穂織に来てからというもの、毎日が目まぐるしかった。
朝武家のこと。
呪いのこと。
叢雨丸のこと。
配信のこと。
町の人たちとの関わり。
そして、この土地で始まった新しい生活のこと。
ひとつひとつが濃すぎて、春休みなんてまだ先の話だと思っていたのに、気づけばもう終わっていた。
そして今日。
俺――有地将臣の、穂織での新しい学校生活が始まる日だ。
◇◇◇
「将臣さん。そろそろ参りましょう」
玄関先で、芳乃が柔らかな声でそう言った。
「おう。もう大丈夫――って」
返事をしかけたところで、俺は思わず言葉を止めた。
芳乃と茉子は、すでに登校の支度を整えていた。
鵜茅学院の制服は、都会で見かけるようなものとは違う。
全体としては学生服の形をしているのに、意匠のあちこちに和の趣が取り入れられている。男子の制服は端正で落ち着いた仕立てで、襟元や袖口には控えめな和柄。女子の制服も袴を思わせるような上品さがあり、きちんとしているのにどこかやわらかい。
そして、それを着た芳乃と茉子は正直かなり反則だった。
芳乃は白い髪も相まって、凛としていて、それでいてどこか儚い。
町の人たちが“巫女姫様”と呼ぶのも分かる、そんな佇まいだ。
茉子は従者らしく隙なく着こなしているのに、どこか人をからかうような余裕がある。
きっちりしているのに堅く見えないのが、なんともずるい。
「……どうかなさいましたか?」
「将臣さん? 先ほどから、ずいぶん静かですね」
二人に声をかけられて、俺ははっとした。
「いや、その……二人とも、すごく似合ってるなって思って」
「っ……」
「……あら」
先に頬を染めたのは芳乃だった。
みるみるうちに白い頬が赤くなっていく。
「そ、そのようなことを急に言われますと、困ります」
「いや、変な意味じゃなくて、普通にそう思っただけなんだけど」
「それが困るのです」
真面目な顔で言われるけど、耳まで赤いせいで説得力がまるでない。
茉子は少し目を細め、やれやれといった顔で息をつく。
「将臣さんは、本当にそういうところがありますね」
「そういうところって?」
「自覚がおありでないのが厄介です」
「褒めただけだろ?」
「半分ほどは褒め言葉として受け取っておきます」
そう言いながら、茉子の頬もほんのり赤い。
「……ほら、行きましょう芳乃様。このままでは初日から遅れてしまいます」
「そ、そうですね。将臣さん、参りましょう」
「おう」
なんとなく俺が場をかき回したみたいな空気になりつつ、三人で家を出た。
◇◇◇
朝の穂織は、やっぱり静かで綺麗だった。
石畳の道。
木造の家々。
山の空気はまだ少し冷たくて、朝日が屋根や塀をやわらかく照らしている。
東京で通っていた学校までの道とは、本当に何もかも違う。
「学院って、もっと普通の校舎かと思ってたんだよな」
「鵜茅学院は、もともと道場だった建物を改修したものですから」
芳乃が答える。
「昔の名残が、まだあちこちに残っているのですよ」
茉子が続けた。
「道場?」
「はい。穂織では古くから、武と学のどちらも大事にされてきましたから」
「なるほど……」
そうして歩いていくうちに、やがて学院が見えてきた。
「……マジか」
思わず声が漏れた。
大きな木造建築。深い庇。重厚な屋根。磨き込まれた板張りの廊下。
全体の造りはまさに古い道場そのもので、それを学び舎として使えるよう綺麗に整え直したような姿をしていた。
厳かなのに息苦しくはなく、張りつめた空気の奥にどこか穏やかさがある。
学校というより、由緒ある学び舎。
そんな言葉がしっくりくる。
「驚かれましたか?」
芳乃が少しだけ嬉しそうに聞いてくる。
「ああ。いや、これは驚くだろ。学校っていうより、本当に道場みたいだな」
「実際、昔はそうだったそうです」
「だからこそ、穂織らしいでしょう?」
「ああ、すごく」
俺がそう言うと、芳乃は少し目を細めた。
「……ありがとうございます」
そんなやり取りをしながら昇降口へ向かっていくと、先に登校していた生徒たちが芳乃を見つけ、次々に声をかけてきた。
