穂織での暮らしは、思っていた以上に忙しかった。
朝はまだ空気の冷たい時間から起き出して、祖父ちゃんのもとで剣の稽古。
昼は鵜茅学園で授業を受け、放課後にもまた鍛錬。
夜になれば夜で、今度はイラストの作業が待っている。
朝も昼も夜も、やることがある。
一つひとつは手を抜きたくないものばかりで、だからこそ気も張る。
――忙しい。
とにかく、忙しい。
「……眠い……」
朝、机に突っ伏しそうになる頭をどうにか持ち上げながら、俺――有地将臣は誰にも聞こえないくらいの小声で呟いた。
授業そのものが難しいわけじゃない。
引っ越し前の学校で二年生の範囲はある程度先取りしていたおかげで、先生の話も問題なく頭に入る。むしろ内容だけ見れば、余裕はある方だ。
問題はそこじゃない。
眠いのだ。
身体が、普通に疲れている。
朝の稽古で汗を流し、学校で一日過ごし、放課後にも身体を動かし、夜は机に向かってイラストを描く。
しかも、穂織に来てからは環境そのものが一変している。
新しい学校、新しい人間関係、そして祟り神という非日常まで加わった。
これで疲れない方がおかしい。
「有地くん。次、読んでください」
「あ、はい」
名前を呼ばれて、慌てて立ち上がる。
教科書の該当箇所を読み上げると、先生は軽く頷き、特にそれ以上は何も言わなかった。
けれど、油断していたのは確かだ。
席に座り直して、心の中で小さく息を吐く。
……危ない危ない。
さすがに授業中にぼんやりしすぎるのはまずい。
そう思ってはいる。
思ってはいるのだが、ここ数日は朝食の時間に遅れそうになって部屋を飛び出すことも増えていたし、授業中もふと気を抜くと意識が落ちそうになることがあった。
自分でも、褒められた状態じゃないのは分かっていた。
◇◇◇
昼休み。
廊下に出たところで、後ろから静かな声がかかった。
「将臣さん。少し、よろしいですか?」
振り返ると、芳乃が立っていた。
いつものように姿勢はすっと伸びていて、巫女姫らしい落ち着きがある。
けれど、今日のその表情はどこか厳しい。
「ん? どうした、芳乃」
「こちらへ」
短くそう言って、芳乃は人の少ない廊下の端へと歩き出す。
なんとなく話の内容を察して、俺もその後を追った。
窓の外から春の風が吹き込んでくる。
そこで立ち止まった芳乃は、まっすぐに俺を見つめた。
「最近の将臣さん、少々弛んでおられませんか?」
「うっ」
真正面から来た。
思わず変な声が漏れる。
「朝食の時間にも遅れがちですし、授業中もどこか上の空でした」
「……見られてたか」
「見ていれば分かります」
芳乃の声音はきつくはない。
だが、誤魔化しを許さない真面目さがあった。
「体調が悪いのであれば、無理はしていただきたくありません。ですが、そうでないのなら、少し見過ごせません」
「……すみません」
これは言い訳のしようがなかった。
素直に頭を下げる。
「忙しいのを理由に、ちょっと気を抜いてた」
「忙しいこと自体を責めるつもりはありません。ですが、それで日常が疎かになっては本末転倒です」
「うん。ほんと、その通りだと思う」
芳乃は厳しい。
けれど理不尽ではない。
ちゃんと見てくれているからこその言葉だと分かるから、変に取り繕う気にもなれなかった。
「これからはちゃんとするよ。態度で示す」
「……本当ですか?」
「本当。気を引き締め直す」
俺がそう言った、そのときだった。
「……っ」
不意に、芳乃の肩がびくりと震えた。
「芳乃?」
彼女は胸元を押さえるようにして、小さく息を呑む。
次の瞬間、白い髪の上から、ぴくり、と見慣れたものが現れた。
犬耳だ。
「っ……!」
俺が目を見開くと、芳乃は少しだけ顔を伏せた。
呪いの副作用。体調や呪いの気配が強まった時に現れる、あの耳。
「祟り神が……近いのかもしれません」
「……みたいだな」
さっきまで頭の中にまとわりついていた眠気が、一気に吹き飛ぶ。
身体の奥が熱を持つような感覚が走った。
今夜、また出る。
