新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~   作:碧河 蒼空

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初授業

 一限目の講義が終わる頃には、私の頭の中はパンク寸前だった。

 聞き慣れない漢字の羅列と、身体の中に流れる目に見えないエネルギーの話。ノートを取る手はすっかり疲れ果て、ペンを置くと同時に、私は机に突っ伏してしまった。

 

「……つぼみん、生きてるー?」

 

 隣の席からメイちゃんが覗き込んでくる。

 彼女は三時間ぶっ続けの講義だったというのに、少しも疲れた様子がない。それどころか、教科書の余白には可愛らしい落書きがびっしりと並んでいた。

 

「うぅ……。漢字が難しすぎて、目が回りそう……」

 

「あはは、最初はみんなそんなもんだよ! 私なんて、途中で夢の国に行きかけてサユリさんに突っつかれちゃったもん」

 

 メイちゃんが後ろを振り返ると、サユリさんが上品な手つきで眼鏡を拭いながら、くすりと笑った。

 

「あら、メイちゃん。あのまま寝かせてあげても良かったのだけれど、先生の視線が痛かったから」

 

 サユリさんのノートをちらりと盗み見ると、そこには整理された綺麗な文字が並んでいた。やっぱり、仕事をしてきた大人の余裕は違う。

 三十代にしか見えないその横顔に見惚れていると、不意に視線を感じた。

 

「……いつまで休んでいるのよ。次は実習室に移動よ」

 

 最前列で荷物をまとめていたリンちゃんが、私の机の横を通り過ぎざまに言い放った。

 相変わらず冷たい声。けれど、彼女の手元には、私がさっき書き損じた用語の正しい漢字がメモされた小さな付箋が、そっと置かれていた。

 

「あ、リンちゃん! 待って、これ……!」

「……忘れ物じゃない? さっさと行くわよ、遅れるわ」

 

 彼女は振り返りもせずに、スタスタと教室を出ていく。

 私はその付箋を大事に手帳に挟み、重いカバンを担ぎ直した。

 

 移動した実習室は、病院の病棟を思わせるような清潔な空間だった。何台も並んだ昇降式のベッド。壁に掛けられた人体模型。それらを横目に見ながら、私たちは指定の白い実習着へと着替えることになった。

 

 最初の実習は、取穴。

 この授業では、骨の出っ張りや筋肉の境目といった取穴の起点となる部位をまず特定し、そこを基準にして正しい経穴の場所を探し出す。見つけた場所にはチャコペンで小さな印を付け、最後に先生がその位置が正確かどうかを一人ずつチェックして回るのだ。

 

 鍼はまだ使わないと聞いて少し安心したけれど、先生の、ペアになって、という言葉に、私の心臓はまた跳ねた。

 

「はーい! つぼみん、ペア組もう! 私、つぼみんの細い腕、触ってみたかったんだよねー!」

 

 メイちゃんが私の腕をガシッと掴んだ。

 彼女は私の返事も待たずに、自分の実習着の袖を肩までまくり上げる。日焼けした、健康的な肌。スポーツをしていたというだけあって、私のもやしな腕とは大違いの、しなやかな筋肉のラインが見える。

 

「さあさあ、遠慮なく触っていいよ! まずは手首のところからだっけ?」

「え、ええと……。まずは骨の出っ張りを探して、そこから指二本分、かな……」

 

 私はおそるおそる、自分の指先を彼女の肌に寄せた。

 ……温かい。

 指が触れた瞬間、メイちゃんが「んふふ、くすぐったいよー」と身をよじる。

 私は顔を赤くしながら、九条先生の鮮やかな手つきを思い出し、メイちゃんの腕の骨のキワを慎重に辿っていく。チャコペンの先を震わせながら、ここかな、と思う場所に青い点を入れた。

 

「あ、ここ……直に触ると、少し凹んでるのがわかる……」

「おっ、正解! さすがつぼみん、指先が繊細だねぇ。……じゃあ、次は私の番だよ?」

 

 メイちゃんの指が、私の前腕に伸びてくる。彼女の指は迷いがなく、それでいて力強い。私の薄い皮下脂肪をすり抜けて、ダイレクトに骨の隙間を捉えるような、独特の圧。

 

「……あ、っ……ん」

 

 思わず、情けない声が漏れてしまった。彼女の指が、ピンポイントで押さえている。痛いわけではないけれど、身体の芯がむず痒くなるような、力がふっと抜けていくような感覚。

 

「あはは! つぼみん、耳まで真っ赤! 意外と感じやすいんだね、ここ」

「……ちょっと。騒がしいわよ、二人とも」

 

 隣のベッドでサユリさんとペアを組んでいたリンちゃんが、呆れたようにこちらを睨んだ。

 彼女はサユリさんの腕を借りて、職人のような真剣な表情で指を動かしている。

 

「サユリさん、失礼します。……ここ、少し硬いですね。お仕事の疲れでしょうか」

 

 リンちゃんがサユリさんの肘の近くを、探るように深く指を沈めた。

 

「……ぁ、んっ……」

 

 不意に、サユリさんの唇から熱を帯びた吐息がこぼれた。三十代にしか見えない美貌が、わずかに上気して潤む。

 

「……そこ、すごく……響くわ。リンちゃん、指の力が、強くて……」

 

 サユリさんが微かに身悶えすると、実習着の襟元から覗く白い肌が、うっすらと桜色に染まっていく。

 

「あっ、すみません」

 

 リンちゃんは顔を赤くしながらも、慌ててチャコペンでその場所に印を付けていた。

 

 実習室に満ちる、肌と肌が触れ合う音。消毒液の匂いに混じって、クラスメイトたちの微かな体温の香りが漂ってくる。

 これから始まる少しだけくすぐったい毎日に、私は熱くなる頬を押さえながら、メイちゃんの温かな肌に再び指を沈めた。

 

「……九条先生。私、今、誰かの身体に触れてます……っ」

 

 心の中でそう報告したけれど、先生ならきっと「鼻の下を伸ばしてないでさっさと位置を覚えなさい」って呆れるんだろうな。

 そんな想像をしながら、私は次の印を探すために、もっと深く、彼女の筋肉の溝を探り当てようと指を動かした。

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