『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第16話 手掛かりの欠片、踏み出すための一歩

 

 

 芳乃の謝罪を聞き終えたあと、俺たちは少しだけ気恥ずかしい空気のまま食卓へ移った。

 

 朝の空気は、まだ少しだけ落ち着かなくて、でもさっきまでとは確かに違っていた。

 

 食卓に並ぶ朝食の匂い。

 差し込む柔らかな日差し。

 そして向かいに座る芳乃の、どこかそわそわとした様子。

 

 つい先ほどまで、俺たちは真面目な話をしていた。

 

 芳乃は自分の気持ちをきちんと口にして、俺に謝ってくれた。

 そのおかげで、胸の中でこんがらがっていたものは、だいぶほどけた気がする。

 

 ……とはいえ。

 

「…………」

「…………」

 

 改めてこうして朝食の席を囲むと、やっぱり少し照れくさい。

 

 芳乃も似たようなものらしく、味噌汁のお椀を持ったまま、ちら、ちら、と何度かこちらを見ては視線を逸らしていた。

 

 その様子に、つい苦笑してしまう。

 

 さっきまでちゃんと話せていたはずなのに、こうして落ち着いて向かい合うと急に意識してしまうあたり、我ながら単純だと思う。

 

 昨日までみたいな距離の遠さはない。

 でも、近くなったぶん、逆に気恥ずかしいというか。

 

 なんとも言えない、むず痒い空気だった。

 

 そんな空気を、いつものように軽く崩したのは茉子だった。

 

「ふふ、お二人とも。朝から随分と静かですね」

「そ、そうですか?」

「そうだな」

「ええ。つい先ほどまで、ずいぶん大事なお話をしていたとは思えないほどに」

「茉子っ!?」

 

 芳乃が慌てて声を上げる。

 

 その反応に茉子はくすりと笑い、隣ではムラサメちゃんがやれやれと肩をすくめた。

 

「見ておるこちらが気恥ずかしくなるのう」

「ムラサメちゃんまでそれ言うの!?」

「事実じゃから仕方あるまい」

 

 うぐ、と言葉に詰まる俺。

 

 すると、芳乃が小さく咳払いをして、なんとか空気を立て直そうとした。

 

「と、ともかく……将臣さん。改めて、先ほどはきちんとお話を聞いてくださって、ありがとうございました」

「いや。俺の方こそ、ちゃんと聞けてよかった」

「…………はい」

 

 芳乃はそう答えて、ほっとしたように微笑む。

 

 その笑顔を見ていると、やっぱり思う。

 遠回りだったかもしれないけど、さっきのやり取りは無駄じゃなかった。

 

 ――呪いを解く方法を探す。

 

 そのための一歩は、ちゃんと踏み出せた。

 今朝のこの空気が、それを教えてくれている気がした。

 

 と、そこで。

 

「ああ、そうでした」

 

 朝食の片付けを始めていた茉子が、ふと思い出したようにこちらを見た。

 

「将臣さん。少々よろしいですか?」

「ん? どうした?」

「洗濯物を確認していた際に、将臣さんのズボンの中からこんなものが出てきまして」

 

 そう言って茉子が差し出してきたのは、小さな欠片だった。

 

 透明感のある、しかしどこか濁ったようにも見える石。

 光にかざせば、かすかにきらりと反射する。

 

「……これ」

「お心当たりはありますか?」

「ああ。たぶん山で拾ったやつだ」

 

 俺はそれを受け取り、指先の上で転がすように眺めた。

 

 見た目だけなら、ただの石ころにも見える。

 けれど、拾った場所と状況を考えると、どうにも見過ごす気にはなれなかった。

 

 あの山で。

 あの祟り神と対峙した場で。

 しかも、妙な気配をまとうような欠片だ。

 

 偶然落ちていた石、と片付けるには、どうにも引っかかる。

 

「普通の石には見えませんね」

「そうだな……」

 