そう理解した瞬間、気持ちは自然と戦う方へ切り替わっていた。
けれど芳乃は、そんな俺を見て眉を寄せた。
「将臣さん」
「ん?」
「もしお疲れでしたら、今夜は来ないでください」
「え?」
「体調が万全でない状態で山へ入るのは危険です。無理をなさる必要はありません」
その声は、さっき俺を注意した時よりもずっと柔らかかった。
むしろ、はっきり心配しているのが伝わってくる。
「……心配してくれてるのは分かるけど」
「でしたら」
「大丈夫だよ」
俺は少しだけ笑って、肩をすくめた。
「眠いのと、戦えないのは別問題だから」
「ですが……」
「平気。ちゃんと行く」
芳乃はまだ何か言いたげにしていたが、結局それ以上は強く止めてこなかった。
ただ、不安そうな目だけがわずかに揺れていた。
◇◇◇
夜。
山の空気は冷たく、静かだった。
木々の隙間を抜ける風が、ざわざわと葉を揺らしている。
芳乃、茉子、そして俺。
いつもの三人で気配を辿り、開けた場所へ出たところで――それは現れた。
闇の中から浮かび上がる、禍々しい犬の姿。
赤く濁った目が、ぎらりとこちらを睨む。
「来ましたね……!」
「芳乃様、下がってください」
「ああ、任せろ!」
地を蹴る。
以前の俺なら、姿を見ただけで身体が固くなっていたかもしれない。
けれど今は違う。
祟り神の動きに目を凝らし、その足運びを読む。
祖父ちゃんに叩き込まれた基礎が、少しずつ自分のものになってきているのが分かった。
飛びかかってきた前脚を紙一重でかわす。
そのまま踏み込み、叢雨丸を振るう。
「はっ!」
銀の軌跡が夜気を裂いた。
祟り神が身をよじって避けようとする。
だが、遅い。
剣先が黒い霧のような身体を断ち、獣の悲鳴が山に響いた。
「ガアァァァァァッ――!」
「将臣さん!」
「まだだ!」
追撃。
横薙ぎ、返し、踏み込み。
焦らず、振り回さず、確実に間合いを詰める。
相手の動きに呑まれない。自分の呼吸を崩さない。
以前のように無我夢中で斬るのではなく、今はちゃんと見えていた。
祟り神が地を蹴って距離を取る。
その瞬間、芳乃の矛鈴の音が澄んだ空気を震わせた。
「――祓いたまえ、清めたまえ……!」
鈴の音に呪いが揺らぐ。
その隙を見逃さず、俺は一気に踏み込んだ。
「これで――終わりだ!」
振り下ろした一閃が、祟り神を真っ向から断ち切る。
黒い身体がびくりと震え、次の瞬間、光の粒のように崩れていった。
静寂が戻る。
「……よし」
荒い息を吐きながら剣を下ろす。
前みたいな無茶な勝ち方じゃない。ちゃんと見て、ちゃんと戦って、ちゃんと祓えた。
その手応えがあった。
「お見事です、将臣さん」
「ふふっ。ずいぶん安定してきましたね」
芳乃の声は安堵に満ちていて、茉子は少し感心したように目を細めていた。
「前よりは、な」
「ええ。以前とはかなり違います」
茉子がそう言いながら、周囲に目を配る。
俺も祟り神の気配が完全に消えたのを確認してから、ようやく息を整えた。
そのときだった。
視界の端、少し離れた茂みの中で、何かがかすかに光った気がした。
「……ん?」
「どうかしましたか?」
「いや、ちょっと」
足を向けて、葉をかき分ける。
そこに落ちていたのは、小さな透明の石――というより、水晶石のカケラのようなものだった。
完全な結晶ではない。
どこかが欠けた、いびつな破片。
それなのに月明かりを受けて、妙に目を引く光を返している。
「何でしょう、それ」
「水晶……っぽいけど、カケラだな」
指先でつまみ上げる。
ひんやりしているのに、妙に存在感がある。
ただの石片にも見えるのに、どうしてか気になってしまった。
「落ちていただけ、でしょうか」
「分からない。でも、なんか妙に引っかかるんだよな……」
自分でもうまく説明できない。
ただ、見過ごしてはいけない気がした。
芳乃も不思議そうに見ていたが、茉子も首をかしげるばかりだ。
今ここで答えが出るものでもない。
俺はひとまず、その水晶石のカケラをポケットへしまった。
