【SENSE~Beyond the blue sky.~】   作:柳川 秀@尾上 愛【新人Vtuber】

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第03話【戦】

 

 

 

 夏がやってきた。

 訂正。夏はとっくの昔にやってきていて、俺たちはそれで「もう夏だなー」とか呑気に解った気になっていたけど、本当の暑さは夏休みに入った今日その真価を発揮し始めたのだ。

 

 この町は山地の麓、盆地にある。

 県北だから冬は膝くらいまで雪が積もることもある。

 では夏は涼しいのかと言われるとそうではなく、山に閉じ込められた熱は籠るため結局ひどく暑い。

 

 湖のある峡谷の方まで行けばそれなりに涼しいし、観光地として知られている鍾乳洞の中はひんやりしているけど、そこまでは車で20分くらい掛かる。

 自転車では1時間弱、着くまでに汗だくになるのは必至だ。

 

 ついでに説明すると、町の特産品は米、和牛、林檎、酢と酒。

 あと石灰石がよく採れる。セメントや漆喰、ラインパウダーに使われる白い粉の原料だ。アカウミが持ってそうな怪しいのではなくて。

 

 出身の有名人は、プロ野球選手が2人と和太鼓奏者、舞台役者、映画監督。

 この監督は割と有名シリーズの監督兼脚本を長く務めているけど、地元愛がどうのという感じの人ではない。

 ……もしも人々が神様のことをもっと信じていれば、そこにダサイの幼馴染という、この星の支配者も含めることになる。

 

「お前は支配者に会ったことがあるのか?」

「ぬ? 唐突千万だな。もちろんあるとも」

「どんな人なんだ?」

「そうさな――、不思議なお方さ。何故あれほどまで忘己利他に生きられるのか、露ほども解らぬ。この町に来てみれば少しは掴めるかと思ったが、見当違いだったようだ」

 

 町の中心にある大きな橋――といっても()()()()()()()という意味であり、たった50m程しかないが――の上。

 俺と月夜音は、川で遊んでいるスクール水着姿の女児たちを見下ろしていた。

 

 水深は殆どの所で浅く、小学校低学年と思しき子供たちだけでも問題はない。

 多少深い所があっても、少し流されればゴロゴロした岩で出来た中州に辿り着くだろう。

 

「そうか、そのためにこの町に来たのか。……そんなに支配者のことが気になるのか?」

「フッ、すぐ色恋沙汰に結びつけるか? 思春期の坊やらしい発想だな」

 

 辛辣。

 

「ただの興味本位だ。それに、支配者様には奥方がいらっしゃる」

「え、そうなのか?」

「ぬ? 意外なことか?」

「いや……なんとなくそういう博愛主義者って、特定の個人に愛情を注ぐイメージなくて」

「ああ、お前の好きな特撮の主人公か。確かに、あ奴が結婚するところなど、想像もつかぬな」

 

 ついて来られても授業に集中できなくなるし、俺が学校にいる間家に留めておくため、最近は自室へポータブルDVDプレイヤーを持ち込んで月夜音にあの特撮を観させていた。

 ちょうど昨日最終回を観終わって、俺が終業式から帰ってくるなり「さっさと荷物を置け。感想を語らいたい」と言ってきた。

 ゼロにも気に入られる作品だったようでなによりだ。

 

「そういう者でさえ惹かれるほどの何かがあった。そういうものなのだろう? 愛というのは」

「……。お前は――」

 

 「誰かを愛したことがあるのか?」と聞こうとした、その矢先。

 

「なになにカゼ~? ロリ眺める趣味があったん? ネタにしてい?」

 

 後ろからアツシが話しかけてきた。

 

「いいワケないだろ、冤罪だ」

 

 隣にはあのとき俺が手伝いに入らなかった学級委員――綱原 義也(ツナハラ ヨシヤ)がいて、その後ろにはゼロと思しき2人の少女が立っている。

 

 ヨシヤの髪は、俺のボサボサとは違ってツンツン跳ねている。

 黒眼鏡の奥に見える吊り目は鋭く、家は裕福で、「少女漫画に出てくる女殴ってそうな御曹司に似ている」とかで女子からの人気は割と高い。

 ……そういうキャラが人気なことは理解できないけど。

 

