『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第11話 はじめての共闘と、甘い卵焼き

 

 

 夜の山道は、昼間とはまるで別の場所のようだった。

 

 月明かりは木々の隙間から細く差し込むだけで、先の見通しは悪い。踏みしめる土の感触と、草をかき分ける音だけが、自分が前へ進んでいることを教えてくれる。

 

「ご主人、足元には気をつけよ。焦って転べば元も子もないのじゃ」

 

 隣を飛ぶムラサメが、いつもの調子で言った。

 

「分かってる……っ。でも、急がないと」

 

 息を切らせながら答える。

 

 胸の奥は、ずっとざわついたままだった。

 

 芳乃と茉子は、今この山の中で祟り神と向き合っている。危険だと知ってなお、自分だけ安全な場所にいるなんて、どうしても耐えられなかった。

 

「……いた」

 

 少し開けた場所の先に、二つの人影が見えた。

 

 白い髪を揺らす芳乃と、その傍らで周囲を警戒している茉子。

 

 俺はそのまま二人のもとへ駆け寄った。

 

「芳乃! 茉子!」

 

 二人が同時に振り返る。

 

 月明かりの下で、芳乃の表情が目に見えて強張った。

 

「将臣さん……!?」

 

「おや。これはまた、ずいぶんと思い切ったことをなさいましたね」

 

 茉子は驚き半分、呆れ半分といった顔をしている。

 

 だが芳乃はすぐに眉を寄せ、きっぱりと言った。

 

「どうして来たのですか!すぐに戻ってください。ここは危険です」

 

「戻れって言われても、はいそうですかって帰れるわけないだろ」

 

「ですが――」

 

「女の子二人が戦ってるのに、俺だけ安全なところで待ってろなんて無理だ!」

 

 思っていたことをそのままぶつけると、芳乃が一瞬だけ言葉を詰まらせた。

 

 そこへ茉子が、静かに口を開く。

 

「芳乃様。将臣さんのおっしゃることにも一理あります」

 

「茉子?」

 

「この夜道を将臣さんお一人で帰す方が、かえって危険です。祟り神が芳乃様を狙っている以上、山中で単独行動をさせるのは得策ではありません。むしろ私達の目の届くところにいていただいた方が安全かと」

 

 もっともな意見だった。

 

 芳乃もそれは分かっているのだろう。苦い顔のまま黙り込む。

 

「……分かりました」

 

 やがて芳乃は、小さく息を吐いた。

 

「ですが、絶対に無茶はなさらないでください。せめて大人しくしていてくださいね」

 

「分かった」

 

「本当に、ですよ」

 

「……善処する」

 

「善処、では困ります」

 

 ぴしゃりと言われ、思わず苦笑する。

 

 そのやり取りを見届けたように、ムラサメがふわりと前へ出た。

 

「では、ご主人。そろそろ我輩も働くとしよう」

 

 そう言うと、ムラサメの身体が淡い光に包まれる。

 

 柔らかな光の粒がその輪郭を溶かし、少女の姿がそのまま叢雨丸へと吸い込まれていった。

 

 次の瞬間、手の中の刀がかすかに震えた。

 

「っ……!」

 

 叢雨丸の柄を握った途端、世界の輪郭が変わる。

 

 風の流れが分かる。葉擦れの音が近い。湿った土の匂いも、遠くを這うような気配も、今までとは比べものにならないほど鮮明だった。

 

 夜の山が、暗いだけの場所ではなくなる。

 

 そして、その中に――ひどく嫌な気配があった。

 

 冷たく、粘つくような、明らかに生き物とは違うもの。

 

「来る――!」

 

 そう思った瞬間だった。

 

 木陰から黒い影が飛び出す。

 

 一直線に狙われたのは、芳乃だった。

 

「芳乃っ!」

 

 考えるより先に身体が動いていた。

 

 地面を蹴り、芳乃の前へ滑り込む。叢雨丸を振ると、祟り神の爪のような一撃が鋭い音を立てて弾かれた。

 

「将臣さん……!?」

 

 背後で芳乃が息を呑む気配がした。

 

 目の前には、犬のような異形の影。

 

