僕の常識が息をしていない   作:最高司祭アドミニストレータ

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強盗だ! 金を…う、うわぁぁぁ!?


強盗

 放課後のチャイムが鳴り、生徒たちが部活動や帰路へと散っていく。普段なら開放感に満ちるはずの時間帯だが、今日の泉新一の足取りは鉛のように重かった。

 

 校舎の三階、職員室のある方角から、ねっとりとした視線が背中に張り付いているような気がしてならない。

 

 田宮良子。新任教師として現れた、知能の高いパラサイト。彼女はまだ直接的な攻撃を仕掛けてはこなかったが、その存在自体が「お前たちの日常は完全に掌握した」という無言の宣告のようだった。

 

 

「…帰ろう」

 

 

 新一は誰に言うでもなく呟き、校門を出た。隣には、いつもなら騒がしいアレックスの姿はない。彼女は「装備の強化には経験値トラップの稼働が必要だ」などと意味不明な言葉を残し、どこかへ消えてしまった。一人になると、不安は澱のように心に溜まっていく。

 

 

(母さんと父さん、今日帰ってくるはずだよな…)

 

 

 新一の両親は、数日前から伊豆へ旅行に出かけていた。本来なら楽しい土産話を聞くはずの帰宅日。だが、新一の脳裏には、どうしても不吉な予感がよぎってしまう。

 

 もし、旅先でパラサイトに遭遇していたら? 

 もし、家に帰ってきた両親の中身が、別物にすり替わっていたら? 

 

 

『新一。心拍数が乱れている』

 

 

 右手のミギーが、鞄の陰から冷静に指摘する。

 

 

『不確定な未来を憂うのは人間の悪い癖だ。だが、警戒を怠らないのは良いことだ。家に近づくにつれ、私の感知能力も精度を増す』

 

 

 自宅のある住宅街に入った。夕暮れ時の街並みは、オレンジ色に染まり、平和そのものに見える。犬の散歩をする老人、買い出し帰りの主婦。だが、新一は知っている。この薄皮一枚の平和の下に、人を食らう者たちが蠢いていることを。

 

 角を曲がり、泉家の屋根が見えた時だった。

 

 

 

『…いるぞ』

 

 

 ミギーの声が、鋭く脳髄を叩いた。新一の足が凍りつく。

 

 

「え…? 何が…パラサイトか!?」

『いや、違う。脳波の波長は人間だ。だが、極度の興奮状態にある個体が、家の中にいる。複数だ』

「家の中に…!?」

 

 

 パラサイトではない。だが、興奮状態の人間が複数。それはつまり、トラブルだ。新一は恐怖よりも、「両親に何かあったかもしれない」という焦燥感に突き動かされ、アスファルトを蹴った。

 

 

「母さん! 父さん!」

 

  

 玄関のドアに駆け寄る。鍵は開いていた。中から、ドタン、バタンという、家具が倒れるような荒っぽい音が聞こえる。そして、男の怒鳴り声。

 

 

「金だ! あるだけ出せっつってんだよオラァ!」

 

 

 強盗だ。旅行から帰ってきたばかりの家を狙ったのか、あるいは留守だと思って侵入し、鉢合わせたのか。

 

 新一の血の気が引く。相手が人間なら、パラサイトほどの絶望的な戦力差はないかもしれない。だが、凶器を持っていたら? 高齢の両親に勝ち目はない。

 

 

「ミギー、力を貸せ!」

『相手が人間の場合、私は干渉しない契約だ。だが、お前が死ぬリスクがあるなら排除する』

「くそっ、やるしかない!」

 

 

 新一は勢いよくドアを開け放ち、靴を脱ぎ捨ててリビングへと飛び込んだ。

 

 

「やめろッ!!」

 

 

 リビングの光景が目に飛び込んでくる。ひっくり返った椅子。散乱した雑誌。そして、部屋の中央で対峙する二つの影。

 

