翌日の昼過ぎ。
俺――有地将臣は、段ボールの山に囲まれた新しい部屋の真ん中で、小さく息を吐いた。
「……よし。大物はだいたい揃った、か」
机の上には、デスクトップPC本体、モニター、マイク、オーディオインターフェース、マイクアーム、照明、小型のウェブカメラ。
東京から送った機材を一つずつ取り出して並べていくと、まだどこか仮住まいめいていた部屋が、少しずつ“仕事場”の顔を見せ始める。
生活用品だけなら、ただの引っ越し後の部屋だ。
けれど、こうして仕事道具まで並ぶと、ようやく実感が湧いてくる。
これからしばらく、本当にここで暮らしていくんだな、と。
「さて……まずは配線だな」
電源タップを引き寄せて、机の下に潜り込もうとしたところで、襖がこんこんと軽く叩かれた。
「将臣さん。入ってもよろしいでしょうか?」
「ご主人ー。我輩もおるぞー」
この組み合わせ、最近よく見るな。
「どうぞ」
声をかけると、襖が開き、芳乃とムラサメが顔を覗かせた。
芳乃は部屋の中を見て、少しだけ目を丸くする。
ムラサメはそのまま遠慮なく中へ入り、きょろきょろと辺りを見回した。
「おお……なんじゃこれは。さっぱり分からぬが、えらく物々しいのう!」
「見たことのない物ばかりです……」
その反応に、思わず苦笑する。
「まあ、普通はそうなるよな」
「お手伝いできればと思って来たのですが……」
「うん」
「どこから手をつければよいのか、さっぱり分かりません」
「正直で助かる」
芳乃は少しだけ気まずそうに目を伏せたが、すぐに表情を整えた。
「ですが、せめて見て覚えようかと」
「見て覚えるって、職人の弟子みたいだな」
「将臣さんのお仕事は、私たちにとって未知のものですから」
「我輩も興味津々じゃ! かように怪しげな道具が並べば、気にもなるというものじゃろう!」
ムラサメが机の上のマイクアームを指さした。
「これは何じゃ? 武器かの?」
「違う。マイクを支えるやつ」
「まいく……?」
「声を拾うための道具」
「ほう……つまり、ご主人の声を捕まえて閉じ込める呪具というわけじゃな!」
「言い方が怖いな」
「でも、少し分かる気はします」
「芳乃までそっちに寄らなくていい」
そんなやり取りをしながら、俺は配線を進めていく。
モニターの位置を決め、PC本体を机の下に置き、ケーブルを一本ずつ繋いでいく。
芳乃とムラサメは少し離れた位置に座って、本当に見学するだけに徹していた。
……いや、ムラサメは見学だけじゃないな。
「ご主人、この細長い板は何じゃ?」
「キーボード」
「おお……文字を書く板かえ!」
「まあ、そんなもん」
「筆も墨もいらぬのか! いやはや、まこと未来の品よのう!」
「未来ってほどでもないけどな」
次はマウスをつまみ上げる。
「では、これは何じゃ?」
「マウス」
「鼠?」
「名前だけな」
「ぜんぜん鼠に見えぬではないか。ほれ、耳も鼻もないぞ?」
「そこは俺に言われても困る」
「じゃが、尻尾らしきものはあるのう」
「コード付きだからな」
「ふむ……半分鼠、といったところかの」
「違う」
さらに机の下を覗き込んだムラサメが、声を上げた。
「見よ芳乃! ご主人の部屋、蛇だらけじゃ!」
「蛇じゃない。ケーブル」
「似たようなものではないか」
「全然よくないな」
「しかし、にょろにょろとうねっておるではないか。まこと蛇の眷属のようじゃぞ」
「そこだけ切り取るな」
芳乃が小さく口元を押さえた。
「ふふ……」
「笑ったな?」
「少しだけです」
「我輩は間違っておらぬと思うぞ?」
「この理屈だと、配線してる俺は蛇使いになるんだけど」
「おお、それはなかなか格好よいではないか。ご主人、ついに蛇まで従えるようになったか」
「なってない」
照明を見れば、
「なんじゃこれは。陽の光を瓶詰めにした宝具かの?」
と首を傾げ、
ヘッドホンを見れば、
「ふむ。耳当ての進化系じゃな。音を逃がさぬ工夫が施されておる」
と妙に感心し、
ウェブカメラを見れば、
「こやつは小さな見張りの目じゃろう? むう、じっとこちらを見ておって、少々落ち着かぬのう」
と真面目に分析し始めた。
完全に機材見学会だった。
「ご主人の仕事場は、よう分からぬが、なんだか強そうじゃの!」
