夜の帳が下り、街は静寂と不穏な空気に包まれていた。帰り道、泉新一は足早に歩いていた。背後から張り付くような視線と、右手のミギーが発する警告信号が、先ほどから鳴り止まないからだ。
『新一。追われている。微弱だが殺気を含んだ波長だ。相手は手練れだぞ。波長をコントロールし、こちらの感知範囲ギリギリを維持している』
新一は舌打ちをした。最近、神経が摩耗しきっている。学校では田宮良子と島田秀雄という二体のパラサイトに監視され、プライベートでは村野の嫉妬とアレックスの暴走に振り回されている。その上、さらに別の敵だというのか。
逃げ込むようにして、人気の少ない工事現場近くの路地裏へと入る。袋小路ではないが、人目につかない場所だ。ここで決着をつけるしかない。新一が足を止め、振り返ると同時だった。暗闇の中から、一つの人影がぬらりと現れた。
制服警官だ。だが、その目は警察官のそれではない。獲物を品定めする、爬虫類のような冷たい光を宿している。男は警察官の帽子を指で押し上げ、新一を見下ろして嗤った。
「ようやく止まったか。泉新一」
『新一。こいつだ』
ミギーが右腕から顔を出し、鋭い刃を形成する。
『以前、中華料理店の近くで感知した信号と一致する。警察内部に潜り込んでいるという個体、「A」だ』
「A」と呼ばれたパラサイトは、腰のホルスターに手をかけるふりをしながら、ゆっくりと間合いを詰めてきた。
「驚かないな。やはり、混じっているか」
男の声は低いが、そこには隠しきれない激しい怒りと憎悪が滲んでいた。
「用件は何だ。田宮良子の差し金か?」
新一が問うと、Aは鼻で笑った。
「あの女か。賢しい実験動物ごっこには興味がない。俺が来たのは、個人的な『清算』のためだ」
Aは一歩踏み出す。
「仲間? 出来損ないのお前を? あの中華料理店の同種を殺したお前を? お前のおかげで、その時から俺たちに対する捜査が一気に進展した…当然だろう? 同種の死体が警察の手に渡ったのだから!」
新一は息を呑んだ。あの中華料理店での一件。アレックスと共に店主を倒したあの戦いが、パラサイト側のネットワークに大きな波紋を広げていたのだ。死体が回収されたことで、警察は「人間ではない敵」の存在を科学的に認識し、Aたち潜伏者にとって極めて活動しにくい状況を作り出してしまった。
「貴様というイレギュラーがいる限り、我々の平穏はない。そして…あの時一緒にいた少女。物理法則を無視する、あの異物もだ。まずは貴様を始末し、次にあの小娘をミンチにしてやる」
「アレックスには指一本触れさせない!」
新一が叫ぶと同時に、Aの顔面が弾けた。人間の顔が縦に裂け、三本の巨大な触手が鞭のように飛び出す。それぞれの先端には鋭利な鎌が付いており、新一の首、心臓、そして右腕を同時に狙って襲いかかった。
『速いっ!』
ミギーが迎撃する。金属音が火花と共に散った。
「ぐっ」
新一は衝撃で後方へ弾き飛ばされ、コンクリートの壁に背中を強打した。強い。中華料理店の店主とは、動きの洗練度が違う。警察組織の中で実戦的な訓練を受けているのか、攻撃に無駄がない。
『新一。分が悪い。こいつは戦闘慣れしている』
「逃げられないのか!?」
『退路は塞がれている。やるしかない』
Aの猛攻が続く。新一は防戦一方だった。ミギーの刃が触手の一本を弾いても、残りの二本が死角から肉を削ぎ落としに来る。制服の袖が切り裂かれ、新一の頬に赤い線が走る。
「死ね! 裏切り者め!」
Aが決定的な一撃を放とうと、大きく振りかぶったその時だった。
「あら? 新一」
日常的な、あまりにも日常的な声が、路地裏の殺伐とした空気を切り裂いた。新一の思考が一瞬停止する。その声の主は、スーパーのレジ袋を両手に提げた、少し疲れた様子の主婦ーー泉信子だった。
「母さん!?」
新一の絶叫が夜空に木霊した。最悪だ。これ以上ない最悪のタイミングだ。パラサイト同士の殺し合いの現場に、実の母親が通りかかってしまった。
