僕の常識が息をしていない   作:最高司祭アドミニストレータ

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お花見は今日でお終い。あっという間ですね。


新一から見たアレックス

 中華料理店での悪夢のような出来事の後、泉新一とアレックスは、すっかり日が暮れた通りを並んで歩いていた。街灯が点々と灯り始め、家路を急ぐ人々の姿がシルエットとなって通り過ぎていく。先ほどまでの、血と油と狂気に満ちた密室劇が、まるで嘘のような平和な光景だ。

 

 しかし、新一の心拍数は未だ平常値には戻っていなかった。隣を歩くアレックスは、何事もなかったかのように鼻歌交じりで歩いている。時折、「あ、あの家の屋根、階段ブロックの配置が甘いな」などと、相変わらず理解不能な独り言を呟きながら。

 

 新一は横目で彼女の首筋を盗み見た。やはり、傷ひとつない。白い肌が、街灯のオレンジ色の光を反射して滑らかに輝いているだけだ。パラサイトの鋭利な刃による直撃。物理的に切断されていなければおかしいあの一撃を、彼女は「ハートが減った」というゲームのような概念だけで受け流した。

 

 

『新一』

 

 

 右手のミギーが、脳内に直接語りかけてくる。

 

 

『あの雌の生体データだが、やはり解析不能だ。先ほどの衝撃時、彼女の体表には瞬間的に未知のエネルギーフィールド──彼女の言う「防具判定」だろうか──が発生した可能性がある』

(もう考えるだけ無駄な気がしてきたよ)

 

 

 新一は疲労困憊の体でため息をついた。

 

 

(あいつは、最初からそうだった。出会った時から、僕の常識を壊し続けている)

 

 

 新一の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。アレックスとの、衝撃的なファーストコンタクトの光景だ。

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 それは、新一の右手にミギーが寄生して間もない頃のことだった。新一は自分の体に起きた異変に戸惑い、精神的に不安定な日々を送っていた。そんなある日の放課後、彼は気分転換のために、学校の裏手にある人気の少ない林へと足を運んだ。

 

 

「…誰もいないな」

 

 

 そこは、新一が幼い頃によく遊んだ秘密基地のような場所だった。雑木林の中に少し開けた空間があり、古い切り株がベンチ代わりに置かれているだけの、静かな場所。そこでミギーと対話し、今後のことを考えようとした矢先のことだった。

 

 

「ドゴッ! バキッ! ドゴッ!」

 

 

 静寂を破る、重く、リズミカルな破壊音が響いてきた。工事現場のような騒音ではない。もっと原始的な、硬いものが木を殴打するような音だ。

 

 

「なんだ?」

 

 

 新一は警戒しつつ、ミギーを隠しながら音のする方へと近づいた。その光景を見た瞬間、新一は我が目を疑った。

 

 そこにいたのは、転校生として噂になっていた亜麻色の髪の美少女──アレックスだった。彼女は制服のスカートを翻し、直径五十センチはあろうかという太い樫の木の幹に向かって、素手で正拳突きを繰り返していたのだ。

 

 

「ふっ! せいっ! おりゃっ!」

 

 

 常軌を逸していたのは、彼女が手を痛めていないことではない。彼女が拳を叩きつけるたびに、木の幹に「ヒビ」が入っていくのだが、そのヒビの入り方が異常だった。ピシピシと亀裂が走るのではなく、黒い稲妻のような「破壊エフェクト」が幹の表面に浮かび上がり、それが段階的に広がっていくのだ。

 

 そして──

 

 

「ラストォ!」

 

 

 アレックスが最後の一撃を見舞った瞬間。

 

 

 ポンッ! 

 

 

 可愛らしい破裂音と共に、木の幹の根元部分──高さ一メートルほどの円柱状の部分──が、綺麗に消失した。

 

 消失したのではない。その部分は、一瞬にして手のひらサイズのミニチュアのようなアイテムに変換され、空中にポロリと浮遊したのだ。さらに驚くべきことに、支えを失ったはずの上部の幹や枝葉は、落下することなく、「空中に静止したまま」浮いていた。

 

 

「…は?」

 

 

 新一の声が漏れた。ニュートンが見たら卒倒しそうな光景だ。重力が仕事を放棄している。

 

 

「おっ、ドロップした」

 

 

 アレックスは汗ひとつかかず、空中に浮かぶミニチュアの丸太を拾い上げると、それが彼女の手に触れた瞬間、「シュポッ」という音と共に姿を消した。どこに消えたのかは分からない。

 

 

「誰だ?」

 