「アツシ、ああいう歳の子を好むのはロリコンではなくペドフェリアと呼ぶそうだよ」

「ノるのか……」

「ペド、フェリア……?」

 

 ゼロの片方は赤茶色のウェーブ掛かった長髪をしていて、それより少し濃い色の垂れ目をしていた。

 見かけは月夜音と同じく俺たちと然程離れていないが、身長は少し低めだ。

 

「覚えなくていーよ、多分」

 

 もう片方のゼロはエメラルドの髪と、同じくそれより少し濃い吊り目をしている。

 髪はショートで、前髪を後ろに持ち上げてヘアピンで留めていた。身長は先のゼロと同じくらい。

 

「ウト! 久しいな!」

「つきよねぇ様!」

 

 月夜音が前者のゼロに抱き着いた。

 満面の笑みで。俺には一度も見せたことのないそれはもう嬉しさに満ち溢れたという笑みで。

 

「ウト……何かで見て烏に兎って書く言葉を知ってるが、それか?」

「あ、えっと、うちは干支の卯に兎で卯兎(ウト)って書きます。ヨシヤさんのゼロで、始まりのゼロです!」

 

 吊り目同士でペアかと思ったが、ヨシヤのゼロは垂れ目の方か。

 

「どういう知り合いだ?」

「私が妹のように可愛がっている存在だ! ああ、なんと愛くるしい! いつまでも抱いていたくなる!」

「つ、つきよねぇ様。苦しいです……っ」

 

 愛玩動物を愛でるみたいに頬をスリスリしている月夜音。

 ちょっと困惑気味だが、嫌がっている様子ではないウト。

 

「ちょっと! ウトと一番仲良しなのはあたしだよっ!」

 

 そこにもう片方の、アツシのゼロが割って入る。

 

「なんだガマホ、いたのか」

「いたよ最初からっ!」

「……まさか、蒲の穂って書いて蒲穂(ガマホ)か?」

「ん? そうだけど? よく分かったね、あんた。あ、あたしはアツシのゼロで終わりのゼロね。よろしくっ!」

 

 因幡の白兎かよ。

 

「というか、妹分? ゼロにも年齢の概念があるのか?」

「乙女に齢を聞くのか? お前が如何に異性と関りを持ってこなかったか、よく分かるぞ」

 

 辛辣。

 

「無駄話はこのくらいにして、そろぼち本題行っちゃう?」

「元はといえばお前が俺に濡れ衣吹っ掛けてきたんだけどな」

「呼び出した理由、説明してやんなよヨッシー」

「無視か」

「ヨッシーと呼ぶな。……カゼ、これを」

 

 ヨッシーもといヨシヤが手渡してきたのは1枚のチラシで、町外れの温泉施設にある屋内プールで水泳大会が行われることを告知するものだった。

 

「覚えているかい? 僕は忘れていないよ。2年前、中学最後の水泳大会――」

「俺が夏風邪ひいたせいで有耶無耶になった決着を、ここでつけようってことか? 冗談じゃないぞ。中学のときだって結構嫌々だったのに、高校生になってまで人前で水着着て競うなんて」

「因縁のライバル同士の戦いってヤツ?」

「そんなんじゃない」

「いい記事になりそうじゃん?」

「こんなのを書く気か」

「つーかもう記事にしたけど」

「は?」

「学内新聞を読んでいないんだな、君は。いや、普通の新聞すら読んでいなさそうだが。星の支配者になりたいのならば、もっと世界に関心を向けるべきだよ」

 

 思わずめちゃくちゃ怪訝な顔を向ける俺。ニヤリとした笑みを返してくるヨシヤ。

 コイツと話すと大抵こうやってなんとなく論破された感じになるので嫌になる。

 

「見たまえ」

 

 今度は学内新聞を差し出された。

 新聞といってもA4片面印刷1枚のものだが、そこにはデカデカと「因縁の二人、決着へ――勝つのは王子かカラスか」と、俺たちのことが詳細に取り上げられている。

 

「色々と言いたいことはあるが」

「じゃあ何も言うなし」

 

 何も言うなし?

