『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

10 / 22
第10話 恐れの先へ

 

 

 廊下の向こうへ、夜へ向かう二つの背中が消えていった。

 

 襖が閉まる。

 

 そこでようやく、部屋の中が静まり返った。

 

 残ったのは、俺と安晴さんの二人だけだった。

 

 ついさっきまで人の気配で満ちていた部屋が、急に広くなったように感じる。

 

 開け放たれた障子の隙間から、夜の冷たい空気が細く流れ込んでいた。山の湿った匂いが混じっていて、遠くで鳴く虫の声だけがやけに耳に残る。

 

 俺は自然と閉じた襖の方を見ていた。

 

 その向こうに、もう芳乃と茉子はいない。

 

 今ごろ、山へ向かう道を急いでいるのかもしれない。

 

 そう思うだけで、胸の奥がざわついた。

 

 けれど、ここで衝動のまま飛び出すこともできなかった。

 

 さっきまでの話が、頭の中でまだうまく整理できていなかったからだ。

 

 そんな俺の隣で、安晴さんもすぐには口を開かなかった。

 

 ただ、静かに座っている。

 

 その沈黙は重かったが、不思議と息苦しいものではなかった。むしろ、軽々しく言葉を差し挟めない重さだった。

 

 しばらくして。

 

 安晴さんが、ぽつりと呟いた。

 

「……ほんと、情けない話だよ」

 

 独り言みたいな声だった。

 

 俺がそっと顔を向けると、安晴さんは苦く笑っていた。

 

「好きな人を呪いで失って、その忘れ形見まで同じ呪いのそばに立たせてる」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

 笑っているはずなのに、その表情は少しも明るくなかった。

 

「父親として、こんなに情けないことはない」

 

 その言い方が静かすぎて、逆に胸に刺さった。

 

 怒りや嘆きとして吐き出すんじゃなく、ずっと奥に沈めていたものが、ようやく言葉になった――そんな響きだった。

 

「本当ならね」

 

 安晴さんは膝の上で手を組み、ゆっくり視線を落とした。

 

「代わってやりたいんだよ。芳乃が背負ってるものも、これから先に向かう先にある危険も、全部まとめて、親の僕が引き受けられたらどれだけいいかって……何度も思った」

 

 その一言に、ただの理屈じゃない重さがあった。

 

 きっと、一度や二度じゃない。

 

 ずっと、何年もそう思ってきたのだろう。

 

「けど、現実はそううまくいかない」

 

 安晴さんは自嘲気味に肩をすくめた。

 

「僕には祟り神に対抗する手立てがない。いざ前に出たところで、守るどころか守られる側だ。無理に首を突っ込めば、足手まといにしかならない」

 

 その言葉に、俺はすぐには返せなかった。

 

 行けないんじゃない。

 

 行きたいのに、行っても役に立てない。

 

 それがどれだけ苦しいことかは、想像するしかない。

 

 でも、その苦しさの輪郭くらいは、今の言葉だけで十分伝わってきた。

 

 だからこそ、ここで曖昧にしたくなかった。

 

 胸につかえていたことを、ちゃんと聞いておきたかった。

 

「……安晴さん」

 

「うん?」

 

「ひとつ、聞いてもいいですか」

 

「もちろん」

 

 優しい返事だった。

 

 だから逆に、聞きにくかった。

 

「俺を芳乃の婚約者にしたのって……」

 

 そこで言葉が詰まる。

 

 自分でも、答えを聞くのが少し怖かった。

 

「やっぱり、芳乃を手助けさせるため……だったんですか」

 

 安晴さんは、すぐには答えなかった。

 

 驚いたようには見えない。ただ、その問いが来ることを予想していたように、静かに息を吐いた。

 

「違うよ」

 

 その答えは、思ったよりもはっきりしていた。

 

 俺は少しだけ肩の力を抜きかける。

 

 けれど、その直後。

 

「……いや、違うと言い切るのも、たぶんずるいな」

 

「え……」

 

「将臣くんがそう思うのも、無理はない。実際、そう受け取られても仕方のないことを僕はしたから」

 

