から、次々と。

「・・・このままでは!」

ベッカーが言う。

「捕虜も装備も、ほとんど残らない。」

戦果としては、不十分だった。

「封鎖するぞ!」

ブリュージュが命じる。

「脱出路を断て!」

第一三戦車大隊は進路を変える。敵の退路。その一点を狙う。

だが——

『前方に敵戦車!』

無線が跳ねる。

『数台——確認!』

視界の先。森の縁。そこにいた。

低い車体。

傾斜した装甲。

見慣れない影。

「なんだ・・・あれは?」

「識別不明!」

次の瞬間。

砲撃音、着弾。土が跳ね続けた。

「散開!」

即座に命令が飛ぶ。

「回り込め!」

だが——

「弾かれる!」

リサの声が鋭くなる。

「正面装甲、抜けない!」

Ⅲ号戦車L型の砲撃が、弾かれる。信じられない光景だった。

「硬い・・・!」

ステファニーが低く言う。

「距離を詰める!」

「側面を取れ!」

機動で崩す。それしかない。だが——

「来るぞ!」

敵戦車が、前に出て撃ってくる。

「——ッ!」

鈍い衝撃。車体が大きく揺れる。

「被弾!」

エリアスが叫ぶ。

「履帯損傷、停止!」

動かない。

「くそ・・・!」

ステファニーは歯を食いしばる。

「損害は!」

「乗員無事!」

それだけが救いだった。

だが——動けない。

「まずい。」

敵が、こちらを向く。次の一撃で終わる。そのときだった。

『——前に出る!』

ブリュージュが無線を割り込む。

『全車、前進!』

大隊長のⅢ号戦車L型とⅢ号戦車J型が一斉に動く。全く躊躇がない。一直線に、敵戦車に突っ込む。

『距離を詰めろ!』

『止まるな!』

老騎兵の戦いだった。

近づく。

撃つ。

動く。

その繰り返し。敵の照準をかき乱す。

『今だ!』

敵側面、一瞬の隙に砲撃した。直後に着弾。爆発炎上する敵戦車。

『撃破!次!』

一両。続けて、もう一両。敵は数を減らす。

やがて——残りは後退した。

戦場に、静寂が戻る。

「・・・はぁ。」

ステファニーは、動かない車内で息を整える。まだ、生きている。

だが——

「私は・・・。」

小さく呟く。

「落ち目だな。」

思わず、出た言葉だった。その瞬間——

「馬鹿を言うな。」

いつの間にか、ブリュージュが立っていた。

「そんな言葉は、軽々しく使うな。」

短く。だが、強く。ブリュージュは続ける。

「生きている。それで十分だ。」

ステファニーは、何も言えなかった。

ただ——

その言葉を、受け止めるしかなかった。

 

 捕虜は、ほとんど得られなかった。逃げられた。崩れながらも、抜けていく。それが、この戦場の現実だった。だが、一つだけ、はっきりしたことがある。敵戦車の正体だった。

「T-34・・・。」

誰かが口にする。

初期型。

76.2ミリ砲。

傾斜装甲。

そして——ディーゼルエンジン。

どれも、これまでの戦車とは違う。少なくともドイツでは、まだ到達していない構造だった。

「厄介だな。」

ブリュージュが低く言う。正面では通じない。機動で崩すしかない。だが、それにも限界がある。

「でも対処は可能です。」

ホフマンが言う。

「だが——」

ベッカーが続ける。

「詳細が分からないですね。」

その通りだった。分かっているのは、目の前の事実だけ。

装甲が硬い。

火力が高い。

それだけだ。

「我々には時間がない。」

ブリュージュは言った。それがすべてだった。解析する余裕はない。試す時間もない。

「次へ進むぞ。」

視線が地図へ落ちる。視線の先には——

スモレンスク。

ロシアの大地を流れる川の要衝。

そこを押さえる必要がある。止まることは許されない。

「準備を進めろ。」

短く命じる。ホフマンとベッカーが動き出した。

整備。

補給。

再編。

次の戦いのために。

そのとき——何者かの足音がした。

ブリュージュは振り向くとそこに立っていたのはステファニーだった。ステファニーは少しだけ、間を置いて口を開く。

「閣下。」

ブリュージュが視線を向ける。

「どうした?」

短い問い。ステファニーは、わずかに表情を緩めた。ほんの少しだけ。

「今度——私たちのテントに来ませんか?」

意外な言葉だった。ホフマンとベッカーが、わずかに視線を動かす。ステファニーは続ける。

「閣下の話を、聞きたがっている者たちがいます。」

それだけだった。理由も、説明もない。ただの誘い。戦場の中では、珍しいほどに。ブリュージュは、少しだけ黙り、すぐには答えない。

だが——

「考えておく。」

と返した。それで十分だった。ステファニーは小さく頷く。それ以上は言わない。そのまま、踵を返す。再び、戦場の中へ戻っていく。ブリュージュは、その背中を見ていた。ほんの一瞬だけ。そして視線を地図へ戻す。

スモレンスク。

その先。

さらに奥。

戦線は、まだ続いている。終わりは見えない。

そして——

戦争は、さらに深くなる。

 

 

 

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