狭い中華料理店の厨房で、日常の物理法則が音を立てて崩れ去った。
「グヂュッ」という湿った音と共に、店主の顔面が縦に割れる。まるで熟した果実が弾けるように、あるいは蕾が開花するように、男の頭部は原形を留めないほどに変形した。皮膚が裂け、筋肉が繊維状に解け、その奥から現れたのは、骨よりも硬く、鋼よりも鋭い、有機的な「刃」だった。
『下がるんだ、新一!』
ミギーの鋭い警告が脳髄を打つ。新一は反射的に身構えた。だが、その動きはあまりにも遅い。パラサイトの攻撃速度は、人間の動体視力を遥かに凌駕する。視界の端で、銀色の閃光が走るのが見えただけだった。
標的は新一ではない。「腐った肉」と己の食事を愚弄され、捕食者のプライドを傷つけられた、店主の怒りの矛先。それは、無防備に棒立ちしているアレックスに向けられていた。
「死ね」
店主の喉ではなく、刃の震動が言葉を紡ぐ。巨大な鎌と化した頭部が、アレックスの細い首を刈り取る軌道を描く。それは鉄パイプすらバターのように切断する、必殺の一撃だった。
「アレックス!!」
新一は絶叫した。間に合わない。ミギーの防御も届かない距離だ。脳裏に、最悪の光景が焼き付く。少女の首が宙を舞い、鮮血が厨房の壁を赤く染める──そんな、あまりにも残酷な未来図。
新一は恐怖に目を背けたかったが、硬直した筋肉がそれを許さず、その瞬間を目撃してしまった。
バシュッ!!
空気を切り裂く鋭利な斬撃音──ではない。それは、濡れた雑巾で壁を叩いたような、あるいは分厚いゴム板を強打したような、鈍く、乾いた衝撃音だった。
「ぐえっ!?」
アレックスの短い悲鳴。そして、新一の目の前で、信じがたい現象が起きた。
アレックスの首は飛ばなかった。血の一滴すら、空中に舞うことはなかった。その代わり、刃が直撃した瞬間、彼女の全身が一瞬だけ「赤く」発光したのだ。
血の色ではない。警告灯のような、明滅する赤色。さらに彼女の体は、慣性の法則を無視したかのような不自然な挙動で、後方へと少しだけ弾き飛ばれた。まるで、見えない壁にぶつかったゲームキャラクターのように。
アレックスは「ずざざっ」と靴底を滑らせ、床に着地した。彼女は自分の首を押さえもせず、ただ不満げに顔を歪めている。
「いっ、てぇな! 今のクリティカル入っただろ!?」
厨房に、完全な静寂が訪れた。
新一は口を開けたまま凍りついた。ミギーもまた、硬質化させた右手の刃を構えたまま、ピクリとも動かない。そして何より困惑していたのは、攻撃を放ったパラサイト自身だった。
変形した店主の頭部──その巨大な刃が、宙で震えている。彼は確かに、手応えを感じていたはずだ。肉を断ち、骨を砕く感触を。だが、目の前の少女は五体満足で立っている。首には傷跡一つなく、制服の襟すら切れていない。
「な、ぜ…?」
店主の刃から、濁った声が漏れた。
「なぜ切れない…? 我が刃は、鋼鉄をも…」
彼は混乱のあまり、自らの刃をしげしげと見つめた。刃こぼれなどしていない。切れ味は最高のはずだ。
その隙に、アレックスが動いた。彼女は恐怖するどころか、怒り心頭といった様子で、虚空から何かを取り出した。
それは回復薬でも、盾でもない。コンビニの袋に入ったままの、潰れた菓子パンだった。
「腹減ってる時にダメージ受けると、ハートの回復が遅れるんだよ!」
アレックスは包装を荒々しく引き裂くと、パンを口に運んだ。
ムシャムシャムシャ。
咀嚼音が、静まり返った厨房に響き渡る。彼女がパンを飲み込むたびに、周囲に微かな、本当に微かな緑色の粒子が舞ったような気がした。アレックスの顔色が、見る見るうちに良くなっていく。
「ふぅ。よし、満腹度回復。これで自然治癒が入る」
アレックスは口元のパン屑を手の甲で拭い、ケロッとした顔で言った。
「今の攻撃、ハート2.5個分くらい持ってかれたぞ。アーマー値がゼロだとキツイな。あとでダイヤ装備クラフトしなきゃ」
「……」
新一は、言葉を失っていた。目の前に、頭が刃物になった化け物がいる。その足元には、本物の人間の死体が転がっている。それなのに、自分が今一番「怖い」と感じているのは、平然と菓子パンを食べているこの少女だった。
『…理解不能だ』
新一の脳内で、ミギーが呟く。その声には、未知への畏怖すら滲んでいた。
『頸動脈への直撃。運動エネルギーの総量は即死レベルだった。だが、彼女の細胞は切断されていない。硬化能力もない。ただ「耐久値」が減少したかのような反応…。新一、あの雌は、我々の生物学的定義の外にいる』
ミギーは冷徹な合理主義者だ。理解不能な現象への驚きよりも、この千載一遇の好機を優先する。
『だが、好都合だ。敵は混乱している』
店主のパラサイトは、未だにアレックスを見つめ、思考の迷宮に迷い込んでいた。
「硬い…のか? 弾力…? 人間…じゃない??」
その思考の隙は、生死を分けるにはあまりにも長すぎた。
『新一、走れ!』
「う、うおおおおっ!」
新一はミギーの指令に従い、地面を蹴った。恐怖を振り払い、混乱する店主の懐へと飛び込む。店主が反応し、刃を振り上げようとした時には、既に遅かった。
ヒュッ!!
