僕の常識が息をしていない   作:最高司祭アドミニストレータ

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慈悲なき管理者と、囚われた母性 - (閉話)

 漆黒のフルフェイスヘルメットのバイザー越しに見る世界は、田宮良子にとって、あまりにも理不尽で屈辱的な光景の連続であった。

 

 東福山市役所の最上階、広川剛志と後藤が屠られたあの死の講堂から、田宮は『オブシディアン・ユニット』の偽装をさせられたまま、アレックス・スティルウォーターの無慈悲な足跡を辿って歩き続けた。

 

 彼女の明晰な頭脳は、パラサイトという種族の存亡を懸けた壮大な実験が、たった一人の少女の「ゲーム的快楽」によって木端微塵に粉砕されていく過程を、ただ冷徹に記録していくことしかできなかった。

 

 広川は無数の銃弾を浴びて倒れ、最強の集合体であるはずの後藤は手も足も出ないまま、黒曜石の棺へと封印された。同胞たちの絶対的な敗北を目の当たりにしても、田宮はただ、アレックスの腕の中で時折身を捩って泣き声を上げる我が子の姿だけを注視し、押し殺した呼吸を繰り返していた。

 

 市役所から運び出された後、田宮は大型トラックの薄暗い荷台へと押し込まれた。トラックが高速道路を猛烈な速度で疾走する間、田宮は鋼鉄の手錠で座席に固定されていた。

 

 アレックスはといえば、荷台の奥で何やら特殊な機械を操作しながら、「よし、素材は十分に集まった。これでボス戦の準備は完璧だ」などと、相変わらず理解不能な独り言を並べ立てていた。

 

 その間も、田宮の赤ん坊はアレックスの傍らに置かれた簡易的なカゴの中で泣き続けていた。パラサイトにとって騒音でしかないはずのその泣き声が、今の田宮にとっては胸を鋭く抉るような苦痛であった。自らの腹を痛めて産み落とした命。

 

 それを守るためとはいえ、自分は誇り高きパラサイトとしての合理性を捨て、この狂った少女に完全な服従を強いられている。

 

 

(私は、この少女を興味深い観察対象だと考えていた…。それは致命的な誤算だった)

 

 

 暗闇に揺れるトラックの中で、田宮は静かに、しかし確かな熱を帯びていく己の思考を反芻していた。

 

 パラサイトは本来、感情を持たない。合理性と生存本能のみが彼らの行動原理である。だが、人間の体内で赤ん坊を育み、出産という奇跡を経験した田宮の中には、人間のそれと酷似した、しかしより深く純粋な「情」が芽生えてしまっていた。

 

 だからこそ、田宮の胸の奥底で、かつて経験したことのない黒く熱い感情がマグマのように煮え滾り始めていた。それは、自らの研究を台無しにされたことに対する怒りではない。広川や後藤をコケにされたことに対する同胞としての憤りでもない。

 

 ただ純粋に、自分の愛する子供を人質に取り、ゲームのアイテムのように扱うアレックスという存在に対する、絶対的な「憎悪」であった。

 

 

(彼女は地球の意思でも、高位の存在でもない。ただの、他者の尊厳を弄ぶ悪性のバグだ。…アレックス、お前のことだけは、もう絶対に容赦しない)

 

 

 田宮良子の中で、アレックスへの評価は完全に確定した。彼女は排除すべき明確な敵である。この拘束が解ける一瞬の隙があれば、我が身を挺してでも彼女の心臓を貫く。田宮の細胞のすべてが、その静かな殺意に向かって収束していくのを感じていた。

 

 やがて、トラックは深夜の山間部へと入り、異様な幾何学模様を成す黒曜石の巨大要塞へと到着した。荷台から引きずり出された田宮は、要塞の最深部にある体育館ほどもある広大な空間へと連行された。

 

 そこで彼女はヘルメットを乱暴に脱がされ、壁際に設置された冷たい鋼鉄の椅子に座らされた。首、両手首、両足首には、青白い光を放つ複雑な電子拘束具がガチャンと嵌め込まれ、パラサイトの最大の特徴である細胞の変形能力を完全に封印されてしまった。

 

 

「さて、観客席の準備は完了だな。田宮先生、そこでおとなしく私のエンディングイベントを特等席で見ていろ」

 

 

 アレックスは満足げに手をパンと払い、田宮に向かって残酷な笑みを向けた。

 

 部屋の反対側には、広川市長と後藤が首から下をブロックで完全に埋め固められた「黒曜石の棺」が縦置きに配置されている。二人の同胞は屈辱に顔を歪め、あるいは完全に無機質な空虚さを漂わせていた。

