翌朝の空は、昨夜の惨劇を嘲笑うかのように突き抜けるような青さだった。登校する生徒たちの活気ある声、自転車のベルの音、予鈴のチャイム。それら平和な日常の音色が、泉新一の耳にはどこか遠く、膜越しの出来事のように響いていた。
昨日の放課後、あの中華料理店の厨房で起きた出来事は、新一の精神に決定的な楔を打ち込んでいた。頭部が刃物に変形する男。飛び散る血肉。そして、それを「ゲームのイベント」として処理し、首を斬られてもパンを食べて回復した少女。
パラサイトという生物学的脅威と、アレックスという物理法則的脅威。その二つに挟まれた新一は、睡眠不足で充血した目をこすりながら、重い足取りで教室に入った。
「おっ、泉! ログインお疲れ!」
教室の扉を開けた瞬間、その元凶であるアレックスが、屈託のない笑顔で手を振ってきた。彼女は自分の席で、机の上に奇妙な物体を積み上げていた。消しゴムのカスを集めて作ったような小さな球体だが、彼女曰く「スライムボールの代用品」らしい。
その首筋には、昨日の斬撃の痕跡など微塵もなく、白くなめらかな肌が教室の蛍光灯を反射している。
「…おはよう、アレックス」
新一は力なく返した。彼女の元気な姿を見るだけで、胃のあたりがキリキリと痛む。
「昨日はどうした? 急にログアウトしやがって。あの後、厨房の奥も漁ってみたんだが、レアアイテムどころか『腐った肉』の山で萎えたぞ。運営に通報案件だな」
「あの後もまだあの店にいたのか?」
新一は戦慄した。死体とパラサイトの残骸が転がる血まみれの厨房を「漁る」。その神経は、もはや鋼鉄どころか黒曜石で出来ているに違いない。
「まあな。戦利品確認は冒険者の嗜みだからな」
アレックスは、けろりと言ってのけた。この少女にとって、現実はあまりにも「ゲーム」であり、新一の抱える恐怖とは決して周波数が合わないのだと痛感させられる。
だが、新一の平穏を脅かすのは、何も人外の化け物たちだけではなかった。むしろ、高校生としてはこちらのほうが死活問題かもしれない。
「…泉くん?」
背後から、温度のない声が聞こえた。新一の背筋が、ミギーが警告を発した時と同じくらい、ビクリと跳ねた。恐る恐る振り返ると、そこには村野里美が立っていた。彼女は微笑んでいた。口元は綺麗な弧を描いている。だが、目は笑っていない。その瞳の奥には、絶対零度の吹雪が荒れ狂っていた。
「あ、おはよう、里美」
「おはよう、泉くん。昨日は部活の後、一緒に帰ろうと思って探したんだけど…いなかったね?」
村野の声は柔らかいが、そこに含まれる圧力は岩盤をも砕くほどだ。
「あ、ああ…ちょっと急用というか、その…」
新一はしどろもどろになり、視線を泳がせた。パラサイトを狩りに行っていたなどと口が裂けても言えない。
「そうなの? でも、目撃情報があるのよ」
村野が一歩、新一に近づく。
「アレックスちゃんと二人で、腕を組んで、裏通りの中華料理店に入っていったって……」
新一は心臓が止まるかと思った。田舎の高校の情報網を甘く見ていた。誰に見られていたんだ。
「おっ、里美! 情報が早いな!」
そこで、空気を読む機能が実装されていないアレックスが、嬉々として会話に割り込んできた。
「そうなんだよ! 昨日は泉とパーティ組んで、ダンジョン攻略に行ってたんだ!」
「…ダンジョン?」
村野の眉がピクリと動く。
「ああ! 店構えは最悪だったが、戦闘イベントは激アツだったぞ! まさか店主が、あんな高火力の攻撃を仕掛けてくるとはな!」
アレックスは、昨日の死闘を「激辛料理への挑戦」か何かのようなニュアンスで熱弁し始めた。
「泉もナイスアシストだったぜ。あそこで『右手の秘技』を使わなきゃ、全滅してたかもしれん」
新一は顔面蒼白になった。(余計なことを言うな!)と目で合図を送るが、アレックスには届かない。
「右手の秘技…?」
村野がオウム返しに呟き、新一の右腕をじっと見た。誤解が、雪だるま式に膨れ上がっていく。二人だけで食事に行き、そこで何か「秘技」を使った──村野の脳内でどのような変換がなされたのかは不明だが、彼女の表情から感情が抜け落ちていくのがわかった。
そして、村野はゆっくりと首を回し、アレックスへとロックオンした。
「アレックスちゃ〜ん?」
その声は、甘く、そして恐ろしかった。教室中の空気が凍りついたように感じられた。
「わ、私に断りもなく泉くんを連れ回して…ダンジョン? 秘技?」
村野がアレックスの肩に手を置く。その手には、美術室でヘッドロックをキメた時のような、確かな「殺気」が宿っていた。
「なんだ里美、お前も行きたかったのか?」
アレックスはキョトンとして、火に油を注ぐ。
「次は誘ってやるよ。あそこの店主はもうリスポーンしないだろうから、別の店になるけどな」
「…ええ。次は、逃さないから」
村野の手が、アレックスの頬をムニッと思い切りつねった。
「いたたた! ハートが! ダメージ判定がおかしいって!」
「ふふふ…アハハハ…」
乾いた笑い声を上げる村野と、物理無効のはずなのに女子のつねりには弱いアレックス。新一はその光景を遠い目で見つめながら、(ミギー、これが人間社会における闘争だ……)と心の中で報告した。
『理解不能だ。生殖パートナーを巡る争いにしては、非効率的すぎる』