「持って帰るのですか?」
「うん。なんとなく、そのままにしておくのも変な気がして」
「将臣さんがそう感じるのであれば、何か理由があるのかもしれませんね」
芳乃がそう言うと、茉子が改めて俺の方を見た。
「それにしても、将臣さん」
「ん?」
「やはり以前より動きが安定していますね。何か武道でもしていたのですか?」
「あー……昔から剣道はずっとやってたよ」
「剣道、ですか」
茉子は少しだけ目を細める。
「そういえば昔、玄十郎様から稽古を受けておられましたね」
「子供の頃にちょっとな」
「ちょっと、であの動きになるのはずいぶん変ですが」
「さらっとひどいこと言ってない?」
「事実ですので」
すました顔で返されて、思わず苦笑する。
でも確かに、昔の積み重ねと今の祖父ちゃんとの稽古が、ようやく繋がってきている感覚はあった。
子供の頃はただ必死についていくだけだったけど、今はあの頃に教わったことの意味が少しずつ分かってきている。
「将臣さん」
「ん?」
「……本当に、無理はなさらないでくださいね」
芳乃が静かにそう言った。
さっき学校でも同じようなことを言われたなと思って、少しだけ笑う。
「分かってる」
「本当でしょうか……」
「本当だって」
「怪しいですね」
「そこは信じてくれよ」
そんなやり取りをしながら、俺たちは山を下りた。
◇◇◇
帰宅して、家の中に入ったところで、どっと疲れが押し寄せてきた。
山の冷えた空気から一転して、家の中のぬくもりに触れたせいかもしれない。
張っていた気が緩んだ途端、身体の芯に溜まっていた重さが一気に表に出てきた。
リビングに入ると、芳乃がこちらを見た。
「将臣さん、お疲れ様でした」
「ありがと……あのさ」
俺は少しだけためらってから、正直に口を開く。
「悪い、今日は先に休んでもいいか?」
「ええ、もちろんです」
芳乃はすぐに頷いた。
責めるでもなく、止めるでもなく、柔らかく微笑んでくれる。
「どうぞ、お休みください」
「助かる。さすがにちょっと限界」
「はい。きちんと温まってからお休みくださいね」
「了解」
短く答えて、俺はそのまま風呂場へ向かった。
湯を浴びる。
汗と土と、山の気配を洗い流すみたいに、いつもより少し丁寧に身体を流した。
祟り神と対峙したあとの、あのまとわりつくような嫌な感じも、こうして湯を浴びると多少は薄れていく気がする。
穢れを落とす。
そう意識して熱い湯をかぶると、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
けれど、もう頭はほとんど回っていなかった。
風呂から上がると、脱いだ服をろくに確かめもせず、そのまま洗濯物へ放り込む。
山で拾った水晶石のカケラをポケットに入れたままだということにも、気づかないまま。
「……今日は、さすがに限界……」
髪を軽く拭くのもそこそこに、俺はほとんど倒れ込むように布団へ入った。
考えたいことはあったはずなのに、もう無理だった。
瞼が重い。身体も重い。意識が沈む。
そのまま俺は、あっさりと眠りに落ちた。
⸻
Another View
将臣が風呂へ向かい、その後しばらくして二階へ上がっていく気配が遠ざかると、リビングには静かな空気が戻った。
湯呑みに手を添えたまま、芳乃はその方向を見つめる。
茉子はそんな芳乃の横顔を見て、小さく首を傾げた。
「……芳乃様?」
「茉子」
「はい」
「将臣さん、少し様子がおかしくありませんでしたか?」
「おかしい、とは?」
芳乃は少し迷うように視線を揺らし、それから言葉を選ぶように続けた。
「なんというか……疲れているのは確かなのですが、それだけではない気がして」
「ふむ」
芳乃の脳裏には、山での戦いが浮かんでいた。
祟り神との戦いの最中。
将臣と茉子の間で交わされた短いやり取り。
お互いの動きを邪魔せず、むしろ自然に噛み合っていたあの感じ。
何かを共有しているように見えた。
少なくとも、自分の知らない部分があるように見えた。