 闇に溶けるような黒い身体。けれど今は、その輪郭が妙にはっきりと見えている。

 

「芳乃様!」

 

 茉子が横へ回り込み、苦無を構える。

 

 芳乃もすぐに体勢を立て直し、手にした鉾鈴を構えた。月明かりを受けた鈴がかすかに揺れ、しゃん、と細い音を鳴らす。

 

 その音だけで、空気がわずかに引き締まった気がした。

 

 俺と芳乃、そして茉子。三方向から気配を向けられ、祟り神が低く唸る。

 

 黒い毛を逆立てるようにして、じり、と後退した。

 

 芳乃は鉾鈴を握り直しながら、凛とした声で言う。

 

「将臣さん、下がってください。ここからはわたしが――」

 

 だが、その言葉が終わるより早く、祟り神が再び地を蹴った。

 

 狙いは、やはり芳乃。

 

 黒い影が一直線に走る。

 

「っ!」

 

 芳乃が身をひねって躱す。鉾鈴の鈴が鳴り、清めの気配が周囲へ広がる。だが祟り神も一撃で終わるつもりはない。すぐに体勢を立て直し、続けざまに飛びかかろうとする。

 

 その軌道が、見えた。

 

 今なら間に合う。

 

 俺は踏み込んだ。

 

 叢雨丸を握る手が不思議なほど軽い。いや、軽いんじゃない。刀が自然に、あるべき場所へ導いてくるようだった。

 

 祟り神と芳乃の距離は開いている。

 

 この一太刀が芳乃に届くことはない。そう分かるほどに、俺の感覚は冴えていた。

 

「――そこだっ!」

 

 振り抜く。

 

 刃が、確かに祟り神の身体を捉えた。

 

 手応えがあった。

 

 黒い異形の身体が一刀のもとに断たれ、次の瞬間、霧のように崩れていく。

 

「やった……!」

 

 そう思った直後だった。

 

 ひゅっ、と鋭い風切り音が遅れて走る。

 

 斬撃そのものではない。振り抜いた刀の余勢、あるいは極めて鋭く研ぎ澄まされた太刀筋の余波のようなものが、離れた位置にいた芳乃の胸元をかすめた。

 

「……え?」

 

 芳乃自身、何が起きたのか分からないように目を瞬く。

 

 一拍遅れて、巫女服の胸元がす、と裂ける。

 

 布だけが、綺麗に断たれていた。

 

 白い肌が月明かりに晒される。けれど、その肌には傷ひとつない。

 

 切れているのは、本当に服だけだった。

 

 静寂。

 

 そして。

 

「――きゃああああっ!?」

 

 山中に芳乃の悲鳴が響き渡った。

 

「ち、違っ――!」

 

「何をしているのですか、将臣さんっ!!」

 

 顔を真っ赤にして胸元を押さえながら、芳乃が涙目で睨んでくる。

 

「い、いや、俺も今のは本当に狙ってなくて……!」

 

「狙っていなくても困ります!」

 

「すみませんでした!」

 

 反射的に頭を下げるしかなかった。

 

 その横で、茉子が目を丸くしていた。

 

 普段は余裕を崩さない彼女が、今ははっきりと驚いている。

 

「……驚きました」

 

「茉子?」

 

「祟り神は真正面から斬り伏せておきながら、芳乃様には傷ひとつつけず、衣だけを裂くとは……」

 

 茉子は感心したように、俺と叢雨丸を見た。

 

「将臣さん。その技量、達人級どころではありませんね」

 

「褒められてる気がしないんだけど!?」

 

「ですが事実です。普通なら、間合いの外にいる相手の服だけを断つなど不可能です。まして芳乃様に傷をつけていないのですから」

 

「いや、結果的には最悪の絵面になってるからな!?」

 

「はい。状況だけ見れば最低です」

 

「フォローになってない!」

 

「茉子っ!」

 

 羞恥で真っ赤になった芳乃の声に、茉子は「失礼しました」と一礼した。

 

 けれど、驚きと感心がまだ消えていないのは、その目を見れば分かった。

 

 芳乃は乱れた衣を押さえながら、恨めしそうにこちらを見る。

 

