放課後の理科準備室から出た泉新一は、深い溜息をついた。背中にじっとりと、冷たい汗が張り付いているのが分かる。新任教師・田宮良子との対話は、想像以上に精神を削るものだった。彼女は自身の正体を隠そうともせず、むしろそれを誇示するかのように、冷静に語りかけてきたのだ。
『彼女は我々とは違う』
右手のミギーが脳内で低い唸り声を上げる。
『高い知能と明確な目的意識。単なる捕食者ではない。新一、奴は我々を観察対象として見ている』
新一は無言で頷いた。田宮良子の瞳には人間を餌として見る以上の、冷徹な光が宿っていた。「アレックスという自称人間にも興味がある」と、彼女は言った。あのマインクラフターの少女の存在が、パラサイト側にも認識され始めている。それは、事態がより複雑化することを意味していた。
「…とにかく。今は何も起きなくてよかったと思うしかない」
新一は自分に言い聞かせるように呟くと、重い足取りで廊下を歩き出した。窓の外は既に茜色に染まり、校舎内には静寂が満ち始めている。早く帰ろう。今日はもうこれ以上、心臓に悪い出来事は御免だ。
そう思った矢先だった。廊下の角を曲がった先にある階段の踊り場から、奇妙な音が聞こえてきた。
「ぎ、ぐ…っ」
何かが締め上げられるような、苦悶の声。そして、床をバタバタと叩くタップ音。パラサイトの捕食現場か。新一の心臓が早鐘を打つ。
『新一。警戒しろ』
ミギーが即座に反応し、右腕の筋肉が硬質化する。
『しかし、波長は人間だ。殺気はあるが、パラサイト特有の信号ではない』
新一は壁に身を隠しながら、慎重に踊り場を覗き込んだ。
そこには二人の少女がいた。一人は幼馴染の村野里美。もう一人はアレックス・スティルウォーター。だがその構図は新一の予想を遥かに超えていた。
村野がアレックスの背後に回り込み、完璧なフォームでスリーパーホールドを決めていたのだ。彼女の細い腕がアレックスの首に蛇のように絡みつき、頸動脈を的確に圧迫している。
「ぐえぇ…っ!? ハートが…減る…酸欠デバフ…」
アレックスは白目を剥きながら、必死に村野の腕をタップしている。が、村野の表情はピクリとも動かない。むしろその顔には、菩薩のような穏やかな笑みが浮かんでいた。その瞳だけは、深淵のような漆黒を湛えている。
「さ、里美?」
新一が恐る恐る声をかけると、村野がゆっくりと顔を上げた。
「あら泉くん。お帰りなさい」
その声は鈴を転がすように愛らしいが、腕の力は緩まない。
「先生とのお話は終わったの?」
新一は背筋が凍りつくのを感じた。なぜ彼女が、それを知っているのか。
「う、うん。ちょっと進路のことで…」
「そう…進路ね。田宮先生と二人きりで…随分と熱心なのね」
村野はアレックスの首を絞めたまま、新一の方へと一歩近づいた。引きずられるアレックスが、「ヒィッ」と悲鳴を上げる。
「こいつ…私が告げ口しようとしたら…背後からクリティカル…」
アレックスが掠れ声で訴える。
「黙っててねアレックスちゃん」
「ごめんなさい」
村野が腕にキュッと力を込める。アレックスのHPバーが見えるとしたら、間違いなく赤色点滅していることだろう。
「泉くん」
村野が再び新一を見据える。
「私ね。泉くんが何をしてても信じてるよ。でもね。最近コソコソしすぎじゃないかなって。アレックスちゃんとは中華料理店に行くし。今日は美人の女先生と密室だし」
彼女の笑顔が深まるにつれ、周囲の気温が下がっていくような錯覚を覚える。
「私だけ仲間外れなのかなって。少し寂しいの」
『新一、これは危険だ』
ミギーが戦慄した声で告げる。
『彼女の脳内物質の分泌量が、異常値を示している。パラサイトの殺意とは異質な、粘着質の感情エネルギーだ。下手に刺激すれば、我々の存在が露呈するリスクよりも、君の社会的な死が確定する恐れがある』
(わかってるよ! どうすればいいんだ!)