「先ほども、将臣さんと茉子が……その、なんだか通じ合っているように見えました」
「ほう」
「ほう、ではありません」
じとっとした目で見ると、茉子は口元を隠して笑う。
「それはもしかして、嫉妬ですか?」
「ち、違います!」
「おや、違うのですか」
「違いますっ」
即答したものの、そのあとに続く言葉が少し詰まる。
「……ただ」
「ただ?」
「少し……気にはなります」
小さな、本当に小さな声だった。
それを聞いた茉子は、今度はからかうでもなく穏やかに目を細めた。
「なるほど」
「何ですか、その含みのある顔は」
「いえ。芳乃様も、ずいぶん素直になられたものだと思いまして」
「茉子」
「失礼しました」
口ではそう言いながら、あまり反省している顔ではない。
芳乃は小さく息をついた。
「でも、私は分からないのです」
「何がでしょう」
「将臣さんは、どうしてあそこまでしてくださるのでしょう」
ぽつり、と本音が零れる。
「私は本来、将臣さんを祟り神から遠ざけようとしていたはずです。危険な目に遭わせたくなくて、なるべく関わらせないようにしていたのに……」
「はい」
「それなのに将臣さんは、離れるどころか、ますます前に進んでいく気がして」
「……」
茉子は黙って続きを待った。
「それが、少し……落ち着かないのです」
「将臣さんのことが気になる、と」
「だから、そういう意味ではありません」
「ですが気になるのは事実でしょう?」
「それは……そうですが……」
否定しきれず、芳乃は視線を逸らした。
「茉子」
「はい」
「あなたは……何か知っているのですか?」
「知っている、とは?」
「将臣さんのことです」
芳乃の問いに、茉子はわずかに首を傾げた。
「特別な何かを知っているわけではありませんよ」
「では、あの感じは……」
「私が知っているのは、将臣さんが最近、朝とても早く起きているということくらいです」
「朝早く……?」
芳乃が目を瞬かせる。
「はい。詳しく何をしているかまでは知りません。ただ、皆が起きるより早く動いていることはあります」
「そうだったのですか……」
「ええ。ですから、将臣さんが何かを積み重ねているのだとしても、不思議ではありません」
その言い方は、断定ではなく推測だった。
茉子自身、将臣が朝に具体的に何をしているかまでは知らない。
ただ、あの真面目さを見ていれば、じっとしているタイプではないとも思っている。
芳乃はその言葉を胸の中で反芻した。
朝早く起きている。
自分の知らないところで。
誰に見せるでもなく。
「……そう、ですか」
「はい」
少しの沈黙のあと、茉子がやわらかく言った。
「明日、少し早起きをいたしましょうか」
「早起き?」
「ええ。将臣さんが何をしているのか、見てみればよろしいかと」
「……それは」
「気になるのでしょう?」
「……はい」
芳乃は少し迷ってから、静かに頷いた。
「では、見に行きましょう」
「何か見えるものが、あるかもしれません」
◇◇◇
翌朝。
まだ日が高くなる前。
芳乃と茉子は人目を避けるようにして木陰に身を隠していた。
その先の開けた場所では、将臣が木刀を構えている。
そして、その正面には玄十郎の姿があった。
「玄十郎さん……」
「玄十郎様自ら、ですか」
朝靄の残る中、二人の動きが静かに始まる。
将臣が踏み込み、木刀を振るう。
それを玄十郎が最小限の動きで受け、いなし、そして次の瞬間には鋭い打ち込みを返していた。
「……っ」
将臣が慌てて受ける。
だが受け切れず、体勢が崩れる。
そこへ間髪入れず、また玄十郎の木刀が迫る。
木と木が打ち合う乾いた音が、朝の空気に何度も響いた。
距離があるせいで、声までは聞こえない。
けれど、それでも分かる。
稽古は相当厳しい。
玄十郎の動きには一切の無駄がなく、容赦もない。
将臣は食らいついているが、息をつく暇もなく打ち込まれ、かわし、受け、踏み込み直している。
ただ木刀を振っているだけではない。
見ているだけで、身体の奥が重くなるような密度だった。