 俺がまじまじと見つめていると、ムラサメちゃんがふわりと近づいてくる。

 

「む」

「どうした、ムラサメちゃん」

「その欠片……妙な気配がするのじゃ」

 

 その一言で、食卓の空気がすっと変わった。

 

 芳乃が表情を引き締める。

 

「妙な気配、ですか……?」

「うむ。じゃが、祟り神とも少し違う」

「違う……?」

 

 芳乃は石を見つめながら、わずかに眉を寄せた。

 

「まさか、祟り神に関係するものでは……」

「可能性はある。じゃが、断言はできぬ。嫌な感じはあるが、あやつそのものの気配とも違うのじゃ」

「では、祟り神の一部、というわけでもないのですか?」

「そこまでは分からぬ。似ておるようで、少し違う……そんな感じじゃな」

 

 ムラサメちゃんが珍しく曖昧な言い方をした。

 

 それだけ、この欠片の正体が読めないということなのだろう。

 

 俺はもう一度欠片を見つめる。

 

 透き通っているようでいて、どこか内側に靄でも抱えているようにも見える。

 朝日を受けてきらりと光るその様子は綺麗ですらあったけど、ムラサメちゃんが言う“嫌な感じ”というのも、なんとなく分かる気がした。

 

「詳しいことが分からないのであれば、一度みずはさんにお預けするのがよいかもしれません」

 芳乃が静かに言った。

 

「みずはさん?」

「駒川みずはさんです。この町の診療所の先生で、昔から朝武家の主治医をしてくださっている方なんです」

「主治医ってことは、呪いのことも?」

「はい。朝武家の事情はご存じです。ただ、陰陽師として前に出るというよりは、お医者様として長く私たちを支えてくださっている方ですね」

「なるほど……」

「もちろん、不思議な出来事とまったく無縁というわけではありません。でも、みずはさんご本人は、まず医者として考える方です」

「そっちの方がちょっと安心するな」

「ふふ、そうかもしれません」

 

 穂織に来てから、神だの呪いだの祟り神だのと、常識から少しずつ足場をずらされ続けてきた俺としては、“ちゃんとした医者”という肩書きに妙な安心感があった。

 

 まあ、その医者が朝武家の呪いにも詳しいって時点で、十分ただ者じゃないんだけど。

 

 そう漏らすと、茉子が楽しそうに目を細めた。

 

「将臣さんも、少しずつ穂織の人になってきたということではありませんか?」

「そんな軽い感じで言う?」

「ふふ。とはいえ、こういったことは詳しい方に見てもらうのが一番です」

「だな。じゃあ、行ってみるか」

「はい」

「我輩も行くのじゃ」

 

 ムラサメちゃんがこくりと頷く。

 

「ご主人ひとりでは、変な気配を見落とすやもしれぬからの」

「いや、そこは否定できない」

「将臣さんはまだ勘の方はこれからですからね」

「茉子、それフォローしてるようでしてないよな?」

「しておりませんよ?」

「してないのかよ」

 

 茉子がすまし顔で返してくるものだから、つい肩の力が抜ける。

 

 朝のぎこちなさはまだ少し残っていたけれど、こうしていつも通りのやり取りが挟まると、妙に落ち着く。

 

 こうして俺たちは、朝食のあと、そのまま診療所へ向かうことになった。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 穂織の道を歩きながら、俺は改めてこの町の空気を感じていた。

 

 朝の山の匂い。

 ひんやりした空気。

 遠くで聞こえる鳥の声。

 

 都会の喧騒とは違う、静かな時間の流れ。

 けれどその静けさの下に、目には見えない何かが確かに息づいている。

 

 穂織に来たばかりの頃は、ただの田舎町にしか見えなかった。

 でも今はもう違う。

 

 この町には、この町にしかない理がある。

 人の暮らしのすぐ隣に、神や呪いや祟りがある。

 

 それが当たり前みたいに息づいている。

 

 そんなことを考えているうちに、目の前に落ち着いた建物が見えてきた。

 