 

 そして、部屋の中央。最も安全で、最も豪華な装飾が施された「金のベビーベッド」──アレックスの言うところのレアなチェスト──の中に、田宮の赤ん坊が入れられた。赤ん坊は疲れて眠ってしまったのか、すやすやと穏やかな寝息を立てている。

 

 田宮はその様子を見て、拘束具に繋がれた腕にギリッと力を込めたが、びくともしなかった。

 

 

「…貴女は、一体何が目的なのですか」

 

 

 田宮は、感情を極限まで押し殺した冷徹な声で問いかけた。

 

 

「広川や後藤を捕獲し、私を拘束し子供を人質に取って…この世界を自らの意のままに書き換えて、その先に何を求めているというのです」

 

 

 アレックスは田宮の問いに対し、肩をすくめてあっさりと答えた。

 

 

「別に? ただのレベル上げと、実績解除のコンプリートだよ。私はこのワールドの主人公だからな。全てのボスを倒し、レアアイテムを収集し、最強の装備を作って暴れ回る。それがプレイヤーに与えられた至高の権利と義務ってもんだろ」

 

 

 そのあまりにも身勝手で、他者の命を遊戯の延長としてしか見ていない狂気的な回答に、田宮の冷たい怒りは限界点に達しようとしていた。

 

 

(狂っている。この少女の精神構造は、我々パラサイトの捕食本能よりも遥かにタチが悪く、無慈悲だ。絶対に生かしておいてはならない)

 

 

 田宮は唇を噛み締め、じっとその時を待つことにした。

 

 それからの時間は、田宮にとってあまりにもシュールで、不可解な光景の連続であった。アレックスは部屋の中央に鎮座する、多数のガトリングガンやミサイルポッドを備えた無骨な「巨大二足歩行ロボット」の調整に夢中になっていた。カンカンと金属を叩く音や、配線を繋ぐ作業を、彼女は歌を歌いながら楽しげに行っている。

 

 一方で、部屋の外の回廊や入口付近を警備しているはずの『オブシディアン・ユニット』の隊員たちの様子は、田宮の優れた聴覚を通して筒抜けになっていた。

 

 彼らはアレックスに洗脳され、人間としての理性をゲーム的な執着に置き換えられた哀れな存在だった。

 

 

「おい、今月のグラビアアイドルのステータス値、最高じゃないか?」と鼻血を垂らしながら職務を放棄する声。

「真の正義は完全なフラットを生み出す整地だ!」「いや、無駄のない豆腐建築こそが至高だ!」などと、哲学的な建築論争を始めて殴り合いの喧嘩を始める足音。

 

 

 高度な知性を持つパラサイトである田宮から見れば、彼らの行動はまさに知性の極端な劣化であり、滑稽を通り越して憐れみすら覚える有様であった。

 

 

(これが、人間という種の底無しの愚かさの証明か。それとも、アレックスという存在が彼らをそこまで歪ませてしまったのか…)

 

 

 田宮がそんな思索に耽っていた時であった。要塞の外部、彼女が囚われているこの最深部へと続く長い回廊の方角から、突如として尋常ではない騒ぎが巻き起こったのだ。

 

 

「聞いてくれ! 私の妻は、先日同窓会で再会した初恋の男と、ホテルに消えていったんだあああぁぁぁっ!!」

 

 

 スピーカーを通したような、血を吐くような男の絶叫が回廊に響き渡った。田宮はその声に聞き覚えがあった。あの男は、かつて自分が身辺調査を依頼し、そして消そうとしたフリーライターの倉森ではないか。なぜ彼が、こんな山奥の要塞にいるというのか。

 

 

「私は、私は…寝取られたんだああああっ!!」

 

 

 倉森の悲痛な絶叫が再び響くと、通路を警備していたはずの精鋭ユニットたちが、一斉に断末魔のような悲鳴を上げ始めた。

 

 

「ギヤアアアアアッ!!!」

「やめろおおお! 脳内テクスチャが汚染されるぅぅぅっ!」

「間男! NTR! 許されない! 私の脳内が焼き切れるぅぅぅっ!!」

 

 

 ドサリバタンと、重い装甲を着た男たちが次々と漫画のような倒れ方をしていく音が、田宮の耳にもはっきりと届いた。

 

 アレックスが彼らの倫理設定を『純愛騎士道Mod』とやらに書き換えていたがゆえに、「NTR」という単語が精神的な致死ダメージとなって彼らを機能停止させてしまったのだ。

 

 田宮は呆れ果てて言葉を失った。パラサイトの論理では到底測ることのできない、あまりにも馬鹿馬鹿しい突破方法。間違いなく何者かが、この最深部へと確実に迫ってきている。

 

 

「おや? どうやら、招かれざるゲストがやってきたようだな」

 

 

 巨大ロボットの調整を終えたアレックスが、スパナを投げ捨ててコックピットへと軽やかに飛び乗った。その直後であった。田宮の目の前にある、分厚い黒曜石で作られた巨大な扉から、凄まじい破壊の振動が伝わってきた。

 

 

『問題ない。私の最大硬度と出力で貫通できる!』

「よし、合わせるぞ! いけええっ!!」

「えいっ!」

 

 ドゴォォォォォォンッ!!! 

