『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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次の話より18時投稿のみになります。


第12話 休養明け、そして新しい日常へ

 

 

 深夜の台所で、芳乃と卵焼きを分け合ったあの夜から、二日が過ぎた。

 

 その二日間、俺――有地将臣は、ほとんど何もさせてもらえなかった。

 

「将臣さん。動いてはいけません」

 

 朝一番、部屋の襖が開くなり飛んできたのは、そんな言葉だった。

 

 しかも言ったのは、柔らかい笑顔のまま、まったく譲る気のない芳乃である。

 

「いや、でもさ。もうだいぶ痛みも引いてきたし、少しくらい――」

 

「だめです」

 

「即答ですか……」

 

「即答です」

 

 ぴしゃり、と言い切られた。

 

 しかも声音は穏やかなのに、逆らってはいけない圧がある。怒鳴っているわけでもないのに、なぜこうも迫力があるのか。巫女姫、恐るべし。

 

「将臣さんは、今回無茶をしすぎました。あれほどの怪我をしたのですから、今はきちんと休んでいただきます」

 

「うっ……」

 

「返事は?」

 

「……はい」

 

「よろしいです」

 

 まるで聞き分けのない子供を諭すみたいに言われて、俺は素直に頷くしかなかった。

 

 とはいえ、そう言われて本当に何もしないでいるのは、どうにも落ち着かない。

 

 朝武家に居候させてもらっている立場で、飯を食って寝ているだけというのも居た堪れないのだ。

 

 だから、芳乃の目を盗んで少しでも家事を手伝おうとしたのだが――。

 

「おや。何をしておられるのですか?」

 

 台所で食器を洗おうとした瞬間、後ろから楽しそうな声がした。

 

 振り返れば、そこには茉子が立っていた。いつものにこやかな笑みだが、目が笑っていない。

 

「いや、せめてこれくらいは……」

 

「だめです」

 

「茉子まで即答か……」

 

「芳乃様から、将臣さんを動かさないよう仰せつかっておりますので」

 

「見張り役までついてたんだ……」

 

「見張りとは人聞きが悪いですね。護衛兼監視兼雑務担当です」

 

「ほぼ見張りじゃないか……」

 

 俺の手からするりと皿を取り上げ、茉子は慣れた手つきで流しへ戻してしまう。

 

「将臣さんはお部屋で大人しくしていてください。無理をされて傷が開いたりしたら、芳乃様が悲しまれますよ?」

 

「……それを言われると弱い」

 

「ふふ。では、そのまま大人しくしていてください」

 

 完全に手玉に取られている気がする。

 

 だが、それでも何もしないでじっとしているのは性に合わない。

 

 なので翌朝、今度は家の中ではなく外に出た。境内の掃除くらいなら大丈夫だろうと思ったのだ。落ち葉を集めるだけなら腕にもそこまで負担はかからないし、何より何もしない罪悪感が少しは薄れる。

 

 朝の境内は、ひんやりと澄んだ空気が気持ちよかった。

 

 箒を手にして石畳の上を掃いていくと、さらさらと落ち葉が音を立てて集まっていく。

 

「これくらいなら、さすがに怒られな――」

 

「将臣さん」

 

「うわっ!?」

 

 背後から静かな声がして、思わず肩が跳ねた。

 

 振り向けば、そこには芳乃が立っていた。

 

 白い髪を朝日に透かしながら、じっとこちらを見ている。その表情は穏やかだ。穏やかなのだが――目がまったく笑っていない。

 

 しかも、その左右には茉子とムラサメまでいる。

 

「……お、おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 芳乃はにこりと微笑んだ。

 

 優しい笑み。けれど、その笑顔の奥にある“逃がしません”という圧がすごい。

 

 隣で茉子が困ったように苦笑する。

 

「やはり来ましたか、将臣さん」

 

「やはりって何だよ……」

 

「何となく、そんな気はしておりましたので」

 

「当てないでほしかったな……」

 

 そしてムラサメは腕を組み、やれやれと首を振っていた。

 

「まったくご主人は、少し目を離すとこれだ。療養中だという自覚が薄いのではないか?」

 

「いや、そんな大げさなことじゃないって。掃除くらい――」

 