「ここが、この町の診療所か」

 

 大きすぎず、小さすぎず。

 けれど手入れは行き届いていて、どこか安心感のある佇まいだった。

 

「はい。私も子供の頃から、ずっとお世話になっています」

「朝武家の皆さまも、ですね」

「うん、そんな感じか」

「そんな感じ、では少し軽い気もしますが」

 

 茉子が小さく笑う。

 

「朝武家にとっては、なくてはならぬ場所じゃな」

 ムラサメちゃんがうんうんと偉そうに頷く。

「怪我も病も、放っておくと厄介じゃからの。人の子は脆いのじゃ」

「お前、その言い方だと俺たちまとめてひ弱扱いなんだけど」

「実際そうじゃろう?」

「否定しづらいのがなんか悔しい……」

 

 そんなやり取りをしながら中へ入ると、すぐに柔らかな声が聞こえてきた。

 

「あら、巫女姫様。常陸さんも。おはようございます」

「おはようございます、みずはさん」

「おはようございます」

 

 受付の奥から現れたのは、白衣姿の女性だった。

 

 三十代前半くらいだろうか。

 年上らしい落ち着きがあり、表情は柔らかい。いかにも患者を安心させる町医者、という雰囲気の人だ。

 

 派手さはない。

 でもその分だけ、言葉や仕草に“人を診てきた人”らしい自然な温度があった。

 

「初めまして、有地君。駒川みずはです」

「あ、はい。初めまして。有地将臣です」

「ふふ。話は色々聞いていますよ」

「色々、ですか」

「穂織に来てから、なかなか大変だったみたいですね」

「……否定しづらいです」

 

 俺がそう返すと、駒川さんは柔らかく笑った。

 

 からかうというより、困った患者を安心させるような笑い方だった。

 

「それにしても、有地君。こうしてちゃんと顔を合わせるのは初めてかもしれませんね」

「え?」

「以前、あなたが怪我をした時に診たのは私なんですよ」

「あ……」

 

 そう言われて、ようやく繋がる。

 

 あの時は痛みと混乱で、周りを見る余裕なんてほとんどなかった。

 治療してくれた人の顔すら、ちゃんと覚えられていなかったんだ。

 

 俺は慌てて頭を下げた。

 

「その……お礼が遅くなってすみません。あの時、治療してもらってありがとうございました」

「気にしなくていいんですよ。無事だったのが何よりですから」

「でも、ちゃんと言えてなかったので」

「律儀ですね」

 

 駒川さんは少し困ったように、でも嬉しそうに笑った。

 

「それで、今日はどうしました?」

「実は、これを見ていただきたくて」

 

 芳乃がそう言って、俺の手の中にある欠片へ視線を向ける。

 

 駒川さんの表情がすっと引き締まった。

 

「見せてもらえますか?」

「はい」

 

 俺が差し出すと、駒川さんは慎重に受け取り、明かりに透かしたり、指先で表面をなぞったりしながら観察する。

 

「……ふむ」

「何か分かりますか?」

「断定はできませんけれど、少なくとも普通の石ではなさそうですね」

「やっぱりか」

「どこで手に入れたんですか?」

「山で、祟り神と関わった時です」

 

 俺がそう答えると、駒川さんは小さく息をついた。

 

「それでしたら、なおさら放ってはおけませんね」

 

 そこで芳乃が、ここまでの事情を丁寧に説明する。

 山でのこと。

 この欠片を拾ったこと。

 ムラサメちゃんが妙な気配を感じていること。

 

「……なるほど。事情は分かりました」

「ムラサメちゃんも、祟り神とは違う気配だと言っていました」

「そうですか……」

 

 駒川さんはそこで、少しだけ視線を巡らせた。

 

「ムラサメ様は、今こちらに?」

「あ」

「駒川さんには見えないんでしたね」

「ええ。私はお姿そのものは見えていません。ただ、存在は存じていますし、気配もなんとなく分かります」

「なるほど」

「穂織で朝武家に深く関わる者なら、ムラサメ様のことを知らない方が不自然ですから」

 