 一つは、目出し帽を被り、右手にバタフライナイフを握りしめた小柄な男。全身黒ずくめで、いかにも「強盗です」といった風体の男が、肩で息をしながらナイフを突き出している。

 

 そして、もう一人。その男と対峙し、仁王立ちしている人物。エプロン姿ではない。旅行用のチュニックを着た、少しふくよかな女性。新一の母、泉信子だった。

 

 

「母さん!」

 新一が叫んだ瞬間、強盗が信子に向かってナイフを振りかざした。

「うるせえ! 息子が帰ってきやがったか! ならまずはテメェから刺してやる!」

「危ないッ!!」

 

 

 新一が飛び出そうとした、その時だ。

 

 信子は一歩も退かなかった。悲鳴を上げることも、腰を抜かすこともなかった。彼女は、まるで生意気な子供を叱りつける時のような、ひどく不機嫌そうな顔で舌打ちをした。

 

 

「ったく、旅行帰りで疲れてるってのに!」

 

 

 信子の右手が閃いた。彼女が握りしめていたのは、包丁でもフライパンでもない。旅行の土産袋から取り出したと思われる、とてつもなく重そうな「木彫りの熊」の置物だった。北海道土産の定番、鮭をくわえた荒々しいヒグマの彫刻。しかも特大サイズだ。

 

 

 ゴッ!!!

 

 

 鈍く、重い音がリビングに響き渡った。信子の振るった木彫りの熊が、強盗の右腕──ナイフを持った手首を、的確に、かつフルスイングで打ち砕いたのだ。

 

 

「あぎゃああああッ!?」

 

 

 強盗が悲鳴を上げ、ナイフを取り落とす。だが、信子の攻撃は終わっていなかった。彼女は流れるような動作で、ひるんだ強盗の顔面に向かって、もう一度「熊」を突き出した。殴打ではない。熊の鼻先を、強盗のみぞおちにねじ込むような、鋭い突きだ。

 

 

 ドスッ。

 

 

「うぐっ……!?」

 

 

 強盗の目が白黒し、呼吸が止まる。男は泡を吹きながら、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。ピクリとも動かない。完全なK.O.だ。

 

 リビングに静寂が戻った。新一は呆然と立ち尽くし、口をパクパクさせていた。

 

 

『…見事だ』

 

 

 ミギーが感心したように脳内で呟く。

 

 

『人間という種の雌は、子を守る際、あるいはテリトリーを侵された際、筋力リミッターを一時的に解除する事例があるとは聞いていたが。今の打撃、角度といいタイミングといい、完璧だった』

「母…さん?」

 

 

 新一がおそるおそる声をかける。信子は「ふぅ」と大きく息を吐き、血のついていない木彫りの熊をテーブルに置いた。そして、乱れた髪を手で直し、新一の方を向いた。

 

 

「あら新一、お帰り。早かったのね」

 

 

 その声は、あまりにも日常的で、平然としていた。足元に転がる気絶した強盗など、まるで床に落ちたゴミ程度の認識しかないようだった。

 

 

「い、いや、お帰りって…これ…」

 

 

 新一は指差すことしかできない。そこへ、ソファーの陰から父親の泉一之が顔を出した。青ざめた顔で、携帯電話を握りしめている。

 

 

「の、信子…け、警察には通報したぞ…。お前、無茶をするなよ…」

「あら、あなた隠れてたの? 男ならガツンと言ってやりなさいよ」

 

 

 信子は夫を一瞥し、呆れたように肩をすくめた。

 

 

「でも、こいつがいきなり刃物出すから…。いやあ、この熊、思ったより持ちやすかったわ。『手触りがいいグリップですね』って店員さんが言ってた通りだわ」

 

 

 新一は膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。生きていた。パラサイトに乗っ取られることもなく、強盗に刺されることもなく。母は強かった。物理的にも、精神的にも。

 

 

「よかった。本当によかった…」

 

 

 新一の目から、安堵の涙が滲んだ。最悪の想像ばかりしていた自分が馬鹿らしくなるほど、母はいつも通りの「オカン」だった。

 