 まっすぐすぎる言葉に、逆に何も言えなくなる。

 

 安晴さんはごまかさなかった。

 

 都合のいいところだけ切り取って、優しい言葉で包むこともしなかった。

 

「叢雨丸の使い手は、昔から祟り神に狙われることがあった」

 

 安晴さんは淡々と続けた。

 

「しかも、祟り神が穂織の外に現れない保証はない。これまで大きく表に出なかっただけで、絶対に外へ出ないとは、誰にも言えないんだ」

 

 その言葉で、背筋にうっすら冷たいものが走る。

 

 穂織の中だけの問題じゃない。

 

 もしそうなら――俺はもう、元の生活に完全には戻れないのかもしれない。

 

「なら、君をこの件から切り離したままにしておくなんて、最初から出来なかった」

 

 安晴さんは、少しだけ眉を下げた。

 

「だから、婚約者という形にしたのは方便でもあった。君を穂織に留める理由になるし、周りを納得させる理由にもなる。……大人の都合だよ」

 

 その通りだった。

 

 建前としては、これ以上ないほど分かりやすい。

 

 事情を知らない人間から見ても、婚約者が穂織に滞在する理由としては十分だ。

 

「……ですよね」

 

「うん。そこはごまかせない」

 

 安晴さんは苦く笑う。

 

「だから、君が『手助けさせるためだったのか』って思うのも、責められない」

 

 そこまで正直に言われると、逆に怒ることもできなかった。

 

 むしろ、その言葉の先を聞かなきゃいけない気がした。

 

「でもね」

 

 安晴さんは、そこで少しだけ表情を和らげた。

 

「それだけじゃないのも、本当なんだよ」

 

 俺は顔を上げる。

 

 安晴さんの目は、今度は父親のものだった。

 

「芳乃には、同年代の友達が必要だった」

 

「友達……」

 

「うん。ただの友達だよ。巫女姫としてじゃなく、芳乃って一人の子として話せる相手」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。

 

 俺の中にある芳乃の印象は、いつも“巫女姫”と切り離せないものだったからだ。

 

 落ち着いていて、礼儀正しくて、凛としていて、隙がない。

 

 そういう顔ばかり見てきた。

 

「芳乃はね、昔からびっくりするほど物分かりのいい子だった」

 

 安晴さんは、障子の外の闇を見つめるように言った。

 

「自分がどういう立場か、何を求められてるか、小さい頃からちゃんと分かってた。……いや、分かりすぎてたのかもしれない」

 

 誇らしさと切なさが同じくらい混じった声だった。

 

「先代の巫女姫――僕の妻が亡くなってからは、余計にね」

 

 その言葉に、部屋の空気がまた少し重くなる。

 

「自分がしっかりしなきゃいけない。巫女姫として立たなきゃいけない。そんなふうに、自分で自分を張り詰めさせていったんだろう」

 

 俺は、芳乃の姿を思い浮かべる。

 

 いつだって背筋が伸びていて、弱音を吐かなくて、どんな時でも凛として見える。

 

 でも、それは最初からそうだったわけじゃない。

 

 そうあろうとしてきた結果なんだ。

 

「子供なのに、子供のままでいることを自分に許さなくなった」

 

 その一言が、妙に胸にきた。

 

 あいつはきっと、泣きたいときもあったはずだ。

 

 逃げたいときだって、弱音を吐きたいときだって。

 

 それでも“巫女姫様”でいようとしてきたのだとしたら。

 

 それは、あまりにも息が詰まる。

 

「だから、本当は必要だったんだよ」

 

 安晴さんは静かに続ける。

 

「肩の力を抜ける相手が。巫女姫様って見ないで、必要なら困った顔をさせて、怒らせて、言い返して――そういう、普通の関係を持てる相手が」

 

「……茉子じゃ、だめなんですか」

 

 俺の問いに、安晴さんはゆっくり首を横に振った。

 

「茉子君は大事な子だよ。芳乃のことを本気で考えてくれてるし、信頼もしてる。きっと芳乃にとっても、かけがえのない存在だ」

 

