夕日が講堂へと差し込み石畳を黄金色に染め上げている。
幾重にも飾られた旗や絹のタペストリーが、薄明かりのなかで国の証として誇らしげに揺れていた。
新生活に新入生も慣れ始めた入学式の翌週の週末、講堂では新入生歓迎会が行われていた。
しかし立食式の食事会は単なる慣例に留まらない。
各国の伝統と家の誇り、それらを背負う個々の立場が複雑に交錯し、貴族の少女少年たちが自国の顔として舞台へと上がる。
さながら一夜限りの国際的な社交界でもあった。
国の生まれを示す学生服の彩りは普段の慎ましい姿を身を潜め、家の格を誇示するような華やかさを増した物へと変わっている。
グロリアーナ王国の令嬢達は金糸をあしらえた家紋入りの装飾品を胸元に、クラリア帝国出身の令嬢は宝石が輝く宝飾を身につけている。
トラディティア皇国の令嬢もまた繊細な銀細工のブローチを飾り、オラクリア聖王国の令嬢は深緑を基調とした刺繍入りのヴェールで気品を醸し出す。
学生服の正装を崩しはしないものの、細やかな装いの絢爛さが己が背負う物の大きさを周囲へとアピールしていた。
十分ほど前、学園長が壇上で短く祝辞を述べた。
開催の言葉こそ厳粛だったが、それを眺める会場の空気は興奮が帯びている。
グロリアーナの金糸装飾、クラリアの色鮮やかな宝飾、トラディティアの銀細工、オラクリアの刺繍。視線を漂わせれば国ごとの誇りが目に入った。貴族女子同士は興奮を表に出さず笑顔と素早い握手で挨拶を始めている。
講堂の中心では階段状の壁が出来上がり、まるでそれは豪華な装飾の夜の帳のようだった。
しかし、それを眺める貴族男子生徒の姿はあくまで控えめだ。彼らは各々物静かに壁の隅で会話を交わし、過剰な自己主張を避けている。
所作も振る舞いも慎重そのもの。中にはそっとグラスを手を持ったまま、飲み物を少しだけ口をつけるだけで精一杯の者もいる。
そんな彼らがちらりと女性たちをうかがう視線には頼りなげな戸惑いと守り手を見極める値踏みの様子が伺える。
そんな男子生徒たちの一団は貴族女性を控えめながら取り囲んでいる。
宴席を歩くとき彼らは決してみずから話を切り出したり、女性に先んじて名乗ったりはしない。洗練された挨拶の作法も堂々たる社交の導線も、すべて若き令嬢たちの手の内にあった。
講堂が社交界へと変化した一方で市民出身の新入生たちはそうした格式と伝統の濃密さに不慣れな様子を隠せずいる。
だが不満を露わにはしない、目を輝かせて異国の料理を楽しみ市民同士の輪を広げるのに精いっぱいだった。雰囲気に戸惑いながらも、時折小さな声で歓声をもらしている。
それは四方を異国に囲まれるパーシリアという大都市が育んだ混沌と独立の空気が根付いていることに他ならない。
会の中心に出来た帳が揺らぎつつある。貴族女子間の挨拶に終わりが見え始め、女から男へと視線が変わり始める。
各国の若き令嬢令息達は自らの矜持を胸に、ある者は誇り高く振る舞い、ある者は初めての場に緊張した微笑みを浮かべる。
男子たちはその輪の外側で一層慎ましやかに煌びやかに彩られた彼女たちの誇りを静かに見つめていた。
従者二人を伴いリヴィア・ド・ブランシュは講堂を緩やかに横切る。
その金色の髪と堂々たる歩みはどの国の出身であろうと見るものを一瞬で惹きつけた。金糸の髪留め、王国式の金糸仕立てが彼女の誇りを静かに主張している。
アルノーは主の数歩後ろで無言の盾となり、ミレーヌは自然な微笑みで主とその相手の空間に温もりを添える。三人の纏う品格が周囲の秩序をも律しているようだった。
リヴィアは一人一人の顔を見て挨拶し、時には目だけで名家の令嬢と示し合わせ、短く手を差し出して公式の友誼を交わす。グロリアーナ王国の伝統がその所作に宿り、自然と視線を奪ううちの一名となっている。