「おはようございます、巫女姫様!」
「巫女姫様、おはようございます!」
「今年もよろしくお願いします、巫女姫様!」
やっぱり、学校でもそう呼ぶのか。
俺が少し意外に思っている横で、芳乃は慣れた様子で微笑んだ。
「おはようございます、佐伯さん」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「おはようございます、三谷君。朝からお元気ですね」
「巫女姫様も!」
家で見る、少し“巫女姫”らしく張った口調とは違う。
もっと年相応でやわらかい、けれど品のある話し方だった。
茉子のほうにも声がかかる。
「おはよう、常陸さん!」
「おはようございます、井上さん」
「常陸さん、同じクラスだったよね?」
「ええ、そのようですね。よろしくお願いします、長谷川さん」
「今年もよろしく、常陸さん」
「こちらこそ、岡部君」
男子には名字に君付け、女子にはさん付け。
呼び方にも自然と線引きがあるらしい。
「では将臣さん。ここから先は職員室へお願いいたします」
「芳乃たちは教室か?」
「はい。私たちは先に参ります」
「分かった。またあとで」
「はい。またあとで」
「将臣さんも、あまり気負わないでくださいね」
芳乃がそう言った。
「そこまで緊張してるように見える?」
「少しだけ」
「将臣さんはわりと顔に出ますから」
茉子が涼しい顔で言う。
「それはちょっと違うだろ」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
二人と別れ、俺は一人で職員室へ向かった。
◇◇◇
「有地将臣くん、ですね?」
職員室で声をかけてきたのは、二十代半ばくらいの若い女性教師だった。
落ち着いた色の装いに、すっきりと髪をまとめた姿がよく似合っている。若いのに所作がきれいで、この和風の学院にも自然に馴染んでいた。
「はい。有地将臣です」
「今日からあなたの担任になります、桐生澪です。よろしくお願いしますね」
「よろしくお願いします」
「ふふ、そんなに固くならなくて大丈夫ですよ。初日ですから、緊張するのは当たり前ですし」
やわらかく笑われて、少し肩の力が抜けた。
「それと、今日はもう一人転入生が――」
そこまで言ったところで、職員室の戸が開いた。
「し、失礼します!」
聞き覚えのある声だった。
「レナさん」
「あ、マサオミ!」
制服姿のレナさんが、俺を見つけた瞬間ぱっと顔を明るくした。
そして、さっきまでの緊張した空気が嘘みたいに、すたすた近寄ってくる。
「よかったです! 知ってる人がいて、すごく安心しました!」
「お、おう。俺も今来たとこ」
「はあー、よかった……ちょっと緊張、すごかったです」
「見れば分かる」
「そんなに出てました?」
「少しな」
普段から元気なやつだけど、緊張がほぐれたせいか今日はいつも以上にテンションが高い。
桐生先生は、そんな俺たちを見て微笑んだ。
「お知り合いだったのですね。それなら心強いでしょう。では、お二人ともこちらへ。始業式の間に学院の説明を済ませてしまいましょう」
「はい!」
「よろしくお願いします」
◇◇◇
始業式の間、俺とレナさんは別室で説明を受けた。
授業の流れ。
提出物。
施設の使い方。
穂織ならではの年中行事。
「何か分からないことはありますか?」
桐生先生がそう聞くと、レナさんが勢いよく手を挙げた。
「はい! あの、行事のときって、町の人もたくさん来ますか?」
「ええ。穂織は町と学院の距離が近いですから。大きな行事になると、地域ぐるみになります」
「へえー……すごいです。町と学校、すごく近いですね」
「有地くんは何かありますか?」
「今のところは大丈夫です」
「分かりました。では、そろそろ教室へ向かいましょうか」
レナさんは緊張しているはずなのに、聞くべきことはちゃんと聞ける。
その辺はやっぱり真面目だ。
◇◇◇
教室へ入ると、すでにクラスメイトたちは揃っていた。
ざわついていた空気が、桐生先生の声で落ち着く。