「……あれを、毎朝……?」
芳乃が思わず呟く。
茉子は将臣から目を離さず、静かに頷いた。
「少なくとも、朝にああして玄十郎様から稽古をつけていただいているのは間違いありませんね」
「……」
将臣がまた踏み込む。
打ち込む。
いなされる。
崩れた体勢を立て直すより先に、玄十郎の一撃が飛ぶ。
そのたびに将臣は必死に食らいついていた。
見栄えのする華やかな立ち回りではない。
ただひたすらに、厳しく、重い。
基礎を骨の髄まで叩き込むような稽古だった。
芳乃はその背中を見つめながら、小さく息を呑む。
「……どうして」
「芳乃様?」
「私は、将臣さんを祟り神から遠ざけようとしていたのに……どうして、あそこまで」
ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど弱かった。
「私が冷たくしても、距離を置こうとしても……将臣さんは、前へ進むのですね」
「そういう方なのでしょう」
「ですが……普通は、嫌になるのではありませんか? 面倒だと思って、離れてしまうのでは……」
「そうかもしれません」
茉子は将臣から目を離さないまま、静かに続ける。
「ですが、それでも踏み込むだけの理由が、将臣さんの中にはあるのでしょう」
「理由……」
「ええ。そして、あの様子を見る限り――朝だけではないかもしれません」
「え?」
芳乃が目を瞬かせる。
「私が知っていたのは、将臣さんが最近、朝とても早く起きているということだけでした。ですが……今の疲れ方を見る限り、それだけでは辻褄が合いません」
「では……」
「おそらく、放課後も稽古をしているのではないでしょうか」
「放課後も……」
「はい。しかも、今の将臣さんの疲労具合を見るに、むしろ放課後の方が激しい稽古を受けている可能性があります」
「そんな……」
朝のこの稽古だけでも、十分すぎるほど厳しい。
見ているだけで、それが分かる。
それなのに放課後まで。
しかも、もっと激しいかもしれない。
ここ数日、食事の時間に遅れかけたり、授業中に集中が切れたりしていた理由が、ようやく一本の線でつながった気がした。
「私、何も知りませんでした……」
芳乃の声が少し沈む。
茉子はそんな芳乃の横顔を見て、やわらかく言った。
「将臣さんは、自分から言い訳する方ではありませんから」
「……」
「ですが、言わないまま頑張っていることまで含めて、将臣さんなのでしょう」
木刀の音が、また響く。
何度打たれても、何度崩されても、将臣は前へ出る。
苦しそうでも、決して足を止めない。
その姿を見ているうちに、芳乃の胸がじわりと熱くなった。
「……私は」
「はい」
「ひどいことを、していたのかもしれません」
「今さら気づきましたか」
「茉子」
「冗談です」
茉子はそう言って、小さく笑う。
「ですが、もしそう思うのでしたら」
「……謝るべき、でしょうか」
「そうなさるのがよろしいかと」
「そう、ですね……」
芳乃は木刀を振る将臣の姿を見つめる。
真っ直ぐで、不器用で、でも決して折れない背中。
やがて彼女は、決意したように小さく頷いた。
「帰ったら、きちんと謝ります」
「ええ。それがよろしいでしょう」
「……きちんと」
「はい。きちんと」
「分かりました」
この時の芳乃はまだ、自分の“きちんと”が少々行き過ぎることに気づいていなかった。
⸻
「ふぅ……」
朝の稽古を終え、汗を拭きながら家へ戻る。
玄関を上がり、いつものようにリビングへ向かうと――そこに、芳乃がいた。
しかも、正座していた。
「おはよう……って、どうした?」
声をかけた次の瞬間。
芳乃が勢いよく畳に手をつき、額を床につけた。
「誠に申し訳ありませんでした!!」
「…………は?」
土下座だった。
しかも、迷いのない見事な土下座だった。
俺の思考が、一瞬で止まる。
「え、ちょっ、芳乃!?」
「これまでの私の態度、そして事情を知らなかったとはいえ、将臣さんを一方的に注意してしまったこと、深くお詫び申し上げます!」
