泉新一は、取調室の硬い椅子に深く腰掛けていた。部屋の空気は冷え切っている。窓のない空間には、蛍光灯の微かな唸り音だけが響いていた。数時間前まで自分たちがいた美術室の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
血の臭いと叫び声。そして、信じられない強さで怪物を投げ飛ばした村野里美。新一は自分の右手を、そっと膝の上に置いた。袖の下では、ミギーが気配を殺して潜んでいる。
ガチャリと、重い音を立ててドアが開いた。入ってきたのは、警視庁の平間警部補だ。背後には、メモ帳を抱えた若い辻刑事が続いている。
平間は新一の正面に座ると、手元のファイルを乱暴に机に置いた。彼の顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが刻まれている。平間は煙草を取り出そうとして、ここが禁煙であることを思い出したのか、指先を苛立たしげに動かした。
「泉くん、気分はどうだ?」
平間の声は低く威圧的だった。新一は努めて冷静を装い答えた。
「あまり良くはありません。クラスメイトがあんなことになって。僕も怪我をしましたし」
「そうだな。君はロッカーに叩きつけられた。だが、問題はそこじゃない」
平間はファイルの中から、数枚の写真を取り出した。そこには校庭で変わり果てた姿になった、島田秀雄の残骸が写っていた。薬品で焼かれ、原形を留めない肉塊。
「これを見てくれ。人間の死体じゃない。頭部から刃物が生えた怪物だ。君はこれと、一緒に美術室にいたわけだ」
新一は無言で写真を眺めた。島田の最期はシュールだった。怪物として暴れ回った挙句に、クラスの女子生徒たちに薬品を投げつけられ、最後は集団で圧殺されるという惨めな結末。
「島田くんが急に変身したんです。僕は何が起きたのか分からなくて。必死に止めようとしたんですけど」
「止めようとした? ハッ、君が?」
平間が鼻で笑った。
「目撃者の証言は違うぞ。君は最初の一撃で吹き飛ばされた。その後が傑作だ。村野里美。君のガールフレンドだな。彼女が島田の刃を素手で掴み、窓から投げ飛ばしたという証言が多数出ている」
新一の心臓が早鐘を打った。村野の覚醒。アレックスが付与したという謎の「耐性」のせいなのか、彼女自身のポテンシャルなのか。いずれにせよ、警察の常識では処理しきれない事態だ。
「里美は…必死だったんだと思います。火事場の馬鹿力という言葉もありますし」
「火事場の馬鹿力で窓ガラスを突き破って、怪物を三階から放り投げる女子高生がどこにいる!?」
平間が机を叩いた。辻刑事がビクリと肩を揺らす。
「辻、隣の部屋の報告はどうだ?」
辻刑事が慌ててメモを開いた。
「はい。隣の取調室では、村野里美さんの事情聴取が続いています。彼女の回答は一貫しています。『何も覚えていない。泉くんが助けてくれた。怖くて頭が真っ白だった』と。非常に清純な、守ってあげたくなるような態度で答えているそうです」
新一は内心で、村野の演技力に舌を巻いた。あの時、彼女は間違いなくニコニコ笑いながら、島田の腕をねじ切らんばかりの勢いで掴んでいた。それを「覚えていない」で押し通す度胸。
「だがな辻。彼女の制服を見てみろ」
平間が苦々しく言った。
「腹部の布地が、完全に切り裂かれている。島田の刃が直撃した証拠だ。なのに、彼女の肌には傷一つない。痣すらないんだぞ? 科学的に説明がつかない。おまけに彼女は『泉くんが盾になってくれたから』なんて言っているが、君の打撲は背中側だ。辻褄が合わん」
新一は冷や汗を流した。村野は、新一を庇うために嘘をついている。その嘘が、物理的な矛盾を生んでいる。