だがその一方で、帳が上がり朝を迎えた賑やかな人波から切り離されるように、講堂の隅の長椅子へと座り佇み続ける細身の人影があった。
セシル・リシュリュー。艶のある髪に、腕には銀のブレスレットが淡く光る少年。
彼は決して中央や輪の中心に寄ろうとしなかった。それどころか最初に王国の男子のグループと小声で二言三言、礼節を崩さぬ挨拶を交わしただけ。
あとはただ静かに時が過ぎるのを待っている。
視界の中で貴族女子が貴族男子に話しかけていた。別の場所では貴族女子が市民の男子に話しかけている。
彼はそれをただただ眺めていた。
だが、その時。制服を粋に着崩し、エキゾチックな色彩を随所に忍ばせた女子が流れるような足取りでセシルのもとへ静かに近づいていく。
その動きは誰にも気取られない軽やかさと自信に満ち、周囲の華やぎの中に自然に溶け込んでいた。
セシルの視線が微かに揺れる。
華やかな会場の中心から離れた誰にも見向きをされない仄暗い片隅。そこに近づく女性が居れば、彼の周囲だけがひそやかに張り詰めた気配を帯びはじめていた。
着崩した男装は控えめでありつつも女性特有の柔らかさを持ち合わせている事を醸し出し、黒髪が揺れる山肌の中では大粒の琥珀のイヤリングが煌めいている。日に焼けた褐色の絹肌がシャンデリアに照らされて砂上の太陽の様に揺らめいていた。
捲られた袖は器用に宝石で彩るピンで留められており、腕から指先まで健康的であることを自己主張している。
その手には銀のカップが二つ握られていた。
セシルの視線を独り占めする女性、ジャミーラ・クラリアは彼の正面へと音もなく歩み寄り、柔らかく腰を屈めて目線を合わせる。
「あたしの国じゃ男子がそんな隅で座ってたらすぐに誰かに連れ出されてしまうよ?」
貴族男性としての自覚はさておき、それでも話し掛けるにしてはあんまりな、体験したことのない誘い方にセシルは一瞬だけ目を丸くすると声に出して笑ってしまった。
「賑やかな場所は苦手でさ。でも皆楽しそうだね」
ジャミーラも釣られて微笑みを浮かべつつ、セシルの所作を観察する。そしてすぐ横へと腰を下ろし、手に持った銀のカップを手渡そうとした。
「他の男子たちよりずっと余裕があるよね。皆が庇護者を探すかその側から離れられずにいるのさ。君は飄々としてる」
「そう見える? 本当は少し緊張してるよ。知らない人が多いし、大きな会は慣れてないから」
「ならさ、あたしと社交の輪に出てみない?」
彼女からカップを受け取ったセシルは、困ったように視線を泳がせる。
「君みたいな男子は珍しくて、つい相手してみたくなる。クラリアじゃ意志がある男性は貴重な宝石って言われるくらいだしね」
セシルはその言葉には答えることなく、微笑み返すのをやめた。
「僕はこのまま静かにしてる方が、性に合ってるんだよね」
「そう? 勿体ないな」
ジャミーラは気にしない素振りでわざとらしく肩をすくめるが、琥珀色の瞳の奥は獲物を観察する猛禽類のようだった。
「どうして誰にも挨拶しないの?」
「見知った王国の男性に挨拶はしたよ?」
「違う違う。男性じゃなくて、女性に」
「それはごめん。急に見ず知らずの女性に声をかけるのは僕には難しい。そういう社交は女性の方が上手だからさ」
その控えめに答えた声の中に、きちんと線が引かれているのをジャミーラは見逃さなかった。
「君は伝統が理由で控えてる? それとも本心から?」
セシルは少しだけ黙り込み、手に持ったカップを両手で包み込んだ。
会場のざわめきが一瞬遠ざかる。
「……自分でもよく分からない。ただ、慣れなくて」
「それならさ、まずは一緒に一歩踏み出そうよ」
ジャミーラは差し伸べる手のかわりに、人差し指で彼の銀のブレスレットを軽く指し示す。
「クラリアではね、こうやって紐解くことから始まるの」