「いやいやいや、ちょっと待って!?」
「私の配慮が足りませんでした! 本当に申し訳ありません!」
「いや、ほんとに頭上げて!?」
何これ。
朝から何が起きてるんだ。
混乱して茉子の方を見ると、彼女は少し困ったように微笑んでいた。
その隣ではムラサメちゃんが腕を組んで、やれやれと首を振っている。
「……どういう状況?」
「将臣さん。先日、芳乃様にだらけていると注意されましたよね?」
「え? あ、ああ」
「ですが、それには理由がありましたよね?」
「それは、注意されるような行動を取った俺が悪いだろ」
そう返すと、茉子は小さく首を横に振った。
「ですが、その原因までは芳乃様もご存じではありませんでした」
「原因って……」
そこまで言って、俺ははっとする。
「え。もしかして気づいてる?」
「はい。朝だけでなく、放課後も鍛錬をしているのでしょう?」
「うっ」
今度は別の意味で変な声が漏れた。
図星だった。
思わず言葉に詰まる俺を見て、茉子はやはり、というように目を細める。
「やはりそうでしたか」
「いや、えっと、その……」
「朝の稽古だけであの疲労になるとは思えませんでしたから。むしろ、今の将臣さんの様子を見る限り、放課後の方がさらに激しい鍛錬を受けているのでしょう」
「……そこまで分かるのかよ」
なんだか、急に恥ずかしくなってきた。
別に褒められたくてやっていたわけじゃない。
言わなかったのも、なんとなくだ。
祖父ちゃんに稽古をつけてもらっていることも、放課後まで鍛えていることも、自分で口にすると妙に気負っているみたいで、照れくさかった。
それがこうして見抜かれていたとなると、なおさら居たたまれない。
「将臣さんは、言い訳をなさいませんからね」
「別に、言い訳するつもりもなかったし……」
「ええ。だからこそです」
茉子はそう言ってから、土下座を続ける芳乃へと視線を向けた。
「芳乃様は、それを知らなかったとはいえ、将臣さんの頑張りを否定してしまったことを申し訳なく思っておられるのです」
「っ……茉子」
顔を上げないまま、芳乃が小さく声を漏らす。
その声は、恥ずかしさと戸惑いが入り混じっているように聞こえた。
茉子は構わず続けた。
「将臣さんが見えないところで努力していたことを知って、芳乃様はご自身の言葉を悔いておられます」
「いや、でも……」
「だからこそ、こうして謝っておられるのです」
そこまで言われると、さすがにもう軽く受け流せなかった。
恥ずかしい。
正直かなり恥ずかしい。
でも同時に、芳乃がそんなふうに思ってくれていたことが、胸の奥をくすぐるように嬉しくもあった。
「……だからって、土下座はやりすぎだろ」
「ですが……」
「ですが、ではありません。将臣さんへの非礼は、それほど軽いものでは――」
「重くしすぎなんだって!」
思わずそう言うと、芳乃の肩がぴくっと揺れた。
どうやら本気で落ち込んでいるらしい。
真面目すぎるにも程がある。
「と、とにかく! 芳乃、お願いだから顔を上げてくれ」
「ですが……」
「俺が困る! すごく困る!」
「では、何か命じてください」
「命じる!?」
芳乃は真顔のままだ。
どうやら本気らしい。
横からムラサメちゃんが、半ば投げやりに口を挟む。
「もう何か命令をするしかないのではないか? なんでも言うことを聞くようだしの」
「なんでも、って……」
思わずその言葉を繰り返した瞬間、ムラサメちゃんの目がじとっと細くなった。
「ご主人、今よからぬことを考えたであろう」
「考えてない!」
「顔に出ておるぞ」
「出てない!」
すると今度は、茉子がにっこりと微笑んだ。
笑顔なのに、なぜか空気がひやりとする。
「将臣さん?」
「はい」
「変なことを言ったら斬りますので」
「言わないって!」
怖い。
なんで俺が責められてるんだ。
俺は困り果てて、土下座したままの芳乃を見る。
白い髪。
ぴんと伸びた背筋。
真面目で、不器用で、頑固で。
でも、本当は誰より優しい人。