「将臣さん」

 

 芳乃に名前を呼ばれて、俺はぴたりと口をつぐんだ。

 

 静かな声音なのに、それだけで空気が締まる。

 

 芳乃は一歩、また一歩と近づいてきて、俺の持っていた箒へ視線を落とした。

 

「これは何ですか?」

 

「……箒です」

 

「そうですね。では将臣さんは今、何をしていらっしゃるのですか?」

 

「境内の掃除を……」

 

「休養中の方が?」

 

「……はい」

 

「怪我人が?」

 

「……はい」

 

「私が、しっかり休んでくださいと申し上げたのに?」

 

「…………はい」

 

 だめだ。完全に怒られている。

 

 怒鳴られているわけじゃないのに、妙に逃げ場がない。

 

 芳乃は小さくため息をつくと、俺の手からすっと箒を取り上げた。

 

「もう、だめです」

 

「でも本当に、これくらいなら平気で――」

 

「だめです」

 

「……ですよね」

 

「将臣さんは、どうしてそういうところだけ素直ではないのですか」

 

「いや、素直じゃないっていうか、何もしないのが落ち着かないだけで……」

 

「それでも、休む時は休んでいただかないと困ります」

 

 きっぱり言われる。

 

 その声音には呆れも混じっていたが、それ以上に、ちゃんと心配しているのが伝わってきた。

 

 だからこそ、強く出られない。

 

「将臣さんが無理をして、またお怪我をされたら……」

 

 そこで芳乃は一瞬だけ言葉を止めた。

 

 次いで、少しだけ眉を寄せる。

 

「私は、困ります」

 

 その“困ります”は、ただの建前なんかじゃなかった。

 

 胸の奥にじんわり落ちてくるくらい、まっすぐな響きがあった。

 

「……分かったよ」

 

「本当ですか?」

 

「うん。ちゃんと戻って休む」

 

「約束ですよ?」

 

「約束」

 

 そう答えると、ようやく芳乃の表情が少しだけ和らいだ。

 

 その横で、茉子がくすりと笑う。

 

「将臣さんも、芳乃様には敵いませんね」

 

「否定はできないな……」

 

「ふふ。見ていて微笑ましいです」

 

「微笑ましいで済ませるなよ」

 

 すると、ムラサメが呆れたように鼻を鳴らした。

 

「微笑ましいというか、完全に尻に敷かれておるではないか」

 

「うるさいぞ、ムラサメちゃん」

 

「事実であろう。先ほどからご主人、叱られっぱなしではないか」

 

「それは……まあ、そうだけど」

 

「しかも反論が弱い。見ていて実に情けない」

 

「お前、妙に楽しそうだな」

 

「うむ。少しな」

 

 ふふん、と胸を張るムラサメに、思わず苦笑が漏れる。

 

 そんな俺たちのやり取りを少し離れたところから見ていた安晴は、渡り廊下の柱に軽く背を預けたまま、静かに目を細めていた。

 

 何か言うわけでもなく、ただ穏やかにこの光景を見守っている。

 

 そして、ひとつ小さく頷く。

 

 ――婚約者にしたのは、やはり間違いではなかった。

 

 そんなふうに思っているような顔だった。

 

 いや、勘弁してほしい。

 

 あの人、たぶんかなり本気でそう思ってる。

 

 外堀が埋まる音が、朝の境内にまで響いてきそうだ。

 

「……将臣さん?」

 

「え?」

 

「何か失礼なことを考えていませんか?」

 

「…考えてません」

 

「少し間がありましたが?」

 

「気のせいです」

 

「そうですか」

 

 芳乃は首を傾げたが、それ以上は追及してこなかった。

 

 ただし、取り上げた箒はしっかり自分の手に持ったままである。

 

「では、お部屋へ戻ってください」

 

「はいはい、分かりましたよ」

 

「はいは一回で十分です」

 

「はい」

 

「……もう」

 

 ほんの少し呆れたように、でもどこか柔らかく芳乃が言う。

 

 そんな様子を見ていると、なんだか怒られているはずなのに、妙に心地いい気持ちになるから不思議だ。

 

 俺は芳乃に急かされるまま、素直に部屋へ戻ることにした。

 

