夜の山道は、昼間とはまるで別の場所のようだった。
月明かりは木々の隙間から細く差し込むだけで、先の見通しは悪い。踏みしめる土の感触と、草をかき分ける音だけが、自分が前へ進んでいることを教えてくれる。
「ご主人、足元には気をつけよ。焦って転べば元も子もないのじゃ」
隣を飛ぶムラサメが、いつもの調子で言った。
「分かってる……っ。でも、急がないと」
息を切らせながら答える。
胸の奥は、ずっとざわついたままだった。
芳乃と茉子は、今この山の中で祟り神と向き合っている。危険だと知ってなお、自分だけ安全な場所にいるなんて、どうしても耐えられなかった。
「……いた」
少し開けた場所の先に、二つの人影が見えた。
白い髪を揺らす芳乃と、その傍らで周囲を警戒している茉子。
俺はそのまま二人のもとへ駆け寄った。
「芳乃! 茉子!」
二人が同時に振り返る。
月明かりの下で、芳乃の表情が目に見えて強張った。
「将臣さん……!?」
「おや。これはまた、ずいぶんと思い切ったことをなさいましたね」
茉子は驚き半分、呆れ半分といった顔をしている。
だが芳乃はすぐに眉を寄せ、きっぱりと言った。
「どうして来たのですか!すぐに戻ってください。ここは危険です」
「戻れって言われても、はいそうですかって帰れるわけないだろ」
「ですが――」
「女の子二人が戦ってるのに、俺だけ安全なところで待ってろなんて無理だ!」
思っていたことをそのままぶつけると、芳乃が一瞬だけ言葉を詰まらせた。
そこへ茉子が、静かに口を開く。
「芳乃様。将臣さんのおっしゃることにも一理あります」
「茉子?」
「この夜道を将臣さんお一人で帰す方が、かえって危険です。祟り神が芳乃様を狙っている以上、山中で単独行動をさせるのは得策ではありません。むしろ私達の目の届くところにいていただいた方が安全かと」
もっともな意見だった。
芳乃もそれは分かっているのだろう。苦い顔のまま黙り込む。
「……分かりました」
やがて芳乃は、小さく息を吐いた。
「ですが、絶対に無茶はなさらないでください。せめて大人しくしていてくださいね」
「分かった」
「本当に、ですよ」
「……善処する」
「善処、では困ります」
ぴしゃりと言われ、思わず苦笑する。
そのやり取りを見届けたように、ムラサメがふわりと前へ出た。
「では、ご主人。そろそろ我輩も働くとしよう」
そう言うと、ムラサメの身体が淡い光に包まれる。
柔らかな光の粒がその輪郭を溶かし、少女の姿がそのまま叢雨丸へと吸い込まれていった。
次の瞬間、手の中の刀がかすかに震えた。
「っ……!」
叢雨丸の柄を握った途端、世界の輪郭が変わる。
風の流れが分かる。葉擦れの音が近い。湿った土の匂いも、遠くを這うような気配も、今までとは比べものにならないほど鮮明だった。
夜の山が、暗いだけの場所ではなくなる。
そして、その中に――ひどく嫌な気配があった。
冷たく、粘つくような、明らかに生き物とは違うもの。
「来る――!」
そう思った瞬間だった。
木陰から黒い影が飛び出す。
一直線に狙われたのは、芳乃だった。
「芳乃っ!」
考えるより先に身体が動いていた。
地面を蹴り、芳乃の前へ滑り込む。叢雨丸を振ると、祟り神の爪のような一撃が鋭い音を立てて弾かれた。
「将臣さん……!?」
背後で芳乃が息を呑む気配がした。
目の前には、犬のような異形の影。
闇に溶けるような黒い身体。けれど今は、その輪郭が妙にはっきりと見えている。
「芳乃様!」
茉子が横へ回り込み、苦無を構える。
芳乃もすぐに体勢を立て直し、手にした鉾鈴を構えた。月明かりを受けた鈴がかすかに揺れ、しゃん、と細い音を鳴らす。
その音だけで、空気がわずかに引き締まった気がした。
俺と芳乃、そして茉子。三方向から気配を向けられ、祟り神が低く唸る。
黒い毛を逆立てるようにして、じり、と後退した。
芳乃は鉾鈴を握り直しながら、凛とした声で言う。
「将臣さん、下がってください。ここからはわたしが――」
だが、その言葉が終わるより早く、祟り神が再び地を蹴った。
狙いは、やはり芳乃。
黒い影が一直線に走る。
「っ!」
芳乃が身をひねって躱す。鉾鈴の鈴が鳴り、清めの気配が周囲へ広がる。だが祟り神も一撃で終わるつもりはない。すぐに体勢を立て直し、続けざまに飛びかかろうとする。
