「――っ、が……!」
冷たい。
苦しい。
息ができない。
口を開けば水が入ってくる。鼻の奥まで痛い。肺が焼けるみたいに熱いのに、身体はひどく冷たかった。
なんだ、これ。
川……?
落ちた……?
いや、流され――
「……っ!」
必死に手を伸ばす。けれど、水の中ではまともに動けない。上がどこで下がどこかも分からない。ただ、ゆらゆら揺れる光だけが遠くに見えた。
届かない。
苦しい。
無理だ。
これ、死――
そこで、意識は途切れた。
◇
「……ん……」
目を開けると、知らない天井があった。
「っ!?」
びくっとして起き上がろうとして、すぐに失敗した。
「いった……!」
喉が痛い。胸も苦しい。体も妙に重い。
というか、なんだこれ。
目の前にある自分の手を見て、思わず固まった。
「……小さい?」
いや、小さいなんてもんじゃない。明らかに子どもの手だった。
頭が一瞬で真っ白になる。
え、何これ。
夢?
いや、でも喉痛いし、身体もしんどいし、やけに感覚が生々しい。
「将臣……! 将臣、気がついたのね!」
「……え?」
声のした方を見ると、知らない女の人がいた。綺麗な人だ。けれど目を赤くしていて、今にも泣きそうな顔でこっちを見ている。
その隣には、厳つい顔をした老人もいた。
「よかった……本当によかった……!」
「都子、あまり揺さぶるな。目を覚ましたばかりだ」
「あ……ご、ごめんなさい……!」
女の人が慌てて手を引っ込める。
都子?
今、そう呼ばれたか?
いや、それより。
将臣って、誰だ。
「……あの」
声を出した瞬間、自分でびっくりした。
声まで子どもだ。
「……ここ、どこですか?」
部屋の空気が止まった。
女の人――都子さん? が、目を見開く。老人もわずかに眉をひそめた。
「将臣……? 何を言って……」
「都子」
老人が低い声で止める。
「先生を呼んでくる」
そう言って、老人は部屋を出ていった。
残された俺は、ますます混乱していた。
何がどうなってる。
知らない部屋。知らない女の人。知らない名前。
しかも、自分の体はどう見ても子ども。
いやいやいや、意味が分からないんだけど。
「将臣、大丈夫よ。怖がらなくていいからね」
都子さんが優しく言う。
その声音には確かな心配が混じっていた。たぶん本当に、この身体のことを大切に思っているんだろう。
でも俺には分からない。
この人が誰で、俺が誰なのか。
そこへ、部屋の扉が開いた。
「目が覚めたのね」
白衣を着た女性が入ってくる。落ち着いた雰囲気の美人で、いかにも“頼れるお医者さん”って感じだ。
「私は駒川みずは。この診療所の医者よ。少し診せてもらうわね」
「……は、はい」
みずはさんは慣れた手つきで俺の額に触れたり、瞳を見たり、脈を測ったりしていく。
「気分はどう? 頭痛、吐き気、息苦しさは?」
「えっと……喉が痛いです。あと、ちょっと胸も」
「そう。水をかなり飲んでいるから、そのせいね」
水。
その一言で、記憶の断片がぶわっと浮かんだ。
冷たい水。苦しい呼吸。届かない光。
「……っ」
「大丈夫。落ち着いて。川で溺れていたのよ。命に別状はないわ」
「川……」
やっぱり、あれは夢じゃなかったのか。
その時だった。
ばたばたばたっ、と騒がしい足音が近づいてきた。
「将臣っ!」
「起きたって本当!?」
「大丈夫!?」
勢いよく病室に飛び込んできたのは、三人の子どもだった。
一人は元気そうな男の子。
一人は小柄で、泣きそうな顔をした女の子。
もう一人は、少し落ち着いた雰囲気の少女。
全員、ものすごく心配そうな顔で俺を見ている。
「お、おい将臣! お前川で溺れて、俺、すげえびっくりして……!」
「ほんとに無事だったの!? よかったぁ……!」
「……顔色、まだ悪いね」
誰だこの子たち。
いや、本気で誰?