 その言い方に迷いはなかった。

 

「でも、茉子君は朝武家に仕える側の人間だ。どれだけ近くにいてくれても、どうしても“巫女姫様”って立場から完全には離れられない」

 

 俺は黙った。

 

 その通りだと思ったからだ。

 

 茉子は芳乃を理解している。大切にしている。守ろうとしている。

 

 でも、それは“仕える者”としてでもある。

 

「町の人たちも同じだよ。みんな芳乃を大切に思ってる。でも、それは同時に巫女姫として見てるってことでもある」

 

 安晴さんは、まっすぐ俺を見る。

 

「だから君が必要だった」

 

 その視線に、俺は思わず息を止めた。

 

「穂織の事情を知らなくて、巫女姫って肩書きにも慣れてなくて、必要なら遠慮なく言い返して、対等にぶつかってくれる相手が」

 

 思い返せば、俺は芳乃に遠慮がなかった。

 

 婚約だなんだと振り回されたせいもある。

 

 けれどそれ以上に、あいつがいかにも完璧そうな顔をするから、余計に気になってしまっていたのだ。

 

 そのくせ、ちょっとからかえばむっとするし、妙なところで頑固だし、危ないことになると真っ先に自分を後回しにする。

 

 巫女姫って肩書きの奥に、ちゃんと年相応の女の子がいると、何度も感じていた。

 

「もちろん、巻き込んだことを正しいとは思ってない」

 

 安晴さんは小さく笑った。

 

「でも、君が来てからの芳乃は、少しだけ肩の力が抜けるようになったよ」

 

「え……?」

 

「本人は絶対認めないだろうけどね」

 

 その笑い方が、どこか嬉しそうだった。

 

「怒ったり、むきになったり、困った顔をしたり。そういうのを、君の前ではちゃんと見せてる。あれは、あの子にとって大事なことなんだ」

 

 そこまで言われると、なんだか妙に落ち着かなくなる。

 

 俺、そんな大層なことした覚えないんだけど。

 

 でも――。

 

 もし本当に、俺がいることであいつが少しでも“巫女姫様”じゃなくなれるなら。

 

 それは、悪いことじゃないのかもしれない。

 

「……俺、ちゃんと出来てるんですかね」

 

 気づけば、そんな弱い言葉が口から出ていた。

 

 安晴さんは少しだけ目を丸くしてから、ふっと笑う。

 

「完璧じゃなくていいんだよ」

 

「いや、でも」

 

「むしろ完璧じゃない方がいい。芳乃の周りには、ちゃんとしてる人が多すぎるから」

 

「それ、俺に対してちょっと失礼じゃないですか」

 

「ああ、ごめんごめん」

 

 安晴さんはくすっと笑った。

 

「別に雑でいろって意味じゃない。ただ、君は君のままでいてくれた方がいいってこと」

 

「……難しいこと言いますね」

 

「そうかな。わりと単純な話だと思うけど」

 

 重い話をしていたはずなのに、不思議と少しだけ息がしやすくなる。

 

 この人はたぶん、こういうふうに相手の肩から力を抜くのがうまいんだろう。

 

 けれど、だからといって現実が軽くなるわけじゃない。

 

 芳乃と茉子は、もう山へ向かった。

 

 その事実だけは変わらない。

 

 部屋へ戻ってからも、そのざわつきは消えなかった。

 

 襖を閉めて、一人になる。

 

 途端に静けさが押し寄せてきて、頭の中の考えだけがやけに騒がしくなる。

 

「……はぁ」

 

 思わず大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。

 

 安晴さんの言葉。

 

 芳乃のこと。

 

 祟り神のこと。

 

 そして――俺自身のこと。

 

 考えようとすると、全部が絡まって上手くまとまらない。

 

「ずいぶんと難しい顔をしておるのう、ご主人」

 

 すぐ近くから声がして、肩が跳ねた。

 

「うわっ!?」

 

 振り向くと、そこにムラサメがいた。

 