風を切る音。新一の右手が、鞭のようにしなり、鋭利な刃となって伸びる。ミギーの刃は、迷うことなく店主の「心臓」がある左胸を貫いた。
「ガハッ…!?」
店主の動きが止まる。頭部の刃が痙攣し、制御を失ってグニャリと垂れ下がる。
「ば、かな…仲間…あの硬い、女…」
最期まで困惑の言葉を残し、店主の体は崩れ落ちた。ドサリ、という重い音が、戦いの終わりを告げる。変形していた頭部は、宿主の死と共に急速に萎み、ただの醜い肉塊へと戻っていった。
荒い息を吐きながら、新一は膝に手をついた。終わった。殺されるかと思った。心臓の鼓動が早すぎて、耳の奥が痛い。
「おー、ナイスキル! 経験値オーブ落ちたか?」
背後から、緊張感のない明るい声が聞こえた。新一はゆっくりと振り返る。そこには、首をさすりながら、満足そうにパンの残りを頬張るアレックスがいた。
彼女の首筋には、赤い線ひとつ残っていない。あれだけの斬撃を受けて、無傷なのだ。
「お前…」
新一は掠れた声で言った。恐怖と安堵と、そして言いようのない不条理感が胸の中で渦巻いていた。アレックスは「ん?」と小首をかしげる。
「なんだよ泉。あ、もしかしてドロップアイテムの分配か? 腐肉はいらないって言ったろ。お前が持ってっていいぞ」
「そうじゃない!」
新一は立ち上がり、指を突きつけた。さっきまで死にかけていた──と新一には見えた──少女。物理法則を無視して攻撃を耐え、パンを食べて回復し、化け物を前にしてゲームの話しかしない少女。
パラサイトという「人外」を知ってしまった新一でさえ、彼女の異質さは許容範囲を超えていた。
「お前その首…いや、その体…どうなってるんだよ!?」
「どうって、人間の体だろ? スティーブと同じ仕様だ」
「スティーブって誰だ!?」
「デフォルトスキンの…まあいいや。とにかく、私はただの可愛い女子高生だぞ」
アレックスは悪びれもせず、ニカッと笑ってVサインを作った。その笑顔はあまりにも無邪気で、そして絶望的に「ズレ」ていた。
新一は頭を抱え、崩れ落ちるように座り込んだ。足元のパラサイトの死体よりも、この少女の存在の方が、よほど世界の理を侵食しているように思えた。彼は心の底からの叫びを、虚空に向かって吐き出した。
「これで人間って自称してるのマジ??」
ミギーが冷ややかに付け加える。
『新一。訂正しよう。彼女は人間ではない。「マインクラフター」という、別の生態系に属する生物だと仮定すべきだ』
「…お前の分析が初めて心に染みたよ、ミギー」
薄暗い厨房。血と油の臭いが充満する中、アレックスだけが「さて、次はデザートだな」と、まだ見ぬ食料を求めて冷蔵庫を漁り始めていた。日常への回帰など、もはや夢のまた夢だった。
ここまで読んでくださりありがとうございます。感想やお気に入り登録、高評価などをいただけますと、作者のモチベーションとなりますので、是非よろしくお願いします(♡ >ω< ♡)