向こうは完全に知り合いみたいな反応なのに、こっちは一ミリも分からない。
「こら、病室では静かにしなさい」
みずはさんがぴしゃりと言った。
「えー、でもみずねえ!」
「でもじゃないの。廉太郎、小春、芦花。将臣はまだ本調子じゃないんだから、騒がせない」
廉太郎、小春、芦花。
名前だけは頭に入る。でもやっぱり顔に覚えはない。
「ちぇー……」
「だって心配だったんだもん……」
「また後で来るね」
三人は名残惜しそうにしながらも、みずはさんに追い立てられて病室を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった部屋の中で、俺はますます混乱していた。
将臣。
さっきからみんな、俺をそう呼ぶ。
でも、その名前が自分のものだって感覚がない。
それどころか、自分の名前を思い出そうとすると、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
なんだこれ。
気持ち悪い。
「……少し、確認するわね」
みずはさんが俺の顔をのぞき込んだ。
「あなた、自分の名前は分かる?」
「え……」
その質問に、都子さんの肩がびくっと震えた。
老人――さっきの人も、黙って俺を見ている。
名前。
自分の名前くらい分かるだろ。
そう思って口を開いた。
「おれ、は……」
言葉が止まる。
出てこない。
いや、違う。何かが出かかっているのに、喉のところで引っかかって出てこない。
俺の名前って、なんだ。
将臣?
違う……のか?
でもじゃあ、俺は……。
「あ、えっと、その……」
だめだ。
頭の中に霧がかかったみたいで、何もはっきりしない。
「……分かりません」
そう言うのが、やっとだった。
しん、と部屋が静まり返る。
「そ、んな……」
都子さんが青ざめる。
「先生、それは……」
老人が低い声で言う。
みずはさんは少しだけ考えてから、静かに口を開いた。
「記憶が混乱している可能性が高いわね。無理に思い出させるのは逆効果かもしれない」
「記憶……喪失、ですか?」
都子さんの声が震えていた。
「まだ断定はできないわ。でも、この診療所だけで判断するのは危ない。大きな病院で詳しく検査した方がいい」
大きな病院。
検査。
話がどんどん進んでいくのに、俺だけが置いていかれている。
でも止めようにも、何を止めればいいのか分からない。
「……あの」
思わず声を出すと、全員の視線が俺に集まった。
「俺……その……本当に、誰なんですか?」
自分で言っていて、情けなくなるくらい弱い声だった。
都子さんが泣きそうな顔になる。
老人は苦い顔で目を閉じた。
答えたのは、みずはさんだった。
「あなたは有地将臣。川で溺れて、ここへ運ばれてきたの」
「有地……将臣……」
口の中で繰り返してみる。
けれど、やっぱりしっくりこない。
知らない名前を無理やり飲み込んでいるみたいだった。
「今はそれで十分よ。無理に全部分かろうとしなくていいわ」
みずはさんはそう言ったけれど、そんなわけにはいかなかった。
分からないのは、怖い。
自分が誰なのかも、ここがどこなのかも、何一つ分からないなんて、怖すぎる。
それからは、あっという間だった。
転院の準備が進められ、俺はその日のうちに大きな病院へ移されることになった。
運ばれていく途中、ちらりと窓の外が見える。
山に囲まれた町だった。
のどかで、静かで、どこか古い空気を残した町。
初めて見る景色――のはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。
「……なんだ、ここ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
けれど、その答えを、この時の俺はまだ知らない。
◇
それを知ったのは、穂織を離れた後だった。
少しずつ話を聞かされた。
俺が川で溺れていたこと。
この身体の名前が有地将臣だということ。
診療所で会った人たちの名前のこと。
鞍馬玄十郎。
有地都子。
駒川みずは。
鞍馬廉太郎、鞍馬小春、馬庭芦花。
そして――巫女姫様。
「……あ」
その呼び方を頭の中でなぞった瞬間、ばらばらだった記憶が急につながった。
山あいの町。
古びた空気を残す温泉地。
妖刀。
祟り神。
巫女姫様。
知っている。
俺は、その世界を知っている。
「嘘、だろ……」
乾いた声が、ぽつりと漏れた。
穂織。
千恋万花。
あの場所は、俺が前世で知っていた物語の舞台、そのものだった。
心臓がどくんと大きく鳴る。
ようやく状況がつかめたはずなのに、安心するどころか、逆に背筋が冷えた。
よりにもよって、そんな世界に転生した?
しかも、ただのそっくりさんじゃない。
有地将臣として。
そこまで考えて、俺はさらに嫌なことに気づく。
「……待てよ」
嫌な予感がした。
「俺、もう穂織を離れてるんじゃ……」
言ってから、じわじわと実感が湧いてくる。
せっかく世界の正体に気づいたのに、肝心の舞台からはもう離れた後。
しかも記憶はまだ曖昧で、事情もほとんど分からない。
「おいおい……」
思わず額を押さえる。
これは喜ぶところなのか、焦るところなのか、自分でも分からなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
俺はもう、元の人生には戻れない。
そして今いるのは、間違いなく『千恋万花』の世界だ。
――物語は、たぶんもう始まっている。
その事実だけが、妙に重く胸に残った。