「…多分、島田くんの刃が鈍かったんじゃないでしょうか」
「馬鹿なことを言うな。鋼鉄をも切り裂く刃だぞ。…まあいい、村野里美はまだいいんだ…最大の問題はもう一人だ」
平間が、隣のさらに奥の取調室を指差した。そこには、アレックスがいるはずだ。
「アレックスという少女、彼女の供述を読んだか?」
辻刑事が困惑した表情で頷いた。
「はい。正直に申し上げまして、翻訳が必要かと。日本語は流暢ですが、内容が支離滅裂です」
平間は溜息をつき、アレックスの供述調書を読み上げた。
「『島田のAIがバグっていた。テクスチャの表示優先度が狂っていて里美の当たり、判定が虚無になった。運営のパッチ当てが遅すぎるから、こんな惨事になるんだ。パッチノートを読め。物理演算エンジンがゴミすぎる』…泉くん、君は彼女の友人だろう。これは何語だ?」
新一は遠い目をした。アレックスは通常運転だ。
「あ〜、彼女はアメリカ出身なので。独特のスラングというか。ゲームの用語なんだと思います。要するに、『運が悪かった』と言いたいんじゃないでしょうか」
「運が悪いで片付くか!! 彼女は辻に対してこうも言ったそうだ。『私のヒットボックスは最小化してあるから、島田の攻撃は当たらない。あとでお詫びの石炭を配布しろ』と。石炭だぞ? 警察に燃料を要求しているのか!?」
新一は頭が痛くなってきた。アレックスに常識的な対応を求める方が、間違っている。
「平間さん。もう一人の刑事が、アレックスさんにキレられたそうです」
辻刑事が補足した。
「『お前の顔の解像度が低すぎて、NPCに見える。もっと高精細なテクスチャを貼ってから来い』と言われて、ショックで早退しました」
平間が顔を覆った。ベテラン刑事の威厳が音を立てて崩れていく。
「泉くん、君たちは何かを隠している。それは分かっているんだ。だがね? 君たちの話す内容が一人は清純なヒロイン、一人は理解不能なゲーマー。そして君は、ただの困惑した高校生だ。この三人の供述を、どう繋ぎ合わせろと言うんだ」
その時、取調室の電話が鳴った。平間が受話器を取る。
「…はい平間です…え? 今ですか? しかし、聴取の途中で…分かりました。上からの命令なら、仕方ありません」
平間が電話を切り、新一を睨んだ。
「泉くん、今日はこれで終わりだ。君たちは帰っていい」
「え…? いいんですか?」
「内閣府から横槍が入った。この件は特殊事案として、別の部署が引き継ぐそうだ。…君たちは運がいいな」
新一は立ち上がった。どういうことだろうか。内閣府とはなんだ。アレックスと何か深い関係があるとでもいうのか。まさか、総理大臣と契約を交わしている? もし本当にそうなら、是非ともお目にかかりたいものである。主にアレックスの事へのクレームで。
取調室を出ると、廊下にはすでに村野里美が待っていた。彼女は破れた制服の上から予備のジャージを羽織り、新一の顔を見るなり駆け寄ってきた。
「泉くん! 大丈夫だった?」
彼女の瞳は潤んでおり、どこからどう見ても怯えた少女そのものだった。これに対して新一は、女優目指せるね里美と評価した。
「…ああ、里美も。お疲れ様。大変だったね」
「うん、すごく怖かった。お巡りさん。怖い顔して何度も同じこと聞くんだもん」
「へ、へぇ (それは里見のことが怖かったからでは?)」
新一は彼女の肩を抱きながら。先ほど平間が言っていた「無傷の腹部」を思い出した。村野は確かに覚醒している。だが、彼女はそれを、日常というオブラートで包み隠そうとしている。
「やっと釈放か。リスポーン地点が恋しいぜ」
「それは言うなら自宅」
