新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~ 作:碧河 蒼空
「――よって、この筋の起始は肩甲骨の棘上窩であり、停止は上腕骨の大結節となる。支配神経は……」
午後の解剖学講義室。先生の淡々とした解説が、無機質な記号のように黒板を埋めていく。
私は必死にノートを取っていたが、隣の席からは微かに「すー……すー……」という規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……メイちゃん、起きて」
「ん、んぅ……。つぼみん……私、もうダメ……。ラテン語の呪文に呪われて、意識が黄泉の国へ……」
メイちゃんがよだれの跡がついた教科書に突っ伏した。
確かに、東洋医学の『気』や『血』といったイメージしやすい言葉と違って、西洋医学の用語はどれもこれも無機質な座標に見えてしまう。
「あーあ、なんで鍼灸師になるのに、こんな細かい筋肉の場所まで暗記しなきゃいけないのかなぁ。ツボの場所さえ分かってればいい気がするんだけど」
休み時間のチャイムと同時に、メイちゃんが深くため息をついた。すると、前の席で黙々と分厚い参考書を読んでいたリンちゃんが、冷ややかに振り返った。
「当然でしょ。ツボだって、実際には神経や血管の近くにあることが多いんだから。最近は解剖学をベースに、悪い筋肉をダイレクトに狙うやり方だって主流なのよ。中身も知らないで刺すなんて、目隠しでドライブするようなものじゃない」
「うう、正論すぎて痛い……」
「リンちゃんの言う通りだよ、メイちゃん」
私がフォローするように口を開く。
「九条先生も言ってた。『形(構造)を知らぬ者に、魂(流れ)は扱えない』って。西洋医学は地図で、東洋医学は歩き方……みたいなものなのかなって」
すると、後ろの席からサユリさんがにっこりと微笑みながら会話に加わった。
「あら、つぼみさんの解釈、素敵ね。でも、もっと単純に考えてもよろしいのよ?」
「えっ、サユリさん式の覚え方があるの?」
メイちゃんが身を乗り出す。サユリさんは人差し指をチチチ、と振って、自信満々に言い放った。
「西洋医学の筋肉や神経は、いわば『お屋敷の構造』ですわ。そして東洋医学のツボは、『気の良い奥様たちが集まるティーサロン』!」
「……は?」
メイちゃんの動きが止まる。
「いい? サロン(ツボ)で楽しくお喋りするためには、まずはお屋敷(体)の廊下(神経)や柱(骨)の場所を知らなくては、迷子になってしまいますでしょう? 西洋医学は、ティータイムを楽しむための『マナーとお屋敷の図面』ですわ!」
「……サユリちゃん。それ、余計にややこしくなってない?」
「あら、そうですかしら? つまり、『素敵な奥様(ツボ)に会うためには、まずお屋敷(解剖学)の壁をぶち抜く(鍼を刺す)覚悟が必要』ということですわ!」
「解釈がバイオレンス!!」
メイちゃんのツッコミが教室に響いた。リンちゃんまで「……サユリさん、意外と武闘派なんですね」と呆れている。
けれど、サユリさんの『お屋敷解釈』のおかげで、無機質だった筋肉の名前が、なんだか少しだけ「親しみやすい(?)場所」に思えてきた。
「よーし! そうと分かれば、次の生理学も頑張れる気がする! えーっと、次は……反射?」
「メイ、さっきまで白目剥いてた人間がよく言うわね」
リンちゃんの呆れ顔に、教室が少しだけ和らぐ。
私は、教科書の肩の図解の横に、小さく『肩髃(けんぐう)』というツボの名前を書き添えた。
九条先生はいつも「感性」を説くけれど、その裏側には、これだけの膨大な「お屋敷の図面」が積み重なっているんだ。
この教科書の山を乗り越えた時、私の指先はもっと正確に、誰かの痛みの場所に届くようになる。
私は自分に言い聞かせるように、再びペンを強く握り直した。