 そう言って、駒川さんは目に見えないその場のどこかへ向けて、丁寧に一礼した。

 

「ムラサメ様。いつも穂織をお守りくださり、ありがとうございます」

「うむ。分かっておる者は好きじゃぞ」

「聞こえてるのか……」

「当然じゃ」

 

 ムラサメちゃんがえへんと胸を張る。

 駒川さんには見えていないのに、なんとなくその場の空気で通じ合ってる感じがあるのが不思議だった。

 

「それに、ムラサメ様は朝武家だけでなく、穂織にとっても大切な存在ですから」

 駒川さんは穏やかに言った。

「私には見えなくても、敬うべき方だということに変わりはありません」

 

 その言い方には、打算のない敬意があった。

 

 霊的な存在だから敬う、というより。

 昔からこの土地と人々を見守ってきたものに対して、ごく自然に頭を下げる感じだ。

 

「そのムラサメ様が気になると仰るのでしたら、私の方でも資料をもう一度洗ってみます」

「お願いします」

「ただ、私はあくまで医者ですから、こういった件で出来ることには限りがあります」

「それでも十分です」

「ありがとうございます。有地君は素直で助かりますね」

 

 穏やかにそう言われて、少し照れくさくなる。

 

「ムラサメ様は、どうなさいますか?」

 みずはさんが芳乃へ尋ねる。

 見えていないからこその聞き方だった。

 

 芳乃は横に視線を向けてから、答える。

 

「欠片の気配が気になるので、山を見てくると」

「そうですか」

「我輩が調べてくるのじゃ。この欠片と似た気配が残っておるやもしれぬからの」

「駒川さんには聞こえてないぞ」

「おお、そうであったな」

 

 ムラサメちゃんがこほんと咳払いをする。

 

「どうかお気をつけて、とお伝えください」

 駒川さんが言うと、

 芳乃がやわらかく頷く。

「はい。今、そう申しております」

「承知した。任せておくのじゃ」

「うん、たぶんそう言ってる」

 

 思わず補足すると、駒川さんが少しだけ笑った。

 

「なんとなく分かります」

「そんなことあるんですね」

「長い付き合いですから」

 

 その一言には、朝武家と駒川家の積み重ねてきた時間が滲んでいた。

 

 話が一区切りついたところで、俺は思い切って声をかけた。

 

「芳乃、茉子。悪いんだけど、先に戻っててもらえるか?」

「将臣さん?」

「少しだけ、駒川さんに話があるんだ」

「……そう、ですか」

「それでは、私たちは先に失礼いたしますね」

 

 芳乃は少し気にした様子だったが、無理に聞こうとはしなかった。

 茉子も一礼して、診療所を出ていく。

 

「では、ご主人。後での」

「おう。気をつけろよ」

「誰に言っておるのじゃ。我輩じゃぞ?」

 

 そう言い残して、ムラサメちゃんもふわりと気配を遠ざけていく。

 

 診療所の中には、俺と駒川さんだけが残った。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 静かな診察室で、駒川さんは椅子に腰かけたまま、俺を見た。

 

「それで、有地君。改めてお話というのは?」

「……朝武家の呪いについてです」

「やっぱり、そこですよね」

 

 声は穏やかだったが、その目は真剣だった。

 

 俺は少しだけ息を整えてから、まっすぐに口を開く。

 

「俺、ちゃんと向き合いたいんです」

「向き合う、ですか」

「今までは分からないことが多すぎて、ただ流されてる感じでした。でも、それじゃ駄目だと思った」

「どうしてそう思ったんですか?」

「呪いを解く方法を探すって決めたからです」

 

 昨日のことを思い出す。

 

 芳乃が、ようやく本音を見せてくれたこと。

 俺も、逃げずに進もうと決めたこと。

 