その軌道が、見えた。
今なら間に合う。
俺は踏み込んだ。
叢雨丸を握る手が不思議なほど軽い。いや、軽いんじゃない。刀が自然に、あるべき場所へ導いてくるようだった。
祟り神と芳乃の距離は開いている。
この一太刀が芳乃に届くことはない。そう分かるほどに、俺の感覚は冴えていた。
「――そこだっ!」
振り抜く。
刃が、確かに祟り神の身体を捉えた。
手応えがあった。
黒い異形の身体が一刀のもとに断たれ、次の瞬間、霧のように崩れていく。
「やった……!」
そう思った直後だった。
ひゅっ、と鋭い風切り音が遅れて走る。
斬撃そのものではない。振り抜いた刀の余勢、あるいは極めて鋭く研ぎ澄まされた太刀筋の余波のようなものが、離れた位置にいた芳乃の胸元をかすめた。
「……え?」
芳乃自身、何が起きたのか分からないように目を瞬く。
一拍遅れて、巫女服の胸元がす、と裂ける。
布だけが、綺麗に断たれていた。
白い肌が月明かりに晒される。けれど、その肌には傷ひとつない。
切れているのは、本当に服だけだった。
静寂。
そして。
「――きゃああああっ!?」
山中に芳乃の悲鳴が響き渡った。
「ち、違っ――!」
「何をしているのですか、将臣さんっ!!」
顔を真っ赤にして胸元を押さえながら、芳乃が涙目で睨んでくる。
「い、いや、俺も今のは本当に狙ってなくて……!」
「狙っていなくても困ります!」
「すみませんでした!」
反射的に頭を下げるしかなかった。
その横で、茉子が目を丸くしていた。
普段は余裕を崩さない彼女が、今ははっきりと驚いている。
「……驚きました」
「茉子?」
「祟り神は真正面から斬り伏せておきながら、芳乃様には傷ひとつつけず、衣だけを裂くとは……」
茉子は感心したように、俺と叢雨丸を見た。
「将臣さん。その技量、達人級どころではありませんね」
「褒められてる気がしないんだけど!?」
「ですが事実です。普通なら、間合いの外にいる相手の服だけを断つなど不可能です。まして芳乃様に傷をつけていないのですから」
「いや、結果的には最悪の絵面になってるからな!?」
「はい。状況だけ見れば最低です」
「フォローになってない!」
「茉子っ!」
羞恥で真っ赤になった芳乃の声に、茉子は「失礼しました」と一礼した。
けれど、驚きと感心がまだ消えていないのは、その目を見れば分かった。
芳乃は乱れた衣を押さえながら、恨めしそうにこちらを見る。
「将臣さん……本当に、後でお話がありますから」
「はい……」
有無を言わせぬ声に、俺は素直に頷くしかなかった。
その後しばらく周囲を警戒したが、新たな気配は現れなかった。
ひとまず今夜はここまでと判断し、俺達は山を下りることになった。
下山の途中、俺は何度もさっきの一撃を思い返していた。
確かに刀は祟り神へ届いた。
だが、それだけじゃない。振り抜いた一太刀には、刃の先へなお伸びるような妙な冴えがあった。
叢雨丸の力なのか。
それとも、自分の中にある何かなのか。
答えはまだ分からない。
ただひとつ言えるのは――あの瞬間、叢雨丸は確かに俺の手の中で応えていた、ということだった。
◇◇◇
朝武家へ戻ると、玄関先で茉子が足を止めた。
「それでは私はここで失礼いたします。今夜はもう追加の実体化もなさそうですし、ひとまず問題ないかと」
「え、帰るのか?」
「私は朝武家にお仕えしておりますが、住み込みではありませんので」
そう言って茉子はいつものように落ち着いた笑みを浮かべた。
すると、叢雨丸から再び姿を現したムラサメが、腕を組んで言う。
「うむ。帰るのはよいが、きちんと穢れを落としてから帰るのだぞ」
「心得ております」
茉子はすっと背筋を伸ばし、丁寧に一礼した。
「では芳乃様、将臣さん。また明日」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい、茉子」
そうして茉子は夜の道へと帰っていった。
その背を見送ったあと、家の中に入る。
そこでようやく、右手首にずきりと痛みが走った。
「いっ……」
慣れない真剣をあれだけ勢いよく振れば、さすがに無事では済まないらしい。
芳乃がすぐにこちらを振り返る。