「将臣さん……本当に、後でお話がありますから」

 

「はい……」

 

 有無を言わせぬ声に、俺は素直に頷くしかなかった。

 

 その後しばらく周囲を警戒したが、新たな気配は現れなかった。

 

 ひとまず今夜はここまでと判断し、俺達は山を下りることになった。

 

 下山の途中、俺は何度もさっきの一撃を思い返していた。

 

 確かに刀は祟り神へ届いた。

 

 だが、それだけじゃない。振り抜いた一太刀には、刃の先へなお伸びるような妙な冴えがあった。

 

 叢雨丸の力なのか。

 

 それとも、自分の中にある何かなのか。

 

 答えはまだ分からない。

 

 ただひとつ言えるのは――あの瞬間、叢雨丸は確かに俺の手の中で応えていた、ということだった。

 

 

  ◇◇◇

 

 

 朝武家へ戻ると、玄関先で茉子が足を止めた。

 

「それでは私はここで失礼いたします。今夜はもう追加の実体化もなさそうですし、ひとまず問題ないかと」

 

「え、帰るのか?」

 

「私は朝武家にお仕えしておりますが、住み込みではありませんので」

 

 そう言って茉子はいつものように落ち着いた笑みを浮かべた。

 

 すると、叢雨丸から再び姿を現したムラサメが、腕を組んで言う。

 

「うむ。帰るのはよいが、きちんと穢れを落としてから帰るのだぞ」

 

「心得ております」

 

 茉子はすっと背筋を伸ばし、丁寧に一礼した。

 

「では芳乃様、将臣さん。また明日」

 

「ああ、おやすみ」

 

「おやすみなさい、茉子」

 

 そうして茉子は夜の道へと帰っていった。

 

 その背を見送ったあと、家の中に入る。

 

 そこでようやく、右手首にずきりと痛みが走った。

 

「いっ……」

 

 慣れない真剣をあれだけ勢いよく振れば、さすがに無事では済まないらしい。

 

 芳乃がすぐにこちらを振り返る。

 

「やはり痛めているではありませんか。こちらへ来てください」

 

 促されるまま居間へ入る。

 

 気づけば、そこには俺と芳乃の二人きりだった。さっきまでの山の緊張感とは違う静けさが、妙に意識される。

 

 芳乃は救急箱を持ってくると、俺の正面に座った。

 

「手を出してください」

 

「お、おう」

 

 言われた通りに右手を差し出す。

 

 芳乃はそっと俺の手首を取った。細くて白い指先が、痛む場所を確かめるように触れる。

 

「少し腫れていますね……」

 

 そのまま湿布のようなものを当て、手際よく包帯を巻き始める。

 

 その手つきは慣れていて、けれど同時に、どこか丁寧すぎるくらい丁寧だった。

 

 そして、治療しながら、芳乃が静かに口を開く。

 

「……お話があります」

 

「やっぱりその流れか」

 

「当然です」

 

 ぴしゃりと言われた。

 

「怪我をしているのに、夜の山まで追ってくるなんて、無茶にもほどがあります」

 

「うっ」

 

「しかも、まだ祟り神について十分に分かっていない状態で、あの場へ飛び込んだのですよ? 勇敢というより、無謀です」

 

「返す言葉もありません……」

 

「ありませんか」

 

「はい……」

 

 芳乃は怒鳴ったりしない。

 

 だが、将臣の手首に包帯を巻く手は優しいのに、言葉だけは容赦がない。

 

「もし、もっと酷く手首を傷めていたらどうするつもりだったのですか」

 

「……それは、本当にごめん」

 

 さすがに素直に謝ると、芳乃の指先が一瞬だけ止まった。

 

「わたしが、どれだけ心配したか……少しはお分かりですか?」

 

 その声音は、さっきより少しだけ小さい。

 

 俺は答える代わりに、静かに頷いた。

 

 芳乃は目を伏せ、包帯を結び終える。

 

「……ですが」

 

 声が、少しやわらいだ。

 

「助けていただいたことについては、お礼を申し上げます」

 

 そして芳乃は、まっすぐ俺を見た。

 