この人に言うべきことなんて、一つしかなかった。
「……じゃあ、お願いしていい?」
「はい」
芳乃は顔を伏せたまま答える。
俺は一度だけ深呼吸して、それから言った。
「俺のことを、婚約者として認めてほしい」
「……え?」
さすがに予想外だったのか、芳乃の肩がぴくりと揺れた。
ゆっくりと顔を上げ、目を丸くしたままこちらを見る。
「い、いえ……将臣さんは、すでに私の婚約者では……?」
「形式の上では、な」
苦笑しながら頭をかく。
「でも前に、芳乃は俺を祟り神から遠ざけようとしてただろ」
「それは……」
「気を遣ってくれてたのは分かる。危ない目に遭わせたくなかったんだよな」
「……はい」
芳乃の声が小さくなる。
「でも、もう俺は祟り神と会った。戦ったし、祓いもした」
「将臣さん……」
「だから、もう必要以上に気を遣わなくていい」
言いながら、自分の中の気持ちが少しずつ言葉になっていく。
「婚約者だからっていう形だけじゃなくてさ」
「……」
「もっと、ちゃんと芳乃のことを知りたい」
「……っ」
「今までは、芳乃が俺を遠ざけようとしてた分だけ、俺もどこかで踏み込みきれなかったと思う。でも、もうそれは嫌なんだ」
自分で言っていて、少し照れくさい。
けれど、ここでごまかしたくはなかった。
「俺は芳乃の力になりたい」
「将臣さん……」
「それに、力になるだけじゃなくて……その、もっと頼ってほしいし、頼らせてほしい」
そこまで言うと、さすがに自分でも甘すぎる気がして、少しだけ視線を逸らした。
だが、言葉は止まらなかった。
「友達としてでもいい。婚約者としてでもいい。呼び方は何でもいいから、今よりもう少しだけ、俺を近くに置いてほしい」
「……」
芳乃の瞳が大きく揺れる。
「だから俺と一緒に、呪いを解く方法を探してほしい」
「……!」
「一人で抱え込まないでくれ。俺にも手伝わせてほしい」
リビングが静かになる。
芳乃は何かを言おうとして、でも言葉が出ないようだった。
やがて視線を少し逸らし、戸惑ったように口を開く。
「ですが、それでは……今の関係と、あまり変わらないのではありませんか?」
「そうかもしれない」
「では、なぜ……」
「俺が、そうしたいから」
即答だった。
「ちゃんと、芳乃の隣にいたい」
「……っ」
芳乃の頬が、わずかに赤くなる。
俺はそこで一度言葉を切って、それから少しだけ笑った。
「あと……芳乃に婚約者って言われるの、俺、嫌いじゃないし」
「っ!?」
今度こそ、芳乃の顔が一気に赤くなった。
「な、なな……」
「だから、形だけで終わるのはもったいないって思った」
「将臣さん、それは……その……」
「俺のお願いじゃ、だめか?」
その問いに、芳乃はしばらく答えなかった。
けれど次第に、その顔に隠しきれないものが滲んでいく。
驚き、戸惑い、そして――嬉しさ。
それを必死で抑えようとして、でも抑えきれていない。
そんな顔だった。
「……ずるいです」
「え?」
「そのように言われて、断れるはずがありません」
芳乃は小さく息をついて、それからようやく、ほんのりと微笑んだ。
「分かりました」
「……ほんとに?」
「はい」
彼女はまっすぐに俺を見て、はっきりと言う。
「将臣さん。どうか、これからも……ご一緒してください」
「……ああ」
自然と、笑みがこぼれた。
「よろしく、芳乃」
「はい。よろしくお願いいたします」
そのやり取りを見ていた茉子が、くすくすと笑う。
「ふふっ。なんだか朝から甘い空気ですね」
「ま、茉子!」
「事実でしょう?」
「違います!」
「どこがじゃ」
ムラサメちゃんのツッコミに、芳乃の顔がさらに赤くなる。
俺もなんだか照れくさくなって視線を逸らしたが、不思議と嫌な気分ではなかった。
ぎこちなくて、不器用で、遠回りばかりだけど。
それでも少しだけ。
俺と芳乃の距離は、昨日までより確かに近づいた気がした。
――呪いを解く方法を探す。
そのための一歩は、きっと今、ちゃんと踏み出せたのだと思う。