新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~   作:碧河 蒼空

1 / 13
雨上がりの銀色

 その日は、朝からどんよりとした曇り空だった。予報では午後から雨。私の体調は、天気予報よりも正確に下り坂を告げていた。

 

「はぁ……はぁっ……げほっ、んぐ……っ」

 

 駅前の大通り。肺の奥を冷たい鎖でぎゅうっと締め付けられるような、嫌な感覚。喘息。不運にも吸入薬を切らしていた私は、地面のタイルの模様がゆらゆらと歪むのを、ただ絶望しながら見つめていた。歩くことさえままならず、私はその場に膝をつく。

 

(だれか……助けて……)

 

「——ちょっと! 大丈夫!?」

 

 最初に気づいたのは、近くを歩いていた主婦らしき女性だった。

 

「どうしたの? 気分が悪いの?」

「はぁ、はぁ……げほっ、ん……っ」

 

 声が出ない。私は、ただ喉をかきむしるようにして、苦しさを訴えることしかできなかった。

 

「大変! 誰か、救急車! 救急車を呼んで!」

「はい! 今、呼びます!」

 

 主婦の叫び声に、周囲の通行人が足を止める。サラリーマン、学生、老人……。あっという間に、私の周りには野次馬の輪ができた。

 

「どうしたんだ?」

「急に倒れたみたいで……」

「意識はあるのか?」

「わかんない、苦しそうで……!」

「119番、つながりました! ……えっと、駅前のスクランブル交差点の近くだ。女の子が倒れてて、息ができてなくて……!」

 

 集まった人たちは、みんな心配そうな顔をしている。けれど、誰もがどうしていいかわからず、オロオロとパニックになるばかり。ただでさえ薄い空気が、人混みの熱気でさらに薄くなっていく。私は、遠のいていく意識の中で、ただサイレンの音を待っていた。

 

(もう……だめ、かも……)

 

「——どいて」

 

 凛とした、涼やかな声。

 その声は、騒がしい雑踏を切り裂くようにして、私の耳に届いた。

 人混みが左右に割れ、一人の女性がスッと輪の中心に入ってくる。

 膝をつく私の前にしゃがみ込んだ彼女は、風に揺れる黒髪を耳にかけ、驚くほど冷静な瞳で私を見つめた。

 

「あ……、はぁ……っ、……げほっ」

 

 助けて、と言いたいのに、喉がひりついて音にならない。

 パニックになっていた周囲の人たちも、彼女の放つ圧倒的な静の空気に飲まれ、思わず言葉を失っている。

 

「……喘息ね。吸入薬は?」

 

 問いかけに、私は力なく首を振るのが精一杯だった。

 彼女は小さく頷くと、カバンの中から一冊の手帳……ではなく、小さな、銀色の細長い筒を取り出した。

 

「ちょっと、痛むわよ。……我慢して」

 

 彼女の指が、私の左手首の少し上……骨のキワあたりを、迷いなくグッと押さえた。

 白くて、細くて、でも驚くほど力のこもった指先。

 その感触が、苦しさで麻痺しかけていた私の意識を、現実に引き戻す。

 彼女は筒の中から、一本の糸を取り出した。

 いや、それは糸ではなかった。

 曇り空のわずかな光を反射して、鋭く、けれど優しく光る——銀色の針。

 

「……っ!?」

 

 恐怖で身を強まらせようとした瞬間、彼女のもう片方の手が、私の背中にそっと添えられた。

 

「大丈夫。力を抜いて。……私を信じて」

 

 その手のひらの温かさに、不思議と身体の強張りが解けていく。

 彼女は、私の手首にある一点を見つめ、トントン、とリズム良く指先を動かした。

 チクッ。

 ……ほんの一瞬、静電気のような小さな刺激。

 けれどその直後、指先から腕を通って、喉の奥までズーンとした重い響きが駆け抜けた。

 

「……ぁ……っ」

 

 それは、今まで経験したことのない感覚だった。

 痛いわけじゃない。ただ、身体の奥底に眠っていた何かが、その一刺しで叩き起こされたような。

 固く閉ざされていた気道が、魔法みたいに、じわじわと広がっていく。

 

「……深く、吐いて。そう、上手よ」

 

 彼女の声に合わせて、私はゆっくりと息を吐き出した。

 肺に、久しぶりの「空気」が満ちていく。

 あんなに遠かった周囲の音が、急に鮮明に聞こえ始めた。

 

「あ、息……してる……」

「すごい、顔色が良くなったわ!」

 

 野次馬たちの安堵の声が聞こえる。

 でも、私の目には、目の前にいる彼女の姿しか映っていなかった。

 銀色の針を操り、死にそうだった私に「呼吸」を取り戻してくれた、路地裏の救世主。

 遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。

 彼女は私が落ち着いたのを確認すると、手際よく針を抜き、立ち上がった。

 

「……あとは救急隊の人に任せなさい。無理は禁物よ」

「あ……っ、あの……っ!」

 

 お礼を言いたくて手を伸ばしたけれど、指先は空を切った。

 彼女は一度だけ振り返り、ふっと口角を上げると、雨が降り出した雑踏の中へ、吸い込まれるように消えていった。

 手元に残ったのは、あの日、彼女の指先が触れていた場所の、柔らかな余熱だけだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。