『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第1話 目を覚ましたら、知らない世界の子どもでした

 

 

「――っ、が……!」

 

 冷たい。

 

 苦しい。

 

 息ができない。

 

 口を開けば水が入ってくる。鼻の奥まで痛い。肺が焼けるみたいに熱いのに、身体はひどく冷たかった。

 

 なんだ、これ。

 

 川……?

 

 落ちた……?

 

 いや、流され――

 

「……っ!」

 

 必死に手を伸ばす。けれど、水の中ではまともに動けない。上がどこで下がどこかも分からない。ただ、ゆらゆら揺れる光だけが遠くに見えた。

 

 届かない。

 

 苦しい。

 

 無理だ。

 

 これ、死――

 

 そこで、意識は途切れた。

 

 

     ◇

 

 

「……ん……」

 

 目を開けると、知らない天井があった。

 

「っ!?」

 

 びくっとして起き上がろうとして、すぐに失敗した。

 

「いった……!」

 

 喉が痛い。胸も苦しい。体も妙に重い。

 

 というか、なんだこれ。

 

 目の前にある自分の手を見て、思わず固まった。

 

「……小さい?」

 

 いや、小さいなんてもんじゃない。明らかに子どもの手だった。

 

 頭が一瞬で真っ白になる。

 

 え、何これ。

 

 夢?

 

 いや、でも喉痛いし、身体もしんどいし、やけに感覚が生々しい。

 

「将臣……! 将臣、気がついたのね!」

 

「……え?」

 

 声のした方を見ると、知らない女の人がいた。綺麗な人だ。けれど目を赤くしていて、今にも泣きそうな顔でこっちを見ている。

 

 その隣には、厳つい顔をした老人もいた。

 

「よかった……本当によかった……!」

 

「都子、あまり揺さぶるな。目を覚ましたばかりだ」

 

「あ……ご、ごめんなさい……!」

 

 女の人が慌てて手を引っ込める。

 

 都子?

 

 今、そう呼ばれたか?

 

 いや、それより。

 

 将臣って、誰だ。

 

「……あの」

 

 声を出した瞬間、自分でびっくりした。

 

 声まで子どもだ。

 

「……ここ、どこですか?」

 

 部屋の空気が止まった。

 

 女の人――都子さん? が、目を見開く。老人もわずかに眉をひそめた。

 

「将臣……? 何を言って……」

 

「都子」

 

 老人が低い声で止める。

 

「先生を呼んでくる」

 

 そう言って、老人は部屋を出ていった。

 

 残された俺は、ますます混乱していた。

 

 何がどうなってる。

 

 知らない部屋。知らない女の人。知らない名前。

 

 しかも、自分の体はどう見ても子ども。

 

 いやいやいや、意味が分からないんだけど。

 

「将臣、大丈夫よ。怖がらなくていいからね」

 

 都子さんが優しく言う。

 

 その声音には確かな心配が混じっていた。たぶん本当に、この身体のことを大切に思っているんだろう。

 

 でも俺には分からない。

 

 この人が誰で、俺が誰なのか。

 

 そこへ、部屋の扉が開いた。

 

「目が覚めたのね」

 

 白衣を着た女性が入ってくる。落ち着いた雰囲気の美人で、いかにも“頼れるお医者さん”って感じだ。

 

「私は駒川みずは。この診療所の医者よ。少し診せてもらうわね」

 

「……は、はい」

 

 みずはさんは慣れた手つきで俺の額に触れたり、瞳を見たり、脈を測ったりしていく。

 

「気分はどう? 頭痛、吐き気、息苦しさは?」

 

「えっと……喉が痛いです。あと、ちょっと胸も」

 

「そう。水をかなり飲んでいるから、そのせいね」

 

 水。

 

 その一言で、記憶の断片がぶわっと浮かんだ。

 

 冷たい水。苦しい呼吸。届かない光。

 

「……っ」

 

「大丈夫。落ち着いて。川で溺れていたのよ。命に別状はないわ」

 

「川……」

 

 やっぱり、あれは夢じゃなかったのか。

 

 その時だった。

 

 ばたばたばたっ、と騒がしい足音が近づいてきた。

 

「将臣っ!」

 

「起きたって本当!?」

 

「大丈夫!?」

 

 勢いよく病室に飛び込んできたのは、三人の子どもだった。

 

 一人は元気そうな男の子。

 一人は小柄で、泣きそうな顔をした女の子。

 もう一人は、少し落ち着いた雰囲気の少女。

 

 全員、ものすごく心配そうな顔で俺を見ている。

 

「お、おい将臣! お前川で溺れて、俺、すげえびっくりして……!」

 

「ほんとに無事だったの!? よかったぁ……!」

 

「……顔色、まだ悪いね」

 

 誰だこの子たち。

 

 いや、本気で誰?