 

「既に多くの生徒に読まれている。もう逃げ出すことは叶わないよ」

「ほう、これはしてやられたな。となれば、正々堂々こ奴との決闘を受けるほかあるまい?」

「マジか……」

 

 

 


 

 

 

 当たり前だが、中学の水着は学校指定の物である。

 女子は紺よりちょっと青に近いスクール水着。男子は同じ色のブリーフ型の水着。

 当たり前だが、高校2年生になってまでそれを着たくはない。というかとうに捨てた。

 だから俺は今、なけなしの小遣いを使ってもっとマシな水着を買いに来ている。

 

 この田舎町にはショッピングモールは愚か、デパートすらない。

 あるのは、スーパーが2軒、ドラッグストアが2軒、家電屋が1軒、ホームセンターが1軒、本屋が1軒、コンビニが3軒、その他個人経営の小さな店がちらほら。

 

 スーパーの片方、町の中心部にあるのは昔商店街の店たちが集まって作られたものだ。

 中は3,000㎡ほどあり、食料品店だけでなく、おもちゃ屋や100円ショップ、そして衣料品店も入っている。

 

 当たり前だが、まともな衣料品店がそこにしかないのだからみんなそこに行くワケで、こうして水着を選んでいるところを同級生に目撃される可能性は非常に高い。

 だから俺は今、安くて見栄えの悪くない物を可能な限り早く探し出そうと血眼になっている。

 

「向こうにある品の方が適しているのではないか?」

 

 月夜音が指さしていたのは、オリンピック選手が愛用しているようなハーフスパッツタイプ――股間から膝上あたりまでピッチリと肌に密着するタイプだった。

 

「誰があんなの着るか」

「ではアレはどうだ?」

 

 今度は逆三角形型で最も肌面積の多くなるタイプ、ご存知ブーメランパンツタイプを指してくる。

 

「お前……茶化すためについて来たのか?」

「至極真面目に助言しているとも。真剣勝負なのだろう? あ奴はああいう速く泳ぐのに最適化された物を着てくるに違いない。それともなにか? お前は手を抜くつもりか?」

「……。やるからには精々頑張るさ。俺からしても2年前の件には思うところがある」

「ならば見てくれに拘っている場合ではあるまい?」

「機能的には文句なしでも、周りからの目線気になる水着なら、まともに泳げるものも泳げなくなるだろ」

「フッ、思春期の坊やらしいな」

「ああそうだ、思春期真っ盛りの坊やだ。いいから黙って――」

「虚川くん?」

 

 ふんっと、舌を噛んでも構わないという勢いで口を閉じた。

 月夜音の姿は普通の人間には見えない。俺が水着売り場で独り言ボソボソ呟いている変人として広まるのだけは回避したい。

 

 俺は部活に所属していない。だから関わりのある後輩も先輩もいないし、俺のことを「虚川くん」と呼ぶのは同級生くらいしかいない。

 まずい。誰だ。というか女子だ。

 ただでさえ水着を選んでいるところなんか見られたくないのに、ヨシヤとの対決のことを囃し立てられたら、俺の顔は熟れたトマトみたいになってそのまま果汁ブシャーと弾けるに違いない。

 

「水泳大会の水着、選びに来たの?」

 

 はい、ブシャーします。

 

 声をかけられて、恐る恐る顔を向ける。

 そこにいた女子の顔を見て、俺は言葉を失い、さっきまで嫌だなぁと細めていた目を大きく見開いた。

 

 花野 星(ハナノ セイ)さんだ。

 明るめの茶髪は肩くらいまでの長さで、内巻きになっている。目は垂れ目気味で、いつも微笑んでいるように見えた。

 空の低いところみたいな薄水色のゆったりしたTシャツに、入道雲みたいな白色のロングスカートを着ている。

 

 全体的にほんわか優しい印象の彼女は同級生で、教会がやっていた託児所に共に通っていた最後の一人だ。

 

「こんにちは」

「こ、こんにちは。……花野さんは、どうしてここに?」

「わたしも水着を選びに来たの。水泳大会に出るんだ」

 

 彼女は女子テニス部所属。だが、小学生の頃から水泳が得意なことはよく知っていた。

 

「中学の頃の水着、もう捨てちゃったから……サイズも変わってると思うし。虚川くんもそんな感じ?」

「ああ、うん、そんなとこ」

「……。あんまり乗り気じゃない?」

「……まぁ」

 

 なんで分かるんだ。

 