「やはり痛めているではありませんか。こちらへ来てください」
促されるまま居間へ入る。
気づけば、そこには俺と芳乃の二人きりだった。さっきまでの山の緊張感とは違う静けさが、妙に意識される。
芳乃は救急箱を持ってくると、俺の正面に座った。
「手を出してください」
「お、おう」
言われた通りに右手を差し出す。
芳乃はそっと俺の手首を取った。細くて白い指先が、痛む場所を確かめるように触れる。
「少し腫れていますね……」
そのまま湿布のようなものを当て、手際よく包帯を巻き始める。
その手つきは慣れていて、けれど同時に、どこか丁寧すぎるくらい丁寧だった。
そして、治療しながら、芳乃が静かに口を開く。
「……お話があります」
「やっぱりその流れか」
「当然です」
ぴしゃりと言われた。
「怪我をしているのに、夜の山まで追ってくるなんて、無茶にもほどがあります」
「うっ」
「しかも、まだ祟り神について十分に分かっていない状態で、あの場へ飛び込んだのですよ? 勇敢というより、無謀です」
「返す言葉もありません……」
「ありませんか」
「はい……」
芳乃は怒鳴ったりしない。
だが、将臣の手首に包帯を巻く手は優しいのに、言葉だけは容赦がない。
「もし、もっと酷く手首を傷めていたらどうするつもりだったのですか」
「……それは、本当にごめん」
さすがに素直に謝ると、芳乃の指先が一瞬だけ止まった。
「わたしが、どれだけ心配したか……少しはお分かりですか?」
その声音は、さっきより少しだけ小さい。
俺は答える代わりに、静かに頷いた。
芳乃は目を伏せ、包帯を結び終える。
「……ですが」
声が、少しやわらいだ。
「助けていただいたことについては、お礼を申し上げます」
そして芳乃は、まっすぐ俺を見た。
「ありがとうございました、将臣さん」
一瞬、言葉が出なかった。
あの芳乃が、こんなふうに真正面から礼を言ってくれる。そのことが思った以上に胸に響いて、少しだけ照れくさくなる。
「……どういたしまして」
頭をかきたくなったが、今は手首が痛いのでやめた。
代わりに苦笑しながら言う。
「でも、正直、自分でも驚いたよ。叢雨丸を握った途端、周りがすごくはっきり分かるようになって……身体も勝手に動いたみたいだった」
「それに……あの一太刀」
芳乃も、さっきの場面を思い返すように目を伏せる。
「祟り神を斬った太刀筋は見事でした。あの間合いで、迷いなく踏み込めるとは思いませんでした」
「いや、半分は叢雨丸のおかげだと思う」
「それでも、刀を振るのは将臣さんです」
そう言われると、少しだけ胸の奥がくすぐったい。
怖さはある。痛みもある。
でも、それ以上に思った。
俺は戦えたのだ、と。
ただ見ているだけじゃなく、守るために動けたのだと。
「芳乃」
「はい」
「俺、決めたよ」
自然と声に力がこもる。
「これから先、祟り神が実体化したら、俺も戦う」
芳乃が息を呑む。
「将臣さん……」
「もちろん、まだ未熟なのは分かってる。でも、俺は叢雨丸の使い手なんだろ。だったら、見てるだけじゃなくて、ちゃんと力になりたい」
そう言い切ると、芳乃はすぐには返事をしなかった。
困ったように、戸惑ったように、唇をわずかに動かす。
嬉しくないわけではない。けれど素直に受け入れるには、危険が大きすぎる。
そんな揺れが、その沈黙に表れているようだった。
だが、その時だった。
ぐぅぅぅ……。
「…………」
「…………」
妙にはっきりした音が部屋に響く。
俺の腹だった。
張り詰めていた空気が、一瞬で全部吹き飛ぶ。
「……しまらないな、俺」
思わず苦笑すると、芳乃の肩が小さく震えた。
「……ふふっ」
そして、ついに堪えきれなくなったように笑う。
巫女姫としての整った微笑みじゃない。年相応の、やわらかな笑い方だった。
つられて俺も笑う。
その空気に気が緩んだのか――
くぅ……。
今度は、芳乃の方から小さく可愛らしい音が鳴った。
「…………あ」
芳乃の顔がみるみる赤くなる。
さっき笑ったばかりの分、余計に恥ずかしいのだろう。
「今のは聞かなかったことにする」
「聞こえておりますよね……?」
「まあ、ばっちり」
「将臣さん……!」
恥ずかしそうに睨まれて、でもその表情にさっきまでの強張りはない。