 

 気配を察知したのか、アレックスが振り返った。新一と目が合う。

 

 

「あ、いや、その…」

 

 

 新一は動揺して後ずさりした。見てはいけないものを見てしまった。この子もまた、ミギーのような化け物の一種なのかもしれない。

 

 だが、アレックスの反応は予想外だった。彼女の緑色の瞳が、新一の右手を凝視したのだ。

 

 

「ん? お前の右手…」

 

 

 新一はハッとして右手を背後に隠した。「バレたか?」心臓が早鐘を打つアレックスはスタスタと新一に近づき、顔を覗き込んできた。

 

 

「お前、いい『エンチャント』が付いてるな」

「…え?」

「その右手だよ。微弱だが、バフ効果を感じる。攻撃力上昇、あるいは耐久力上昇か? レアな装備品でも装備してるのか?」

 

 

 彼女には、ミギーの正体が見えているわけではないようだった。しかし、ミギーがもたらす身体能力の向上を、ゲーム的な「エンチャント」として直感的に感知していたのだ。

 

 

「い、いや、これはただの…」

「隠さなくていい。私にはわかる」

 

 

 アレックスはニカッと笑い、新一の肩をバンと叩いた。その衝撃だけで、新一の膝が折れそうになるほどの馬鹿力だった。

 

 

「私以外のプレイヤーに会うのは初めてだ! このサーバー、過疎ってるかと思ってたけど、NPC以外もいたんだな!」

「プレイヤー…? サーバー…?」

 

 

 新一が困惑していると、彼女は一方的にまくし立てた。

 

 

「私はアレックス。このワールドの開拓者だ。お前は? クラスは? やっぱ近接か?」

「僕は泉新一。ただの高校生だけど…」

「シンイチか。よし、今日からお前は私の『フレンド』だ。パーティ申請は承認しておいたぞ」

「は、はい?」

「拒否権はない。この世界でクラフター能力を持つ者は希少だ。協力してこのハードコアモードを生き抜こうじゃないか!」

 

 

 それ以来、アレックスは事あるごとに新一に話しかけてくるようになった。彼女の行動原理は常に「マインクラフト」というゲームの法則に基づいていた。

 

 お腹が空けば「満腹度が減った」と騒ぎ、怪我をすれば「ハートが削れた」と言い、テスト勉強の時は「経験値トラップを作る」と言ってカンニングペーパー(という名の巨大な建築物)を作ろうとして教師に叱られたりした。

 

 新一にとって、彼女はパラサイトとはまた別のベクトルで「理解不能な隣人」だった。

 

 だが、奇妙なことに、彼女と一緒にいる時だけは、パラサイトの恐怖を忘れることができた。彼女の圧倒的な「陽」のオーラと、物理法則すらねじ伏せるマイペースさが、新一の抱える暗い秘密を、ちっぽけなものに感じさせてくれたからだ。

 

 

「泉、聞いてるか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 回想から引き戻された新一は、隣のアレックスを見た。彼女はコンビニで買ったアメリカンドッグをかじりながら、新一の顔を覗き込んでいた。

 

 

「聞いてるよ。物理法則の話だろ」

「違う。これからの話だ」

 

 

 アレックスは串に残った最後のひと口を飲み込み、真剣な表情になった。その緑色の瞳は、街灯の光を吸い込んで、深く、強く輝いている。

 

 

「さっきの店主、お前のこと『仲間』って言ってたな」

 

 

 新一の足が止まった。心臓が凍りつく。あの中華料理店での混乱の中、彼女はしっかりとパラサイトの言葉を聞いていたのだ。

 

 

「それに、お前の右手。あの触手みたいなのを出して戦ってただろ。あれが『本体』か?」

 

 

 アレックスの視線が、新一の右手に落ちる。隠しても無駄だ。彼女は見てしまった。そして、彼女の異常なまでの観察眼──いや「鑑定スキル」は、誤魔化しを許さないだろう。

 

 新一は覚悟を決めた。

 

 

「ああ。こいつはパラサイトだ。脳を乗っ取ることに失敗して、右手に寄生したんだ」

 

 

 ミギーが、肯定するように右手の甲から目玉を出した。

 

 

『ドーモ、アレックス。私の名前はミギーだ』

 

 

 普通の人間なら、ここで悲鳴を上げるか、腰を抜かす場面だ。だが、アレックスは「ふーん」と興味深そうにミギーを見つめ、あろうことかその目玉をツンツンと指で突いた。

 

 

『やめたまえ』

「なるほどな。寄生型のModか。あるいは呪いの装備ってところか」

「…怖くないのか?」

 