「皆さん、今日は転入生が二人います。まずは有地将臣くん」
「はい」
前に立つ。
視線が集まる。
「有地将臣です。穂織には最近来たばかりで、まだ分からないことも多いですけど、早く慣れたいと思ってます。よろしくお願いします」
無難に、簡潔に。
変に気負わず、それだけを意識した。
拍手が起きる。
「次は、レナさん」
「はい!」
レナさんが前に出る。
「レナ・リヒテナウアーです! 海外から来ました! まだ分からないこともたくさんありますけど、みなさんと仲良くなれたらすごく嬉しいです。よろしければレナと呼んでください。よろしくお願いします!」
元気よく頭を下げると、教室のあちこちから小さなどよめきが起こった。
「留学生だ」
「綺麗……」
「日本語うまいな」
「元気だなあ」
まあ、そうなるよな。
見た目はかなり目立つし、自己紹介も明るかった。
そのあと連絡事項が一通り終わると、桐生先生が軽く手を叩いた。
「では少しだけ質問の時間にしましょう。ただし、答えにくいことを無理に聞かないように」
「せんせー、それはフリですか?」
「違います」
教室がくすっと笑う。
空気が和んだところで、質問がぽつぽつ飛んできた。
「有地くん、前はどこにいたの?」
「東京の方」
「部活とかやってた?」
「少し剣道を」
「やっぱり似合うなあ」
「それはどうも」
「レナさん、日本の食べ物で好きなのは?」
「お蕎麦と、和菓子です! あと、こっち来てからお団子も好きになりました!」
「かわいい」
「ありがとうございます! あ、かわいいはお団子ですか? それとも私?」
「えっ」
「え、違いました?」
「いや、その……両方?」
「わあ、本当ですか! ありがとうございます!」
教室が一気に笑いに包まれた。
レナさん本人は悪気ゼロで、むしろ嬉しそうだ。
「レナさん、日本の学校どう?」
「すごく面白いです! あと、この学校ほんとに道場みたいで感動しました! なんか映画みたいです!」
「分かるー」
「有地くんとレナさんって知り合いなんだ?」
「うん、まあな」
「はい! マサオミは頼れるです!」
「ちょっと日本語おかしくなってるぞ」
「安心したら、ちょっと混ざりました」
「そこは混ざるんだな」
また笑いが起こる。
質問タイムは変に荒れることもなく、そのまま穏やかに終わった。
◇◇◇
放課後。
「お疲れさま、巫女姫様」
「巫女姫様、また明日ね」
「今日も相変わらず綺麗だな、巫女姫様」
帰り支度をしていた芳乃に、クラスメイトたちが次々と声をかける。
その呼び方はやっぱり徹底していて、男子も女子もみんな“巫女姫様”だ。
その中には廉太郎の姿もあった。
「巫女姫様、今日も人気だな」
廉太郎が笑いながら言う。
「鞍馬君、あまりからかわないでください」
芳乃は少し困ったように笑った。
「からかってないって。本当のことだろ?」
「そうですけど……」
その様子を見ていたレナさんが、急に俺の袖をつんつん引っ張ってきた。
「マサオミ、マサオミ」
「ん?」
「あの、ヨシノって……もしかして、穂織のお姫様ですか?」
「ぶっ」
「だ、だって! みんな巫女姫様って呼んでますし! 絶対すごい人です!」
「まあ、すごい人なのは間違ってないけど」
「えっ、やっぱりですか!?」
「落ち着けって」
けどレナさんは落ち着かない。
「どうしましょう……私、もしかして最初からすごく失礼だったかもしれません」
「失礼?」
「はい! だって、私、普通に話しかけてました! しかもけっこうぐいぐい! もし本当にお姫様みたいな人なら、すごく無礼です!」
「いやいや」
「うわあ……どうしよう、今からちゃんと謝った方がいいですか?」
「レナさん、声がでかい」
「あっ」
でも、もう遅かった。
芳乃と茉子がこちらを見ていた。
「どうかなさいましたか?」
芳乃が近づいてくる。
「あ、あの、ヨシノ!」
「は、はい」
「私、もしかして、とても失礼でしたか!?」
いきなりの勢いに、芳乃が目をぱちくりさせる。
「え?」
