少年少女たちの兵舎テントは、いつになく騒がしかった。ざわめき。笑い声。そして——どこか浮ついた空気。その中に、三つの影が立つ。
ゲオルク・フォン・ブリュージュ。
ホフマン中尉。
ベッカー少尉。
ブリュージュは手当たり次第に少年少女に声を掛ける。
「君、ウィンターはいるか?」
だが、返事はない。代わりに、ひとりの少女が駆け寄ってくる。リサだった。
「閣下!」
そのまま、躊躇なく手を取る。
「こっちです!」
引かれるままに進む。止める暇もない。テントの奥へ。
すると——
「サインください!」
「閣下、こっちにも!」
一斉に声が上がる。少年少女たちが、取り囲む。無邪気な熱気。だが、その顔には、戦場を潜った影がある。ブリュージュは、無言でそれをかき分けた。その先にステファニーがいた。そして、その周囲には生き残った兵士たち。ほとんどが士官学校を出た若者たちだった。まだ幼さの残る顔。だが、すでに戦場を知っている。ホフマンとベッカーも、その中に立てば大人に見える。
それでも本質的には、まだ若い。ブリュージュは、一度だけ周囲を見渡した。そして——
「・・・よし。」
ブリュージュは短く言い、地図を取り出す。それを、地面に広げた。
「聞け。」
それだけで、空気が変わる。ざわめきが、止まる。
「——二十年以上の前だ。」
ブリュージュは静かに語り始める。
「俺が十九の頃。」
指が、地図の一点をなぞる。
「東部戦線にいた。」
今と同じ場所。だが、まったく違う戦場。
「軽騎兵だった。」
一拍置いて言う。
「威力偵察がメイン任務だった。」
前に出て、見て、戻る。それが役割だった。
「敵はコサック騎兵が主体だ。」
騎兵でありながら、銃火器で固められていた。
「条件は、向こうが上だ。」
淡々と言う。誇張はない。事実だけ。
「だが——」
ほんのわずかに、言葉が変わる。
「馬が良かった。」
小さく言う。
「ロメオ。」
その名だけが、少しだけ柔らかい。
「彼の生まれはハンガリーだ。」
速い。
強い。
そして、よく応えた。
「何度も助けられた。」
それだけだった。英雄譚にはならない。だが、確かな支えだった。
「敵は多かったが、抜けることが出来た。」
撃ち、避け、走る。ただそれの繰り返し。
だが——
「それだけでは終わらなかった。」
声が少しだけ低くなる。
「歩兵が来た。」
波のように押し寄せる敵歩兵。
「そして三日で司令部が潰れた。」
「それで終わりだったんだ。」
戦いは。
指揮も。
何もかも。
終わったはずだった。
「その後は——生き延びるだけだ。」
掠奪はしない。できない。
「いずれ食えなくなる。」
現実だった。
「ポーランドから東プロイセンまで——」
長い距離。味方戦線を目指して——
「歩いた。」
騎兵なのに——
「寝る場所は土だ。」
天井はない。壁もない。ただ、地面。
「戦いより生きることが長かった。」
その時間の方が——
「ほとんど、それだった。」
ブリュージュの言葉に誰もが沈黙している。誰も軽くは聞いていない。ブリュージュは、顔を上げ、若者たちを見る。
「お前たちとは違う。」
ブリュージュははっきりと言う。
「士官学校も出ていない・・・徴兵だ。」
選ばれたわけではない。流れ着いただけだ。
「華はない。」
短く言う。
「泥水をすすって、生き延びただけだ。」
それが、すべてだった。誇るものではない。だが、偽りもない。
「何とも面白くもない話だ。」
ブリュージュはわずかに肩をすくめる。
「だが——何かの足しになるなら、それでいい。」
それだけだった。静寂が包む。誰もすぐには言葉を出さない。必要がなかった。
その話は——十分すぎるほど、重かった。ブリュージュの話が終わったあとしばらくは誰も口を開かなかった。言葉が出てこない。軽く受け止められる話ではなかった。ステファニーも同じだった。何かを感じている。それは確かだ。
だが——それを言葉にすることができない。
複雑だった。理解できたとは言えない。だが、何も分からなかったわけでもない。胸の奥に、何かが引っかかっている。それだけが、はっきりしていた。ブリュージュは、その様子を見ていた。何かを問うように。あるいは、確かめるように。特に、ステファニーを。
「ステファニー、どう思う?」
短く問い、ブリュージュには見ない静かな声だった。だがステファニーは、すぐに答えられない。言葉が見つからない。視線がわずかに揺れる。やがて何も言えずに、口を閉じた。それだけで、十分だった。
ブリュージュは、他の少年少女たちにも目を向ける。だが誰一人として、はっきりとした答えを返すことはできなかった。沈黙が広がる。その空気を、ブリュージュは受け止める。そして——
「それでいい。それが正常だ。」
それ以上は、何も言わない。答えを求めることもない。そのまま、足早にテントを後にする。ホフマンとベッカーも、無言でそれに続いた。呼び止める者はいない。ただ、見送る。その背中が、見えなくなるまで。
やがて静寂だけが残る。誰かが、小さく息を吐いた。張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
「——何か、したいな。」
ぽつりと、声が上がる。
「恩返し、とか?」
別の声が続く。すぐに、苦笑が混じる。
「……いらん、って言いそうだな。」
「“生き残れ”ってな。」
短い笑いが、いくつか重なる。それが、答えだった。しばらくの間、彼らは話し合った。
何ができるのか。
何をすべきか。
だが——結論は出ない。
そして時間も、ない。
「もう寝るか。」
誰かが言う。それに、誰も反対しなかった。明日は、早い。戦いは、待ってくれない。
その夜誰もポーカーをしなかった。カードの音も、笑い声もない。ただ、それぞれが横になり。静かに、目を閉じる。眠れたかどうかは、分からない。
だが——確かに何かが、変わっていた。