新一は必死で言い訳を探した。
「ち、違うんだ里美! 田宮先生には…そう! 勉強の遅れを指摘されてて! アレックスはその証人というか…」
「ほう? 私を巻き込む気か? パーティ追放するぞ」
アレックスが余計な口を挟もうとした瞬間、村野のアイアンクローが彼女のこめかみを粉砕せんとばかりに、ギリギリと音を立てた。
「ヘルメットすればよかったあがががが!?」
「嘘は駄目だよ? 泉くん」
村野は静かに言った。
「私見てたのよ。泉くんが教室を出ていく時。すごく怯えてた顔をしてた。勉強の話であんな顔する?」
鋭い。彼女の観察眼は時として、パラサイトの探知能力すら上回る。
「ごめん」
新一は素直に謝ることを選択した。
「詳しくは言えないんだけど、本当にやましいことじゃないんだ。ただちょっと、厄介なことに巻き込まれてて」
「厄介なこと?」
「うん。でも里美には関係ない…いや関係させたくないんだ。危険だから」
村野の手がふっと緩んだ。解放されたアレックスはその場に崩れ落ち、「ぜぇぜぇ、リスポーン地点が見えた…」と床に突っ伏して荒い息を吐いている。村野はアレックスを跨いで新一の目の前まで歩み寄るとその胸にそっと手を当てた。
「泉くんがそう言うなら待つよ」
彼女の声から冷徹な響きが消え、いつもの温かさが戻っていた。
「でもね。これだけは覚えてて。私が怒ってるのは、泉くんが隠し事をしてるからじゃないの。泉くんが一人で、何処か遠くに行っちゃいそうな顔をしてるのが…怖いの」
新一は胸が締め付けられる思いがした。彼女は感じ取っているのだ。新一が人間としての日常から逸脱しつつあることを。そしてそれを必死に繋ぎ止めようとしてくれている。
「ありがとう里美。絶対に戻ってくるから」
新一は、彼女の手を握り返した。その温もりが、右手の冷たい寄生生物とは違う、確かな人間の証だと再確認する。
「うん! 信じてる」
村野はニッコリと笑うと、「じゃあ帰ろっか」と鞄を持ち直した。そして床で伸びているアレックスを見下ろし、「アレックスちゃんも行くよ? 途中まで送ってあげる」と、優しく声をかけた。
「…鬼だ。この女は、エンダードラゴンよりタチが悪い」
アレックスは涙目で立ち上がり首をさすりながら、新一の背後に隠れた。
「おい泉。お前の幼馴染のステータスどうなってるんだ? 筋力に全振りしてないか? 私の防御力が貫通されたんだが…いてて」
「…自業自得だろ。余計なことを言おうとするからだ」
新一は小声で返す。三人は夕暮れの廊下を歩き出した。先頭を行く村野の背中は、華奢で守ってあげたくなるような少女そのものだ。
だが新一とアレックスは、知ってしまった。その内側に眠る「ヒロインとしての覚悟」と、「嫉妬という名の破壊衝動」を。
校門を出ると、夕日が長く影を落としていた。田宮良子という、パラサイトの脅威。そして、村野里美という日常の番人。二人の「怪物」女に挟まれた泉新一の胃痛は、当分治まりそうになかった。
「ねえ泉くん。今度の日曜日空いてる?」
不意に村野が振り返る。
「え? あ、ああ。今のところは」
「じゃあデートしよっか。中華料理店以外で」
最後の言葉に釘を刺され、新一は「はい」と直立不動で答えるしかなかった。隣でアレックスが「デートイベント発生! 選択肢を間違えるなよ?」とニヤニヤしていたが、村野の視線を感じて即座に口を閉じた。
平穏とは程遠い放課後。だがこれもまた、人間らしい日常の一コマなのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、新一は家路についた。
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