廊下の向こうへ、夜へ向かう二つの背中が消えていった。
襖が閉まる。
そこでようやく、部屋の中が静まり返った。
残ったのは、俺と安晴さんの二人だけだった。
ついさっきまで人の気配で満ちていた部屋が、急に広くなったように感じる。
開け放たれた障子の隙間から、夜の冷たい空気が細く流れ込んでいた。山の湿った匂いが混じっていて、遠くで鳴く虫の声だけがやけに耳に残る。
俺は自然と閉じた襖の方を見ていた。
その向こうに、もう芳乃と茉子はいない。
今ごろ、山へ向かう道を急いでいるのかもしれない。
そう思うだけで、胸の奥がざわついた。
けれど、ここで衝動のまま飛び出すこともできなかった。
さっきまでの話が、頭の中でまだうまく整理できていなかったからだ。
そんな俺の隣で、安晴さんもすぐには口を開かなかった。
ただ、静かに座っている。
その沈黙は重かったが、不思議と息苦しいものではなかった。むしろ、軽々しく言葉を差し挟めない重さだった。
しばらくして。
安晴さんが、ぽつりと呟いた。
「……ほんと、情けない話だよ」
独り言みたいな声だった。
俺がそっと顔を向けると、安晴さんは苦く笑っていた。
「好きな人を呪いで失って、その忘れ形見まで同じ呪いのそばに立たせてる」
そこで一度、言葉を切る。
笑っているはずなのに、その表情は少しも明るくなかった。
「父親として、こんなに情けないことはない」
その言い方が静かすぎて、逆に胸に刺さった。
怒りや嘆きとして吐き出すんじゃなく、ずっと奥に沈めていたものが、ようやく言葉になった――そんな響きだった。
「本当ならね」
安晴さんは膝の上で手を組み、ゆっくり視線を落とした。
「代わってやりたいんだよ。芳乃が背負ってるものも、これから先に向かう先にある危険も、全部まとめて、親の僕が引き受けられたらどれだけいいかって……何度も思った」
その一言に、ただの理屈じゃない重さがあった。
きっと、一度や二度じゃない。
ずっと、何年もそう思ってきたのだろう。
「けど、現実はそううまくいかない」
安晴さんは自嘲気味に肩をすくめた。
「僕には祟り神に対抗する手立てがない。いざ前に出たところで、守るどころか守られる側だ。無理に首を突っ込めば、足手まといにしかならない」
その言葉に、俺はすぐには返せなかった。
行けないんじゃない。
行きたいのに、行っても役に立てない。
それがどれだけ苦しいことかは、想像するしかない。
でも、その苦しさの輪郭くらいは、今の言葉だけで十分伝わってきた。
だからこそ、ここで曖昧にしたくなかった。
胸につかえていたことを、ちゃんと聞いておきたかった。
「……安晴さん」
「うん?」
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「もちろん」
優しい返事だった。
だから逆に、聞きにくかった。
「俺を芳乃の婚約者にしたのって……」
そこで言葉が詰まる。
自分でも、答えを聞くのが少し怖かった。
「やっぱり、芳乃を手助けさせるため……だったんですか」
安晴さんは、すぐには答えなかった。
驚いたようには見えない。ただ、その問いが来ることを予想していたように、静かに息を吐いた。
「違うよ」
その答えは、思ったよりもはっきりしていた。
俺は少しだけ肩の力を抜きかける。
けれど、その直後。
「……いや、違うと言い切るのも、たぶんずるいな」
「え……」
「将臣くんがそう思うのも、無理はない。実際、そう受け取られても仕方のないことを僕はしたから」
まっすぐすぎる言葉に、逆に何も言えなくなる。
安晴さんはごまかさなかった。
都合のいいところだけ切り取って、優しい言葉で包むこともしなかった。
「叢雨丸の使い手は、昔から祟り神に狙われることがあった」
安晴さんは淡々と続けた。
「しかも、祟り神が穂織の外に現れない保証はない。これまで大きく表に出なかっただけで、絶対に外へ出ないとは、誰にも言えないんだ」
その言葉で、背筋にうっすら冷たいものが走る。
穂織の中だけの問題じゃない。
もしそうなら――俺はもう、元の生活に完全には戻れないのかもしれない。