 ほんと、この子はいつも気配なく現れる。

 

「な、なんだよ……心臓に悪いな」

 

「気配を消しておったつもりはないのじゃがのう」

 

「それで普通に現れるのが怖いって言ってるんだよ……」

 

 俺が半目で抗議すると、ムラサメは小さく首を傾げた。

 

 悪気があるのかないのか、本当に分からない。

 

「それより、ご主人に話しておくべきことがあるのじゃ」

 

「……叢雨丸のことか」

 

「うむ」

 

 ムラサメはこくりと頷き、俺の前にちょこんと座った。

 

 見た目だけなら小さな女の子そのものだ。けれど、こうして向かい合うと、妙な年季を感じる。

 

 そのギャップがこの子らしい。

 

「ご主人、おぬしは叢雨丸のことをまだ表面しか知らぬ」

 

「表面しか、って」

 

「ただの強い刀ではない、ということじゃ」

 

 ムラサメは静かに話し始めた。

 

「叢雨丸は、元を辿ればただの鉄の剣であった」

 

「ただの剣……?」

 

「そうじゃ。最初から神刀だったわけではない」

 

 俺は思わず眉をひそめる。

 

 もっとこう、最初から神様由来の、特別な剣みたいなものだと思っていた。

 

「神力というものは、本来ただの器には宿らぬ。まして鉄の剣に、そのまま留めることなど出来ぬのじゃ」

 

 ムラサメの声は静かだったが、一言ごとに重みがあった。

 

「ゆえに必要だった。神力を留めるための器がな」

 

「器……」

 

「人の魂じゃ」

 

 その瞬間、背筋がひやりとした。

 

 部屋の空気が一段、重くなった気がする。

 

「神力を魂に宿し、その魂をさらに刀へ宿す。そうして生まれたのが、神刀叢雨丸」

 

 ムラサメは、真っ直ぐに俺を見た。

 

「そして、その魂こそが我輩じゃ」

 

 しばらく言葉が出なかった。

 

 分かっていたつもりだった。

 

 ムラサメが叢雨丸と深く結びついた存在だということは。

 

 でも、こうして真正面から聞かされると、その重さはまるで違った。

 

「……それって」

 

 喉がひりつく。

 

「人柱にされた、ってことなのか」

 

 すると、ムラサメはすぐに首を横に振った。

 

「違うのじゃ」

 

 その返答には迷いがない。

 

「我輩は、自ら望んでその役目を引き受けた」

 

「自分から……?」

 

「うむ」

 

 ムラサメは少しだけ目を伏せた。

 

 その横顔は普段と変わらないはずなのに、どこか遠い昔を見ているようだった。

 

「当時、我輩は流行病に罹っておってな。村でも同じ病で倒れる者が多く、助からぬ者も少なくなかった」

 

 淡々とした口調なのに、その情景が頭に浮かんでしまう。

 

 狭い部屋。

 

 薬の匂い。

 

 寝台に伏せた人たち。

 

 咳き込む声。

 

 薄く開いた障子の向こうから聞こえる泣き声。

 

「我輩も床に伏せておった。日に日に弱ってゆく者を見て、次は自分の番かとのう」

 

 胸が重くなる。

 

 それはただ“昔、病気だった”で済む話じゃなかった。

 

「同じ病で死んでゆく者を見送ることしか出来ぬのは、ずいぶんと堪えるものじゃった」

 

 その言葉は静かだった。

 

 でも、だからこそ痛かった。

 

「我輩もまた、長くはあるまいと分かっておった。明日が来るかも分からぬ身じゃ。ならば、ただ終わりを待つより――」

 

 ムラサメは一度言葉を切る。

 

「その折に、御神刀を造る話が持ち上がったのじゃ。祟り神に抗うため、神力を宿す刀が必要だと」

 

 小さな手が膝の上でそっと重なる。

 

「ならば我輩の命を使えばよい。そう思うた」

 

「そんな簡単に言うなよ……」

 

 気づけば、口からこぼれていた。

 

 ムラサメが顔を上げる。

 

「ご主人?」

 