「逃げて母さん! 来ちゃ駄目だ!」
信子は状況が呑み込めない様子で、きょとんと目を瞬かせた。
「え? 何やってるの? そちらの方はお巡りさん?」
Aの動きが止まった。彼の視線が、新一から信子へと移動する。
「母親か」
Aはニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。
「好都合だ。貴様を絶望の淵に叩き落とすには、まずその肉親から肉塊に変えてやるのが一番だろう」
「やめろォォォッ!」
新一が飛び出そうとするが、Aの触手の一本が新一の足を払い、転倒させる。そして残りの二本の触手が、信子の心臓めがけて射出された。速い。人間の動体視力では視認すら不可能な速度。
死ぬ。母さんが死ぬ。新一の目の前で、スローモーションのように刃が迫る。
だが、信子は逃げなかった。悲鳴も上げなかった。彼女は眉をひそめ、「またなの?」と不機嫌そうに呟いただけだった。
「何ウチの子にちょっかい出してんの!」
信子の手が動いた。彼女が提げていた買い物袋の一つが宙を舞う。中から飛び出したのは、夕飯の材料ではない。アレックスが以前、お使いの報酬として信子に手渡した謎のアイテム。
『エンチャントされた金のシャベル(耐久力Ⅲ・ノックバックⅡ付与)』だった。なぜ主婦がそんなものを買い物袋に入れているのか、という疑問はさておき、信子はそのシャベルをバッティングセンターの要領で構えた。
カァァァンッ!!!
小気味よい金属音が響いた。信子の振るったシャベルの面が、迫りくるAの触手二本を、驚くべき反射神経と動体視力で『弾き飛ばした』のだ。
「な…ッ!?」
Aの驚愕の声。触手を弾かれた反動で、Aの姿勢が大きく崩れる。信子はその隙を見逃さなかった。
「教育的指導よ!」
彼女はシャベルを振りかぶり、がら空きになったAの胴体へ向かって突進した。その動きは、無駄のないタックルだった。
「どっこいしょぉぉぉッ!」
ドゴォォォォンッ!
シャベルのエッジが、Aのみぞおちに深々とめり込む。同時に発動する『ノックバックⅡ』の魔法効果。Aの体は物理法則を無視した勢いで後方へ吹き飛び、路地裏のブロック塀を突き破ってゴミ集積所へと突っ込んだ。
「がはっ…!? ば、馬鹿な…人間の…雌ごときに…っ」
Aは瓦礫の中で悶絶し、再生しようとあがく。だが、信子は攻撃の手を緩めない。彼女はもう一つの買い物袋から、今度は『ポーション(投擲用・負傷のポーションⅡ)』を取り出した。これもアレックスが、「害虫駆除にどうぞ」と置いていったものだ。
「これでも食らいなさい!」
信子は豪快なフォームで瓶を投げつけた。瓶はAの顔面で砕け散り、黒い液体がパラサイトの細胞を焼き尽くす。
「ギャァァァァァッ!」
Aの断末魔が響く。細胞が崩壊し、再生能力が阻害されていく。信子は仁王立ちし、シャベルを肩に担いで言い放った。
「ウチの新一には、指一本触れさせないわよ! さっさと消えなさい!」
路地裏に静寂が戻る。新一は地面にへたり込んだまま、口をパクパクさせていた。ミギーも右手のままで固まっている。
『新一。訂正しよう。君の母親の戦闘力は、私の予測計算を3000%上回っている』
「母、さん…?」
新一が震える声で呼ぶと、信子は「ふぅ」と汗を拭い、シャベルを買い物袋にしまい込んだ。
「まったく、物騒な世の中になったわねえ。アレックスちゃんに貰ったこのスコップ、こういう時に使うのね」
彼女は新一に近づき、頬の傷を見て表情を曇らせた。
「あら、怪我してるじゃない。絆創膏持ってるから貼りなさい」
「あっ、いや、そんなことより…今のは…?」
「いいから。詳しい話は家で聞くわ。お父さんも待ってるし、ご飯にしましょう」
信子は新一の手を取り、立たせた。その手は温かく、力強かった。目の前で起きた超常現象バトルを、「息子の非行現場を見つけた」程度の認識で処理してしまうその胆力。
「う、うん。帰ろう、母さん」