 背中越しに、茉子の苦笑と、ムラサメの呆れた声が追いかけてくる。

 

「本当に手のかかる方ですねえ」

 

「ご主人は、じっとしておると死ぬ病かもしれぬな」

 

「そこまでじゃないだろ……」

 

「似たようなものです」

 

 茉子にまで言われてしまった。

 

 まったく、ひどい扱いである。

 

 ……いや、たぶん心配されているだけなんだけど。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 そんなこんなで、完全休養を言い渡されてからさらに数日。

 

 ようやく怪我の痛みもほとんどなくなり、日常生活に支障がないところまで回復した俺は、一時的に実家へ戻ることになった。

 

 穂織で暮らすにあたって、必要な荷物を運び込むためだ。

 

 朝、玄関先で靴を履いていると、芳乃が見送りに出てきた。

 

「では、将臣さん。お気をつけて」

 

「はい。荷物をまとめたら、すぐ戻ります」

 

「無理はなさらないでくださいね」

 

「……はい。たぶん大丈夫です」

 

「たぶん、では困ります」

 

 ぴしゃりと返されて、思わず苦笑する。

 

 その隣で、茉子がくすりと笑った。

 

「帰り道で重い荷物を全部お一人で持とうとしたりしないでくださいね?」

 

「どうして先回りしてくるんだ……」

 

「将臣さんですから」

 

「それ、たぶん褒めてないよな」

 

「もちろんです」

 

 きっぱり言われた。

 

 ムラサメは少し離れたところで腕を組んでいた。

 

「まあ、ご主人。無茶だけはするでないぞ。せっかく怪我が治りかけておるのだからな」

 

「ムラサメちゃんにまで言われるとは思いませんでした」

 

「何だその言い方は。我輩とて心配くらいする」

 

「……ありがとうございます」

 

「うむ」

 

 ふん、とそっぽを向くムラサメに、思わず笑ってしまう。

 

 そこで、ふと思い出したことを俺は口にした。

 

「あ、そうだ。ひとつ相談があるんだけど」

 

「何でしょうか」

 

 芳乃が小首を傾げる。

 

「配信の件なんだけどさ。しばらく休むことになるから、休業の告知だけはちゃんとしておきたくて」

 

「はい」

 

「穂織に戻ってから、一度だけ配信で知らせてもいいかな。そんなに長い時間じゃなくて、休むって伝えるだけのつもりなんだ」

 

 俺がそう言うと、芳乃は少しだけ考えるように目を伏せた。

 

 隣では茉子も表情を引き締める。

 

 けれど俺の配信は、いわゆる顔出し配信ではない。

 

 身バレ防止のために、最初からそういう形は取っていない。画面に映るのは基本的にパソコン上の作業画面やイラストのデータ、もしくは配信用に用意したモデルや画面素材だけで、俺自身の顔や部屋の背景を出すことはない。絵の解説配信も同じで、表示されるのは描いている画面や資料、そこに声で説明を重ねるスタイルだ。

 

 だからこそ、普通の配信よりは周囲の様子が映り込む心配も少ない。

 

 それを説明すると、芳乃は納得したように小さく頷いた。

 

「なるほど……将臣さんの配信は、お姿やお部屋そのものを映す形ではないのですね」

 

「うん。最初からその方式なんだ。身元が分かるようなものは出さないようにしてるし、今回も画面共有と音声中心でやるつもり」

 

「でしたら、以前お聞きした時よりは安心できますね」

 

 茉子も腕を組みながら、ふむ、と頷く。

 

「確かに、それなら背景の映り込みは気にしなくてもよさそうですね。将臣さんご本人のお顔が出るわけでもないのでしたら、こちらとしても助かります」

 

「まあ、部屋の中を映す配信だったら、さすがに俺もここではやらないよ」

 

「そのくらいの分別はありましたか」

 

「言い方ひどくない?」

 

「普段の行いですね」

 

 ばっさりだった。

 

 ムラサメは横で腕を組んだまま、興味深そうに言う。

 

「ほう。では、ご主人の配信というのは、絵を描く様子や画面を見せつつ、声であれこれ語るようなものなのだな」

 