「最後の感想が雑なんだよ」
「じゃが、これらを使って戦っておるのであろう?」
「まあ……戦ってはいるな」
「ならば合っておる。うむ、我輩は間違っておらぬ」
そんな中、芳乃が部屋の隅の段ボールへ目を向ける。
「将臣さん。この箱は本でしょうか?」
「ああ、たぶん資料と画集、その辺だな」
「でしたら、本棚に収めましょうか」
「助かる。ざっくり分類しながら入れてもらえるとありがたい」
「承知しました」
芳乃は畳の上に膝をつき、丁寧に段ボールを開けた。
中から本を一冊ずつ取り出して、静かに仕分けていく。
「ずいぶん多いのですね」
「絵の資料とか参考書が多いからな」
「なるほど……」
服飾資料、背景資料、ポーズ集、色彩関係の本。
几帳面に分けていく手つきはさすがだった。
だが、その途中で。
「あ……」
芳乃の手が止まった。
「ん?」
振り向くと、芳乃が少し大きめの本を両手で持ったまま、微妙に固まっている。
その視線は表紙に向いていた。
……嫌な予感がする。
「芳乃?」
「将臣さん」
「はい」
「これは、資料……なのですよね?」
そう言われて見た瞬間、俺も固まった。
あっ。
水着資料用の写真集だ。
しかもよりによって、表紙がかなり攻めている。
大胆な水着を着たグラビアモデルが、挑発するようなポーズでこちらを見ていた。
なんで今それを引くんだよ……!
芳乃は表情こそ崩していないものの、耳が少しだけ赤い。
「ええと……その……」
「はい」
「確かに資料ではあるんですが」
「はい」
「違うんだ」
「何がでしょうか」
声音が静かすぎて逃げ道がない。
ムラサメが横から覗き込む。
「なんじゃそれは?」
「あ、おい見るな」
「おおっ! なんとも肌色の多い本じゃのう! これはまた、目のやり場に困るわい!」
「お前は無邪気に言うな!」
芳乃が、写真集と俺を交互に見る。
「将臣さんは、このようなご本もお読みになるのですか?」
「その聞き方だと、だいぶ誤解がある」
「誤解、ですか?」
「これは水着のデザインとか、布のしわとか、体の見え方とか、構図とか、そういうのを見るための資料!」
「水着の……」
「そう! 夏イラストとか衣装デザインとか、そういうのに使うんだよ!」
芳乃はもう一度表紙を見下ろした。
「たしかに、衣装の形はよく分かりそうです」
「だろ?」
「ですが……」
「ですが?」
「もう少し穏やかな表紙のものはなかったのですか?」
「今、俺も猛烈にそう思ってる」
「そうなのですね」
「そうなんです!」
ムラサメがきらきらした目で言う。
「つまりご主人は、絵を描くために、かように肌色の多い本を集めておるのじゃな! いやはや、業の深いことよのう!」
「語弊がひどい!」
「だが間違ってはおらぬじゃろ?」
「間違ってはいないけど、言い方が致命的なんだよ!」
芳乃は少しだけ困ったように目を伏せた。
「私は、その……殿方のご本というものに詳しくはありませんので」
「うん、そうだろうな」
「少し驚いてしまいました」
「本当にすまん」
「いえ……」
「誤解させる置き方してた俺が悪い」
「……少しだけ、びっくりしただけです」
「少しだけではなかった顔してたけどな……」
思わず頭を抱えると、芳乃は写真集をそっと閉じた。
「資料だと分かりましたので、棚に収めておきます」
「いや待て、それは俺がやる!」
「ですが」
「その手の棚整理を芳乃に任せるのは、さすがに俺の良心が死ぬ!」
「そんなにでしょうか」
「そんなにです!」
そこで芳乃が、ほんの少しだけ笑った。
「……分かりました」
「助かる」
「では、この辺りは将臣さんにお任せします」
「そうしてくれると本当に助かる」
「我輩も見てみたいのう」
「だめ」
「なぜじゃ?」
「教育に悪い」
「我輩はもう十分に生きておるぞ? 今さら少々のことでは動じぬわ」
「そういう問題じゃない」
ようやく空気が戻り、俺は胸を撫で下ろした。
危なかった。
かなり危なかった。
気を取り直して、配線作業に戻る。
「将臣さん」
「ん?」
「こうした道具があれば、どこでも同じようにお仕事ができるのですか?」
「ネット環境がちゃんとしてれば、だいたいはな」