「何か作ろうか」
俺がそう言うと、芳乃は少しだけ目を丸くした。
「将臣さんが、ですか?」
「簡単なものならな。台所、借りてもいいか?」
芳乃は一瞬迷うように視線を揺らし、それから小さく頷いた。
「……はい。お願いいたします」
◆
台所に立って見回すと、すぐに卵が見つかった。
「よし、卵焼きにするか」
「卵焼き……!」
芳乃の目がぱっと輝く。
その反応が分かりやすすぎて、思わず笑いそうになる。
「好きなのか?」
「はい。とても」
即答だった。
「そういえば、芳乃って料理するのか?」
「……あまり、いたしません」
少し言いにくそうに答える。
「普段は茉子が作ってくれるので、わたしが台所に立つ機会はほとんどありません」
「なるほど。じゃあ今日は見学しながら覚えていけるな」
「覚えられるほど簡単なのですか?」
「卵焼き自体はな。卵を混ぜて、味をつけて、少しずつ焼いて巻くだけだ」
「少しずつ……」
芳乃は興味津々といった様子で、俺の手元をじっと見つめている。
さっきまで祟り神と向き合っていた人と同じとは思えないくらい、真剣な眼差しだ。
「味付けはどうするんですか?」
「そうだな。塩で少し整えて――」
「え」
芳乃が固まった。
「……砂糖、ではなく?」
「甘い卵焼き派なのか?」
「はい」
「俺は塩派だな」
「卵焼きは甘い方が美味しいです」
「いや、しょっぱい方が飯にも合うだろ」
「甘い卵焼きも合います」
「それは分かるけど、夜食に甘いのはちょっと違わないか?」
「違いません。むしろ安心する味です」
思いのほか、きっぱり返された。
芳乃がここまで食い下がるのも珍しい気がする。
ついさっきまで厳しい顔で呪いの話をしていたのに、卵焼きの味付けひとつでここまで真剣になるのが、なんだか少しおかしかった。
「……そんなに甘いのがいいのか?」
「はい。わたしは甘い卵焼きが好きです」
そう言われると、何だか塩派を押し通すのも大人気ない気がしてくる。
「……分かったよ」
「本当ですか?」
「今回は芳乃の希望を優先する」
その途端、芳乃の顔が明るくなった。
なんだその嬉しそうな顔。そんな顔をされると、折れた甲斐があった気がしてしまう。
「ですが、今回は、ということは」
「次は塩味も試してもらう」
「む……」
「そこは譲らない」
すると芳乃は少しだけ考えてから、こくりと頷いた。
「……分かりました。では次は、塩味も試してみます」
「交渉成立だな」
卵を割り、よく溶いて、砂糖を加える。
卵焼き器に油をひき、じゅわりと焼き始めると、甘い香りが台所にふわりと広がった。
「おお……」
芳乃が小さく声を漏らす。
「そんなに珍しいか?」
「はい。こうして近くで見ていると、なんだか楽しいです」
その言い方が少し子供っぽくて、思わず笑う。
何度かに分けて卵を流し、くるくると巻いていく。
完璧とは言えないまでも、十分に美味そうな形にはなった。
「よし、できた」
切り分けて皿に乗せると、芳乃は待ちきれないように箸を取る。
「いただきます」
「どうぞ」
ひと口食べた芳乃の表情が、ふっとやわらいだ。
「……おいしいです」
「それはよかった」
「ちゃんと甘いです」
「そこ強調するんだな」
俺も食べてみる。
……うん、甘い。でもこれはこれで悪くない。
向かいで食べる芳乃は、本当に満足そうだった。
山で見せた張り詰めた顔でもなく、巫女姫としての整った微笑みでもない。
年頃の女の子らしい、素直な表情。
それを見られたことが、少しだけ嬉しかった。
「将臣さん」
「ん?」
「先ほどは、本当に危ないことをしましたから……次からは、ちゃんと相談してください」
言いながらも、その声はもう怒っていなかった。
俺は頷く。
「分かった。今度はちゃんと相談する」
「本当ですよ?」
「……善処する」
「全然分かっていないではありませんか」
呆れたように言いながら、芳乃はくすっと笑った。
俺も笑う。
深夜の台所に、穏やかな空気が流れていく。
祟り神のことも、朝武家の呪いも、何も終わってはいない。
それでも今は、こうして同じ皿の卵焼きを分け合って笑っていられる。
その時間が、少しだけ嬉しかった。
きっとこれは、小さな一歩だ。
けれど確かに、今夜、俺と芳乃の距離は少しだけ縮まった気がした。