「みなさん、ヨシノのこと巫女姫様って呼んでます! だから、もしかして穂織のお姫様なのかなって! 私、そんな人に普通に話しかけて、すごく失礼だったかもしれません!」
「お、お姫様、ですか……」
芳乃は困ったように頬を赤らめた。
「そのようなものではありません」
「でも、みんなすごく丁寧ですし!」
「昔からそう呼ばれているだけです。気になさらないでください」
「本当に?」
「はい。私はただ、穂織で育っただけの一人の生徒です」
芳乃はやわらかく微笑んだ。
その笑い方が妙に落ち着いていて、レナさんの慌てっぷりといい対比だった。
「ですから、失礼だなんて思っておりません」
「でも……」
「むしろ、普通に接していただけるのは嬉しいです」
「本当ですか?」
「はい」
それを聞いて、レナさんは目に見えてほっとした。
「よかったー……すごく安心しました」
「そんなに気にしていたんですね」
「はい! だって、もし本当にお姫様なのに失礼してたら、私、穴に入りたいです!」
「そこまでではありませんよ」
「ですけど、ヨシノはすごく上品で綺麗ですし、みんな巫女姫様って言うし、もうお姫様にしか見えないです」
「そ、そのように言われますと……」
芳乃の頬がまた少し赤くなる。
そこでレナさんがぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、仲直りです!」
「仲直り?」
「はい! 最初からケンカしてないですけど! 気持ちの問題です!」
「ふふ……そうですね」
「だから、私のことはレナって呼んでください!」
その言葉に、芳乃の表情が少しだけ固まった。
「……その、レナさん」
「え?」
「呼び捨ては、少し……恥ずかしいので」
「あっ」
レナさんが目を丸くする。
芳乃は恥ずかしそうに視線を逸らしながら続けた。
「ですので、レナさんと呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」
「え、もちろんです! それ、全然いいです! むしろヨシノっぽいです!」
「そ、そうでしょうか」
「はい! すごくかわいいです!」
「か、かわ……っ」
完全に照れてる。
レナさん、距離の詰め方が早いんだよな。
茉子がくすっと笑った。
「芳乃様は、そのあたり少し慎ましすぎるところがありますから」
「茉子」
「事実かと」
芳乃は少しだけ困ったように視線を逸らしたが、レナさんはそんな様子さえ楽しそうに見つめていた。
「でも、そういうところもヨシノらしくて好きです!」
「す、好き……?」
「あっ、変な意味じゃないです! すごく素敵ってことです!」
「そ、そうですか……」
ますます芳乃の顔が赤くなる。
見ているこっちが少し面白いくらいだ。
そしてレナさんは、改めて胸に手を当てた。
「では、もう一回です! これからよろしくお願いします、ヨシノ!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします、レナさん」
今度はレナさんが手を差し出す。
芳乃もそれに応えた。
その瞬間。
ぱちっ。
「きゃっ」
「わっ」
二人が同時に小さく肩を震わせた。
「静電気、でしょうか」
芳乃が自分の手を見る。
「びっくりしました! でも、なんだか特別っぽいです!」
「そ、そうでしょうか」
「はい! こういうの、なんだか運命の出会いみたいです!」
「それはどうなんだ」
思わず俺が突っ込むと、レナさんがくるっとこっちを向く。
「マサオミ、夢がないです!」
「現実的って言ってくれ」
「半分ほど同意します」
茉子がさらっと言った。
「お前まで乗るのかよ」
「乾燥しているのは事実でしょうし、レナさんのおっしゃることも、少し分からなくはありませんので」
「器用なまとめ方するな……」
そんなやり取りのあと、レナさんはまたぱっと顔を上げた。
「そういえば、私のおじいちゃんのおじいちゃんが穂織の人だった話、しましたっけ?」
「ああ、少しだけ聞いた」
