東福山市役所の最上階に位置する広大な講堂は、つい先ほどまで吹き荒れていた暴力の嵐が嘘のように、深い静寂に包まれていた。壁や床には無数の弾痕が穿たれ、空気中には鼻を刺すような濃密な硝煙の臭いが滞留している。
後藤は、講堂の高い天井付近、巨大な照明器具の裏側に広がる深い暗がりの中に、蜘蛛のように身を潜めていた。彼の視線は、眼下の光景を冷徹に観察し続けていた。人間たちによる徹底的な制圧作戦。そして、その中心にいた広川剛志の最期。
無数のショットガンによる一斉射撃を浴び、広川の肉体は崩れ落ちた。その後、漆黒の部隊が何やら真っ黒な箱のようなものを取り出し、広川の死体を収容して蓋を閉めるのを後藤は見ていた。
人間という種族は、時に死者に対して奇妙な執着を見せ、不可解な儀式や処理を行うことがある。あの黒い箱も、そうした彼らなりの死体処理の道具の一つなのだろうと、後藤は認識していた。広川剛志の生命活動が完全に停止したこと。つまり彼が死んだことは、後藤の計算の中で既に確定した事実として処理されていた。
広川を取り囲んでいた一般の武装部隊である特殊急襲部隊の人間たちは、すでに講堂の他の出入り口から散開し、下の階へと向かっていった。現在、この講堂に残っているのは、漆黒のタクティカルギアに身を包んだ小柄な少女と、彼女に付き従う顔を隠した数名の部隊員だけである。
後藤は、自らの呼吸を極限まで抑え、心音すらも周囲の環境音に溶け込ませるように細胞を制御していた。パラサイト同士が発する特有の脳波の波長すらも、後藤は自らの意志で完全に遮断している。人間はおろか、同種であるパラサイトでさえ、今の彼を発見することは不可能なはずであった。
人間たちが完全に油断した瞬間を狙い、まずは目の前の少数の個体から確実に処理していく。それが、戦士としての本能を持つ後藤の合理的かつ無駄のない戦術であった。
しかし、その静寂は、後藤にとって全く予期せぬ方向から破られることとなった。
「やあ後藤、広川は死んだぞ。もう出てきたらどうだい?」
透き通った、それでいて一切の感情の起伏を感じさせない平坦な声が講堂に響いた。後藤は、暗闇の中でわずかに目を細めた。演台の裏側で死体の処理を終えたばかりのその美少女アレックスは、振り返りざまに、寸分の狂いもなく後藤が潜伏している天井の暗がりへと視線を向けていたのである。
彼女の緑色の瞳は、闇を透かして確実に後藤の存在を捕捉していた。人間特有の熱感知装置や赤外線センサーを使っている様子はない。ましてや彼女からパラサイトの波長を感じることもない。ただの視覚と、得体の知れない直感だけで、この完璧な擬態と潜伏を見破ったのだ。
(気配を消していたというのに。人間たちには誰一人として気づかれなかったにもかかわらず、彼女は違ったというのか)
見破られた以上、これ以上暗がりに留まる意味はない。後藤は音もなく照明器具の支柱から身を離し、十メートル以上ある高さから、重力に逆らうことなく自由落下した。
スタッ、という微かな着地音のみを講堂の床に残し、後藤は悠然と立ち上がった。彼の鍛え抜かれた肉体は、着地の衝撃を関節と筋肉の柔軟性で完全に吸収しており、床板の軋みすら生じさせなかった。
彼は、真正面に立つ少女、美少女アレックスと、その後ろで沈黙を守る黒ずくめの部隊員たちを冷ややかに見据えた。
「広川か」
後藤の口から紡がれる声には、怒りも悲哀も存在しなかった。ただ事実を淡々と述べるだけの、機械的な響きがあった。
「田宮良子がその人間を面白がって、色々と計画を立てていたようだが、ユニークな奴だった」
後藤にとって、広川剛志という人間は、ある種の実験材料であり、共犯者でもあった。人間でありながら自らの種を憎み、パラサイトによる捕食を肯定するというその思考回路は、後藤の理解を超えたものであったが、だからこそ観察対象としては非常に興味深いものであった。
彼が人間たち自身の放った銃弾によって肉体を破壊され、死に至ったという結末もまた、生物の淘汰の歴史において一つのユニークな事例として後藤の記憶に記録されるに過ぎない。
後藤は言葉を切ると、自らを名指しで呼びつけた少女へと焦点を合わせた。一階からこの最上階に至るまで、パラサイトたちを次々と罠にかけ、無慈悲に刈り取ってきた存在。同胞たちが発していた断末魔の記憶が、後藤の細胞に刻まれている。
パラサイトの擬態を容易く見破り、この世界における生命の理を逸脱した手段で彼らを追い詰めるこの少女。彼女もまた、広川以上に異質であった。
「お前たちも、実にユニークな存在だ」
後藤は、純粋な生物学的興味を込めてそう告げた。人間の形をしているが、人間の弱さを微塵も感じさせない。恐怖や絶望といった、人間という種が本能的に抱くはずの感情的ノイズが、彼女の周りからは完全に欠落している。