「そんな感じ。雑談もするけど、基本は作業とか解説寄りだな」

 

「顔も出さず、姿も見せず、それで成り立つのか?」

 

「成り立ってるから今までやってこれたんだよ」

 

「ふむ。世の中とは不思議なものよのう」

 

 妙に感心したようにムラサメが頷く。

 

 やがて芳乃は、改めてまっすぐ俺を見た。

 

「内容をきちんと選んでいただけるなら、構いません」

 

「ほんと?」

 

「はい。ただし、朝武家のことや穂織のことを必要以上に話すのはだめです。場所が特定されるようなことも避けてください」

 

「それはもちろん。余計なことは話さないよ」

 

「音声だけとはいえ、窓の外の音や、近くの方との会話などにも気をつけてください」

 

「そこも気をつける」

 

「配信をするお部屋も、一度こちらで確認しておきましょうか」

 

 そう言って茉子が口を挟む。

 

「画面には映らなくとも、将臣さんがうっかり部屋の外へマイクを向けたり、妙なものを口走ったりしないとは言い切れませんから」

 

「俺、どんだけ信用ないんだよ……」

 

「かなり、ですね」

 

「即答だな……」

 

 ムラサメが横から面白そうに笑った。

 

「まあ、ご主人の抜けたところは今さらじゃしな」

 

「お前まで言うな」

 

「だが、声だけの配信なら我輩も少し覗いてみたい気はする。どのように人を集めておるのか、興味はあるぞ」

 

「見るだけなら別にいいけど、妙なところで話しかけるなよ?」

 

「善処しよう」

 

「一番信用ならない返事だな……」

 

 そんなやり取りを見ながら、安晴が穏やかに笑った。

 

「配信、か。将臣君にも将臣君の生活があるからね。その区切りをきちんとつけるのは、大事なことだと思うよ」

 

「安晴さん……ありがとうございます」

 

「しかも顔出しではなく、元々そういう配信スタイルなんだろう? なら、必要以上に構えることもないのかもしれないね」

 

「はい。普段通り、短く伝えるだけにするつもりです」

 

「うん。それがいい。ただし、芳乃の言う通り無理はしないこと。告知が済んだら、またちゃんと休むんだよ?」

 

「はい」

 

 深く頭を下げる。

 

 そのやり取りで、なんだか妙に胸のつかえが取れた気がした。

 

 穂織に来ることも、向こうの仕事を整理することも、どちらも中途半端にはしたくない。

 

 だったら、ちゃんと線を引いて、今やるべきことをやるだけだ。

 

「では、行ってらっしゃい、将臣君」

 

 安晴の声に送られ、俺は改めて朝武家を後にした。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 昼前に実家へ着くと、久しぶりの空気に少しだけ肩の力が抜けた。

 

「ただいま」

 

「おかえり、将臣」

 

 出迎えてくれた母さん――都子は、俺の顔を見るなりほっとしたように息をついた。

 

「顔色は悪くないわね。ちゃんと休んでた?」

 

「うん。かなりしっかり休ませてもらったよ」

 

「休ませてもらった?」

 

「……何でもないよ」

 

 詳しく話すと、たぶん面白がられる。

 

 とりあえず部屋に戻り、必要な機材や生活用品を整理し始める。

 

 仕事用のパソコン、液タブ、資料集、筆記具、衣類、日用品。加えて、最低限必要な絵の資料。さらに配信に使うマイクやオーディオインターフェース、配信用のサブ機材、各種ケーブル類も段ボールへ詰めていく。カメラで自分を映すような配信はしていないが、それでも音声や画面操作に必要な機材はそれなりにある。

 

 機材をまとめながら、自然と昔のことを思い出す。

 

 俺が今の事務所に入ったきっかけは、もともと新規Vtuberのイラストレーター募集だった。

 

 大手Vtuber事務所の中にあるクリエイター部門。そこに応募して、採用された。

 

 いわゆる“パパ”として、担当Vtuberのキャラクターデザインと立ち絵を任されたのが始まりだ。

 

 最初は、ただ大きな仕事を掴んだくらいの感覚だった。

 

 けれど、俺が担当したそのVtuberは、イラストの仕上がりと中の人自身の実力がかみ合って、一気に跳ねた。

 

