入学式の翌日。午前の授業が終われば教室は張り詰めた圧力が逃げるように穏やかな喧騒が広がる。
生徒たちはノートや教科書を片付けながら、互いに新しい出会いの挨拶を交わしている。
淡い春の陽が窓から差し込み教室の隅々にまで照らす様子は、そんな教室の初々しさを含んだ新しい空気を表しているようだった。
そんな喧騒の中、リヴィアは迷いなくセシルの元へと歩み寄った。
机を静かに片付けていたセシルが、ふいに気配を感じて顔を上げる。二人の視線が合う瞬間、わずかに時間がゆるやかになったように感じられた。
リヴィアの胸には、再会の喜びとほんの少しの緊張が入れ混じる。だがそれ以上に幼い頃の思い出が、揺るぎない自信となって彼女の背を押していた。
「セシル、久しいね。私の事は覚えているかな」
口から出した声は昔と変わらぬ柔らかさを含んでいるつもりだ。身についた貴族令嬢らしい気品は後に磨かれたものである。
幼かった彼の瞳にこちらがどう映っていたのかは定かではない。それでもリヴィアはセシルに昔と変わらない態度で接しているつもりだった。その無意識の緊張を体現するように柔らかな笑みを浮かべるリヴィアの表情は強張っている。
教室のざわめきも一瞬だけ遠く感じられた。
そんな彼女に、セシルはほんの少し驚いたように瞬きをしリヴィアの顔をよく見つめる。
懐かしい記憶をたどるような、柔らかなまなざし。それから、口元を緩めて甘く噴き出した。
「ふふ、久しぶり。えっと、いつぶりだろう……? 最後に会ったのは妃殿下の成人のお祝いだったかな……。兎に角、5年か6年ぶりだね」
「あぁ覚えてくれて良かった。可憐だった君も今ではとても麗しい王子になって。幼馴染の私としても、とても誇らしいよ」
リヴィアは柔らかな冗談めいた口調で言葉を紡ぐが、しかしその眼差しにはごく真摯な敬意と優しさが浮かんでいる。
淡い陽射しを浴びるセシルの目元、成長した顔、制服の袖から覗く細い手首と幼い頃と変化ない性格。久しぶりに向かい合っても、どこか懐かしく、どこか新鮮な距離感が頬をくすぐる。
彼女の視線に気が付いたのだろう、セシルは少しだけうろたえたように視線を外しながら、それでも口元には穏やかな笑みを浮かべていた。
「そういうリヴィアだって……雰囲気が大人っぽくなって、こっちが緊張するよ。会ったときはモジモジしていて、あんなにわんぱくだったのに」
「君が成長したように私だって成長したんだ。もし困ったことがあれば、何でも相談して欲しい。私は君のお姫様なのだからね」
一瞬の間。セシルは彼女の言葉の真意を探るよう、表情を変えずまっすぐリヴィアを見つめ返す。
そんな彼の仕草を上書きするようにリヴィアはさわやかに微笑みそっと右手を差し出した。その仕草には幼馴染という枠を少し越えた、女性としてのごく自然な誇りが滲んでいる。
自分が誘う側であることに誇張も照れもなく、女性としての流儀に則った堂々とした主導者の気品と、凛々しさが漏れていた。
「お昼は食堂で食べてるのかな? だとしたら、エスコートさせてもらえないか」
彼女を見つめたままのセシルは一瞬その手を見て戸惑ったように指先を揺らすが、やがて素直に手を重ねる。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
数人の生徒が値踏みするような視線を送る中、リヴィアはセシルを連れて廊下へと歩み出す。廊下に出ると既にアルノーとミレーヌがリヴィアを待っていた。
アルノーはいつものように背筋をぴんと伸ばし、静かな笑みを浮かべる。
「お久しぶりでございます、セシル様。お元気そうで何よりです」
ミレーヌはラフに手を振り、制服の裾を指先で整えながら続けた。
「リヴィア様も私たちも男性は別に説明があるとのことで、昨日話しかけられることが出来ず、胸を締め付けられる思いでしたの。お元気そうなセシル様を見ることが出来て胸の痛みも和らぎますわ」
セシルはやや恥ずかしそうに微笑みつつ、そんな二人に軽く頭を下げた。
リヴィアはそのやり取りに目を細めながら、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「では、向かおうか」