それどころか、同族であるはずの広川を容赦なく撃ち殺した直後であるというのに、脈拍や呼吸に一切の乱れがない。
「ユニーク、か。最高の褒め言葉として受け取っておこう」
美少女アレックスは、アサルトライフルを片手で軽く保持したまま、不敵な笑みを浮かべて返答した。
後藤の鋭敏な感覚は、彼女の声帯から発せられる音の波長から、嘘や虚勢を読み取ろうとしたが、そこにはただ揺るぎない絶対の自信だけが存在していた。
「下の階から、同胞たちの断末魔が次々と途切れていくのを感じていた」
後藤は、冷徹な事実として言葉を紡ぐ。
「パニックを利用し、恐怖で統制して一箇所に集め、機械的に狩り取る。人間にしては、あまりにも感情を排した合理的な手法だ。お前がそのすべてを指揮していたのか」
「種を守るためには、効率と結果が全てだからな。お前たちのような、人間に紛れ込んで密かに脳を奪い、喰い殺すような害獣を相手にするには、生ぬるい感情は邪魔になるだけだ」
美少女アレックスの言葉には、微塵の迷いもなかった。人間という種を守るために、人間社会の倫理すらも容易く切り捨てる。その徹底した冷徹な覚悟は、後藤たちパラサイトが持つ純粋な生存本能に近いものを感じさせた。
その時、美少女アレックスの斜め後ろに控えていた漆黒のオブシディアン・ユニットの一人が、手に持っていた移動式スキャナーを後藤の巨体へと向け、無機質な声で報告を上げた。
「リーダー。対象の生体反応をスキャンしました。細胞の密度、および構成物質が完全に異常です。人間の形を保ってはいますが、対象は人間ではありません」
オブシディアン・ユニットの隊員は、スキャナーのモニターに映し出された信じがたい解析結果を、淡々と読み上げていく。
「頭部のみならず、両腕、両脚、胴体に至るまで、別個の寄生生物の細胞組織が完全に統合されています。単一の寄生生物ではなく、複数の個体が強固に一つの肉体を共有している……極めて危険な集合体です」
その報告を聞いても、後藤の表情は全く動じなかった。むしろ、パラサイト同士の波長感知能力を持たない人間たちが、機械の力だけで自らの正体をそこまで正確に見破ったことに対して、一定の評価を与えた。
「正確な分析だ」
後藤は、自らの鍛え抜かれた両腕を見下ろしながら、静かに事実を認めた。
「人間の脆弱な肉体など、とうの昔に捨て去った。私は、この一つの肉体に五体の同胞を宿し、それらを完璧に統率している。司令塔は私だ。五つの独立した細胞が、私の意志の下に一つの強靭な生物として機能しているのだ」
美少女アレックスは、後藤の言葉を聞いて僅かに眉を上げた。
「五匹のパラサイトが、一つの肉体に同居しているのか。なるほど、一階のホールで暴れたような単体の雑魚とは、そもそもレベルの次元が違うというわけだな。司令塔のお前が、残りの四匹を手足のように自在に操っているのか」
「いかにも。私はこの肉体を完璧に統制している。死角もなければ、人間の持つような疲労という概念も存在しない。単体の個体が持つ弱点は、私においてすべて克服されている」
後藤はゆっくりと、音もなく一歩だけ、美少女アレックスに向かって足を踏み出した。そのわずかな筋肉の躍動だけで、講堂の空気がさらに張り詰めたように重くなる。
「私は、人間の持つ武器の限界を知っている。お前たちが手にしているその金属の筒から放たれる鉛の塊では、私に届く前にすべて弾き返されるだろう。私の細胞の硬度は、お前たちの想像を遥かに超えている」
後藤は、相手に絶望を与えるための虚勢としてそう言ったわけではない。ただ、戦力差という物理的な事実を述べているに過ぎなかった。しかし、美少女アレックスは全く怯む様子を見せなかった。
「無敵の化け物気取りか。だが、どんなに強固な装甲を持っていようと、貫けない盾はこの世界に存在しない。お前のその自慢の細胞がどこまで耐えられるか、遠慮なく試させてもらうとしよう」
美少女アレックスの緑色の瞳が、冷たく鋭く細められた。
(いいだろう。ならば、その身をもって知るがいい)
後藤の肉体を構成する無数の細胞が、戦闘の始まりを予期して微かに脈動を始めた。その言葉とわずかな筋肉の弛緩を、戦闘の合図と受け取ったのだろう。
美少女アレックスは一切の表情を変えることなく、手にしたアサルトライフルを流れるような動作で後藤の眉間へと向けた。
彼女の動きに完全に同調するように、背後に控えていたオブシディアン・ユニットの隊員たちも一糸乱れぬ動作でショットガンやサブマシンガンを素早く構え、銃口の全てが後藤の巨体へと一点に集中した。
講堂の張り詰めた空気の中、殺意の交錯から引き金が引かれるまでの時間は、コンマ数秒にも満たなかった。美少女アレックスの指が一切の躊躇なく引き金を引いた。
ダダダダダダダダッ!!
