新米鍼灸師、つぼみのぽかぽか実習日誌 〜ひねって もんで ひびかせます!~   作:碧河 蒼空

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チーターとトムソンガゼル

 学校が終わると、私は寄り道もせずに『はりきゅうマッサージ処・なごみ』へと向かった。

 

「ただいま戻りましたぁ……!」

 

 勢いよく引き戸を開けると同時に、私は玄関マットの上で膝をついた。体力が一ミリも残っていない。重い教科書はもはや鈍器だ。受付のカウンターでは、あずきさんが余ったもぐさを丸めながら、ひょいと顔を上げた。

 

「おかえり、つぼみちゃん! ボロ雑巾みたいになってるけど、学校で何があったの?」

「……取穴の授業で、メイちゃんに……二の腕を……めちゃくちゃ探られ……っ」

「あはは! 若い子のエキスを吸われたってわけね」

 

 奥のカーテンがさらりと開き、九条先生が姿を現した。相変わらず隙のない立ち姿。でも、手にはなぜか「抜き打ちテスト」と書かれた札を持っている。

 

「……随分と楽しそうな顔ね。少しは身になることがあったのかしら」

「九条先生! ……はい、今日は取穴の基本を教わりました。骨の出っ張りから、チャコペンを使って場所を探すんです」

「ふーん。……じゃあ、試してみなさい。あずき、準備して」

「はーい! 先生の無慈悲な抜き打ちテスト、開始だよー!」

 

 あずきさんが楽しそうに、いつもの丸椅子を中央に持ってきた。九条先生は、迷いのない手つきで実習衣の袖をまくり上げる。白くて、透き通るような、美しすぎる師匠の腕。

 

「……さあ、やってみて。一箇所外すごとに、雑巾がけ一往復追加よ」

「ひっ、鬼軍曹……っ! ……行きます!」

 

 私はごくりと喉を鳴らし、震える指先を先生の肌に寄せた。

 

「……まずは、手首の関節の……ここ、ですよね。……あ、あれ? 先生の腕、綺麗すぎて骨の場所がわからない……っ」

「……褒めてもノルマは減らさないわよ。直に、その数ミリ下。筋肉が沈み込む場所があるでしょう」

 

 先生の左手が、私の震える右手にそっと重なった。彼女の指に導かれるようにして、私の指先が、先生の腕の「正解」へと吸い込まれていった。

 

「頭で考えないで、感じなさい」

 

 耳元で囁かれる先生の声に、私の心臓がバック転した。私は夢中で、彼女の腕に青い印を付けていった。

 

「……まぁ、及第点かしら。でも、私の体でこれなら、患者さんの前ではもっと戸惑うわよ」

 

 先生は私の付けた印を一度じっと見つめると、ふっと満足そうに口角を上げた。その瞬間、ずっと張り詰めていた胸の奥が、温かいお湯に溶かされたみたいに解けていく。

 

「……ありがとうございます。私、もっともっと、練習します!」

「いいわ。その意気込みに免じて……ご褒美よ。あずき、つぼみを施術してあげなさい。このままだと明日、この子、学校の玄関で力尽きるわ」

「やった! つぼみちゃん、待ってたよー! 捕獲ー!」

 

 カウンターの向こうから、あずきさんが獲物を狙うチーターのような速さで駆け寄ってきた。私はあずきさんに抱えられるようにして、いつもの施術用ベッドに運ばれた。さながら、私は捕まったトムソンガゼル。

 目を閉じると、あずきさんが「失礼します」と、さっきまでの茶目っ気を消した、プロの声で囁いた。彼女の指先が、私の前腕のツボにそっと沈み込む。

 

「……あ、ここ……。……っ、あずきさん、これ、すごく……響きます……ふにゃあ」

「ふふ、ここだね。つぼみちゃん、重い教科書持って歩いたでしょ。……はい、力を抜いて。溶けていいよ」

 

 あずきさんは手際よく、さっきまでひねっていたもぐさを小さな円錐形に整え、私の腕の上に置いた。

 チリ、と小さな火が灯る。

 やがて、春の陽だまりを凝縮したような、ぽかぽかとした心地よい熱が、印を付けた場所からじわじわと体中へ広がっていった。

 

「……ぁ、ふ……っ、ひゃん」

「あはは、つぼみちゃん、リアクションが良すぎてやりがいがあるよぉ」

 

 夕暮れの『なごみ』に、また少し煙たくて、くすぐったい笑い声が響く。

 学校も、ここも。私の新しい毎日は、誰かの温かな肌に触れる喜びと、ほんの少しの筋肉痛で、いっぱいに満たされていた。

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