新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~ 作:碧河 蒼空
その日は、朝からどんよりとした曇り空だった。予報では午後から雨。私の体調は、天気予報よりも正確に下り坂を告げていた。
「はぁ……はぁっ……げほっ、んぐ……っ」
駅前の大通り。肺の奥を冷たい鎖でぎゅうっと締め付けられるような、嫌な感覚。喘息。不運にも吸入薬を切らしていた私は、地面のタイルの模様がゆらゆらと歪むのを、ただ絶望しながら見つめていた。歩くことさえままならず、私はその場に膝をつく。
(だれか……助けて……)
「——ちょっと! 大丈夫!?」
最初に気づいたのは、近くを歩いていた主婦らしき女性だった。
「どうしたの? 気分が悪いの?」
「はぁ、はぁ……げほっ、ん……っ」
声が出ない。私は、ただ喉をかきむしるようにして、苦しさを訴えることしかできなかった。
「大変! 誰か、救急車! 救急車を呼んで!」
「はい! 今、呼びます!」
主婦の叫び声に、周囲の通行人が足を止める。サラリーマン、学生、老人……。あっという間に、私の周りには野次馬の輪ができた。
「どうしたんだ?」
「急に倒れたみたいで……」
「意識はあるのか?」
「わかんない、苦しそうで……!」
「119番、つながりました! ……えっと、駅前のスクランブル交差点の近くだ。女の子が倒れてて、息ができてなくて……!」
集まった人たちは、みんな心配そうな顔をしている。けれど、誰もがどうしていいかわからず、オロオロとパニックになるばかり。ただでさえ薄い空気が、人混みの熱気でさらに薄くなっていく。私は、遠のいていく意識の中で、ただサイレンの音を待っていた。
(もう……だめ、かも……)
「——どいて」
凛とした、涼やかな声。
その声は、騒がしい雑踏を切り裂くようにして、私の耳に届いた。
人混みが左右に割れ、一人の女性がスッと輪の中心に入ってくる。
膝をつく私の前にしゃがみ込んだ彼女は、風に揺れる黒髪を耳にかけ、驚くほど冷静な瞳で私を見つめた。
「あ……、はぁ……っ、……げほっ」
助けて、と言いたいのに、喉がひりついて音にならない。
パニックになっていた周囲の人たちも、彼女の放つ圧倒的な静の空気に飲まれ、思わず言葉を失っている。
「……喘息ね。吸入薬は?」
問いかけに、私は力なく首を振るのが精一杯だった。
彼女は小さく頷くと、カバンの中から一冊の手帳……ではなく、小さな、銀色の細長い筒を取り出した。
「ちょっと、痛むわよ。……我慢して」
彼女の指が、私の左手首の少し上……骨のキワあたりを、迷いなくグッと押さえた。
白くて、細くて、でも驚くほど力のこもった指先。
その感触が、苦しさで麻痺しかけていた私の意識を、現実に引き戻す。
彼女は筒の中から、一本の糸を取り出した。
いや、それは糸ではなかった。
曇り空のわずかな光を反射して、鋭く、けれど優しく光る——銀色の針。
「……っ!?」
恐怖で身を強まらせようとした瞬間、彼女のもう片方の手が、私の背中にそっと添えられた。
「大丈夫。力を抜いて。……私を信じて」
その手のひらの温かさに、不思議と身体の強張りが解けていく。
彼女は、私の手首にある一点を見つめ、トントン、とリズム良く指先を動かした。
チクッ。
……ほんの一瞬、静電気のような小さな刺激。
けれどその直後、指先から腕を通って、喉の奥までズーンとした重い響きが駆け抜けた。
「……ぁ……っ」
それは、今まで経験したことのない感覚だった。
痛いわけじゃない。ただ、身体の奥底に眠っていた何かが、その一刺しで叩き起こされたような。
固く閉ざされていた気道が、魔法みたいに、じわじわと広がっていく。
「……深く、吐いて。そう、上手よ」
彼女の声に合わせて、私はゆっくりと息を吐き出した。
肺に、久しぶりの「空気」が満ちていく。
あんなに遠かった周囲の音が、急に鮮明に聞こえ始めた。
「あ、息……してる……」
「すごい、顔色が良くなったわ!」
野次馬たちの安堵の声が聞こえる。
でも、私の目には、目の前にいる彼女の姿しか映っていなかった。
銀色の針を操り、死にそうだった私に「呼吸」を取り戻してくれた、路地裏の救世主。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
彼女は私が落ち着いたのを確認すると、手際よく針を抜き、立ち上がった。
「……あとは救急隊の人に任せなさい。無理は禁物よ」
「あ……っ、あの……っ!」
お礼を言いたくて手を伸ばしたけれど、指先は空を切った。
彼女は一度だけ振り返り、ふっと口角を上げると、雨が降り出した雑踏の中へ、吸い込まれるように消えていった。
手元に残ったのは、あの日、彼女の指先が触れていた場所の、柔らかな余熱だけだった。