 トークも上手いし、反応も早い。歌も強い。しかも努力家だった。

 

 同い年の女の子で、デビュー前から打ち合わせで何度か顔を合わせていたからこそ分かるが、あいつが伸びたのは運だけじゃない。間違いなく実力だ。

 

 そして、彼女の人気が上がるにつれて、“パパ”である俺の名前も少しずつ知られるようになった。

 

 配信でたまに触れてくれることもあったし、記念配信や設定解説の時に俺が関わる機会も増えた。俺自身がやっていたイラスト解説や作業配信も、「分かりやすい」と言われて数字が伸び始め、気づけば個人の配信まで一定の人気を持つようになっていた。

 

 あいつとの配信上の掛け合いも、リスナーからは“いいコンビ”みたいに見られている。

 

「……ほんと、えらいことになったよな」

 

 小さく呟く。

 

 仕事としてはありがたい。

 

 でも、その分だけ今の俺の動きは、俺一人だけの問題じゃない。

 

 だからこそ、ちゃんと筋を通さなきゃいけない。

 

「この辺りは持っていくとして……」

 

 棚から資料本を何冊か抜き出し、さらにケーブル類をまとめる。

 

 配信機材までまとめ始めると、いよいよ生活の拠点を移すんだという実感が強くなった。

 

 本当にこれから、穂織で暮らすんだな、と。

 

 しかもただ住むだけじゃない。

 

 朝武家の呪いも、祟り神のことも、芳乃のことも、全部ひっくるめて、俺はあの場所に関わっていくことになる。

 

「……責任、重いよな」

 

 小さく呟く。

 

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 

 むしろ、やるしかないと思っている自分がいる。

 

 荷物をある程度まとめ、引っ越し業者に預ける準備を終える頃には、時刻は夕方前になっていた。

 

 そして俺は、その足で自分が所属している事務所へ向かった。

 

 

   ◇◇◇

 

 

「へえ。本当に穂織に引っ越すのね」

 

 応接スペースで向かい合った葛葉さんは、書類を片手にそんなふうに言った。

 

 年上らしい余裕のある声音。けれど表情には、少しだけ呆れたような、困ったような色も混じっている。

 

「はい。しばらくは、あちらを拠点にする形になりそうです」

 

「しばらく、ねえ……」

 

 葛葉さんはじとっとした目を向けてくる。

 

「将臣くんのその“しばらく”って、たいてい長いやつじゃない?」

 

「うっ……否定しづらいですね」

 

「でしょうね」

 

 はあ、とため息をつかれる。

 

 それもそのはずだ。事務所側からすれば、今後伸ばしていこうとしていた人材が、急に地方へ拠点を移すと言い出したようなものなのだから。

 

「一応言っておくけど、こっちは将臣くんをかなり期待してたのよ?」

 

「はい。それは分かっています」

 

「イラストの実力はあるし、配信の数字も悪くない。何より、あの子の“パパ”って肩書きは、今のうちの中でもかなり強いんだから」

 

 そこを真正面から言われると、少しだけ肩がすくむ。

 

 葛葉さんは俺が言い淀むのも構わず、そのまま続けた。

 

「新人Vのキャラデザ募集に受かって入ってきた時は、正直ここまでなるとは思ってなかったけどね。でも実際、将臣くんが担当した子は大当たりした。イラストの完成度も高かったし、中の子もちゃんと実力があった。結果として、デビューから一気に跳ねた」

 

「……あれは、本人の頑張りが大きいですよ」

 

「もちろんそう。でも、最初に“見たい”と思わせる器を作ったのは将臣くんでしょ」

 

 真っ直ぐに言われて、少しだけ言葉に詰まる。

 

 否定はできない。でも、全面的に自分の手柄みたいに受け取るのも違う気がして、どう返せばいいか迷う。

 

 そんな俺を見て、葛葉さんはふっと笑った。

 

「まあ、そうやってすぐ自分の功績を引っ込めるところも将臣くんらしいけど」

 

「……恐縮です」

 

「しかもあの子との関係も良かったものね。リスナーからも“いいコンビ”って思われてるし、記念配信でちょっと絡んだだけでも反応がいい。将臣くん個人の解説配信まで伸びたのは、その積み重ねもあるわ」