「ありがとうございました、将臣さん」

 

 一瞬、言葉が出なかった。

 

 あの芳乃が、こんなふうに真正面から礼を言ってくれる。そのことが思った以上に胸に響いて、少しだけ照れくさくなる。

 

「……どういたしまして」

 

 頭をかきたくなったが、今は手首が痛いのでやめた。

 

 代わりに苦笑しながら言う。

 

「でも、正直、自分でも驚いたよ。叢雨丸を握った途端、周りがすごくはっきり分かるようになって……身体も勝手に動いたみたいだった」

 

「それに……あの一太刀」

 

 芳乃も、さっきの場面を思い返すように目を伏せる。

 

「祟り神を斬った太刀筋は見事でした。あの間合いで、迷いなく踏み込めるとは思いませんでした」

 

「いや、半分は叢雨丸のおかげだと思う」

 

「それでも、刀を振るのは将臣さんです」

 

 そう言われると、少しだけ胸の奥がくすぐったい。

 

 怖さはある。痛みもある。

 

 でも、それ以上に思った。

 

 俺は戦えたのだ、と。

 

 ただ見ているだけじゃなく、守るために動けたのだと。

 

「芳乃」

 

「はい」

 

「俺、決めたよ」

 

 自然と声に力がこもる。

 

「これから先、祟り神が実体化したら、俺も戦う」

 

 芳乃が息を呑む。

 

「将臣さん……」

 

「もちろん、まだ未熟なのは分かってる。でも、俺は叢雨丸の使い手なんだろ。だったら、見てるだけじゃなくて、ちゃんと力になりたい」

 

 そう言い切ると、芳乃はすぐには返事をしなかった。

 

 困ったように、戸惑ったように、唇をわずかに動かす。

 

 嬉しくないわけではない。けれど素直に受け入れるには、危険が大きすぎる。

 

 そんな揺れが、その沈黙に表れているようだった。

 

 だが、その時だった。

 

 ぐぅぅぅ……。

 

「…………」

 

「…………」

 

 妙にはっきりした音が部屋に響く。

 

 俺の腹だった。

 

 張り詰めていた空気が、一瞬で全部吹き飛ぶ。

 

「……しまらないな、俺」

 

 思わず苦笑すると、芳乃の肩が小さく震えた。

 

「……ふふっ」

 

 そして、ついに堪えきれなくなったように笑う。

 

 巫女姫としての整った微笑みじゃない。年相応の、やわらかな笑い方だった。

 

 つられて俺も笑う。

 

 その空気に気が緩んだのか――

 

 くぅ……。

 

 今度は、芳乃の方から小さく可愛らしい音が鳴った。

 

「…………あ」

 

 芳乃の顔がみるみる赤くなる。

 

 さっき笑ったばかりの分、余計に恥ずかしいのだろう。

 

「今のは聞かなかったことにする」

 

「聞こえておりますよね……?」

 

「まあ、ばっちり」

 

「将臣さん……!」

 

 恥ずかしそうに睨まれて、でもその表情にさっきまでの強張りはない。

 

「何か作ろうか」

 

 俺がそう言うと、芳乃は少しだけ目を丸くした。

 

「将臣さんが、ですか?」

 

「簡単なものならな。台所、借りてもいいか?」

 

 芳乃は一瞬迷うように視線を揺らし、それから小さく頷いた。

 

「……はい。お願いいたします」

 

    ◆

 

 台所に立って見回すと、すぐに卵が見つかった。

 

「よし、卵焼きにするか」

 

「卵焼き……!」

 

 芳乃の目がぱっと輝く。

 

 その反応が分かりやすすぎて、思わず笑いそうになる。

 

「好きなのか?」

 

「はい。とても」

 

 即答だった。

 

「そういえば、芳乃って料理するのか?」

 

「……あまり、いたしません」

 

 少し言いにくそうに答える。

 

「普段は茉子が作ってくれるので、わたしが台所に立つ機会はほとんどありません」

 

「なるほど。じゃあ今日は見学しながら覚えていけるな」

 

「覚えられるほど簡単なのですか?」

 