新一は母の背中を見つめながら、心の中でAに同情した。相手が悪すぎたのだ。パラサイトといえど、「アレックスによって英才教育を施されたオカン」には勝てるはずがなかったのだ──。
そう新一が結論付け、安堵と共に息を吐き出そうとした、まさにその瞬間だった。Aが執念の炎を揺らめかせ、最後の悪あがきに出た。
「ガアアアァァッ!」
Aは瓦礫の山から飛び出すと、逃げるのではなく、新一たちの背後──路地の入り口付近へと身を翻した。そこには、騒ぎを聞きつけて遅れて駆けつけた、新一の父・泉一之の姿があった。一之は、妻と息子の安否を気遣い、震える足でここまでやってきたのだ。
「の、信子! 新一! 大丈夫か!?」
懐中電灯を頼りなく揺らしながら声を上げる一之。その無防備な姿は、手負いの獣にとって格好の「人質」であり「餌」だった。
「夫か…! 貴様のつがいだなァッ!」
Aの喉から、汚濁した怨嗟の声がほとばしる。
「俺だけが恥を晒して終わると思うな! せめて一匹、貴様の愛するものを道連れにしてやる!」
Aの触手が槍のように鋭く変形し、一之の心臓めがけて射出された。
「父さん!!」
新一の悲鳴。距離がある。ミギーの射程外だ。新一の足では間に合わない。一之は迫りくる死の刃を認識することすらできず、ただ呆然と立ち尽くしている。
終わった。
誰もがそう思った。
だが、泉信子だけは違った。
「…あんた」
信子の瞳から、先ほどまでの「呆れたオカン」の色が消え失せた。代わりに宿ったのは、アレックスですら裸足で逃げ出すような、絶対零度の殺意。彼女の手にある金のシャベルが、夜気の中で黄金の軌跡を描く。
「私の旦那に…何晒してんのよォォォッ!!」
信子はシャベルを投擲したのではない。彼女は、アレックスから貰っていたもう一つのアイテム──『エンダーパール』を、無造作に地面に叩きつけていたのだ。
「シュンッ!」という転移音と共に、信子の姿がかき消える。次の瞬間、彼女はAの目の前、ゼロ距離で出現していた。
「ぇ?」
Aが驚愕に目を見開く。触手が止まる。信子の手には、エンチャントの輝きを纏った金のシャベルが握りしめられている。彼女はジャンプし、渾身の力でシャベルをAの脳天へと振り下ろした。
ガゴォォンッ!!!
それは、単なる打撃音ではなかった。頭蓋骨、そしてその内側にあるパラサイトの中枢細胞までもを粉砕する、破滅の音だった。
「効率強化Ⅴ」と「アンデッド特攻Ⅴ」。アレックスが悪ふざけで付与したオーバーパワーなエンチャントが、今ここで最悪の形で炸裂した。
Aの頭部は、熟れすぎたザクロのように弾け飛んだ。再生の余地などない。細胞の一つ一つに至るまで、物理的な衝撃と魔力的な特攻効果によって完全に破壊されたのだ。
ドサリ。頭を失ったAの体が、泥人形のように崩れ落ちる。触手は力を失い、一之の喉元数センチのところでダラリと垂れ下がった。
「ひ、ひぃぃ」
一之は腰を抜かし、尻餅をついた。目の前で起きた惨劇と、それを引き起こした愛妻の姿に言葉を失っている。
信子は着地し、残心もそこそこにシャベルを振って汚れを払った。そして、動かなくなったAの残骸を冷ややかに見下ろし、吐き捨てるように言った。
「ウチの人はねえ、気が小さくて胃腸が弱いのよ。脅かしたら承知しないわよ」
新一は、震える膝を抱えてその光景を見ていた。
「帰るわよ、あなた」
信子は何事もなかったかのように一之の手を取り、引き起こした。
「こ、この死体は…ど、どどどうするんだ…?」
一之がガタガタと震えながら尋ねると、信子は平然と言った。
「アレックスちゃんに電話しましょう。『産業廃棄物が出たから処理お願い』ってね」
「は、産業廃棄物…」
最強の母・泉信子。彼女の愛と暴力の前には、パラサイトの脅威など、道端の小石に等しいのかもしれない。
原作時間軸さん「ふっ、これが歴史の修正力さ! ここで信子には死んでもらおう!」
分岐時間軸さん「ふっ、残念だったね! 無事さ!」
原作時間軸さん「どうしてだよォォォ!!」