彼女がさりげなくセシルの歩調に合わせると、4人は自然な足並みで食堂へと向かった。
食堂へと入れば、そこに続く廊下の静寂から一転して世界が賑やかさに満ちる。
磨きこまれた長いテーブル、そして制服姿の生徒たちで出来たそれぞれのグループが狭い円をつくり、ちらちらと誰がどこに座るのか、無意識の選択がさざ波のように広がっていく。
食堂という世界を眺めるセシルの横で、リヴィアが背後に佇む従者へと視線を投げ掛ければ、アルノーはトレイを取りに向かう。ミレーヌは窓際の空いた二人掛けの席を見つければ、そこに座るよう優しく促した。
暫くしてアルノーが2つのトレイを手に持ち戻ってきた。彼女が持っていた食事の乗ったトレイはリヴィアとセシルの目の前に置かれ、一方はアルノーとミレーヌは一礼を最後に料理を取りに向かってしまった。
「彼女達も居たほうが良かったかな? 私としては、初日くらい君と二人で食べたくてね」
「問題ないよ、いただこうか」
その瞬間、周囲の空気がほんのわずか変わったのをリヴィアは敏感に感じ取る。
婚約者でもない貴族男子が、貴族令嬢と同席し共に食事をとる。入学式から幾ばくか時が流れたならばつゆ知らず、入学式の次の日にである。
この学園の社交では滅多に見ることの出来ない、少なくとも周りで食事をする女子生徒たちにとっては正真正銘の事件だった。
貴族社会においては食事の場すらも戦場である。二人が食器と食器をぶつけ、音を立てる無作法などする事もない。
周囲には彼が奏でる音がやけに大きく聞こえ、遠巻きの視線すらも一段と多く集まるのを感じる。
聞き耳を立てる、二人の周囲から音が消えた証明であった。
けれどもリヴィアは、あえて何も気にしない素振りで席に座ったまま彼に穏やかな視線を向けて静かに問いかける。
「……こういう場は、やっぱり落ち着かないかな?」
彼女は声をひそめず、声色にも視線同様穏やかさを乗せて語りかける。その振る舞いには、貴族令嬢としての経験からくる余裕と男性を守る者としての覚悟が滲んでいた。
セシルは少しだけ視線を彷徨わせ、窓の外を流し目で見る。チラりと視線を下げ、パンを掴んではちぎり、視線を再び外へと向けた。
「……正直ちょっと緊張するけど、暫くしたら慣れるんじゃないかな」
「それなら、今日は場所を変えようか?」
「このままで問題ないよ。見られ慣れてるっていうか、ほら女子って、たまに理性に勝てないというか……チラチラ見るじゃない? 男子の身体。あれと同じ気分程度だから」
その言葉に耳にしてしまえば思わず視線が下がりかけたリヴィアだったが、軋みによる奥歯の悲鳴を犠牲に面向かって胸部を見ることはせずに済んだ。その代償は重く、表情筋が笑みのまま固まってしまう。
「姉上が好奇心旺盛でさ」
そう呟き笑いながらセシルはちぎったパンを口へと運ぶ。
次期当主ではないリヴィアは話中の彼女と深い面識はない、だからこそ居ないはずの彼女を内心で恨んだ。随分意中の彼を大事に育てたようだ。
そして動揺の誤魔化しと心を乱された意図返し、それと周囲への牽制を兼ねて彼女は微笑み続けたまま、食堂中の視線をものともせずテーブルの上に手を差し出す。
「私が隣にいる限り、誰にも君の安らぎを邪魔させない」
「ありがとう、気持ちはとても嬉しいよ。でも……その言葉を今この瞬間掛けられて羞恥心を覚える男心という物をもう少し理解してほしいかな」
そうしてクスクス、と玉を転がす笑いが二人の間で湧き上がった。
「君を守るのは、昔も今も私の務めだからね」
リヴィアが冗談めかして言えば注がれていた周囲の視線もほぐれ、音のない空間が少しずつ日常の喧騒へと戻り始めた。
他の席でも笑い声や食器の音が戻り始める。春風が窓越しにカーテンを揺らす中、二人だけの穏やかな昼下がりが静かに終わりを告げた。
その翌日から午前の授業が終わるや否や、リヴィアは迷うことなくセシルの机を訪れ昼食へと誘う。
セシルとは幼馴染としての関係性であると周囲に牽制しつつ、その男性を食事に誘うことで自身の伴侶であるとアピールする主導権の取り方だった。
セシルもまたごく普通に穏やかに微笑みながら食事を取り感謝を述べる。
そのやりとりが、教室と食堂に居合わせた誰にも特別な印象を残した。