「ねっと環境……」
芳乃が小さく首を傾げる。
あ、これは分かってない顔だ。
「この家の回線って、どれくらい安定してるか分かるか?」
「かいせん、ですか……?」
「インターネットの速さとか、止まりにくさとか」
「……申し訳ありません。そのあたりは、あまり」
「いや、芳乃が謝ることじゃないけど」
すると芳乃はすっと立ち上がった。
「お父さんを呼んでまいります。そうしたことは、私よりお父さんの方が詳しいかと」
「助かる」
芳乃が部屋を出ていく。
その背を見送りながら、ムラサメが腕を組んだ。
「芳乃は真面目じゃのう」
「そうだな」
「そして先ほどの本にも、最後は落ち着いて対処しておった。いやはや、大したものじゃ」
「そこ掘り返さなくていいから」
「よい嫁になるのう」
「全部そこに繋げるのやめろ」
しばらくして、芳乃が安晴を連れて戻ってきた。
「将臣君、呼ばれたけど、何か困ったことでもあったかい?」
「あ、安晴さん。ネット回線のことを確認したくて」
「ああ、その辺か」
安晴は部屋の隅の機器を見て、柔らかく笑った。
「一応、光回線にはしてあるよ。普段そんなに重い使い方はしていないし、通話や動画くらいなら問題ないはずだ」
「配信もいけそうですか?」
「絶対とは言えないけど、穂織の中じゃかなり安定してる方だと思う」
「それなら十分です」
一番気になっていた部分だったから、素直にほっとする。
「将臣君の仕事は、やっぱりその“ねっと”が大事なんだね」
「かなり大事です。これが駄目だと、ほぼ全部止まるんで」
「それは大変だ」
「そういうものなのですね……」
芳乃が真面目な顔で頷いている。
たぶん今、彼女の中で“現代の恐ろしいもの一覧”に回線落ちが追加された。
やがて設置は一通り終わった。
電源よし。
映像出力よし。
音声周りも問題なし。
「……よし。じゃあ起動するか」
電源ボタンを押すと、PCのファンが静かに回り始める。
モニターにロゴが映り、OSが立ち上がった。
「おおっ」
「つきました……!」
「不思議な箱であるな……いや、箱というより祠のようでもあるのう!」
「まだここからだぞ?」
「これで終わりではないのですか?」
「むしろ始まり」
「長そうだのう!」
「長い」
実際、ここからが本番だ。
マイク感度、BGMの音量、配信ソフトのシーン切り替え、コメント欄の表示位置、通知の出方、ウェブカメラの画角。
環境が変われば、細かい調整は必須になる。
その途中で、安晴が画面を覗き込んだ。
「この絵が、将臣君の表に出る姿なのかい?」
「はい。配信や仕事告知で使ってる立ち絵です」
「本人なのに本人じゃない、不思議な感じだねえ」
「まあ、そういう世界なんで」
「それにしても、格好いいですね」
「芳乃」
「はい?」
「今ちょっと照れたから、あんまり真っ直ぐ言わないでくれ」
「……? 本当のことを申し上げただけですが」
「それが一番効くんだよな……」
ムラサメが画面を覗き込みながら首を傾げる。
「ご主人の名は、ここでは将臣ではないのじゃな」
「ああ。仕事名義みたいなもんだ」
「仕事名義?」
「ペンネーム。イラストレーターとしては“アリマサ”でやってる」
「アリマサ……」
芳乃がその名を静かに繰り返す。
「将臣さんのお名前から取ったのですか?」
「そう。“有地”の“アリ”と、“将臣”の“マサ”から」
「なるほど……元のお名前の面影があって、覚えやすいですね」
「そう言ってもらえると助かる」
「アリマサ先生、ということかの!」
「その呼び方はちょっとむず痒いな」
「では、アリマサ殿じゃ!」
「余計に大げさになったな……」
小さく笑いが起こる。
こういう何気ない反応が、妙に嬉しかった。
自分の仕事の名前を、この家の人たちに知られるのは少し照れくさい。
でも嫌じゃない。
「じゃあ最後に、ウェブカメラの確認も兼ねて連絡取るか」
連絡先を開いたところで、ふと手が止まる。
……背景。
今日はリハーサルだから、ウェブカメラにはこの部屋そのものが映る。
本番では背景画を差し込むつもりだが、今はまだ実際の部屋が見える状態だ。
「すみません、ちょっと確認なんですけど」
「はい」