「そうともい〜う♡」
後ろから、アレックスが飄々とした足取りで現れた。彼女は刑事に暴言を吐いたことなど、微塵も気にしていない様子で。ポケットから飴玉を取り出して、口に放り込んだ。
「泉。里美。お疲れ。今日のレイドボス戦は報酬がしょぼかったな。石炭の一粒も出ないなんて。このサーバーのドロップ率は修正が必要だ」
「アレックス、警察の人に怒られたでしょ?」
「怒られた? いや、設定の不備を指摘してやっただけだ。感謝してほしいくらいだな」
三人は警察署の玄関を出た。外には、救急車の赤い光がまだ街を照らしている。新一は夜空を見上げた。ミギーが右腕の中で小さく動いた。
『新一。警察の尋問は非合理的だったが、結果としてアレックスの狂言と村野の演技が、警察の思考回路をショートさせたようだ。カオスは時に最強の防御壁になるな』
「ああ、そうかもしれないな」
新一は村野の温かい手を握る。隣で文句を垂れるアレックスの声を聴きながら、自分たちが生き残ったことを実感していた。
「お腹空いたな。泉くん、何か食べて帰る?」
村野が新一の袖を軽く引きながら、夕暮れ時の警察署の前でそう尋ねた。彼女の瞳にはまだ島田を投げ飛ばした時の余韻と、事情聴取の疲れが入り混じっている。新一は自分の空っぽの胃袋が、情けない音を立てたのを感じて苦笑した。
「そうだね。僕もなんだか、中身を全部出し切ったみたいにお腹が空いたよ」
新一が答えると隣を歩いていたアレックスが、腰に手を当てて不敵に笑った。
「外食か? 今の私たちは注目度が高すぎる。ファミレスに行けば、野次馬という名のNPCたちに観察されるのがオチだぞ。ここは私の提案だ。今日は私がお前たちのために、手料理を振る舞ってやる。感謝しろよ。私のインベントリにある知識を、フル活用してやるからな」
「えっ!? アレックスちゃん、お料理できるの?」
村野が驚きの声を上げた。新一も目を丸くした。彼女の「作る」という行為は常にブロックを積み上げたり、木を殴り原木ブロックに変えたりする。物理法則を無視した、「クラフト」だと思っていたからだ。
「失礼な。サバイバルにおいて食料調達と調理は、基本中の基本だぞ。ただし、今日はマインクラフターの能力は封印する。純粋なこの世界の物理演算に基づいた、いわゆるバニラな手料理を見せてやる」
三人は近くのスーパーマーケットへと、連れ立って歩き出した。
店内に入ると、アレックスはいつもの突飛な行動を一切見せなかった。彼女は真剣な眼差しで、牛肉のサシの入り具合を確認し、じゃがいもを一つずつ手に取って、芽が出ていないか、皮の張りは良いか。熟練の主婦のような手つきで、吟味していく。
「…おいアレックス。本当の本当に、普通に作るんだな?」
新一が小声で尋ねると、アレックスは真顔で頷いた。
「当たり前だ。料理は科学であり、素材へのリスペクトだ。ブロックを置くのとは訳が違う。今日のメニューはスタミナ回復効果の高い厚切りステーキと、特製マッシュポテトだ」
買い物を終えて泉家に向かう。夕闇が街を包み始めた頃。玄関を開けると、そこにはエプロン姿の母・信子がいた。彼女は手には、まだ例の木彫りの熊の置物を握りしめていたが、新一たちの顔を見て安堵の表情を浮かべた。
「おかえりなさい。大変だったわねえ。あらあら、アレックスちゃんも一緒?」
「よう信子さん。ログインしたぞ。今日は台所を借りるぞ。お礼に特上のメロン…じゃなくて、特上の夕飯を食わせてやる」
「あら、お料理してくれるの? それは楽しみだわね」