学園の食堂。二人掛けのテーブルを囲みリヴィアとセシルが並んで席につく度に、周囲の視線が自然と二人に集まる。
その様子にリヴィアは一向に動じない。それどころか背筋を伸ばし、周りのざわめきを澄ました瞳で払いのける。
一方のセシルも注目されること自体に特別な反応を見せることはない。気まずげに俯いたり、気取った態度を取ったりもしない。
誰が見ていようと、その時間を自然体で受け入れているようだった。
多くの男子は貞節と女性への従順さを何よりも美徳とする。姉や母、あるいは護衛の女性達に前方を守られ、後ろからそっと物事を見守る立場。
食事の場でも会話で主導権を取ることはほとんどなく、いつも控えめで礼儀を守ることが最優先。
それが幼いころから側にいた男子たちの在り方。学園の女子達、クラスメイト、上級生、時には見ず知らずの生徒の男性観だった。
セシルは違った。
控えめであり礼を欠くことはしないがリヴィアやその従者の影に隠れず、誰かの顔色を窺って受け身に徹するのでなく、自分なりの接し方で彼女と向き合う。
ちょっとした質問にも真っ直ぐ目を合わせ、時折冗談を交え好き嫌いや興味を伝えようとする。話題が向けられても過度に萎縮したり取り繕うこともしない。
優柔不断でも八方美人というわけでもなく、自然に自分という軸を持っていた。
ある昼食の席でリヴィアがいつものようにセシルの向かいに座る。
「最近食べたいと思う物はあるかな?」
「ラム肉のロースト。……思えばパーシリアに来てから一回も羊を食べていなくて」
「王国では晩餐にも出るからね、今度二人に頼んで用意してもらうよ。それか街に食べに行こうか」
「実は街もまだ見に行ってないんだよね」
リヴィアがそれに静かに頷き、セシルは微笑む。ふたりのやりとりはごく日常的で素朴だった。
そのごく私的な会話ですら周囲の女子たちにはひどく新鮮で、ある種の冒険心すら感じられる物。
やがて他の女子たちがふとしたきっかけで一人で居るセシルに声をかけてみる。その際に彼から返ってきてしまったのは、リヴィアに向けられる物と謙遜ない態度。
彼の自然体の微笑みに触れるたび、少しずつ男子とはこういうものという固定観念の檻が破壊されていく。
彼の手首に付けられた銀のブレスレット。誰にも貞節を捧げていないその証は、誰の物にもなっていないことを示す値札にもなり得た。
ランチタイムの食堂。壁際近くの席から、サフィア・ド・ミューレヌは静かに食堂を見渡していた。
銀髪を短くまとめ制服のボタンをきちんと留めて背筋を伸ばしている。
その立ち様にはオラクリア聖王国、侯爵家嫡女の誇りと自身が守るべき主への忠誠、両方の芯が宿っているようだった。
いつもなら淡々と昼食を済ませる彼女だが、今日だけは繰り返しセシル・リシュリューの卓へ目が向いてしまう。
彼の動きは他の男子とどこか違い、その仕草や言葉の端々に、ごく静かな意志と自立が透けて見えた。
オラクリア聖王国は大陸の南部に位置する。国土の大半を湿原が占め、濃い霧が王都を含む街を覆うことも少なくない。
水辺に街が建ち、感染症を治療、予防する形で薬草学が発達。新興宗教が薬草を使用した商品の販促を行ったことがオラクリア聖王国の建国ルーツである。
今では宗教も時を経て形骸化し、利権も政治力も切り離されている。残っているのは文化としての側面と、それを後世に伝える者の役割だけであった。
幼いころから周囲の同性を見て、且つその風土に染まった男たちは慎ましやかなヴェールを纏うように声を潜め家族や姉妹の背に従う。公の場でも決して目立つことなく、ただ静かに祈るような沈黙を守る。
聖王国の男子は沈黙が美とされている。
彼女自身も一歩前に立ち、慎ましい男子を守ることが己の役割と叩き込まれて育った。
その自負が揺らぐとは思ってもみなかったが、彼は何一つ傲りも卑屈もなく、周囲の眼差しに屈しない。その様子が言いようのないざわめきとなって、サフィアの中に残る。
昼食後彼女は静かに食堂を離れ、真っ直ぐに主の居室へと向かった。長い石廊下を抜け、その扉をノックする。
「どうぞ」
扉を開ければ声の主、サラ・エンフィールドは机に向かい祈りの珠を指で転がしていた。