講堂の空間を、凄まじい轟音とマズルフラッシュの閃光が埋め尽くした。美少女アレックスのアサルトライフルから放たれる弾頭と、オブシディアン・ユニットから放たれる無数の鉛弾が、全く逃げ場のない分厚い弾幕となって後藤の肉体へと襲いかかる。
通常のパラサイトであれば、人間としての柔らかな肉体部分を抉られ、再生の間もなくミンチ状に粉砕されていただろう。
しかし、後藤は逃げも隠れもしなかった。彼の肉体は、単一のパラサイトが人間に寄生したものとは根本的に構造が異なる。一つの肉体に五匹のパラサイトが統合され、全身の細胞を完璧にコントロールしている最強の集合体。それが後藤という存在の正体であった。
銃弾が皮膚に到達する刹那、後藤は自身の体表の細胞密度を爆発的に高め、極限まで硬質化させた。鋼鉄をも遥かに凌ぐ硬度を獲得した皮膚に、銃弾が次々と激突する。
キンッ! ガンッ! キィィィンッ!
講堂内に、肉を穿つ音ではなく、重厚な金属板を金槌で滅多打ちにするような甲高い音が反響した。美少女アレックスたちが放った弾丸は、後藤の皮膚に僅かな火花を散らすだけで、そのすべてがひしゃげ、弾き返され、無力な金属片となってパラパラと床に転がり落ちていく。
顔面、胸部、四肢。どれほど正確に急所を狙おうとも、後藤の硬質化した細胞は一切の貫通を許さなかった。彼は一歩も退くことなく、弾幕の嵐の中に仁王立ちし、ただ冷徹に自分を攻撃する者たちを見下ろしていた。
数秒にわたる猛烈な一斉射撃が鳴り止んだ。床には無数の薬莢と、ひしゃげた弾丸の残骸が散乱している。立ち上る硝煙が晴れる中、そこには傷一つ負っていない後藤の無傷の姿があった。
衣服こそ銃弾によってあちこちが引き裂かれ、破れ去っていたが、その下から覗く筋肉質の肉体は、全く損傷を受けていない。圧倒的な、そして理不尽なまでの防御力であった。
人間であれば、自らの最強の火力が全く通用しないこの事実を前に、絶望に顔を引き攣らせ、恐怖に後ずさりする場面である。しかし、後藤の視界に映った少女の反応は、彼の予測を完全に裏切るものであった。
「ほお、興味深い」
美少女アレックスは、弾き返された銃弾と後藤の無傷の肉体を交互に見て、目を見開いた。
その緑色の瞳に宿っていたのは、恐怖でも焦燥でもない。未知の強力な敵対対象を発見し、その堅牢な防御力をいかにして攻略するかを思案するような、純粋で底知れない好奇心であった。彼女の唇には、微かな歓喜の笑みすら浮かんでいるように見える。
自らの攻撃が全く通用しなかったことに対して、彼女はただ「興味深い」と評価したのだ。
後藤は、その異常な反応に対して、思考の奥底で微かな違和感を覚えた。生命体としての生存本能が完全に欠落しているかのような振る舞い。彼女は本当に、自分と同じ有機生命体なのか。それとも、別の何かで構成された概念的な存在なのか。
だが、その違和感も、後藤の内で蠢き始める強烈な本能の波に、すぐに飲み込まれていった。相手が何者であろうと、どのような異常性を秘めていようと、後藤にとって成すべきことは一つしか存在しない。
「声が聞こえる」
後藤は、ゆっくりと一歩を踏み出した。硬質化を解いた肉体が、滑らかな筋肉の躍動を取り戻す。
「この種を喰い殺せと」
後藤が静かに呟いたその言葉は、彼が人間の脳を奪い、この世界に誕生したその瞬間から、決して途切れることなく彼の細胞の奥底に響き続けている絶対の「命令」であった。誰が発したのか、何のために発せられたのか、そんな理由は彼にとってはどうでもいい。
彼はその命令を遂行するためだけに存在し、そのために五つのパラサイトを統合し、この圧倒的な戦闘力を手に入れたのだ。相手が銃を持っていようと、未知の武装を持っていようと関係ない。目の前に立っているのが「人間」という形をした生物である以上、彼らはすべて等しく喰い殺すべき対象に過ぎない。
後藤の全身の細胞が、殺意という名の指令に従い、爆発的なエネルギーを生成し始める。首が不気味に動き、腕の筋肉が波打ち、その先端が鋭利で巨大な刃へと変貌を遂げようとする。
広川という理解者が消え去り、邪魔な人間たちが排除されたこの静寂の講堂で、最強の集合体である後藤と、常識を超越した少女たちによる、真の殺戮の時間が幕を開けようとしていた。
後藤の瞳には、一切の迷いのない、純粋な捕食者としての冷酷な光だけが宿っていた。
原作時間軸さん「やってしまえー!!」
分岐時間軸さん「やられてしまえー!!」