「そっかそっか。……わたしはね、ちょっぴり嬉しいんだ」

「嬉しい?」

「うん。虚川くんにヨシヤくんが勝負を持ち掛けて、アツシくんがみんなに広めて。きっとマミちゃんも面白がるし、イチくんが虚川くんの味方をするよね。なんだかあの頃みたいで懐かしくて、嬉しくなっちゃって」

 

 花野さんの声はやわらかく、やさしく、聴いていて穏やかな気持ちになる。

 今この場が水着売り場で、自分が学校中に知れ渡った対決の準備中でなければ、もっと癒されていたくなっただろう。

 

「……自分勝手、かな」

「いや、そんなことない。……俺、正直言って、もうあの頃みたいにみんなの輪の中には戻れないんだと思ってたっていうか、戻るつもりがなかったというか……。だから、学校新聞で取り上げられたのはともかく、花野さんがそう思ってくれて、嬉しい」

「……うん、よかった。わたし、虚川くんを応援するね」

 

 花野さんが、手に持っていた買い物カゴを隠しながら去って行く。

 

「王子よりカラスを応援する?」

「うん! だって、女の子殴ってそうな人より、優しい人の方が好きだからね!」

 

 俺に選んだ水着を見られるのが恥ずかしかったんだろう。

 

「――想い人か」

「違う」

 

 それまでちゃんと黙っていた月夜音のセリフを即答で否定した。

 

「花野さんは……イチのことが好きなんだよ」

 

 花野 星、はなのせい、()()()

 すごく小さい頃、名前を弄られてイジメられていて、俺が助けようとして、助けられなかった女の子。

 結局助けたのは――花野さんにとってのヒーローは、イチだった。

 

 

 


 

 

 

 屋内プールは2階建てになっていた。

 1階中央に25mが8レーン。隣に少し浅めの中規模プールと、かなり浅めの幼児プールがある。

 2階は中央が吹き抜けになっていて、周囲はウォーキングデッキになっているらしい。本格的な機器の整備されたトレーニングルームもあると、案内板に書いてあった。

 

「カーゼっ! んな緊張すんなよぉ」

「してない」

「膝震えてんじゃねぇか」

「これは……、筋肉痛になってるだけだ」

 

 あの日から今日まで1週間。その間毎日このプールに通い、運動神経抜群のイチに泳ぎ方を教わった。

 ただ、本当に筋肉痛になるほど無茶させられたワケではないが、イチの教え方は「バーってしてそのタイミングでガッてしたら後はダァー」という感じで、役に立ったのか立たなかったのかは分からない。

 

 水泳大会は小学校低学年、中学年、高学年、中学生男子、中学生女子、高校生男子、高校生女子、成人男子、成人女子、シニア男子、シニア女子の部に分かれている。全て25mのフリーだ。

 各部数人ずつ参加者が集まっているようだが、高校生男子は気を遣われたのか俺とヨシヤだけしかいない。代わりにアツシの記事のせいでギャラリーは結構いた。

 合わせて100以上の人々が水着だったり水着じゃなかったりでそこにいる。

 

「綱原くん、頑張ってぇ~っ!」

「負けないでぇ、王子ぃ~っ!」

「こっち向いてぇ~っ!」

 

 高校生男子の部直前、同級生女子たちから黄色い声が飛んだ。

 

「一騎打ちとは都合がいいね」

 

 スタート台の前、手を挙げて応えるヨシヤはハーフスパッツタイプの競泳水着を履いている。

 

「あんな記事出されて、誰が自分も参戦しようってなるかよ」

 

 対して俺は競泳用でもない普通のトランクス型を履いていた。

 

「まぁそれも含めて僕の計略だが」

「……俺との勝負に執着する理由は何だ?」

「あれ以降、君は僕を避けるようになった。それだけじゃない。どんどん君は僕たちから遠ざかるようになった」

 

 水泳帽の具合を確かめゴーグルをする。

 

「そうして孤独ぶっている君を輪の中に連れ戻そうと、そういうワケだよ」

「なんで、そんな……」

「決まっているだろ? 友達だからだよ」

 

 ホイッスルが長く鳴らされて、ヨシヤに対し目を丸くする間もなくスタート台に上がった。

 

「カラスぅー! アタシは応援してるからねーっ!」

 