サフィアは慎み深く一礼して口を開く。
「セシル様についてご報告いたします」
サラは珠へと視線を向けたままらすぐに顔を上げない。ただ静かに手元の動きを止めた。
「周囲の女子生徒から多くの視線を集めておりますが、ご本人は落ち着きと気品を崩さずリヴィア嬢へ終始丁寧な応対をしております。女子に囲まれても、怯む様子も媚びる素振りも見せません。男子とあれど、内に一本通った芯が感じられるかと」
「貴女から見て、彼はどのような方でしょうか」
「は、聖王都でも滅多に見ない方です。従順で控えめというより、ご自身で律しているというべきか……。貞節や節度のある態度にいささかの隙もありません」
サラは小さく頷き、頭を傾けて窓の外の空を一度見やる。
「礼を踏み外さずに、傍らに立ちうると聞きました。私としても興味が尽きません」
その言葉尻に明るさはなく、無機質で義務的に発されたようだった。表情にも喜怒哀楽は浮かばず、頬も綻びを見せない。
「今は注意深く見守ってください。直接は関わらず、しかし離れ過ぎることもないよう」
「御意」
部屋には静けさが戻る。サフィアが頭を下げて去ろうとしたとき、サラはふと言葉を紡いだ。
「サフィア。その方の影響で男子を守るべき者と思う感覚がもしこの先、ほんの少しでも揺らいだら、その理由を必ず私に伝えてください」
サフィアは一瞬驚きに瞳を瞬かせるが、すぐに深く頭を垂れた。
扉が静かに閉まる。サラの瞳は窓辺の空に注がれたままであった。
放課後の教室は、昼の喧騒を遠くに追いやったような静けさに包まれていた。広い窓からは西日に染まる光が差し込み、長机の間に長い影を落としている。
エリカ・ヴァレンシュタインは、対面に座る主であるトリス・トラディティアに向き直立不動の体勢を取っている。その姿は落ち着いて見えるが、袖先が小さく揺れているのは、本心の小さな緊張の表れだった。
一方でトリスは椅子に座ったまま、視線を手元の書物へと落としていた。
「…………今日も、リシュリュー家のセシル殿が目立っております。どなたにも礼儀正しく、しかし驚くほど控えすぎているということもありません」
開いた書物から視線は外れない。
「皇国の男子とは違うと?」
「判断には引き続き観察が必要かと。男子の振る舞いは貞節第一であるべきと考えます。証拠にこちらの学園でも男子が自ら親しげに話しかけるのは好ましくないという、不文律が根づいています。昼食や廊下で女性たちに自ら声を掛ける男子は誰も居りません。その点について、セシル殿に関しては矛盾を感じます」
しばし沈黙が流れる。トリスはやがてページをめくりながら問うた。
「具体的には」
「女性から声をかけられば、微笑みを浮かべ応対しております。しかし決して浮つかず、かといって媚を売ることもせず、どの者にも一定の距離を取り続けている。接触を許す時点で貞節に対し問題ありと判断すべきか、一定の距離を取ることから問題無しと考えるべきか、判断が難しいです。リヴィア嬢にも過度な接触を許さないのが問題無しと考える一因にもなるかと。学園内とはいえです」
トリスはゆっくりとした動作のまま、書物からエリカへ視線を移した。エメラルドの瞳が、彼女を貫く。
「貴女はその在り方が正しいと思いますか」
エリカは不意を突かれる。揺れる袖先が微かに止まった。
自分の答えが、主君の求めるものに沿うかどうか、ほんの一瞬だけ迷う。
「……男子は慎み深くあることが美徳と思っております。しかしそれは時に男子の生き方そのものを縛る不自由にもなる、……のかと。女性が守り続けるということは同時に何かを諦めさせ続けることなのかもしれないと、セシル殿を見て近頃感じるようになりました」
トリスは小さく微笑み、首を軽く傾げるだけだった。
「面白い見解ですね」
「トリス様は男子がただ守られる存在でいい、と思われますか?」
トリスはそれには答えず、再び本に視線を落とした。
エリカは静かに息を吐き、己の胸奥に浮かぶ問いをそっと反芻する。誰かを守るとは、相手に従順さを求めるだけではないのではないか。守る者と守られる者、その関係は一方向でしかありえないのだろうかと。
西日に染まる学問室の片隅で、知性派の令嬢は小さな答えのない問いを握り続けていた