「小さい頃から、おじいちゃんがいっぱい話してくれたんです。すごく綺麗な場所だって。だからいつか絶対来たかったんです!」
「それで留学を?」
芳乃が興味深そうに尋ねる。
「はい! 本当は制度なかったらしいですけど、私がすごくお願いしたみたいです!」
「みたい、なんだな」
「おじいちゃんとか、いろんな大人の人が頑張ってくれたっぽいです!」
「雑だな」
「でも気持ちは本物です!」
「それは伝わる」
「よかったです!」
レナさんは本当に楽しそうだ。
たぶん、この土地に来られたこと自体が嬉しくてしょうがないんだろう。
◇◇◇
「よう、将臣」
後ろから聞こえてきた声に振り向くと、廉太郎が片手を上げながら歩いてきた。
「廉太郎」
「初日からちゃんとやれてるみたいじゃん」
「その言い方だと、普段の俺がだいぶ不安なんだけど」
「まあ気にすんなって」
廉太郎はけろっと言って、それから後ろを振り返る。
「せっかくだし紹介しとくわ」
「こっちは新田春菜。で、こっちは藤原美月」
「初めまして、有地くん」
「よろしくね」
そう言って連れてきたのは、二人の女子生徒だった。
一人は明るくて人懐っこそうな雰囲気の新田さん。
もう一人は落ち着いた感じの、やさしそうな藤原さんだ。
俺も軽く頭を下げる。
「有地将臣です。新田さん、藤原さん、よろしく」
「で、俺の彼女たち」
「……マジか」
「その反応になるよな」
「いや、なるだろ」
新田さんと藤原さんは、慣れたように苦笑した。
「廉太郎くん、また雑に言ってる」
「初めて聞く人は驚くに決まってるでしょ」
「いやほんとそれ」
この世界では、少子高齢化と極端な男女比の偏りもあって、重婚は法律上認められている。
個人間でちゃんと合意があるなら、そういう関係も否定されない。
知識としては分かってる。
でも実例が身近にいると、やっぱり驚くものは驚く。
「別によくね? 本人たちが納得してるなら」
廉太郎はあっさり言う。
「いや、それはさ、理屈としては分かるけど、実際に目の前で見ると驚くって」
「はは、まあ最初はみんなそうだよ」
新田さんが笑う。
「でも廉太郎くん、ちゃんと大事にしてくれるから」
藤原さんも穏やかに続けた。
「廉太郎さんは学院でも有名ですから」
茉子がさらっと言った。
「ちょっとした有名人です」
「ちょっとした、で済むのか?」
「悪い意味ばかりでもありませんよ。顔も広いですし」
「そうそう。俺って意外とちゃんとしてるだろ?」
「半分ほどは認めます」
「その半分が気になるな」
「気にしないでください」
そんなやり取りに、周りから笑いが漏れる。
どうやら新田さんと藤原さんも、芳乃たちとは顔なじみらしい。
ごく自然に会話の輪に混ざっていった。
「巫女姫様、今年も同じクラスで助かりました」
藤原さんが言う。
「こちらこそです、藤原さん」
「新田さんも、またよろしくお願いします」
「うん、よろしくね、巫女姫様」
「もう、新田さんまで……」
苦笑する芳乃に、みんなが笑う。
「レナさんも、もう馴染んでる感じだね」
新田さんが気さくに声をかける。
「はい! みなさん優しくて、すごく助かってます!」
「レナさん、元気でかわいいね」
「ありがとうございます!」
「ほんと、明るくていい子」
「えへへ、照れます!」
レナさんは相変わらず全力で受け止める。
そのせいで場の空気がどんどん和むのが面白い。
気づけば、初日の放課後とは思えないくらい空気は穏やかだった。
よそ者扱いされるでもなく、変に持ち上げられるでもなく、自然と輪の中に入れてもらえている。
正直、かなり安心した。
◇◇◇
ある程度話したところで、自然と解散の流れになった。
「将臣さんは、このあとどうなさいますか?」
芳乃がそう聞いてきた。
「ん? ああ、ちょっと寄るところがあって」
「寄るところ、ですか?」
「うん。少し町の様子でも見ながら帰ろうかと思って」
「そうですか」
我ながら、ずいぶん曖昧な返事だと思う。
でも今は、それでよかった。
祖父ちゃんに会いに行くこと。
剣の修行を頼むこと。