「今からカメラ繋ぐんですけど、確認の段階だと現実の部屋が映るんで、画角的にまずいものがないか見てもらってもいいですか」
「たしかに、その確認は必要ですね」
「こういうの、一回事故ると洒落にならないんで」
「分かりました」
カメラの位置を調整して見せると、安晴が頷いた。
「この範囲なら大丈夫だと思うよ。特定に繋がるようなものも見えていないし」
「ありがとうございます」
「本番ではこのままではないんだろう?」
「はい。本番の配信では背景画像に差し替えます。田舎の部屋っぽい背景を用意してあるんで、実際の部屋は出さない形で」
「ほう……」
「便利なものですね」
「便利ですけど、設定ミスると終わります」
「やはり恐ろしいのですね……」
「そこまでではないけどな」
ムラサメがウェブカメラを見つめる。
「つまりこの小さき目は、本当の部屋を映し」
「うん」
「本番では幻を見せるのじゃな! うむ、なかなかに妖しげでよいではないか!」
「言い方はだいぶ物騒だけど、まあ近い」
「やはり術ではないか! 現世の者どもは妙な術を編み出すものよのう」
「現代技術な」
通話先は葛葉。
引っ越しの件も、休止配信の件も、事前に相談している相手だ。
コールを鳴らすと、ほどなくして画面が繋がった。
『あ、映った。アリマサ、聞こえてる?』
「はい、聞こえてます。そっちはどうですか?」
『音は大丈夫。映像も問題なさそうね』
画面越しの葛葉は、いつものように落ち着いた顔でこちらを見ていた。
年上らしい余裕のある声音。
けれど、その奥には少し呆れたような、困ったような柔らかさも混じっている。
『今はちゃんと部屋が映ってるのね』
「はい。今日は動作確認なんで、素のカメラ映りを見てもらってます」
『なるほど。本番は?』
「本番は背景画像に差し替えます。田舎の部屋っぽい背景を用意してあるんで、実際の部屋は出さない予定です」
『ああ、それなら安心ね。将臣くん、その辺は最初からちゃんと考えてるものね』
「身バレは洒落にならないですから」
『ええ、本当にね。そこは油断しないでちょうだい』
その横から、安晴が軽く会釈した。
「初めまして。朝武安晴です。将臣君には、こちらで世話を焼かせてもらっています」
『あ、どうも。葛葉です。いつもお世話になってます』
葛葉は、少しだけ姿勢を正した。
「地方に移る事情については伺っています。しばらくはこちらで生活を整えることを優先させるつもりです」
『それは助かります。こっちとしても、今は無理をさせる時期じゃないと思ってるので』
「少しでも無茶をしそうなら、こちらで止めます」
『あら、それはありがたいですね』
「そこ、即答されるとちょっと複雑なんですけど」
『だって、将臣くんってそういうところあるじゃない』
「否定しづらいですね……」
葛葉が、ふっと小さく笑った。
『でも、顔色は悪くなさそうで少し安心したわ』
「まあ、ちゃんと休まされましたから」
『“休んだ”じゃなくて“休まされた”なのね』
「その表現が一番しっくりきます」
『でしょうね』
やれやれ、というように肩をすくめる。
それだけで、少し気が緩んだ。
『向こうはどう? まだかなりバタついてる?』
「そうですね。引っ越し直後なんで、生活も作業環境もまだ整えてる途中です」
『まあ、そうなるわよね』
「でも、やることがはっきりしてる分、変に悩まずに済んでるところはあります」
『ならいいわ。将臣くん、黙って抱え込む方が危ないもの』
「そんなにですか」
『そんなによ』
きっぱり言われて、苦笑する。
『告知の内容は、事前に詰めた通りでいくのよね?』
「はい。“地方に引っ越すこと”“その影響でしばらく配信は休止すること”“でも引退じゃなくて、SNSとイラストの仕事は続けること”の三点を中心に話すつもりです」
『うん、それでいいと思う。変に細かく話しすぎなくていいわ』
「分かってます」
『リスナーが知りたいのは事情の全部じゃなくて、今後どうなるかだもの』
俺は配信ソフトを操作し、本番用のレイアウトを表示した。
テロップ、説明文、SNS誘導。
そして背景には、落ち着いた田舎の部屋風の背景画。
「本番だと、こんな感じです」
『ああ、なるほど』