 

 

 無敵を誇るはずの扉が、耳を劈くような爆音と共に内側へと吹き飛んだ。もうもうと立ち込める爆煙と粉塵を切り裂き、部屋の中へと突入してきたのは、フルフェイスヘルメットを脱ぎ捨てた三人の姿であった。

 

 右手を巨大なドリルに変形させた泉新一。青白いオーラを纏った木の棒を構える村野里美。そして、息を切らしながらも決死の形相を浮かべた、倉森であった。

 

 田宮良子は、驚きに微かに目を見開いた。新一と里美が来ることは、ある程度予測の範囲内であった。彼らはアレックスという異常存在の暴走を止めるだけの動機と力を持っている。

 

 だが、なぜ倉森がここにいるのか。彼はパラサイトである自分を憎んでいるはずだ。自分のせいで家族を危険に晒し、全てを失いかけた男が、なぜ自ら死地に赴くような真似をしてまで、この最深部へとやってきたのか。

 

 煙が晴れる中、倉森の視線が部屋の中を見回し、そして拘束椅子に縛り付けられている田宮の姿を捉えた。

 

 

「田宮さん…!」

 

 

 倉森の顔に浮かんだのは、憎悪や復讐心などではなかった。そこにあったのは、痛切なまでの安堵と、純粋な歓喜、そして田宮という一人の存在を心から案じる、痛いほどの情愛であった。

 

 その倉森の真っ直ぐな瞳を見た瞬間、田宮の胸の奥底で、パラサイトの論理回路が完全にショートするような、奇妙で温かい感情が弾けた。

 

(彼は…私を助けるために、ここに来たというのか?)

 

 

 パラサイトであり人殺しであり、彼をどん底に突き落としたこの自分を。田宮は人間の持つ「感情」というものの不可解さと、その底知れぬ強さに衝撃を受けていた。

 

 しかし、感動に浸る時間は与えられなかった。部屋の中央で、凄まじい駆動音と共に、アレックスの乗る巨大二足歩行ロボットが立ち上がったのだ。

 

 ガトリングガンが不気味に回転を始め、ミサイルポッドが新一たちに照準を合わせる。コックピットの中で、アレックスはバリスティックバイザーを跳ね上げ、顔を紅潮させて狂喜の声を上げた。

 

 

「ようこそ、私のエンディングイベントへ! 今の私は、この世界の理を手に入れた真の主人公だ! ヒャッハー! 全人類のステータスを、私がこの機械で書き換えてやるぞ!」

 

 

 アレックスのあまりにも自分勝手で、他者の尊厳を欠片も顧みないその姿に、新一は静かな、しかしマグマのような怒りを瞳に宿した。

 

 

「アレックス。命を、他人の心を、ゲームのポイントみたいに扱うお前のやり方は、絶対に間違ってる。お前のそのふざけた管理者権限ごと、コテンパンにしてやる」

 

 

 隣で、里美も木の棒を力強く構え直した。

 

 

「アレックスちゃん。めっ、だよ」

 

 

 田宮良子は、拘束された椅子の背に深く体を預け、静かに目を閉じた。そして再び目を開いた時、彼女の瞳には、かつてないほど明確な「意志」が宿っていた。

 

 泉新一、村野里美、そして倉森。彼らが放つ、人間としての正当な怒りと決意。それに同調するように、田宮の中でもアレックスに対する「容赦しない」という絶対的な敵意が完全に固まった。

 

 

(やっておしまいなさい、泉新一。あの狂った女を引きずり下ろし、現実というものを教えてやりなさい)

 

 

 田宮は心の中で強く念じた。パラサイトの母と、それを愛した人間の探偵。彼らを救うために立ち上がった少年少女。

 

 すべてを弄ぶ理不尽な管理者に対して、種族の壁を超えた反撃の狼煙が、鋼鉄の狂宴と共に今まさに上がろうとしていた。




原作時間軸さん「応援するぞ泉くん!」
分岐時間軸さん「ならばこっちはアレックスだ!」
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