「なら、君をこの件から切り離したままにしておくなんて、最初から出来なかった」
安晴さんは、少しだけ眉を下げた。
「だから、婚約者という形にしたのは方便でもあった。君を穂織に留める理由になるし、周りを納得させる理由にもなる。……大人の都合だよ」
その通りだった。
建前としては、これ以上ないほど分かりやすい。
事情を知らない人間から見ても、婚約者が穂織に滞在する理由としては十分だ。
「……ですよね」
「うん。そこはごまかせない」
安晴さんは苦く笑う。
「だから、君が『手助けさせるためだったのか』って思うのも、責められない」
そこまで正直に言われると、逆に怒ることもできなかった。
むしろ、その言葉の先を聞かなきゃいけない気がした。
「でもね」
安晴さんは、そこで少しだけ表情を和らげた。
「それだけじゃないのも、本当なんだよ」
俺は顔を上げる。
安晴さんの目は、今度は父親のものだった。
「芳乃には、同年代の友達が必要だった」
「友達……」
「うん。ただの友達だよ。巫女姫としてじゃなく、芳乃って一人の子として話せる相手」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。
俺の中にある芳乃の印象は、いつも“巫女姫”と切り離せないものだったからだ。
落ち着いていて、礼儀正しくて、凛としていて、隙がない。
そういう顔ばかり見てきた。
「芳乃はね、昔からびっくりするほど物分かりのいい子だった」
安晴さんは、障子の外の闇を見つめるように言った。
「自分がどういう立場か、何を求められてるか、小さい頃からちゃんと分かってた。……いや、分かりすぎてたのかもしれない」
誇らしさと切なさが同じくらい混じった声だった。
「先代の巫女姫――僕の妻が亡くなってからは、余計にね」
その言葉に、部屋の空気がまた少し重くなる。
「自分がしっかりしなきゃいけない。巫女姫として立たなきゃいけない。そんなふうに、自分で自分を張り詰めさせていったんだろう」
俺は、芳乃の姿を思い浮かべる。
いつだって背筋が伸びていて、弱音を吐かなくて、どんな時でも凛として見える。
でも、それは最初からそうだったわけじゃない。
そうあろうとしてきた結果なんだ。
「子供なのに、子供のままでいることを自分に許さなくなった」
その一言が、妙に胸にきた。
あいつはきっと、泣きたいときもあったはずだ。
逃げたいときだって、弱音を吐きたいときだって。
それでも“巫女姫様”でいようとしてきたのだとしたら。
それは、あまりにも息が詰まる。
「だから、本当は必要だったんだよ」
安晴さんは静かに続ける。
「肩の力を抜ける相手が。巫女姫様って見ないで、必要なら困った顔をさせて、怒らせて、言い返して――そういう、普通の関係を持てる相手が」
「……茉子じゃ、だめなんですか」
俺の問いに、安晴さんはゆっくり首を横に振った。
「茉子君は大事な子だよ。芳乃のことを本気で考えてくれてるし、信頼もしてる。きっと芳乃にとっても、かけがえのない存在だ」
その言い方に迷いはなかった。
「でも、茉子君は朝武家に仕える側の人間だ。どれだけ近くにいてくれても、どうしても“巫女姫様”って立場から完全には離れられない」
俺は黙った。
その通りだと思ったからだ。
茉子は芳乃を理解している。大切にしている。守ろうとしている。
でも、それは“仕える者”としてでもある。
「町の人たちも同じだよ。みんな芳乃を大切に思ってる。でも、それは同時に巫女姫として見てるってことでもある」
安晴さんは、まっすぐ俺を見る。
「だから君が必要だった」
その視線に、俺は思わず息を止めた。
「穂織の事情を知らなくて、巫女姫って肩書きにも慣れてなくて、必要なら遠慮なく言い返して、対等にぶつかってくれる相手が」
思い返せば、俺は芳乃に遠慮がなかった。
婚約だなんだと振り回されたせいもある。
けれどそれ以上に、あいつがいかにも完璧そうな顔をするから、余計に気になってしまっていたのだ。
そのくせ、ちょっとからかえばむっとするし、妙なところで頑固だし、危ないことになると真っ先に自分を後回しにする。