葛葉が画面を見て、少し表情を和らげる。
『いいじゃない。自然だし、変に作り込みすぎてないのもいいわ』
「実際の部屋を出すわけにいかないんで、雰囲気だけ寄せました」
『うん。こういうので十分。見る側も落ち着くと思う』
「そうなら助かります」
少し間を置いてから、葛葉が続けた。
『あの子のことも含めて、変に重くしすぎない方がいいわよ』
「分かってます」
『いつも通りでいいの。将臣くんは、その方が伝わるタイプだもの』
「そこは意識します」
『ま、説教はこのくらいにしておきましょうか』
「助かります」
『ほんと、返事だけはいいのよね』
「長所ということで」
『自分で言うんじゃないの』
くすっと笑われて、こっちも少し肩の力が抜けた。
『とにかく今日は、長引かせすぎないこと。告知だけちゃんとやって、あとは少し反応を見て締める。それで十分よ』
「はい。そのつもりです」
『それと、完全に沈黙するのはだめ。ラフでも進捗でも何でもいいから、負担の軽い形で何かしらは出しなさい』
「分かってます。できる範囲でやります」
『うん。それがいいわ』
最後に、葛葉は少しだけ表情を和らげた。
『もう一度言うけどどこに住もうが、多少仕事の仕方が変わろうが、将臣くんがちゃんと描き続けるなら、それでいいの』
「……葛葉さん」
『本当に、ちゃんと帰ってきなさいよ。いろんな意味で』
「はい」
今度は迷わず頷けた。
『よろしい。じゃあ、動作確認の続きをやりましょうか。音量もう一回出して』
「了解です」
その後も音量、画面、コメント表示、通話周りまで一通り確認していく。
大きな問題はなく、無事にリハーサルは終了した。
通話が切れると、部屋の中に静けさが戻った。
「本当に、遠くの方とこうして普通に繋がれるのですね……」
芳乃が静かに息を吐く。
「まあ、今どきはな」
「しかも、配信になると背景まで変えられるのですね」
「見せちゃまずいものを隠すためでもある」
「なるほど……便利ですが、不思議です」
「我輩はやはり術だと思うぞ! いやはや、まこと面妖な世であるな」
「お前はもうそれでいいよ」
夜。
食事と風呂を済ませ、時間が近づいてくる。
部屋に戻り、椅子に座る。
モニターの向こうには待機画面。
事務所から事前告知は出ている。
だから完全な不意打ちではない。
それでも、自分の口から話すとなると少し重い。
「将臣さん」
振り返ると、襖のところに芳乃が立っていた。
その後ろにムラサメもいる。
「……大丈夫か?」
「はい。どうか、あまり気負いすぎないでください」
「おう」
「将臣さんらしく話せば、それで十分だと思います」
「芳乃にそう言われると、なんか落ち着くな」
「そうですか?」
「うん」
「なら、よかったです」
ムラサメも胸を張る。
「ご主人なら平気じゃ! もし何かあれば、我輩が画面の向こうの者どもを斬ってくれようぞ!」
「絶対やめろ」
「なぜじゃ!」
「配信史上最悪の事故になる」
「むう……それは困るのう」
思わず笑ってしまう。
そのおかげで、肩の力が少し抜けた。
「ありがとう。見ててくれるんだろ?」
「もちろんです」
「無論じゃ! 最後まで見届けてしんぜよう!」
その言葉に背中を押され、俺は開始ボタンを押した。
待機画面が切り替わり、コメント欄が一気に流れ始める。
『きたー!』
『アリマサ先生こんばんは!』
『待ってた!』
『元気そうで安心』
『今日はお知らせ回か』
思っていたより空気は落ち着いていた。
事前告知のおかげだろう。
「こんばんは。アリマサです。今日は来てくれてありがとう」
本番では、背景は昼間に確認した現実の部屋ではない。
用意しておいた、落ち着いた田舎の部屋風の背景画に切り替えてある。
見慣れないはずなのに、不思議としっくりきていた。
『背景いい感じ』
『雰囲気変わった?』
『ちょっと落ち着いた部屋っぽい』
『引っ越し先イメージかな』
「その辺も含めて、今日は順番に話していく」
まずは近況。
体調に問題はないこと。
環境が変わって少し慌ただしいこと。
そのうえで、本題に入る。
「改めてになりますが、都合により地方へ引っ越すことになりました」
コメントがゆるやかに流れる。
『おお……』
『やっぱりそうだったか』