「卵焼き自体はな。卵を混ぜて、味をつけて、少しずつ焼いて巻くだけだ」

 

「少しずつ……」

 

 芳乃は興味津々といった様子で、俺の手元をじっと見つめている。

 

 さっきまで祟り神と向き合っていた人と同じとは思えないくらい、真剣な眼差しだ。

 

「味付けはどうするんですか?」

 

「そうだな。塩で少し整えて――」

 

「え」

 

 芳乃が固まった。

 

「……砂糖、ではなく?」

 

「甘い卵焼き派なのか?」

 

「はい」

 

「俺は塩派だな」

 

「卵焼きは甘い方が美味しいです」

 

「いや、しょっぱい方が飯にも合うだろ」

 

「甘い卵焼きも合います」

 

「それは分かるけど、夜食に甘いのはちょっと違わないか?」

 

「違いません。むしろ安心する味です」

 

 思いのほか、きっぱり返された。

 

 芳乃がここまで食い下がるのも珍しい気がする。

 

 ついさっきまで厳しい顔で呪いの話をしていたのに、卵焼きの味付けひとつでここまで真剣になるのが、なんだか少しおかしかった。

 

「……そんなに甘いのがいいのか?」

 

「はい。わたしは甘い卵焼きが好きです」

 

 そう言われると、何だか塩派を押し通すのも大人気ない気がしてくる。

 

「……分かったよ」

 

「本当ですか?」

 

「今回は芳乃の希望を優先する」

 

 その途端、芳乃の顔が明るくなった。

 

 なんだその嬉しそうな顔。そんな顔をされると、折れた甲斐があった気がしてしまう。

 

「ですが、今回は、ということは」

 

「次は塩味も試してもらう」

 

「む……」

 

「そこは譲らない」

 

 すると芳乃は少しだけ考えてから、こくりと頷いた。

 

「……分かりました。では次は、塩味も試してみます」

 

「交渉成立だな」

 

 卵を割り、よく溶いて、砂糖を加える。

 

 卵焼き器に油をひき、じゅわりと焼き始めると、甘い香りが台所にふわりと広がった。

 

「おお……」

 

 芳乃が小さく声を漏らす。

 

「そんなに珍しいか?」

 

「はい。こうして近くで見ていると、なんだか楽しいです」

 

 その言い方が少し子供っぽくて、思わず笑う。

 

 何度かに分けて卵を流し、くるくると巻いていく。

 

 完璧とは言えないまでも、十分に美味そうな形にはなった。

 

「よし、できた」

 

 切り分けて皿に乗せると、芳乃は待ちきれないように箸を取る。

 

「いただきます」

 

「どうぞ」

 

 ひと口食べた芳乃の表情が、ふっとやわらいだ。

 

「……おいしいです」

 

「それはよかった」

 

「ちゃんと甘いです」

 

「そこ強調するんだな」

 

 俺も食べてみる。

 

 ……うん、甘い。でもこれはこれで悪くない。

 

 向かいで食べる芳乃は、本当に満足そうだった。

 

 山で見せた張り詰めた顔でもなく、巫女姫としての整った微笑みでもない。

 

 年頃の女の子らしい、素直な表情。

 

 それを見られたことが、少しだけ嬉しかった。

 

「将臣さん」

 

「ん?」

 

「先ほどは、本当に危ないことをしましたから……次からは、ちゃんと相談してください」

 

 言いながらも、その声はもう怒っていなかった。

 

 俺は頷く。

 

「分かった。今度はちゃんと相談する」

 

「本当ですよ?」

 

「……善処する」

 

「全然分かっていないではありませんか」

 

 呆れたように言いながら、芳乃はくすっと笑った。

 

 俺も笑う。

 

 深夜の台所に、穏やかな空気が流れていく。

 

 祟り神のことも、朝武家の呪いも、何も終わってはいない。

 

 それでも今は、こうして同じ皿の卵焼きを分け合って笑っていられる。

 

 その時間が、少しだけ嬉しかった。

 

 きっとこれは、小さな一歩だ。

 

 けれど確かに、今夜、俺と芳乃の距離は少しだけ縮まった気がした。

 

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