「セシル……?」
リヴィアの唇から小さく漏れたその声は、歓迎会のざわめきにあっさりと溶けて消えた。
グロリアーナ王国の公爵家令嬢として、彼女は仮初でも作られたこの公の場での気品を決して崩すことなく、最後の一人ひとりに礼儀正しく挨拶を重ねていた。
しかし心は講堂の隅を見て生まれた不安に苛まれていた。
人の波がふと揺れる。その切れ間越しにリヴィアには見えてしまった。
クラリア帝国の皇女ジャミーラが躊躇いもなくセシルに近づきはつらつと話しかける。異国の風を身に纏って彼のいる空間を空間ごと塗り替えていくような、そんな幻想。
リヴィアは息を呑む。ここ数日、食堂でも廊下でも、リヴィアは誰よりも熱心にセシルを誘ってきた。彼と昼食を共にし、控えめな微笑みの裏で彼を守るべき存在になれた誇りと喜びを抱いていた。
彼は私の庇護のもとに在る、それが間違いではないと何度も思い込もうとしていた。だが、いま目の前で起こっていることは、理屈では片づけられないほど心を揺さぶった。
ジャミーラは周囲の目も意に介さず、セシルの手へと自身の手のひらを重ねた。ただ手を重ねただけではない。男子の純潔と名誉そのものたる銀のブレスレットに、躊躇いを感じさせぬほど無造作に触れたのである。
その一瞬、リヴィアの胸は底を知らぬほど冷え、同時に焦りと困惑が交互に押し寄せた。異国の者とはいえ、あの皇女がこの意味を知らぬはずがないと思いつつも、警戒心がじわじわと広がっていく。
後ろに控えるアルノーとミレーヌは、それと気が付いた様子もない。主の振舞いに合わせて完璧な社交をしつつも、彼女たちは私を守る盾であり、細やかな感情の揺れまで感じ取ることはないのだろう。自分だけが、この場面の危うさに気が付き胸を締め付けられていた。
舌の奥が酸っぱく感じられる。
「リヴィア様、失礼いたします」
そう名前を呼ばれ、リヴィアはハッと思考を汲み上げる。目の前には社交上の義務を果たすべくやってきた他国の名家の令嬢。リヴィアはほとんど条件反射のように頭を下げ、にこやかに応じる。
その視界の片隅ではジャミーラが変わらずセシルへとの異国の雰囲気を纏い親しげに語りかけている。挨拶をし続けるリヴィアからすれば、楽しげに話すその光景さえ挑発のように感じられてしまう。
妬みではない、これは女としての責務である。自身が庇護する者、守るべき者を汚させまいとする正しい警戒なのである。それでも貴族令嬢たる者の重責はあらゆる私情より先にある。リヴィアは目を伏せ、改めて心で自らに言い聞かせる。
「私が、私こそが、彼を守らなければならない」
だが今は義務の挨拶を優先するしかなかった。公爵家の誇り、ブランシュ家としての自負、従者二人を連れる主君の面目。それら全てがここで感情のままに振る舞うなと命じてくる。
心は既にセシルのもとへ駆け寄っていた。彼のあの手首を、銀の証を、この手で覆い隠してしまいたい。一歩もその場を動けぬ自分にもどかしさばかりが募った。
食堂で笑い静かに昼を分かち合っていた先日までの優しく、誠実な彼の笑顔。そのすべてが、ほんの今しがた別の誰かに奪われていくような焦燥感が、胸の中をジリジリと焼いた。
気がつけば歓迎会も終わりに近づいていた。講堂から人々がポツポツと立ち去る中、リヴィアは何度も会場を見渡した。けれどジャミーラもセシルも、もうそこにはいなかった。
遠ざかる彼の背中。あれほど自身の傍にあったものが、今は人の流れの向こうに融けて消えていく。守らなければと心に刻んだその背中が、手の届かぬ場所にある現実。妙に残酷であり夜更けの講堂の静けさにも増して、リヴィアの胸に重く沈めていった。