『大変そう』
『前向きなやつならよかった』
「それに伴って、生活の立て直しとイラストの仕事が重なる関係で、しばらく配信をお休みします」
『了解!』
『待つよー!』
『引退じゃないよね?』
『仕事優先でええぞ』
「大事なところなのでちゃんと言うと、完全な引退ではありません。配信はいったん休止しますが、SNSは動かしますし、イラストの仕事も続けます。落ち着いたら、また配信も再開する予定です」
『よかったあああ』
『そこ聞きたかった』
『SNS動くなら助かる』
『再開待機』
コメント欄の流れが、少しだけ明るくなる。
俺はそこで一度息を整えてから、次の話題に移った。
「あと、担当まわりを心配してる人もいると思うけど、その辺も大丈夫です。今受けてる仕事も含めて、イラスト関係はちゃんと続けていきます。新規立ち絵とか記念絵とか、その辺――」
そこまで言ったところで、コメント欄に見慣れた名前が流れた。
『星野凛:私のことは?』
来た。
『本人きたwww』
『凛ちゃん!?』
『その入り方なのw』
『待ってました』
俺は思わず額を押さえた。
「いや、お前、絶妙なタイミングで入ってくるな」
『星野凛:だって気になるじゃん!』
『星野凛:電話していい?』
コメントを読んだ、次の瞬間だった。
ぴりりりり、と部屋の中に着信音が鳴る。
一瞬、何が起きたのか分からず、コメント欄が数秒遅れて爆発した。
『早いwww』
『もう鳴ってるw』
『行動が速すぎる』
『自由すぎるだろw』
「待て待て待て、今の着信音マイク拾ったよな?」
『拾ったw』
『ばっちり聞こえた』
『確認してからかけろw』
画面の端では、通話通知がしっかり主張している。
本当に、ワンクッションって概念がないなこの人。
「……出るぞ」
そう言うと、コメント欄はさらに勢いづいた。
『いけー!』
『出ろ出ろ!』
『神回の予感しかしない』
俺は苦笑しながら通話を受け、すぐに音声をパソコン側へ回した。
配信用ソフトの設定を切り替え、通話音声を入力に乗せる。
ついでに用意してあった素材フォルダから、凛の立ち絵を呼び出した。
配信画面の端に、見慣れた星野凛の立ち絵がぽんと表示される。
『おおおおお』
『立ち絵出た!』
『本格的w』
『対応が慣れてる』
「慣れてるって言うな。慣れたくて慣れたんじゃない」
そう言った直後、元気すぎる声が配信に乗った。
『もしもーし! みんな聞こえてるー!?』
「聞こえてる」
『よかったー! 改めましてこんばんはー! 星野凛でーす!』
『こんばんはー!』
『元気すぎるw』
『全部持ってったw』
『立ち絵かわいい』
ほんと、この人は登場の仕方からして騒がしい。
『いやだってさー、アリマサくん、担当まわりは大丈夫ですって雑にまとめようとしたでしょ!?』
「雑にはまとめてない」
『まとめようとしてた!』
「してない」
『してたもん!』
「お前、自分の話題になると急に圧が強いな」
コメント欄が草で埋まる。
『草』
『いつもの二人だ』
『安心する掛け合い』
凛はそんな空気を当然のように受け止めながら、そのまま続けた。
『だってみんな気になるじゃん! アリマサくん地方に行っちゃうって、じゃあ私の新規立ち絵とか記念絵とか、月の配布絵とかどうなるのーって!』
「そこは大丈夫。イラストの仕事は続けるって今ちょうど説明してた」
『ほんとに?』
「ほんとに。今受けてる分も、その先の担当分も、基本的にはちゃんとやる」
『やったー!』
『助かった』
『担当継続ありがてえ』
『そこ一番気になってた』
『じゃあさじゃあさ、配信は? 前みたいに、ちょっと遊びに来たりとかは?』
「それはしばらく難しい」
『うっ』
「生活の立て直し優先なのと、こっちでやることも増えるからな。前みたいに気軽には出づらい」
『そっかぁ……まあ、そこは仕方ないか』
少しだけトーンを落とした凛の声に、コメント欄も少し静かになる。
『でも、消えるわけじゃないんだよね?』
「消えない」
『SNSも動く?』
「動く」
『絵も描く?』
「描く」
『じゃあよし! それならちゃんと戻ってきてよ!』
「戻るよ」
『約束ね?』
「約束」
そのやり取りに、コメント欄がどこかやわらかくなる。