巫女姫って肩書きの奥に、ちゃんと年相応の女の子がいると、何度も感じていた。
「もちろん、巻き込んだことを正しいとは思ってない」
安晴さんは小さく笑った。
「でも、君が来てからの芳乃は、少しだけ肩の力が抜けるようになったよ」
「え……?」
「本人は絶対認めないだろうけどね」
その笑い方が、どこか嬉しそうだった。
「怒ったり、むきになったり、困った顔をしたり。そういうのを、君の前ではちゃんと見せてる。あれは、あの子にとって大事なことなんだ」
そこまで言われると、なんだか妙に落ち着かなくなる。
俺、そんな大層なことした覚えないんだけど。
でも――。
もし本当に、俺がいることであいつが少しでも“巫女姫様”じゃなくなれるなら。
それは、悪いことじゃないのかもしれない。
「……俺、ちゃんと出来てるんですかね」
気づけば、そんな弱い言葉が口から出ていた。
安晴さんは少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑う。
「完璧じゃなくていいんだよ」
「いや、でも」
「むしろ完璧じゃない方がいい。芳乃の周りには、ちゃんとしてる人が多すぎるから」
「それ、俺に対してちょっと失礼じゃないですか」
「ああ、ごめんごめん」
安晴さんはくすっと笑った。
「別に雑でいろって意味じゃない。ただ、君は君のままでいてくれた方がいいってこと」
「……難しいこと言いますね」
「そうかな。わりと単純な話だと思うけど」
重い話をしていたはずなのに、不思議と少しだけ息がしやすくなる。
この人はたぶん、こういうふうに相手の肩から力を抜くのがうまいんだろう。
けれど、だからといって現実が軽くなるわけじゃない。
芳乃と茉子は、もう山へ向かった。
その事実だけは変わらない。
部屋へ戻ってからも、そのざわつきは消えなかった。
襖を閉めて、一人になる。
途端に静けさが押し寄せてきて、頭の中の考えだけがやけに騒がしくなる。
「……はぁ」
思わず大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。
安晴さんの言葉。
芳乃のこと。
祟り神のこと。
そして――俺自身のこと。
考えようとすると、全部が絡まって上手くまとまらない。
「ずいぶんと難しい顔をしておるのう、ご主人」
すぐ近くから声がして、肩が跳ねた。
「うわっ!?」
振り向くと、そこにムラサメがいた。
ほんと、この子はいつも気配なく現れる。
「な、なんだよ……心臓に悪いな」
「気配を消しておったつもりはないのじゃがのう」
「それで普通に現れるのが怖いって言ってるんだよ……」
俺が半目で抗議すると、ムラサメは小さく首を傾げた。
悪気があるのかないのか、本当に分からない。
「それより、ご主人に話しておくべきことがあるのじゃ」
「……叢雨丸のことか」
「うむ」
ムラサメはこくりと頷き、俺の前にちょこんと座った。
見た目だけなら小さな女の子そのものだ。けれど、こうして向かい合うと、妙な年季を感じる。
そのギャップがこの子らしい。
「ご主人、おぬしは叢雨丸のことをまだ表面しか知らぬ」
「表面しか、って」
「ただの強い刀ではない、ということじゃ」
ムラサメは静かに話し始めた。
「叢雨丸は、元を辿ればただの鉄の剣であった」
「ただの剣……?」
「そうじゃ。最初から神刀だったわけではない」
俺は思わず眉をひそめる。
もっとこう、最初から神様由来の、特別な剣みたいなものだと思っていた。
「神力というものは、本来ただの器には宿らぬ。まして鉄の剣に、そのまま留めることなど出来ぬのじゃ」
ムラサメの声は静かだったが、一言ごとに重みがあった。
「ゆえに必要だった。神力を留めるための器がな」
「器……」
「人の魂じゃ」
その瞬間、背筋がひやりとした。
部屋の空気が一段、重くなった気がする。
「神力を魂に宿し、その魂をさらに刀へ宿す。そうして生まれたのが、神刀叢雨丸」
ムラサメは、真っ直ぐに俺を見た。
「そして、その魂こそが我輩じゃ」
しばらく言葉が出なかった。
