新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~ 作:碧河 蒼空
病院から解放された後も、私の頭の中は、あの黒髪の女性のことでいっぱいだった。
雨に濡れたアスファルトの匂いと、彼女の手からした、お日様のような草の香り。
細い銀色の光が肌に触れた瞬間の、あのゾクッとするような不思議な感覚。
「……あれ、なんだったんだろう」
それからの数日間、私は何をしていても上の空だった。
バイト先でレジを打っていても、深夜に安いカップ麺をすすっていても、頭の片隅にはあの銀色の光がチラついて離れない。
今まで、やりたいことなんて一つもなかった。
高校を卒業して、なんとなくフリーターになって、明日も明後日も、ただぼんやり生きていくんだと思っていた。
でも、あの一刺しが、私の体の中にこびりついていた退屈を、根こそぎ剥ぎ取ってしまったみたいだった。
「……もう一度、会いたいな」
手がかりは、彼女が去っていった方向と、あの独特な草の香りだけ。
私は休日のたびに、駅の周辺から少し離れた路地裏を、当てもなく歩き回った。
“はり”とか“きゅう”とか書かれた看板を見つけるたびに覗き込んでは、溜息をついて引き返す。そんなことを何度も繰り返した。
一週間後。私は、古い住宅街の入り口に立っていた。
そこは、表通りの喧騒が嘘のように静かな場所だった。
ふと、風が吹く。
ツンとした、でもどこか温かい、あの懐かしい香りが鼻をくすぐった。
「……っ!」
心臓が跳ねる。私は香りに導かれるように、狭い角を曲がった。
突き当たりに、こぢんまりとした平屋の一軒家が見える。
使い込まれた木の引き戸の横に、小さなタンポポのマークが入った看板。
『はりきゅうマッサージ処・なごみ』。
「ここ、かも……」
私は、汗ばんだ手をスカートの裾で拭い、大きく深呼吸をした。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
ただの勘かもしれない。でも、この扉の向こうに「あの人」がいる。そんな確信めいた予感があった。
私は思い切って、扉に手をかけた。
ガラガラ、と。
少し立て付けの悪い、懐かしい音が響く。
「ごめんください……」
勇気を出して出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
土間で靴を脱ぎ、少し高い上がり框を見つめる。
奥にあるカーテンの隙間から、聞き覚えのある足音が近づいてきた。
ゆっくりと布が左右に割れ、そこから一人の女性が姿を現す。
白い診察衣に身を包んだ、あの黒髪の女性。
彼女は手に持っていたカルテからふいに関心を逸らすと、玄関に立ち尽くす私をじっと見つめた。
「……あら」
その声は、雨上がりの雑踏で聞いた時と同じ、涼やかで凛とした響きだった。
彼女は驚いたように眉を少しだけ上げ、それから、いたずらっぽく口角を緩める。
「……あの時の、もやしっ子さん? よくここが分かったわね」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中は真っ白になった。
彼女は私のことを覚えていてくれた。
あの雨の日の、ほんの数分間の出来事を。
「あ……っ、はい! あの、先生を探して……っ!」
勢いよく頭を下げたせいで、視界がぐわんと揺れる。
慌てて顔を上げると、彼女はくすりと小さく笑い、手招きをした。
「そんなに慌てないで。……上がりなさい。お茶くらい出すわよ」
促されるままに、私は吸い寄せられるように板の間へと上がった。
院内には、あの香りが満ちている。
彼女が用意してくれた丸椅子に腰を下ろすと、少し離れた場所に座った彼女が、私の手首をそっと取った。
白くて細い指先が、脈を測るように肌に触れる。
その冷たさと温かさが混ざり合った感触に、背中を小さな電撃が走り抜けた。
「……まだ少し、呼吸の根っこが浅いわね。無理して探し回ったせいかしら」
真剣な眼差しで私の手元を見つめる彼女。
その横顔があまりに綺麗で、私は思わず、心の奥に溜めていた言葉を吐き出していた。
「あの……私、先生みたいになりたいんです!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
彼女は一瞬だけ指を止め、不思議そうな顔をして私を見た。
「私みたいに? ……鍼灸師に、なりたいってこと?」
「はい! ……私、今までずっとダラダラ過ごしてて、やりたいことなんて何もなかったんです。でも、あの日、先生に助けてもらって……あの銀色の光を見た時、生まれて初めて、自分も誰かのために何かしたいって、そう思ったんです!」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
でも、止まらなかった。
このまま何もしないで帰ったら、二度とこのチャンスは来ない気がしたから。
「もう……専門学校の資料も取り寄せました! 働きながら通えるところを探して……だから、あの……っ!」
一気に捲し立てた私を、彼女はじっと黙って見つめていた。
沈黙が怖くて、私はギュッと目を閉じる。
でも、次に聞こえてきたのは、冷たい拒絶ではなかった。
「……ふーん。いいわよ、そこまで言うなら」
顔を上げると、彼女は肘をついて、楽しそうに目を細めていた。
「ちょうど、掃除担当と、私の『練習台』が足りなかったのよ。……覚悟はできてるんでしょ?」
「……え?」
練習台。その言葉の響きに、私は少しだけ、得体の知れない期待と緊張を覚えた。
彼女の指が、私の腕を優しく、でも逃がさないようにトントンと叩く。
「私の打つ鍼、癖になっちゃったんでしょ?」
その囁きに、私の心臓は喘息の発作よりも激しく、トクンと大きく跳ねた。
私の、何もなかった毎日。
それが、この銀色の光と、彼女の柔らかな指先に照らされて、今、音を立てて動き出した。