 

「それは……ありがたい話です」

 

「ありがたいで済ませるには惜しいくらい、ちゃんと価値があるの」

 

 葛葉さんは書類を机に置いて、改めて俺を見た。

 

「イラストレーターとしても、配信者としても、事務所として今後もっと伸ばしていきたい人材なのよ。だから、簡単に“はいそうですか”って送り出せないの」

 

 そこまで言われると、さすがに胸に重く落ちる。

 

「……すみません」

 

「謝ってほしいわけじゃないの。ただ、ちゃんと分かっててほしいだけ」

 

「はい」

 

 頷くと、葛葉さんは少しだけ表情を和らげた。

 

 それから、ふと思い出したように口元を緩める。

 

「そういえば、あの子も寂しがってたわよ」

 

「……え?」

 

「急に拠点移すって聞いて、“え、そんな急なの?”って、けっこうしょんぼりしてた」

 

「しょんぼりって……」

 

「してたわよ。表向きはいつもの調子だったけどね。打ち合わせのついでに顔合わせたり、何かあった時にすぐ相談投げたり、そういうのしにくくなるじゃんって」

 

 思わず、言葉に詰まる。

 

 あいつなら確かに、そういうことを言いそうだった。

 

 同い年ってこともあって、担当Vと俺は仕事相手の中じゃかなり話しやすい方だ。向こうも遠慮なく突っ込んでくるし、俺もわりと素で返している。

 

 だからこそ、急に距離が開くことを、向こうなりに実感したのかもしれない。

 

「まあ、完全に会えなくなるわけじゃないんだけどね」

 

 葛葉さんはくすりと笑う。

 

「告知配信やるなら、たぶんあの子、コメントから来るわよ」

 

「……来そうですね」

 

「来るわね、あれは」

 

 妙に断言された。

 

「“パパが急に消えたら、こっちまで空気重くなるじゃん”とか何とか言ってたし」

 

「言いそうだなあ……」

 

 思わず苦笑が漏れる。

 

 けれど、その苦笑の奥で、少しだけ胸が温かくなるのも確かだった。

 

「……将臣くん」

 

「はい」

 

「変な事件に巻き込まれてないでしょうね?」

 

 一瞬、息が詰まった。

 

 あまりにも核心に近い言葉だったからだ。

 

 けれどもちろん、ここで本当のことを話せるわけがない。

 

「……否定しきれないのが、少し困るところです」

 

「それ、かなり気になる返しなんだけど」

 

 葛葉さんは呆れたように眉を下げた。

 

「警察沙汰とか、そういう危ない話じゃないんでしょうね?」

 

「そこは大丈夫です。たぶん」

 

「たぶんって言ったわね、今」

 

「すみません」

 

「もう……」

 

 こめかみを押さえながら、葛葉さんは深くため息をつく。

 

 けれど叱りつけるというよりは、心底心配している年上のお姉さんみたいな空気だった。

 

「無理に聞き出すつもりはないわ。でも、体に傷を作って帰ってきた子に“気にしないで”って言われても、そうはいかないのよ?」

 

「……すみません」

 

「謝るのはいいから、せめて自分が無茶してる自覚くらい持ちなさい」

 

「はい」

 

 素直に頷くと、葛葉さんは少しだけ表情を和らげた。

 

「よし。じゃあ説教はそのくらいにして、仕事の話をしましょうか」

 

「はい、お願いします」

 

 そこからは、本格的な調整に入った。

 

 現在抱えているイラスト案件の納期。今後受ける仕事の本数。穂織に移ってからの作業時間の確保。配信活動をどうするか。SNS運用はどの程度なら負担を抑えられるか。

 

 話し合うことは山ほどあった。

 

「この案件は絶対に落とせないわ。こっちは先方がかなり待ってくれてるから、優先度高め」

 

「分かりました」

 

「配信は……休止告知を出して、しばらくはSNS中心に切り替えるしかなさそうね」

 

「はい。休業の告知自体は、穂織に戻ってから一度だけ配信でやる許可をいただいています」

 

「それがいいと思うわ」

 

 葛葉さんはすぐに頷いた。

 