それを隠さなきゃいけないわけじゃない。
けど、今はあまり大きな声で言いたくなかった。
これまでは、誰かに言われたからとか、必要だからとか、そういう理由で動いていた部分もあった。
でも今は、少し違う。
守りたいものがある。
そのために、自分で強くなりたい。
だったら、その努力は、まず自分の中で積み重ねていきたい。
わざわざ口に出すようなことでもない。
見せびらかすようなことでもない。
ただ、自分で決めて、自分で続ける。
今はそれでいい気がした。
「あまり無茶はなさらないでくださいね」
芳乃が心配そうに言う。
「分かってる」
「本当でしょうか」
「そこまで信用ない?」
「将臣さんは、時々ご自分を後回しにしすぎますから」
やわらかな声のまま、芳乃は少しだけ真剣に続けた。
「もう少し、ご自分を大事になさってください」
「……ありがとな」
「はい」
「私からも同感です」
茉子も静かに言った。
「将臣さん、どうかご無理はなさらず」
「おう。二人にそこまで言われると、さすがに気をつける」
「でしたらよろしいのですが」
「将臣さん、またあとでお会いしましょう」
「夕飯までには戻るよ」
「はい。お待ちしております」
そう言って二人と別れ、俺は学院をあとにした。
◇◇◇
志那津荘に着くと、見慣れた玄関先に猪狩さんの姿があった。
「あら、将臣さん。いらっしゃいませ」
「猪狩さん、こんにちは」
「はい、こんにちは。今日はどうなさいましたか?」
「祖父ちゃんは、いらっしゃいますか?」
「大旦那様でしたら、裏手にいらっしゃいますよ」
猪狩さんは、いつもの落ち着いた笑みを浮かべたまま、少し小首をかしげる。
「お呼びしてまいりましょうか?」
「いえ、できれば俺から伺いたいんです」
「かしこまりました。それでは、ご案内いたしますね」
若女将らしいやわらかな所作で一礼すると、猪狩さんは先に立って廊下を歩き出した。
「こちらです。足元、お気をつけください」
「ありがとうございます」
木の廊下を進み、裏庭へ抜ける。
夕方の光が差し込むその先に、祖父ちゃんが立っていた。
「大旦那様。将臣さんがお見えです」
「そうか」
短い返事。
けれど、祖父ちゃんはすぐにこちらへ視線を向けた。
「では、私はこれで失礼いたしますね」
「ありがとうございます、猪狩さん」
「いいえ。ごゆっくりどうぞ」
猪狩さんが去っていくのを見送り、俺は祖父ちゃんの前へ進んだ。
「どうした、将臣」
前より少しだけ柔らかい声だった。
ぶっきらぼうなのは変わらないけど、追い払うような冷たさはない。
「少し、お話があって来ました」
「そうか。話してみろ」
俺はひとつ息をつき、まっすぐ祖父ちゃんを見る。
「俺に、剣の修行をつけていただけませんか」
「……理由は」
短い問いだった。
けれど、試されているのが分かる。
「祟り神との実戦を経験して、自分がまだまだ力不足だと痛感しました」
「うむ」
「今の俺では、叢雨丸の使い手として足りません」
「それで?」
「芳乃と茉子は、今も呪いの渦中にいて、これからも一緒に戦うことになるはずです」
そこで一度、言葉を切る。
「俺は、あの二人を護りたいんです」
口にした瞬間、自分の中でその言葉がまっすぐ落ちた気がした。
「ただ守られるだけではいたくありません。叢雨丸の使い手として、きちんと力をつけたいんです」
「……そうか」
「ですから、お願いします。俺に稽古をつけてください」
頭を下げる。
少しの沈黙があった。
やがて祖父ちゃんが、低く落ち着いた声で言う。
「顔を上げろ」
「……はい」
顔を上げると、祖父ちゃんはじっと俺を見ていた。
厳しい目つきは変わらない。
けれど、その奥に前より少しだけ温度がある気がした。
「軽い覚悟で来た顔ではないな」
「そのつもりはありません」
「ならばよい」
祖父ちゃんは短く頷く。
「朝と放課後だ」
「え?」
「稽古をつける時間だ。朝、登校前に一度。放課後、時間が取れる日はもう一度見る」
「……よろしいんですか?」
「お前が頼んだのだろう」