 

 新一が呆れて尋ねると、アレックスは肩をすくめた。

 

 

「怖がる要素あるか? スティーブだって、一人でエンダードラゴンに立ち向かうんだぞ? それに──」

 

 

 アレックスは新一の目をまっすぐに見て、ニッと笑った。

 

 

「お前が人間だろうが、パラサイトだろうが、私の『フレンドリスト』からは消せない仕様なんだよ。一度パーティ組んだら、サーバーが閉じるまで付き合ってもらうからな」

 

 

 その言葉には、根拠のない自信と、不思議な温かさがあった。彼女は、新一が「人間とパラサイトの間にいる存在」であることを、いとも簡単に、ゲームの仕様の一つとして受け入れてしまったのだ。

 

 

「それに、あんな化け物がうようよしてるなら、ソロプレイはキツイだろ? 私がタンクでお前がDPS。バランスいいじゃんか」

 

 

 アレックスは新一の背中を、またしても思いっきり叩いた。

 

 

「い、痛ぇよ…」

「へへっ。ま、そういうわけで、これからもよろしくな、相棒!」

「ああ、よろしく頼むよ。アレックス」

 

 

 新一は痛む背中をさすりながら、思わず苦笑した。パラサイトの脅威、社会に潜む闇、そして──母親を殺された憎しみ。それら全てが消えたわけではない。

 

 だが、この「物理法則も常識も通用しない不死身の少女」が隣にいるだけで、世界は少しだけ、戦いやすい場所に変わったような気がした。

 

 二人の影が、夜の道に長く伸びていく。右手には冷徹なパラサイト。隣には無敵のマインクラフター。泉新一の奇妙で過酷な日常は、まだ始まったばかりだった──と、心の中でハードボイルドに締めくくろうとした、その時だった。

 

 

「ん? ちょっと待て泉」

 

 

 アレックスが、きょとんとした顔で新一の顔を覗き込んできた。彼女は、新一が纏っていた哀愁漂う空気を、素手でブロックを破壊するかのようにぶち壊した。

 

 

「お前さっき、『母親を殺された憎しみ』みたいな顔してたけど…どういうバグだ?」

 

 

 新一はギクリとした。

 

 

「え、いや、バグって…」

「お前の母親、こないだスーパーで会ったぞ? 特売の卵パック2つ抱えて戦ってた。私のこと『お金くれる自称ヒトさん』って呼んでたけど」

 

 

 アレックスは心底不思議そうに首を傾げた。

 

 

「いやお前、ナニ自分の母親を殺してんだ勝手に…まだ生きてるだろ五体満足で?? なんで脳内で勝手にストーリーイベント進めてるんだよ。死亡フラグ建築すんな」

 

 

 新一は足を止めた。そうだ。パラサイトの脅威に晒されているとはいえ、母親はまだ生きている。先ほどの店主との戦いや、ミギーとの過酷な共生生活のせいで、思考がネガティブな方向へ暴走し、勝手に悲劇の主人公になりかけていたのだ。

 

 

「あ」

 

 

 新一の顔から、さきほどの決意に満ちた表情が抜け落ち、素の高校生の顔に戻る。

 

 

「そう、だった。母さんは、旅行中だ。まだ、何も起きてない」

 

 

 アレックスは呆れたようにため息をついた。

 

 

「まったく、お前のその『不幸背負い込み属性』はデバフ効果が強すぎるぞ。まだ発生してないイベントに怯えてどうする。スティーブを見習え。夜になればゾンビが湧くけど、朝が来れば燃える。シンプルに生きろ」

 

 

 彼女の言葉は、デリカシーの欠片もなかったが、不思議と新一の胸にストンと落ちた。そうだ。まだ失っていない。守るべきものは、まだそこにある。

 

 

「…ごめん、母さん」

 

 

 新一は夜空に向かって、小さく謝った。

 

 

「勝手に殺してごめん」

「わかればよろしい」

 

 

 アレックスは満足げに頷くと、再び歩き出した。

 

 

「さーて、帰ったらお前の母ちゃんに頼まれた、『お使いクエスト』の報酬を請求しないとな。肩たたき券だったら暴れるぞ」

 

 

 新一は苦笑いを浮かべながら、その背中を追いかけた。悲劇はまだ訪れていない。そして、この「規格外の少女」がいれば、もしかしたらその悲劇さえも、つるはし一本で粉砕してしまうのかもしれない。

 

 そんな淡い希望を抱きながら、新一は家路を急ぐのだった。




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