 

「何泣いてんのよ、だらしないわねえ」

 

 

 信子は新一の頭をわしゃわしゃと撫でた。その手は温かく、人間の体温そのものだった。

 

 

「あ、そうだ新一。ちょっと手伝ってちょうだい」

「え?」

 

 

 信子は旅行鞄をごそごそと漁り始めた。

 

 

「あの子、アレックスちゃんにお土産頼まれてたのよ。『現地の特産品を確保せよ』とか言われて、リスト渡されたんだけど」

 

 

 信子が取り出したのは、木彫りの熊だけではなかった。乾燥した昆布、地層の断面がわかるような奇妙な石、そして「わさび漬け」の瓶詰めが大量に。

 

 

「あの子ったら、『お金くれる自称ヒトさん』なんて変なあだ名で私のこと呼ぶくせに、お駄賃だけは弾むんだから。これ全部買ってこないと、家の周りに『黒曜石の壁』を作るって脅されたのよ」

 

 

 新一は乾いた笑いを漏らした。

 

 

「母さん、アレックスにパシリにされてるの?」

「パシリじゃないわよ! ギルドの依頼よ!」

 

 

 信子は憤慨しながらも、どこか楽しげだった。

 

 

「あの子、変わってるけど…まあ、悪い子じゃないしね。この熊も、『近接武器としての性能をテストしたい』とか言ってたから買ってきたのよ。まさか私がテストする羽目になるなんてねえ」

 

 

 新一は愕然とした。この木彫りの熊は、アレックスへの土産──いや、アレックスが注文した「武器」だったのか。そして、母はそのアレックスのペースに完全に巻き込まれ、順応してしまっている。「お金くれる自称ヒトさん」という酷い呼び名も、もはや定着しているらしい。

 

 

『なるほど』

 

 

 ミギーが分析する。

 

 

『君の母親が、先ほどの強盗に対し躊躇なく暴力を振るえた理由の一端が見えた。彼女は、アレックスという「異常存在」と日常的に接することで、非日常的なトラブルに対する耐性を獲得しているようだ』

(…アレックスのせいかよ)

 

 

 新一は脱力したが、同時に感謝も湧いてきた。あのアメリカ人の少女が家に上がり込み、好き勝手なお使いを頼んでいるおかげで、母は強くなった。パラサイトの恐怖が蔓延する世界で、この図太さは最大の武器になるかもしれない。

 

 

「う〜…」

 

 

 床で強盗が呻き声を上げ始めた。意識が戻りかけているようだ。

 

 

「あ、動いた」

 

 

 信子は瞬時に「戦闘モード」の目になり、再び木彫りの熊を構えた。

 

 

「まだやる気? 今度は鮭の部分で殴るわよ?」

「ひ、ひぃぃ…! ごめんなさい! もうしません!」

 

 

 強盗は涙目で縮こまった。そこへ、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。

 

 日常は戻ってきた。多少乱暴な形ではあるが、新一が守りたかった「人間の家族」の姿がそこにあった。田宮良子の監視、ミギーとの共生、そしてアレックスという爆弾。

 

 問題は山積みだが、今日のところは、この強い母の背中を見ているだけで十分だった。

 

 

「新一、今日の晩御飯はわさび漬けとお刺身よ。アレックスちゃんも呼ぶ?」

「あいつは…呼ばなくていいよ。たぶん、生魚は『食中毒デバフ』とか言って食わないから」

「なによそれ、贅沢ねえ」

 

 

 新一は立ち上がり、母の荷物を持った。その重みは、確かな生命の重みだった。

 

 

(母さんは強いなァ)

 

 

 新一は心の中でそう呟き、強盗を警官に引き渡すために玄関へと向かった。奇妙な共存生活は続く。

 

 だが、この家には、パラサイトをも凌駕するかもしれない「最強の母」がいる。その事実が、新一にとっての小さな、しかし確かな希望となったのだった。




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