『よかった』
『凛ちゃんちょっと寂しそう』
『でも安心した』
『この空気好き』
少しだけ間を置いてから、凛がいつもの調子に戻った。
『でもさー、アリマサくんが配信に出づらくなるってことは、私が一人で頑張らないといけないってことでしょ?』
「まあ、そうなるな」
『えー、困るんだけどー!』
「知らんがな」
『そこは“凛ならできるよ”とかあるでしょ!』
「凛ならできるよ」
『言い方が雑!』
『草』
『言ったw』
『雑でも言ったからセーフ』
「というか、凛は一人でも十分やれるだろ」
『それはそうだけど! それとこれとは別!』
「面倒くさいな」
『ひどーい! みんな聞いた!?』
『聞いた』
『面倒くさいは草』
『いつも通りで安心した』
軽口を叩き合っているうちに、さっきまで少し重かった空気が、いつもの調子に戻っていく。
たぶん、これでいい。
しんみり終わるより、こうやって少し笑って締めた方が、向こうも安心できる。
『じゃあみんな! アリマサくんはしばらく配信お休みだけど、絵の仕事は続けるし、SNSにもいるし、完全にいなくなるわけじゃありません! 勝手に引退させないように!』
「人の配信で仕切るな」
『だって言っといた方がいいじゃん!』
『助かる』
『その通り』
俺は小さく息を吐いてから、改めてマイクに向かった。
「……というわけで、今日はちゃんと区切りだけつけておきたかった感じです。急な変化で心配をかけたと思うけど、向こうでやることをやって、ちゃんと戻ってきます」
『待ってる』
『無理せずね』
『元気でいてくれたらそれでいい』
凛が明るく声を上げる。
『じゃあ、しんみりしすぎる前に締めよう! アリマサくん、一緒に!』
「はいはい」
苦笑しながら、俺は頷いた。
「それじゃあ、今日はこの辺で。また会う時まで、よろしく」
『またねー!』
『おつかれー!』
『待ってる!』
配信を終了する。
画面が切り替わり、部屋の中に静けさが戻った。
「……終わった」
思わず椅子の背にもたれかかる。
どっと疲れた。
でも、変な重さは残っていない。
ちゃんと伝えるべきことは伝えられた。
そう思えた。
その時、ぱちぱちと控えめな拍手が聞こえた。
振り向くと、いつの間にか襖が少し開いていて、芳乃とムラサメ、それから安晴までいた。
「見てたんですか」
「はい」
「最後まで、しっかりと」
「お疲れさま、将臣君……いや、アリマサ君、と言うべきかな?」
「そこは将臣でいいです」
なんだか授業参観の後みたいで妙に照れる。
ムラサメが目を輝かせる。
「すごかったぞ、アリマサ!」
「もうそっちで来るのか」
「たくさんの者が文字で叫び、あの星野凛という娘が突然乱入し、お主がそれに普通に応じておった! いやはや、見事な捌きであったのう!」
「普通ではなかったと思うけどな」
「だが慣れておった! あれはもはや歴戦の勇士のそれじゃ!」
「慣れたくて慣れたわけじゃない」
芳乃が静かに言った。
「少し、驚きました」
「驚いた?」
「はい。もっと一方的にお話しされるものかと思っていたのですが……皆さんとの距離が思っていたより近くて」
「ああ」
「将臣さんの生活の一部を、少しだけ見せていただいた気がします」
「……そうか」
「それに、背景を変えたり、映るものを選んだり……そういう細かな気遣いも含めて、将臣さんのお仕事なのですね」
「まあ、そういう部分もあるな」
「大変そうですが、すごいと思いました」
安晴も柔らかく笑う。
「不思議なものだねえ。姿は見えないのに、ちゃんと人と人が繋がっている感じがしたよ」
「そうですね」
「将臣君が穂織に来る前、どんなふうに過ごしてきたのか、少し分かった気がする」
「大げさですよ」
「いや、でも本当にそう思ったよ。君はあちらで、ちゃんとアリマサとしての場所を作っていたんだね」
その言葉は、思っていたより胸に沁みた。
東京での生活。
仕事。
配信。
人との繋がり。
それは穂織とは別の世界に見えるかもしれない。
けれど、どちらも間違いなく俺の生活だった。
そして今、その二つがようやく繋がった。
「将臣さん」
芳乃が少しだけ柔らかく微笑む。
「また落ち着いたら、見せてください」