「将臣くんの配信って、もともと顔出しじゃないものね。画面共有と音声中心なら、環境が変わっても比較的やりやすいでしょうし」

 

「はい。そこは普段通りでいけると思います」

 

「絵の解説だって、いつも作業画面を見せながら喋る形だし、むしろ変に取り繕うより、ちゃんと一度話したほうがファンも安心するわ。あの子のファンも、将臣くんの配信を見てる層、けっこう被ってるんだから」

 

「……ですよね」

 

「パパが急に消えたら、そりゃざわつくわよ」

 

「やめてください、ちょっとダメージあります」

 

「事実でしょ?」

 

「事実ですけど」

 

 苦笑すると、葛葉さんもふっと笑った。

 

「でも、ちゃんと一回伝えるって判断はいいと思う。あの子との距離感も含めて、将臣くんってリスナーに変な不安を与えないほうが強いタイプだもの」

 

 その言い方に、少しだけ肩の力が抜けた。

 

 葛葉さんは最初から、俺のやっていることを分かったうえで話してくれている。

 

 それだけで、だいぶ気が楽になる。

 

「ありがとうございます。俺も、黙って休むのは違うかなと思ってたので」

 

「うん、その判断はいいと思う。ただし長くやりすぎないこと。告知だけして、あとは軽く反応を見るくらいにしておきなさい」

 

「はい。そのつもりです」

 

「それに、将臣くんの配信スタイルなら、身バレの心配を増やさずに区切りをつけられるでしょ。そこは元々ちゃんと考えてやってきた強みね」

 

「……そう言ってもらえると助かります」

 

「ちゃんと評価してるわよ、そういうところは」

 

 葛葉さんは少しだけ笑って、それからまたタブレットへ視線を落とした。

 

「ただし、完全に沈黙するのはだめ。ファンって、思ってるより寂しがるものなのよ」

 

「なるほど……」

 

「ラフでも進捗でもいいから、負担の軽い形で何かしらは出して。将臣くん、そこは器用なんだから」

 

「ありがとうございます。できる範囲でやってみます」

 

「あと、無理して新規案件を増やすのは禁止」

 

「そこは正直、助かります」

 

「助かります、じゃないの」

 

 呆れたように笑いながら、葛葉さんはタブレットに予定を書き込んでいく。

 

「でもね、将臣くん。正直に言うと、この二、三か月が山場よ」

 

「……やっぱり、そうなりますか」

 

「なるわよ。引っ越しのごたごたに、今抱えてる締切が重なってるんだもの。それに将臣くん、個人の仕事だけじゃなくて、事務所内での見られ方ももう軽くないんだから。ここをきれいに乗り切れれば、その先はだいぶ調整しやすくなるわ」

 

「分かりました」

 

「逆に、ここで崩れると全部ずるずる行く。だから、本気でやってちょうだい」

 

「はい。そのつもりです」

 

 そう答えながら、俺は内心で別のことも考えていた。

 

 ――剣の修行だ。

 

 祟り神との戦いで、はっきりと思い知らされた。

 

 俺はまだ弱い。

 

 あの場では勢いと気合いで何とかした部分も大きい。次も同じように上手くいく保証なんてどこにもない。

 

 芳乃を守ると決めたのなら、もっと力が必要だ。

 

 だから、仕事と並行してでも、修行の時間を作らなければならない。

 

「……将臣くん?」

 

「えっ?」

 

「今、何か変な顔してたわよ?」

 

「そうですか?」

 

「ええ。なんだか、また無茶なことを考えてそうな顔」

 

「また、ですか……」

 

「合ってるのね」

 

 にやり、と葛葉さんが笑う。

 

 からかうようでいて、その目はしっかりこちらを見ていた。

 

「まあ、何をするにしても止めはしないわ。ただし、倒れない範囲でやること。将臣くん、黙って無茶するタイプだもの」

 

「……そこまで分かりますか」

 

「長い付き合いですから」

 

 ふっと、葛葉さんは柔らかな笑みを浮かべた。

 

「才能がある子が、自分を雑に扱うのは感心しないの。ちゃんと大事にしなさい、自分のことも」

 

 その言葉に、少しだけ胸が熱くなる。

 