そのままジャミーラは彼の手首へと視線を向けるとカップを握る手の平を剥がすように、躊躇いなく銀のブレスレットを指先で触れた。彼女の人差し指と中指の指の腹がブレスレットへと刻まれた紋様を確認するように撫でる。
ブレスレットを腕へと軽く上げては伸びる指先が手首へと這わされ、彼の肌質を味わうように手首から手の平を舐め回す。
その動作を禁じた法律はない。しかし暗黙の禁忌だった。男子貴族の貞潔と名誉を保護する証を撫で回す行為の意味を彼女はもちろん承知している。
「クラリアでは親しい相手の手首に触れるのは夜の契りの暗喩でもあるんだ。君の国じゃ、どうなの?」
絡みつくようなジャミーラの視線が手首からセシルの横顔へと向けられる。しかし彼女を見据えていたのは呆れを存分に含み眉が吊り上げられたジト目であった。
「帝国の女性は手が早いんだね」
セシルの手のひらにジャミーラの手のひらが重ねられる。指まで絡ませても彼は振りほどこうとはしなかった。そんな様子に彼女は楽しげな目を細める。
「君の家と、それと母国はこんな場面で許してくれる?」
「母や姉なら今日の僕の夕餉は抜きにするかも。でも僕はあまり気にしないかな」
そこで言葉を切り、一息ついてから続ける。
「だってただ手とブレスレットを触られただけだし。随分押しが強いする人だとは思う」
「男子はそういうの気にするんじゃないの?」
「気にするフリをすることはあったけど、正直そういう視線とか仕草とか、小さい頃から感じてたら慣れる物だよ。……それに自分が気にする範囲なんて自分で決めたいし」
「貴族の男子ってそういうのも家が決めて、そういう物なんだと思ってた。面白いね。あたし、そういうの嫌いじゃない」
ジャミーラはわざとらしく囁くように口元に手を当てた。
「女子の中には自分が主導権を握れないと不安になる子も多いから」
「そんなつもりじゃないよ」
セシルは苦笑し、彼女の手から自身の手を引き抜いてはカップを再び両手で包み込んだ。
「もしかして社交の駒でいるのが嫌なのかな? あるいは……必要なとき以外は、自分から前に出たくない?」
「そう、……だね。君の言う通りかも。でも女性が主役の世界に慣れてるつもりだし、それは悪いことじゃないと思う」
ジャミーラの横顔が新鮮な好奇心を帯びる。
「クラリアでも陰で支える男が誉れなんだよ。でもここまで自然にふるまう男子は本当に珍しいの。ねえ。誰かに守られるの悪く思う?」
「…………守られるのは嫌いじゃないよ。でも自分を否定したいわけでもない」
セシルは、一瞬何かを言いかけて言葉を選び直す素振りを見せた。そして発せられた声が、ジャミーラの笑みを更に深くする。
「その真っ直ぐなところ、案外危ないね」
彼女はからかうように笑みを深めたまま首を傾げた。
「女子の中には守るべき男子が可愛くて仕方ない子も多い。君がその壁を少し超えればもう皆、放っておかないよ」
会場の空気は変わらず女性主導の社交のリズムで進み、控えめな会話や談笑が遠くで木霊している。だが二人の周囲だけは僅かに温度が異なっていた。
クラリア帝国は大陸の西部に位置する。乾燥した気候と鋭い日差しが地表を照らし国土の半数が砂漠、生活圏は肥沃なオアシス周辺に限られた単一民族国家である。
強い日差しと陽気な天候は帝国に住まう民に自由な美しさを尊ぶ価値観を植え付けた。他国との貿易による文化流入に伴い男性は控えめな礼節が美徳と称されつつある近年だが、未だに一部では自由な女性を支える男性には誠実な態度を美とする価値観が根強く残っている。
ジャミーラは自国の文化を重んじており、後者の価値観を持つ女子であった。
彼女の琥珀色の瞳は、セシルの奥に隠れたものを探ろうと太陽のように照らしていた。
一方でラピスラズリの瞳も向けられていた事を二人は知らない。