「簡単じゃないだろ。自分の命だぞ」

 

 少し声が強くなる。

 

「それに、お前……まだ子供だったんだろ」

 

「……そうじゃな」

 

「だったらなおさらだ。みんなのためとか、村のためとか、そんなので片づけられる話じゃない」

 

 言ってから、自分でも、何に怒ってるのか分からなくなる。

 

 昔の話だ。

 

 今さらどうにもならない。

 

 でも、どうしても軽く受け止めたくなかった。

 

 ムラサメはしばらく黙っていたが、やがてふっと柔らかく笑った。

 

「やはり、ご主人は変なところで真っ直ぐじゃのう」

 

「変ってなんだよ」

 

「褒めておるのじゃよ」

 

 そう言って、ムラサメは少しだけ目を細めた。

 

「怖くなかったわけではない。惜しくなかったとも言わぬ。生きていたいと思わなかったわけでもない」

 

 その一言が、胸の奥に深く刺さる。

 

 今までの中で、いちばん生々しい本音だった。

 

「されど、何も出来ずに死ぬよりは、誰かの役に立って終わりたかった。せめて、村のみなが助かる道になるのなら、それでよいと思うたのじゃ」

 

 静かな声だった。

 

 泣きも喚きもしない。

 

 でも、その静けさの奥に、揺るがない覚悟があった。

 

「じゃから、後悔はしておらぬ」

 

「……そっか」

 

「うむ」

 

 短いやり取りなのに、それ以上は何も言えなかった。

 

 軽々しく慰めるのも違うし、否定するのも違う気がしたからだ。

 

 ただ、その過去の重さだけが、ずしりと胸に残る。

 

「ご主人」

 

 ムラサメが静かに呼びかける。

 

「おぬしには知っておいてほしかったのじゃ。叢雨丸を振るうということは、そうした想いの上に立つということじゃとな」

 

「……ああ」

 

 分かった、とは簡単に言えない。

 

 でも、知らないままでいるよりは、ずっとよかった。

 

 そして同時に、別の感情が胸の中で大きくなっていく。

 

 怖い。

 

 その感情だ。

 

 祟り神のことを思い出すたび、背中の奥が冷たくなる。

 

 あの夜に感じた気配は、それくらい生々しかった。

 

「俺さ」

 

 気づけば、また言葉がこぼれていた。

 

「たぶん、思ってたより怖がってる」

 

 ムラサメは黙って聞いている。

 

「今まで、強くなりたいって思ってやってきたんだよ。じいちゃんに鍛えられて、剣だってそれなりにやってきたし、痛い思いもいっぱいした」

 

 笑おうとして、上手く笑えなかった。

 

「だからどこかで、自分はやれるって思ってた。いざってときは、何とか踏ん張れるんじゃないかって」

 

 でも実際は違った。

 

 祟り神を前にしたとき、最初に出てきたのは気合いや闘志じゃない。

 

 ただの恐怖だった。

 

「あいつを前にすると、分かるんだよ。あ、これ、下手したら死ぬなって」

 

 口にしたら、余計にはっきりした。

 

 それが格好悪いことも分かってる。

 

 でも、嘘はつけない。

 

「正直、逃げたいって思ってる」

 

 部屋の中に静けさが落ちる。

 

 ムラサメは笑わなかった。呆れもしなかった。

 

「……うむ」

 

 ただ、小さく頷いただけだった。

 

「怖れるのは当然じゃ」

 

「当然、なのか」

 

「祟り神は生半可な相手ではない。恐れを抱かぬ方が危うい」

 

 その言い方は、慰めというより確認に近かった。

 

「及び腰のまま挑めば、一筋縄ではいかぬ。下手をすれば命を落とす」

 

「さらっと怖いこと言うなよ」

 

「事実じゃからの」

 

 あまりにきっぱり言うものだから、逆に少しだけ頭が冷えた。

 

 そうだ。

 

 これは気合いだけでどうにかなる話じゃない。

 

 だから怖いのだし、だからこそ向き合わなきゃいけない。

 

「されど」

 