ミギーの冷ややかなツッコミが、空しく脳内に響いた。
■
一時間目の授業が始まる前、全校集会のアナウンスが流れた。生徒たちはぞろぞろと体育館へ移動する。床のワックスの匂いと、数百人の生徒が発する熱気が籠もる体育館は、新一にとって息苦しい場所だった。
「だるいなー。こういうムービーシーンはスキップできないのか?」
隣に整列したアレックスが、小声で愚痴をこぼす。彼女はあくびを噛み殺しながら、虚空を見つめていた。おそらく脳内のHUDで何か別の作業でもしているのだろう。村野は少し離れた列に並んでおり、新一のほうを見ようともしない。冷戦状態は継続中だ。
校長先生の長い話が終わり、ざわつき始めた生徒たちに向かって、教頭がマイクを握った。
「静粛に。今日は皆さんに、新しい先生を紹介します」
新一は漫然と前を見ていた。産休に入った先生の代わりが来るとは聞いていたが、特に関心はなかった。頭の中は、これからどうやって村野の誤解を解くか、そして昨日のパラサイトの件が警察にどう処理されたかという不安で占められていたからだ。
「数学と理科を担当される、田宮良子先生です」
その名前が呼ばれ、ステージの袖から一人の女性が現れた瞬間だった。
ドクン。
新一の心臓が、早鐘を打った。いや違う。心臓ではない。右手が──ミギーが、かつてないほど激しく脈動したのだ。
『…新一』
脳内に響くミギーの声。それは、いつもの冷静なトーンとは異なり、明確な「警戒」、いや「畏怖」すら含んでいた。
『見るな。いや…どうしても見るなら、絶対に動揺を悟られるな』
(な、なんだよミギー…どうしたんだ?)
新一は冷や汗を流しながら、ステージ上の女性を凝視した。
田宮良子。長い黒髪を束ね、整った顔立ちをした女性教師。彼女は壇上の中央に進み出ると、生徒たちを見渡した。その視線が、新一のいる列を通過した──気がした。
『強い…』
ミギーが呻くように言った。
『昨日の料理店の個体とは、桁が違う。波長が…あまりにも明晰で、強大だ』
(まさか…あいつも?)
『そうだ。仲間だ。だが、単なる捕食者ではない。非常に高い知能を感じる』
新一の膝が震え始めた。学校に、パラサイトが教師として現れた。それはつまり、新一とミギーの存在に気づいており、監視しに来たということではないか? 逃げ場のない檻の中に、自ら閉じ込められたような閉塞感。
田宮良子はマイクの前に立つと、薄い笑みを浮かべた。
「田宮良子です。皆さんと共に学べることを楽しみにしています」
その声は美しく、抑揚もあった。だが、新一には分かってしまった。その笑顔が、精巧に作られた「表情筋のコントロール」によるものであることを。彼女の目は笑っていない。カメラのレンズのように、無機質に生徒たちを「データ」としてスキャンしている目だ。
「うわ…」
隣で、アレックスが小さく声を漏らした。新一はハッとして彼女を見た。アレックスは、いつものふざけた態度は消え失せ、真剣な眼差しで田宮良子を睨みつけていた。
「どうした、アレックス?」
新一が小声で尋ねると、彼女はボソリと呟いた。
「あの先生、テクスチャの解像度が異常に高いぞ」
「は?」
「わかるんだよ、マインクラフターの勘だ。周りのNPCとは、明らかにレンダリング処理が違う」
アレックスは、新一だけに聞こえる声で早口にまくし立てた。
「普通のモブじゃない。ネームタグの色が違うっていうか…例えるなら、ウィザーとかエンダードラゴン級の『ボスキャラ』のオーラが出てる」
彼女には、ミギーの波長感知能力はない。だが、その野生的な「ゲーマーとしての直感」が、田宮良子という存在の特異性を正確に捉えていたのだ。
「新一」
アレックスが新一の袖を引いた。
「気をつけろよ。あいつ、たぶん『敵対モード』にはなってないけど、イベントフラグ踏んだら即死攻撃してくるタイプのNPCだ」
ステージ上の田宮良子が、ふと、こちらを見た気がした。アレックスの視線と、田宮良子の視線が交差する。物理法則を無視する少女と、生物の理を超越したパラサイト。二つの異質な存在が、学校という日常の箱庭で対峙した瞬間だった。
『…新一。心拍数を抑えろ』
ミギーが警告する。
『彼女はこちらに気づいている。だが、今はまだ動くべきではない。泳がされているのは、我々のほうだ』
田宮良子は短く挨拶を終えると、優雅な足取りでステージを降りていった。拍手がまばらに起こる中、新一だけは掌にじっとりと汗をかき、身動きが取れずにいた。
集会が終わり、生徒たちがぞろぞろと教室へ戻り始める。
「さーて、今日の授業もだるいなー」
アレックスはいつもの調子に戻り、伸びをした。だが、その目は決して笑ってはいなかった。
「新一。私、今日の放課後は装備のエンチャント強化しとくわ。なんとなく、ダイヤの剣一本じゃ足りない気がする」
「ああ、頼むよ」
新一は頷いた。新たな教師の着任。それは、新一の学校生活が、パラサイトたちの実験場へと変貌したことを告げる合図だった。村野の嫉妬、アレックスの暴走、そして田宮良子の冷徹な観察眼。
三方向からのプレッシャーに挟まれ、泉新一の日常は音を立てて崩れ去ろうとしていた。
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