 人混みの中、恥ずかしげもなく唯一俺に対して大声援を送ってきたのはマミだ。

 

「良かったじゃないか、君にも応援してくれる女子が1人はいて。君のゼロも合わせれば2人か?」

「……3人だ」

「うん?」

 

 「Take your marks」、ピッ。

 水に飛び込む。手足を真っ直ぐ伸ばす。水を突き裂く。沈んでいた身体が浮かぶ。空気を吐く。右腕を後ろから回す。足をバタつかせる。右腕が前に来るのと同時に左腕を後ろへ。顔を左に向けて空気を吸う。

 繰り返す、繰り返す。ただ一生懸命にクロールを繰り返す。呼吸のタイミングで隣のレーンが見える。ヨシヤの姿がない。自然と気持ちが高揚する。勝てる。俺は久しぶりに、勝てる!

 

 右の足裏に痛みが走る。ピキィンとした激痛が走る。バタ足ができなくなる。体勢が崩れる。水を飲み込む。頭が真っ白になる。

 ヨシヤがゴールの壁にタッチする姿が見えた。彼がこちらを振り向く前に、俺は水の中へ沈んで行った。

 

 

 


 

 

 

「カーゼっ!」

 

 係員よりも早く飛び込んできたイチが、俺を支えてプールから押し上げてくれた。

 

「大丈夫か!?」

 

 ゲホゲホと咳込み、気管に入った水を追い出す。

 ヨシヤの方は見られない。どんな顔をしているか、見たくない。

 

 ふと、2階への階段が目に入った。

 攣った足はもう治っている。ともかくこの場からいなくなりたくて、イチの手を払ってよろよろと歩き始める。

 

「待てよ!」

「悪い、少しひとりにしてくれ……」

 

 1段目に足を掛けたとき、

 

「カラス!」

 

追いかけて来ようとするマミを引き留めるイチの声が背後に聞こえた。

 感謝の言葉を頭の中で言う余裕もなくて、階段をゆらゆら上っていく。

 

 2階にまで溢れるほど人が集まっていたワケではないらしく、ウォーキングデッキは閑散としていた。吹き抜けからは賑やかな声が遠く響いてきている。

 上がってすぐのベンチに腰掛けて、ぐったりと項垂れた。

 

 悔しい、心の底から悔しい。

 本気で勝ちに行ったし、手加減は当然してないし、「何か途中で起こって上手くいかない」なんて思いもしなかった。

 それでも結局こんな終わり方だ。青春漫画でよくある、負けたのに清々しいなんて感覚は微塵もない。

 どうせ負けるなら、ちゃんと負けたかった。

 

 なんでいつもこうなんだろう。俺は自分のことを「変わることができた」って思っていたのに、どうしてこんな風にしかならないんだろう。

 これからもずっとこうなのか? 俺が何か頑張って、何か成し遂げようと藻掻いて、手を伸ばした、その度にこうやって失敗するのか?

 

 イチに殴り飛ばされたハズの嫌な自分が帰ってくる。俺の大嫌いな俺が戻ってくる。

 抗わなきゃ抗わなきゃと必死になるほど、惨めな思いが強くなっていく。

 

 やっと、自分のこと、許せるようになってきたと思ってたのに……!

 

「大丈夫?」

 

 急に声をかけられて、ハッとして顔を上げる。

 そこにいた女子の顔を見て、俺は言葉を失い、さっきまでぎゅっと閉じていた目を大きく見開いた。

 

 花野さんだ。黒色の競泳水着を着ていて、髪を後ろで一つ結びにまとめている。

 

「あっ」

 

 泣き顔を見られた。驚かれた。多分引かれた。

 

「これ、使って!」

 

 そう思ったのに花野さんはそんな素振りを見せず、タオルを差し出してくれた。

 遠慮する余裕もなく、ただ涙を隠したい一心でサッと受け取り顔を覆う。

 

「……あり、がとう」

「うん!」

「……どうしてここに?」

「虚川くんが上っていくところが見えたから、大丈夫かなって思ってついてきちゃった。本当に大丈夫?」

「……大丈夫」

「……。わたしはお花の妖精さんです」

「は?」

「妖精さんなので普通は見えないし、気配を感じることもできません」

 