分かっていたつもりだった。
ムラサメが叢雨丸と深く結びついた存在だということは。
でも、こうして真正面から聞かされると、その重さはまるで違った。
「……それって」
喉がひりつく。
「人柱にされた、ってことなのか」
すると、ムラサメはすぐに首を横に振った。
「違うのじゃ」
その返答には迷いがない。
「我輩は、自ら望んでその役目を引き受けた」
「自分から……?」
「うむ」
ムラサメは少しだけ目を伏せた。
その横顔は普段と変わらないはずなのに、どこか遠い昔を見ているようだった。
「当時、我輩は流行病に罹っておってな。村でも同じ病で倒れる者が多く、助からぬ者も少なくなかった」
淡々とした口調なのに、その情景が頭に浮かんでしまう。
狭い部屋。
薬の匂い。
寝台に伏せた人たち。
咳き込む声。
薄く開いた障子の向こうから聞こえる泣き声。
「我輩も床に伏せておった。日に日に弱ってゆく者を見て、次は自分の番かとのう」
胸が重くなる。
それはただ“昔、病気だった”で済む話じゃなかった。
「同じ病で死んでゆく者を見送ることしか出来ぬのは、ずいぶんと堪えるものじゃった」
その言葉は静かだった。
でも、だからこそ痛かった。
「我輩もまた、長くはあるまいと分かっておった。明日が来るかも分からぬ身じゃ。ならば、ただ終わりを待つより――」
ムラサメは一度言葉を切る。
「その折に、御神刀を造る話が持ち上がったのじゃ。祟り神に抗うため、神力を宿す刀が必要だと」
小さな手が膝の上でそっと重なる。
「ならば我輩の命を使えばよい。そう思うた」
「そんな簡単に言うなよ……」
気づけば、口からこぼれていた。
ムラサメが顔を上げる。
「ご主人?」
「簡単じゃないだろ。自分の命だぞ」
少し声が強くなる。
「それに、お前……まだ子供だったんだろ」
「……そうじゃな」
「だったらなおさらだ。みんなのためとか、村のためとか、そんなので片づけられる話じゃない」
言ってから、自分でも、何に怒ってるのか分からなくなる。
昔の話だ。
今さらどうにもならない。
でも、どうしても軽く受け止めたくなかった。
ムラサメはしばらく黙っていたが、やがてふっと柔らかく笑った。
「やはり、ご主人は変なところで真っ直ぐじゃのう」
「変ってなんだよ」
「褒めておるのじゃよ」
そう言って、ムラサメは少しだけ目を細めた。
「怖くなかったわけではない。惜しくなかったとも言わぬ。生きていたいと思わなかったわけでもない」
その一言が、胸の奥に深く刺さる。
今までの中で、いちばん生々しい本音だった。
「されど、何も出来ずに死ぬよりは、誰かの役に立って終わりたかった。せめて、村のみなが助かる道になるのなら、それでよいと思うたのじゃ」
静かな声だった。
泣きも喚きもしない。
でも、その静けさの奥に、揺るがない覚悟があった。
「じゃから、後悔はしておらぬ」
「……そっか」
「うむ」
短いやり取りなのに、それ以上は何も言えなかった。
軽々しく慰めるのも違うし、否定するのも違う気がしたからだ。
ただ、その過去の重さだけが、ずしりと胸に残る。
「ご主人」
ムラサメが静かに呼びかける。
「おぬしには知っておいてほしかったのじゃ。叢雨丸を振るうということは、そうした想いの上に立つということじゃとな」
「……ああ」
分かった、とは簡単に言えない。
でも、知らないままでいるよりは、ずっとよかった。
そして同時に、別の感情が胸の中で大きくなっていく。
怖い。
その感情だ。
祟り神のことを思い出すたび、背中の奥が冷たくなる。
あの夜に感じた気配は、それくらい生々しかった。
「俺さ」
気づけば、また言葉がこぼれていた。
「たぶん、思ってたより怖がってる」
ムラサメは黙って聞いている。
「今まで、強くなりたいって思ってやってきたんだよ。じいちゃんに鍛えられて、剣だってそれなりにやってきたし、痛い思いもいっぱいした」
笑おうとして、上手く笑えなかった。
「だからどこかで、自分はやれるって思ってた。いざってときは、何とか踏ん張れるんじゃないかって」
でも実際は違った。
祟り神を前にしたとき、最初に出てきたのは気合いや闘志じゃない。