 

 向こうは完全に知り合いみたいな反応なのに、こっちは一ミリも分からない。

 

「こら、病室では静かにしなさい」

 

 みずはさんがぴしゃりと言った。

 

「えー、でもみずねえ!」

 

「でもじゃないの。廉太郎、小春、芦花。将臣はまだ本調子じゃないんだから、騒がせない」

 

 廉太郎、小春、芦花。

 

 名前だけは頭に入る。でもやっぱり顔に覚えはない。

 

「ちぇー……」

 

「だって心配だったんだもん……」

 

「また後で来るね」

 

 三人は名残惜しそうにしながらも、みずはさんに追い立てられて病室を出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 静かになった部屋の中で、俺はますます混乱していた。

 

 将臣。

 

 さっきからみんな、俺をそう呼ぶ。

 

 でも、その名前が自分のものだって感覚がない。

 

 それどころか、自分の名前を思い出そうとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。

 

 なんだこれ。

 

 気持ち悪い。

 

「……少し、確認するわね」

 

 みずはさんが俺の顔をのぞき込んだ。

 

「あなた、自分の名前は分かる?」

 

「え……」

 

 その質問に、都子さんの肩がびくっと震えた。

 

 老人――さっきの人も、黙って俺を見ている。

 

 名前。

 

 自分の名前くらい分かるだろ。

 

 そう思って口を開いた。

 

「おれ、は……」

 

 言葉が止まる。

 

 出てこない。

 

 いや、違う。何かが出かかっているのに、喉のところで引っかかって出てこない。

 

 俺の名前って、なんだ。

 

 将臣?

 

 違う……のか?

 

 でもじゃあ、俺は……。

 

「あ、えっと、その……」

 

 だめだ。

 

 頭の中に霧がかかったみたいで、何もはっきりしない。

 

「……分かりません」

 

 そう言うのが、やっとだった。

 

 しん、と部屋が静まり返る。

 

「そ、んな……」

 

 都子さんが青ざめる。

 

「先生、それは……」

 

 老人が低い声で言う。

 

 みずはさんは少しだけ考えてから、静かに口を開いた。

 

「記憶が混乱している可能性が高いわね。無理に思い出させるのは逆効果かもしれない」

 

「記憶……喪失、ですか?」

 

 都子さんの声が震えていた。

 

「まだ断定はできないわ。でも、この診療所だけで判断するのは危ない。大きな病院で詳しく検査した方がいい」

 

 大きな病院。

 

 検査。

 

 話がどんどん進んでいくのに、俺だけが置いていかれている。

 

 でも止めようにも、何を止めればいいのか分からない。

 

「……あの」

 

 思わず声を出すと、全員の視線が俺に集まった。

 

「俺……その……本当に、誰なんですか?」

 

 自分で言っていて、情けなくなるくらい弱い声だった。

 

 都子さんが泣きそうな顔になる。

 

 老人は苦い顔で目を閉じた。

 

 答えたのは、みずはさんだった。

 

「あなたは有地将臣。川で溺れて、ここへ運ばれてきたの」

 

「有地……将臣……」

 

 口の中で繰り返してみる。

 

 けれど、やっぱりしっくりこない。

 

 知らない名前を無理やり飲み込んでいるみたいだった。

 

「今はそれで十分よ。無理に全部分かろうとしなくていいわ」

 

 みずはさんはそう言ったけれど、そんなわけにはいかなかった。

 

 分からないのは、怖い。

 

 自分が誰なのかも、ここがどこなのかも、何一つ分からないなんて、怖すぎる。

 

 それからは、あっという間だった。

 

 転院の準備が進められ、俺はその日のうちに大きな病院へ移されることになった。

 

 運ばれていく途中、ちらりと窓の外が見える。

 

 山に囲まれた町だった。

 

 のどかで、静かで、どこか古い空気を残した町。

 

 初めて見る景色――のはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。

 

「……なんだ、ここ」

 

 誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

 

 けれど、その答えを、この時の俺はまだ知らない。

 

 

     ◇

 

 

それを知ったのは、穂織を離れた後だった。

 

 少しずつ話を聞かされた。

 俺が川で溺れていたこと。

 この身体の名前が有地将臣だということ。

 診療所で会った人たちの名前のこと。

 

 鞍馬玄十郎。

 有地都子。

 駒川みずは。

 鞍馬廉太郎、鞍馬小春、馬庭芦花。

 

 そして――巫女姫様。

 

「……あ」

 

 その呼び方を頭の中でなぞった瞬間、ばらばらだった記憶が急につながった。

 

 山あいの町。

 古びた空気を残す温泉地。

 妖刀。

 祟り神。

 巫女姫様。

 

 知っている。

 

 俺は、その世界を知っている。

 

「嘘、だろ……」

 

 乾いた声が、ぽつりと漏れた。

 

 穂織。

 千恋万花。

 

 あの場所は、俺が前世で知っていた物語の舞台、そのものだった。

 

 心臓がどくんと大きく鳴る。

 ようやく状況がつかめたはずなのに、安心するどころか、逆に背筋が冷えた。

 

 よりにもよって、そんな世界に転生した?

 しかも、ただのそっくりさんじゃない。

 有地将臣として。

 

 そこまで考えて、俺はさらに嫌なことに気づく。

 

「……待てよ」

 

 嫌な予感がした。

 

「俺、もう穂織を離れてるんじゃ……」

 

 言ってから、じわじわと実感が湧いてくる。

 

 せっかく世界の正体に気づいたのに、肝心の舞台からはもう離れた後。

 しかも記憶はまだ曖昧で、事情もほとんど分からない。

 

「おいおい……」

 

 思わず額を押さえる。

 

 これは喜ぶところなのか、焦るところなのか、自分でも分からなかった。

 

 ただ一つだけ、はっきりしていることがある。

 

 俺はもう、元の人生には戻れない。

 そして今いるのは、間違いなく『千恋万花』の世界だ。

 

 ――物語は、たぶんもう始まっている。

 

 その事実だけが、妙に重く胸に残った。

 

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