 思わずタオルから離して顔を向ける俺。微笑み返してくる花野さん。

 彼女が、ベンチの隣に腰かけてきた。ちょうど手のひら一つ分の距離を開けて、水着姿の同級生女子が座ってきた。

 

「でも、もしちょっとだけ信じてくれたら、見えるようになってお話もできるようになる。そういう都合のいい妖精さんです」

 

 花野さんの競泳水着はスクール水着みたいな形じゃなくて、膝上まで丈があるタイプだ。ハーフスーツという物だったか。

 露出は少なめではあるけど、それでも肩は丸出しだし、肩甲骨あたりも見えているし、何のためか解らないが背中中央も円状に開いていた。

 花野さんの肌は健康的な色をしている。ニキビとか荒れている様子はなくて、月夜音と違って確かに血が巡っているような、温かみが見てとれる。

 目に入って、なんとなく意識してしまうのは仕方のないことだろう。

 

「“Stand by me. But leave me alone”」

 

 香水? シャンプー? なんなのか分からないが、花っぽいような果実っぽいような香りが鼻を撫でていった。

 

「……『そばにいて。でも放っておいて』?」

「昔読んだ絵本に出てくる言葉なんだ。何も話さなくてもいいし、話してくれたら嬉しいけど、それは虚川くんの自由だから。でも、一緒にはいさせて。ね?」

 

 「こんな電波なこと言う子だったっけ?」と、驚きで涙も引っ込んでいたが、そこまで言われてようやく意図が解った。

 

 再びタオルで包まれて、その中で呼吸をする。やわらかくて、柔軟剤のいい匂いがする。

 

 すごく静かだ。ふわふわした触り心地と香りだけあって、時の流れからどんどん離れていくみたいに感じる。

 けど、分かっていることがある。隣を見れば花野さんがいてくれる。そう信じられる。

 

「……自分が、嫌になったんだ。大事なときに、頑張りたいときに頑張り切れないのを繰り返してきた自分を思い出して、最近、ちょっとそういうの忘れられていたから、余計になんか、辛くって……。……花野さんが応援してくれるから、頑張りたかったのに」

「そっかそっか。……最後まで泳ぎたかったんだね」

「納得できれば、勝てなくても良かったんだ……!」

「うんうん。……虚川くんは、わたしよりたくさん今と同じ思いを繰り返してきたのかな。だから、虚川くんの心を知ることができても、それを理解できるなんて言えないけど――頑張ること、やめないでほしいんだ。辛くてしんどいかもしれないし、それが報われる約束もできないけれど。それでも、戦い続けてほしい」

 

 下から、高校生女子の部出場者に準備するよう呼び掛けるアナウンスが聞こえてきた。

 

「生きている限りいつだって戦いだよ」

 

 タオルから脱出して、隣の花野さんと見つめ合う。

 

「わがままばかりだね、わたし」

「……なんで、俺に戦い続けてほしいの?」

 

 友達だから?

 

「……。これもやっぱり、自分勝手でわがままなんだけど、戦う虚川くんを素敵だなって思ったこと、覚えてるから。わたしが素敵だなって思ったあなたに、また会いたいから」

 

 花野さんが立ち上がった。俺の前に立って、少し屈んで、微笑んでくれた。

 

「ごめん、もう行かなきゃ。タオル返すの、今度でいいからね」

「……ありがとう。元気出た」

「うん! よかった!」

 

 手を振って階段に向かう、俺の初恋の人。

 

「もし戦い疲れたら、何度でもわたしのところで休んでいってね」

 

 彼女が階段を下りていく姿を見届け――ようとしたが、入れ替わりで月夜音が上がってくるのが見えて顔を背けた。

 

「ぬ? 邪魔をしたか?」

「別に」

「フッ。やはりお前は、思春期真っ盛りの坊やだよ」

「……思春期もいいもんだ」

 

 立ち上がり、吹き抜けをフェンスにもたれて覗き下ろす。

 スタートと同時に花野さんが飛び込んだ。他の3人を置いて、矢みたいに鋭く水を貫いていく。

 

 もうちょっと落ち着いたら、そうなっているだろう顔の赤らみが治まったら、ヨシヤに会いに行こう。「今回はお前の勝ちだ」って心の底から言ってやろう。

 そして、「次は負けない」って大見得を切ってやろう。

 

 

 

【続】

 

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