「……はい。気をつけます」

 

「よろしい」

 

 その後も細かな相談は続いた。

 

 穂織での作業環境について聞かれ、回線や機材の搬入時期を確認され、ラフ提出のタイミングや連絡手段も詰めていく。

 

 事務的なやり取りのはずなのに、葛葉さんの言葉の端々には、やはり“上司”だけじゃない心配がにじんでいた。

 

「連絡、遅れないでよ?」

 

「はい」

 

「体調崩したらすぐ言うこと」

 

「はい」

 

「締切危なそうなら早めに相談」

 

「はい」

 

「……返事だけはいいのよねえ」

 

「そこは長所ということで」

 

「自分で言うんじゃないの」

 

 くすっと笑われて、少しだけ気持ちが軽くなる。

 

 結局、打ち合わせは思った以上に長引いた。

 

 細かい調整を重ねた結果、向こう二、三か月はイラスト中心でかなり忙しくなる見通しが立った。

 

 配信のほうは休業という形で告知し、しばらくはSNSを中心にした負担の少ない活動へシフトすることに決まる。

 

「ひとまず、こんなところかしらね」

 

 葛葉さんが大きく息を吐いた。

 

「これで一回、回してみましょう」

 

「ありがとうございます。かなり助かりました」

 

「感謝するなら、ちゃんと納期守ってちょうだいね?」

 

「そこは……善処します」

 

「善処じゃなくて、守るの」

 

「はい」

 

 ぴしゃりと言われて、俺は苦笑する。

 

「でもまあ」

 

 帰り際、葛葉さんがふと声を和らげた。

 

「どこに住もうが、仕事の仕方が多少変わろうが、将臣くんがちゃんと描き続けるなら、それでいいわ」

 

「……葛葉さん」

 

「ただし、ちゃんと帰ってきなさいよ。いろんな意味で」

 

 その言葉は、思ったより深く胸に残った。

 

「はい」

 

 今度は、迷わず頷けた。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 その日は実家に一泊した。

 

 自室のベッドに寝転ぶと、懐かしさと同時に、ここがもう“帰る場所”ではなくなりつつあるような、不思議な感覚があった。

 

 もちろん実家が嫌になったわけじゃない。

 

 でも今、俺の意識が向いているのは穂織だ。

 

 朝武家での暮らし。芳乃たちとの時間。祟り神のこと。あの土地でこれから向き合うべき現実。

 

 それに、仕事だってある。

 

 事務所の案件も、待ってくれている相手も、応援してくれているリスナーもいる。

 

 ただ引っ越すだけで済む話じゃない。

 

 天井を見上げながら、俺は小さく息を吐いた。

 

「二、三か月が山場、か……」

 

 仕事もある。

 

 生活も変わる。

 

 そのうえで、剣の鍛錬もしなきゃいけない。

 

 楽じゃない。たぶん、かなりきつい。

 

 でも――

 

「やるしかない、よな」

 

 言葉にすると、不思議と腹が据わった。

 

 俺はもう、あの夜みたいに、ただ守られるだけでいるつもりはない。

 

 守りたいものがあるなら、そのために強くなるしかない。

 

 そう決めたんだ。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 翌朝。

 

 荷物の手配も確認し終えた俺は、改めて実家を後にした。

 

「行ってきます」

 

「ええ、行ってらっしゃい。無理しちゃだめよ」

 

 母さんの声に見送られながら、俺は振り返って軽く手を振る。

 

 そして、穂織へ向かう道すがら、胸の内で静かに気合を入れた。

 

 二、三か月。

 

 たぶん、ここが正念場になる。

 

 仕事を片付けることも、暮らしを整えることも、強くなることも、どれ一つ手を抜けない。

 

 けど、それでいい。

 

 全部まとめて乗り越えてやる。

 

 そうして初めて、ようやく本当の意味で、あの場所に立てる気がした。

 

 穂織へ帰る足取りは、不思議と重くなかった。

 

 むしろ、少しだけ前を向けている気がした。

 

 ――次に待っている日常は、きっと今までより忙しくて、騒がしくて、でも悪くない。

 

 そんな予感を胸に、俺は再び穂織への道を進んでいった。

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