「はい」
「続けられるかどうかは、お前次第だ」
「続けます」
即答だった。
迷う理由なんてない。
祖父ちゃんは、ふっとわずかに口元を緩めたようにも見えた。
「ならば明日から始める。朝は早いぞ」
「はい」
「寝坊はするなよ」
「気をつけます」
「よろしい」
その一言が、なぜか少しだけ嬉しかった。
「今日は話だけで帰るか?」
「いえ……もしよろしければ、少しでも見ていただきたいです」
「そうか」
祖父ちゃんは近くに立てかけてあった木刀を一本取り、こちらへ放った。
慌てて受け止める。
「では、構えろ」
「はい」
木刀を握ると、自然と気持ちが切り替わった。
学院での穏やかな空気が遠のき、自分の足りなさだけが妙にはっきりしてくる。
「参ります」
「来い」
踏み込む。
木刀がぶつかる。
重い。
「甘い」
「っ……!」
すぐに弾かれる。
体勢を立て直す間もなく、次が来る。
「遅いぞ」
「……くっ」
受けるだけで精一杯だ。
それでも、前より少しだけ見えている気がした。
「考えすぎだ」
祖父ちゃんが言う。
「迷いが剣先に出ている」
「……はい」
「分かるだけでは足りん」
「おっしゃる通りです」
木刀を握り直す。
息を整える。
もう一度、踏み込む。
打ち込んでは弾かれ、崩され、叩き直される。
それの繰り返し。
きつい。痛い。情けない。
それでも、自分が前に進んでいる感覚があった。
どれくらい打ち合っただろう。
ようやく祖父ちゃんが木刀を下ろした。
「今日はここまでだ」
「……はぁ、はぁ……」
「悪くはない」
「それは、どのくらい褒めていただいてるんですか?」
「一割だ」
「厳しいですね……」
「だが、前よりはましだ」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、少し救われる自分がいた。
「明日からだ、将臣」
「はい」
「積み重ねろ。口先ではなく、体に覚え込ませろ」
「分かりました」
「焦るな。だが止まるな」
「……はい」
その言葉は短かったけど、不思議と胸に残った。
◇◇◇
朝武家へ戻るころには、空はもう夕方の色を深めていた。
夕餉を済ませたあと、俺は自室でイラストの仕事に向かった。
最近は配信関係の仕事も増えてきているし、こういう地道な作業もまだまだ大事だ。
ペンを走らせ、画面と向き合い、細かい修正を重ねていく。
学院の初日で疲れているはずなのに、妙に集中できた。
たぶん、今日のうちにやるべきことがはっきりしているからだ。
学校があって。
日常があって。
その裏で、自分の力も積み上げていく。
そういう生活が、明日から始まる。
仕事を一区切りつけたところで、俺は大きく息を吐いた。
「ふう……こんなもんか」
時刻はもう遅い。
そろそろ寝ないと、明日の朝がきつい。
そう思って布団に入ろうとしたところで、部屋の中に気配が現れた。
「ご主人、呼んだか?」
いつの間にか現れたムラサメちゃんが、こちらを見上げていた。
「ああ、ちょうどよかった」
「なんだ?」
「明日から朝早く起きたいんだ。悪いけど、いつもより早めに起こしてくれないか?」
「ふむ」
ムラサメちゃんは腕を組み、少しだけ得意げに胸を張る。
「よかろう。我輩に任せるがよい」
「助かる」
「ただし、ご主人。起こしたのに二度寝などしたら承知せぬぞ」
「しないよう努力する」
「今の時点で少し不安なのだが」
「そこは信用してくれよ」
「半分ほどだな」
「茉子みたいなこと言うな」
ムラサメちゃんは小さく笑った。
「まあよい。明日から忙しくなるのであろう?」
「ああ。たぶんな」
「ならば、今日はもう休め。無理をして倒れては元も子もない」
「分かってる」
布団に潜り込みながら、天井を見上げる。
新学期が始まった。
新しい出会いも、新しい繋がりも、少しずつ増えていく。
守りたいと思える日常が、また一つ増えた。
だからこそ――強くなりたい。
その思いを胸の奥で静かに噛みしめながら、俺は目を閉じた。
明日は、きっと今日より早く始まる。