講堂から一歩外へ出ると、夜の空気がその身体を包み、余韻のように熱が残る頬をひんやりと冷ましていった。講堂を抜けたジャミーラ・クラリアは従者2人を連れ、外気の冷たさに頬を撫でられながら静かな歩みを進めていく。
華やぎの残る灯りが遠ざかるにつれ、ジャミーラの横顔からあの奔放な快活さは少しずつ影をひそめていった。
彼女の従者であるファーリャ・アスファーニはしなやかさをそなえた大柄な体格で、ゆったりと長い粟色の髪を揺らしながら歩いていた。ふと見る主君の横顔は歓迎会の最中に見せていた陽気さを脱ぎ捨て、どこか遠い場所を眺めては瞳に夜の色を溶かしている。
大きな肩をゆるやかに落としながら、しばし黙って歩くジャミーラの背をじっと眺めていた。
「随分とお熱だったようで?」
ファーリャが揶揄うような声音で切り込んだ。
彼女の笑みは柔らかいが、背中を眺めるその瞳には主の動きも相手の仕草も見逃さぬ静かな鋭さがある。ジャミーラは肩ごしに振り返り、苦笑するでもなくただ真顔で頷いた。
「ちょっと、狙いを決めるのが早すぎたね。端から見ればやりすぎただろう」
先ほどまで男子に浮かべられていた微笑みは鳴りを潜めている。
陽気な風土のクラリアでは祝宴が多い。国土の半数が砂漠であることから市場での主導権争いも日常である。他者との主導権の奪い合いなどただの挨拶に過ぎない。
女性の獲物を狙う速さや直感こそが自身の価値そのものだ。とはいえ、学園という舞台は各国の慣例が交錯する。砂漠の市場のように気安く鍔迫り合いを演じられない。
ジャミーラ自身も好戦的という明あけではない、身内との血みどろの争いが嫌で継承権は放棄した。但し恋愛は別である。
「でも彼は面白かったねぇ」
「面白いだけで済んだらさぞ楽でしょう」
ファーリャの揶揄にもジャミーラは応じず遠い天井のアーチを眺めた。しかしその横でマヒラが口を開く。
普段は控えめだが、それは周りに人がいなければ話してもいいというジャミーラの厳命によるもの。小柄の引き締まった体躯で剣術、乗馬をはじめ武術に優れている彼女は口を開けば騒がしく、稀に毒舌を吐くためだった。
「で、殿下は何やらかしたんです?」
ジャミーラがふり返る。厳しさが灯るその瞳は二人を見据えた後、ゆっくりと真横に泳いでいった。
「……ブレスレットを撫でた後、手首を触ったり手を握ったり……」
短い言葉の余韻が石畳の上で煌めくが、それを上書きするようにファーリャの肩が揺れて盛大な溜息が吐き出される。そしてファーリャが主に向ける目線は先程の男子と同じ、呆れを含んだものへと変わる。
一方でマヒラは彼女の言葉を頭の中で咀嚼すれば、口を開けながら腹を抑えその場でゲラゲラと笑い始めたのだった。
「貴族男子の? それも公爵令息のブレスレットを撫でまわし? えぇ、挙句の果てには手首もつかんで手も握ったと?」
「これは相手も平手打ちですね、キツいやつをパンッと一発」
「まぁ、普通なら。でもそうならなかったんだよね」
ジャミーラは口角だけわずかに動かすと思い出したように突然、腹の底から声を上げて笑い出した。その響きは夜に溶けて、異国からの風のように広場いっぱいに伸びる。
「帝国の女は節操なしって、不満げな顔で見つめられちゃったよ!」
その笑い声に、ファーリャとマヒラが目を合わせる。
「怒るでもなくただじっとりと見返してきた。それで相手は自分が何をされているのか分かっている。けど拒まない、甘くもない。私はこれでも皇族なんだよ? そんな相手に不満を露にする。ああいう男子、砂漠にもいない。いやぁ……いい。実にいい」