「配信を?」
「はい。今度はもう少し、その……アリマサさんのお仕事のことも教えていただけると嬉しいです」
「もちろん」
「我輩も出るぞ! いや、出たいのう!」
「お前はまず映る方法から考えろ」
「ぬう……そこが難儀なのじゃ」
「でも、見てみたいですね」
「芳乃まで乗るのか」
「少しだけです」
「その“少しだけ”が信用ならないんだよな……」
そう言うと、芳乃がふっと小さく笑った。
その笑顔を見て、肩の奥に残っていた最後の緊張も、ようやくほどけていく。
配信は終わった。
一つの区切りはついた。
けれど、終わりじゃない。
ここから少し潜って、やるべきことをやって、また戻る。
そのための準備が、今ようやく始まったのだ。
机の上では、配信を終えたモニターが静かに光っている。
穂織の夜は静かだった。
けれど不思議と、その静けさは寂しくなかった。
この場所でも、ちゃんと前に進める。
そんな手応えを、少しだけ掴めた気がした。
配信を終えて、風呂も済ませ、自室でようやく一息ついた頃だった。
机の上に置いていたスマホが、小さく震える。
画面を見ると、相手は星野凛だった。
……まあ、来るよな。
少し苦笑しながらトーク画面を開くと、案の定というべきか、いつもの調子の一言が飛び込んできた。
『今日はありがとー!』
その軽さに、思わず肩の力が抜ける。
俺はベッドに腰を下ろしながら、短く打ち返した。
『こっちこそありがとな』
送ってすぐ、既読がつく。
その速さに、向こうもまだ起きていたのだと分かって少しだけ笑った。
『コメント来た時点で、ああ来たなって思ったけど』
『電話していい? の直後に着信鳴るのは反則だろ』
すると、間髪入れず返ってくる。
『だって確認取ったもん!』
「確認と実行が早すぎるんだよ……」
思わず独り言が漏れた。
さらに追い打ちみたいに、次のメッセージが来る。
『テンポ大事だからね』
その文面が、あまりにも凛らしい。
俺は小さく笑ってから、少しだけ真面目に打ち込んだ。
『でも、おかげで助かった』
『変にしんみりしすぎずに済んだし、ああやっていつもの感じにしてくれたの、普通にありがたかった』
少し間が空く。
珍しく返事を考えているのかと思った次の瞬間、返ってきたのはやっぱり凛らしい言葉だった。
『でしょー?』
『感謝していいよ?』
『ちょっとだけな』
そう返すと、すぐにまた既読がついて、
『ちょっとだけなんだ』
と、ほんの少し拗ねたような文が飛んでくる。
画面越しなのに、なんとなく頬を膨らませている姿が想像できてしまって、俺はまた苦笑した。
『でも、担当まわりのこと、ちゃんと気にしてくれてたのは伝わった』
『立ち絵も記念絵も配布絵も、そこはこれからもちゃんとやるから安心しろ』
その返事は、少しだけ間を置いてから届いた。
『よし』
『そこ聞けて安心した』
短い言葉だった。
でも、その二行に、配信中にはあえて軽く流していた本音が滲んでいる気がした。
だから俺も、余計な飾りはつけず、そのまま打つ。
『しばらく前みたいに気軽に配信出たりは難しいと思うけど』
『消えるわけじゃない』
『仕事も続けるし、落ち着いたらちゃんと戻る』
送ると、すぐに返ってくる。
『約束ね』
その一言に、俺は少しだけ目を細めた。
『約束』
短く返す。
たったそれだけのやり取りなのに、不思議と胸の奥が少しだけ温かくなった。
すると、また凛からメッセージが届く。
『じゃあ待ってる』
『あと今度は着信切らないでね』
『切ってないだろ』
『次はもっと綺麗に凸るから』
『綺麗な凸って何だよ』
『知らない!』
『でも今日はほんとおつかれ!』
最後まで最後らしくならないやつだな、と思う。
けれど、そういうところに救われたのも事実だった。
俺は小さく息を吐いてから、最後に一文だけ打ち込んだ。
『今日はほんとありがとな』
『助かった』
送信して、スマホを伏せる。
少しして、また短く震えた。
画面を見なくても、なんとなく分かる。
きっと向こうは、いつもの調子で返してきているのだろう。
静かな穂織の夜の中で、俺は少しだけ笑った。
離れても、全部が途切れるわけじゃない。
そう思えたことが、今は妙にありがたかった。