アレックスはキッチンに立つと、手際よくエプロンを締めた。その姿には、いつもの「おふざけ」は微塵もなかった。彼女は包丁を握ると凄まじい速度で、正確にじゃがいもを刻んでいく。トントントンという小気味よい音が、リビングに響き渡った。
新一はキッチンカウンター越しに、その様子をまじまじと見つめていた。ミギーも右手の甲から目玉を出して、アレックスの包丁捌きを観察している。
『新一。信じられないな。彼女は一切の特殊能力を使用していない。ただ純粋な筋肉の微細なコントロールだけで、最適解の調理を行っている』
「ああ本当だ。…アレックスお前、普通にすごいな」
「うるさいぞ。集中力が切れるだろ。料理中にデバフをかけるな」
アレックスの料理は、実に丁寧だった。牛肉には下味をしっかりと馴染ませ、フライパンを絶妙な温度で熱する。肉を焼く。ジュワーッという、食欲を暴力的に刺激する音が上がり、香ばしい脂の匂いが家中に広がった。彼女はポテトを茹でバターと牛乳を加えて。滑らかになるまで丁寧に裏ごししていく。
そこには「ブロックを壊す」ような荒々しさは一切なかった。
「はい完成だ。お前ら、席に着け」
アレックスがテーブルに並べたのは。驚くほど「普通」で。そして驚くほど「美味そう」な。絶品のステーキプレートだった。
新一と村野。そして信子と。目を覚ましてまだフラフラしている一之も加わり、全員で手を合わせた。
「「「いただきます」」」
新一が肉を一口運ぶ。口の中で肉汁が溢れ出した。絶妙な焼き加減。マッシュポテトは雲のようにふわふわで、じゃがいもの甘みが際立っている。
「おいしい! アレックスちゃんすごい! こんなに美味しいもの。食べたことないよ!」
村野が頬を赤らめて、夢中でフォークを動かしている。
「あら本当ね。これは…お金を払わなきゃいけないレベルだわ。自称ヒトさん。やるじゃない」
「信子さん。美味いなら、そのあだ名を止めてくれと言ってるだろ」
アレックスは自分も肉を頬張りながら、満足そうに鼻を鳴らした。
「ふっ、これが私の真の実力だ。化学調味料Modなし。完全無農薬。物理演算ベースの最高傑作だ」
新一は黙々と肉を食べながら。胸の奥が温かくなるのを感じていた。警察署での尋問。島田との命がけの戦い。右手に宿る怪物。そんな過酷な現実のすべてが、この一口の温かい料理によって、一瞬だけ遠のいていくような気がした。
アレックスは時として、自分たちを振り回す。最悪のトラブルメーカーだ。同時に彼女はこうして、日常を彩る最高の仲間でもあるのだ。
「アレックス、ありがとう。本当に美味いよ」
新一がそう言うとアレックスは一瞬だけ、照れくさそうに視線を逸らした。
「…当たり前だ。空腹度ゲージを回復させないと、明日の学校クエストを攻略できないだろ」
夜の泉家に、楽しげな談笑が響く。外ではまだ、警察のサイレンが微かに聞こえているかもしれない。
だが、このリビングの灯りとアレックスが作った温かい料理。そしてそれを囲む。少しだけ変わった「家族」たちの絆。それこそが新一が命をかけて守るべき、何物にも代えがたい日常の正体だった。
『新一。私も血液の塩分濃度から、彼女の料理の素晴らしさを実感している。これは良いサプリメントだ』
「…お前は。黙って味わってろよ。ミギー」
幸せな夕食の時間は。ゆっくりと過ぎていった。
とある次元に存在するバー
原作時間軸さん「あの刑事には激辛インスタント焼きそばをプレゼントしよう」
分岐時間軸さん「最高級の胃薬をプレゼントしよう」
原作時間軸さん「そこに愛はあるんか!?」
分岐時間軸さん「君に言われたくないわ!!」
バーテンダーさん「ならば私はお客さまに銃弾をプレゼント致しましょうか?(30連マガジン装填済みショットガンを以下略)」