ただの恐怖だった。
「あいつを前にすると、分かるんだよ。あ、これ、下手したら死ぬなって」
口にしたら、余計にはっきりした。
それが格好悪いことも分かってる。
でも、嘘はつけない。
「正直、逃げたいって思ってる」
部屋の中に静けさが落ちる。
ムラサメは笑わなかった。呆れもしなかった。
「……うむ」
ただ、小さく頷いただけだった。
「怖れるのは当然じゃ」
「当然、なのか」
「祟り神は生半可な相手ではない。恐れを抱かぬ方が危うい」
その言い方は、慰めというより確認に近かった。
「及び腰のまま挑めば、一筋縄ではいかぬ。下手をすれば命を落とす」
「さらっと怖いこと言うなよ」
「事実じゃからの」
あまりにきっぱり言うものだから、逆に少しだけ頭が冷えた。
そうだ。
これは気合いだけでどうにかなる話じゃない。
だから怖いのだし、だからこそ向き合わなきゃいけない。
「されど」
ムラサメは真っ直ぐに俺を見る。
「恐れがあるから進めぬ、ということにはならぬ」
紅い瞳が、静かに揺れる。
「怖れてなお立つのなら、それは弱さではなく勇気じゃ」
勇気。
そんな立派な言葉、自分には似合わない気がした。
俺は別に英雄でも何でもない。ただの高校生だ。
突然こんな騒動に巻き込まれて、今だって内心ではびびってる。
でも。
それでも。
芳乃と茉子がもう山へ向かったことを思い出す。
あいつらだけに任せて、自分は安全な部屋で震えてる。
それを想像した瞬間、胸の奥に別の熱が灯った。
怖いのは変わらない。
けど、それ以上に嫌なものがある。
「……それでもさ」
俺はゆっくり立ち上がった。
「女の子二人に危ないことさせといて、自分だけ残ってるのは……やっぱり嫌だ」
ムラサメが少しだけ目を細める。
「芳乃はああ見えて無茶をするし、茉子だって平気で自分を後回しにするじゃろう」
「うむ。否定は出来ぬのう」
「だろ?」
少しだけ笑う。
でも、次に出た言葉は思った以上にまっすぐだった。
「だから行く」
怖いままでいい。
足が震えてもいい。
格好悪くても、情けなくてもいい。
それでも、自分で決めて前に出るなら、それは逃げるよりずっとましだ。
「祟り神が怖いのは変わらない。でも、怖いからって何もしないのは、もっと嫌だ」
拳を握る。
心臓はまだ速い。
それでも、さっきまでの迷いとは少し違っていた。
「俺は俺の意地を張る。せめてそれくらいは、やらせてもらう」
言い切ったあと、自分で少しだけ照れくさくなる。
「……なんか、格好つけたな」
「ふふっ。よいではないか」
ムラサメが小さく笑った。
いつもの淡い笑みより、ほんの少しだけ柔らかい。
「嫌いではないぞ、そういうのは」
「そういうのって何だよ」
「男の意地、というやつじゃろう。若いのに、なかなか見上げたものじゃ」
「最後ちょっと年寄りくさいんだよな……」
「何を言う。実際、我輩はおぬしよりずっと長う生きておるのじゃぞ?」
「それ自分で言うんだ……」
「事実じゃからの」
どこか得意げに胸を張るムラサメに、思わず苦笑が漏れた。
こんな状況なのに、少しだけ肩の力が抜ける。
たぶん、それがムラサメなりの気遣いなんだろう。
そのくせ、肝心なところでは決して甘やかさない。
「ならば急ぐぞ、ご主人。芳乃たちはすでに山へ入っておる。追いつくのが遅れれば、それだけ危うい」
「ああ」
俺は頷き、深く息を吸った。
胸の奥にある恐怖は消えていない。
たぶん、山に入ればまたはっきり思い出す。
それでもいい。
怖いから行かないんじゃなくて、怖いけど行く。
そう決めたのは、俺だ。
「行こう、ムラサメちゃん」
「うむ。参るぞ、ご主人」
俺たちは同時に部屋を飛び出した。
廊下を駆け抜け、外へ出る。
夜気が肌に刺さった。山から吹き下ろす風は冷たく、けれど頭を妙に冴えさせた。
見上げた先には、深い闇に沈む山。
その中へ、芳乃と茉子は向かっている。
「待ってろ……!」
俺は地面を蹴った。
隣には、神刀の少女。
胸の中には、まだ消えない恐れ。
それでも、足は止まらなかった。
俺たちは二人を追って、夜の山へと駆け出した。