「そんなに殿下が興味を引かれる相手、初めて見ましたね?」
ファーリャはやや困ったように眉を寄せた。
「殿下が気を引きたがるのも無理ないですが……貞節の証に触れるのは、ここでは冗談でも通じません。本当に気に入ったなら、なおさら慎重に」
「大丈夫、分かってる」
「本当ですか?」
ジャミーラは歩みをとめ、石壁のほうを見つめた。
「ああやって男が真正面から目を合わせてきてくれるの、私には新鮮だった。みるみる顔が熱くなって。二人にも見せられないくらい、隠すのが大変だった」
ファーリャが軽く肩をすぼめて笑う。
「殿下も漸く心のオアシスも見つけられましたか」
「彼の目は良かった。本当に、誰にも真似できない表情だった」
そう繰り返すジャミーラの声音には、皇女であることに加え一人の女としての素顔が滲んでいる。
「こっちの宴じゃ、女は自分を賭けて駆け引きを楽しむ。でもね、あの場では私が狩っているつもりで、半分は狩られていたのかもしれない」
淡い微笑を見せて、ジャミーラは二人の顔を見つめる。
「明日からが、きっと本当の奪い合いだよ」
夜がその背を押す。従者たちもまた、互いに小さくうなずきあった。歓迎会の喧噪も興奮も、火照りは冷まされ今は遠く、クラリアの三人の胸にはそれぞれに異なる熱がゆったりと広がっていた。
そうしてジャミーラは再び歩き出した。
「ファーリャ。王都へのコネ、あるよね。セシル・リシュリューについての情報を集めて。好物から趣味、誕生日に何をもらったかまで、分かることは全て」
歩みを止めず言い放つジャミーラの横顔は、真剣な皇女の顔だった。ファーリャは思わず苦笑を浮かべてしまう。
「まったく性急ですね」
「獲物を一度見つけたら最後まで追いかける。それがクラリアの流儀でしょ」
ジャミーラが自信たっぷりに笑うと、マヒラが肩をすくめながらも口を挟む。
「でも殿下、男子は狩りの的じゃないですよ。ジャミーラ様は嫌いって言われたら終わりですからね」
「私だってそこは弁えてるから、獣じゃないから」
「殿下はなかなか獣じみてますけどね」
「本当に動くなら、正面から行きましょうよ。裏道よりまっすぐ突き進む方が男子も本望ですよ」
ジャミーラはふたりの言葉をしっかり受け止め、誇り高き皇女らしく言い切った。
「勿論、傷付ける気はないよ。大胆に、でも誰より狡猾に行く」
三人の会話は、夜の回廊に静かに消えていった。
サラ・エンフィールドは、静まり返った自室でサフィアによる詳細な報告を思い返していた。
彼女の視線は蜜入り薬草茶の湯気越しに揺れ、歓迎会で目にした男子たちの姿をひとつずつ丁寧に反芻していく。その中に明らかに他とは異なる価値を持った存在がいた。
「セシル・リシュリュー」
貞節と慎み深さが男子の美とされるこの学園。彼の存在はその規範の中では、目立って浮かび上がる異物である。誰かの陰に隠れるのではなく、控えめさを守りつつも自分の流儀で周囲と向き合う在り方。
サラは思う。
「単なる従順さはない。何故そうも目立つのか」
ほどなくして扉が静かにノックされた。サフィアが儀礼に忠実に部屋へと入ってくる。
「サフィア。例の彼に関して、もう少し観察を続けてみてください。次からは女性として、近づいてください。主として命じます」
「御意」
サフィアは一礼し、言葉少なく返す。その表情には疑念も反論もなかった。
サラは再び窓の外に目をやった。
「彼のような男子と接すれば、何が変わるのか。知りたいのです」