 ムラサメは真っ直ぐに俺を見る。

 

「恐れがあるから進めぬ、ということにはならぬ」

 

 紅い瞳が、静かに揺れる。

 

「怖れてなお立つのなら、それは弱さではなく勇気じゃ」

 

 勇気。

 

 そんな立派な言葉、自分には似合わない気がした。

 

 俺は別に英雄でも何でもない。ただの高校生だ。

 

 突然こんな騒動に巻き込まれて、今だって内心ではびびってる。

 

 でも。

 

 それでも。

 

 芳乃と茉子がもう山へ向かったことを思い出す。

 

 あいつらだけに任せて、自分は安全な部屋で震えてる。

 

 それを想像した瞬間、胸の奥に別の熱が灯った。

 

 怖いのは変わらない。

 

 けど、それ以上に嫌なものがある。

 

「……それでもさ」

 

 俺はゆっくり立ち上がった。

 

「女の子二人に危ないことさせといて、自分だけ残ってるのは……やっぱり嫌だ」

 

 ムラサメが少しだけ目を細める。

 

「芳乃はああ見えて無茶をするし、茉子だって平気で自分を後回しにするじゃろう」

 

「うむ。否定は出来ぬのう」

 

「だろ?」

 

 少しだけ笑う。

 

 でも、次に出た言葉は思った以上にまっすぐだった。

 

「だから行く」

 

 怖いままでいい。

 

 足が震えてもいい。

 

 格好悪くても、情けなくてもいい。

 

 それでも、自分で決めて前に出るなら、それは逃げるよりずっとましだ。

 

「祟り神が怖いのは変わらない。でも、怖いからって何もしないのは、もっと嫌だ」

 

 拳を握る。

 

 心臓はまだ速い。

 

 それでも、さっきまでの迷いとは少し違っていた。

 

「俺は俺の意地を張る。せめてそれくらいは、やらせてもらう」

 

 言い切ったあと、自分で少しだけ照れくさくなる。

 

「……なんか、格好つけたな」

 

「ふふっ。よいではないか」

 

 ムラサメが小さく笑った。

 

 いつもの淡い笑みより、ほんの少しだけ柔らかい。

 

「嫌いではないぞ、そういうのは」

 

「そういうのって何だよ」

 

「男の意地、というやつじゃろう。若いのに、なかなか見上げたものじゃ」

 

「最後ちょっと年寄りくさいんだよな……」

 

「何を言う。実際、我輩はおぬしよりずっと長う生きておるのじゃぞ?」

 

「それ自分で言うんだ……」

 

「事実じゃからの」

 

 どこか得意げに胸を張るムラサメに、思わず苦笑が漏れた。

 

 こんな状況なのに、少しだけ肩の力が抜ける。

 

 たぶん、それがムラサメなりの気遣いなんだろう。

 

 そのくせ、肝心なところでは決して甘やかさない。

 

「ならば急ぐぞ、ご主人。芳乃たちはすでに山へ入っておる。追いつくのが遅れれば、それだけ危うい」

 

「ああ」

 

 俺は頷き、深く息を吸った。

 

 胸の奥にある恐怖は消えていない。

 

 たぶん、山に入ればまたはっきり思い出す。

 

 それでもいい。

 

 怖いから行かないんじゃなくて、怖いけど行く。

 

 そう決めたのは、俺だ。

 

「行こう、ムラサメちゃん」

 

「うむ。参るぞ、ご主人」

 

 俺たちは同時に部屋を飛び出した。

 

 廊下を駆け抜け、外へ出る。

 

 夜気が肌に刺さった。山から吹き下ろす風は冷たく、けれど頭を妙に冴えさせた。

 

 見上げた先には、深い闇に沈む山。

 

 その中へ、芳乃と茉子は向かっている。

 

「待ってろ……!」

 

 俺は地面を蹴った。

 

 隣には、神刀の少女。

 

 胸の中には、まだ消えない恐れ。

 

 それでも、足は止まらなかった。

 

 俺たちは二人を追って、夜の山へと駆け出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。