「芳乃のために、っていうのももちろんあります。でも、それだけじゃないんです」

「……と、言いますと?」

「俺自身が、もうこの問題から目を逸らしたくない。巻き込まれたとか、関係ないとか、そういう段階じゃないと思うから」

「なるほど」

 

 駒川さんは、小さく頷いた。

 

「では、有地君は知りたいんですね。朝武家の呪いについて」

「はい。教えてください」

 

 駒川さんは少しだけ考え込むように目を伏せ、それから立ち上がった。

 

「私は、巫女姫様たちを長く診てきた医者です」

「はい」

「ですから、朝武家の呪いについても、無関係ではいられませんでした。専門家というほどではありませんが、医者として関わる中で、私なりに調べて整理したものがあります」

「整理したもの……?」

「ええ」

 

 そう言って棚の奥から取り出したのは、一冊のノートだった。

 

 擦り切れた表紙。

 何度も開かれてきたことが分かる厚み。

 

「これは、私が朝武家の呪いについてまとめた考察ノートです」

「駒川さんの……」

「正式な記録ではありません。事実と、私なりの推測が混ざっています。ですから、鵜呑みにはしないでくださいね」

「はい」

「ですが、何も知らないままでいるよりは、ずっと良いはずです」

 

 そう言って差し出されたノートを、俺は両手で受け取った。

 

 見た目以上に重い。

 ただの紙の束じゃない。長い時間をかけて積み重ねられたものの重みがある。

 

 ページの端には細かな書き込みが見えた。

 線が引かれ、付箋の跡が残り、何度も読み返されてきたことが分かる。

 

 朝武家の呪いが、どれだけ長く、どれだけ人の手を煩わせてきたのか。

 それが、この一冊の重みにも表れている気がした。

 

「ありがとうございます」

「読みながら分からないことがあれば、また聞きに来てください」

「はい」

「ただし、有地君」

 

 駒川さんが少しだけ表情を引き締める。

 

「知るというのは、楽なことではありません」

「……そうですね」

「でも、知らなければ守れないものもあります」

「はい」

「でしたら、途中で怖くなっても、投げ出さずに最後まで読んでください」

「……分かりました」

 

 その言葉に、俺ははっきりと頷いた。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 診療所の外へ出ると、思わず足が止まった。

 

「……え?」

 

 そこには、先に帰ったはずの芳乃と茉子がいた。

 

 まるで最初からそうするつもりだったみたいに、当たり前の顔で待っている。

 

「え、なんでいるんだ?」

「お待ちしておりました」

「いや、先に戻っててって言ったよな?」

「はい」

「はい、じゃないだろ」

 

 俺が思わずそう返すと、茉子がくすりと笑う。

 

「将臣さんを置いて先に帰るのも、どうかと思いまして」

「それは……ありがたいけど」

「それに」

 

 茉子がちらりと芳乃を見る。

 

「芳乃様も、お待ちしたいと仰っていましたので」

「ま、茉子……!」

 

 芳乃の頬がふわっと赤く染まった。

 

 俺がそちらを見ると、芳乃は少しだけ視線を逸らし、それでもきちんと口にする。

 

「……その、将臣さんは私の友達ですから」

「友達」

「はい。ですから、お待ちするのはおかしなことではありません」

「…………」

「た、ただ……まだ少し慣れていないので、その……自分で言うのは、少し恥ずかしいのですが」

 

 言葉の終わりが小さくなる。

 

 でも、その一言は不思議なくらい真っ直ぐ胸に入ってきた。

 

「……そっか」

「はい」

「ありがとな、芳乃」

「っ……はい」

 

 芳乃はさらに顔を赤くしてしまう。

 

 すると、すかさず茉子が口元に手を添えた。

 

「それで将臣さん。男の人が女医さんに内緒のお話ですか?」

「違うから」

「本当に?」

「本当に。朝武家の呪いの話を聞いてただけだ」

「ふふ。そう慌てて否定なさると、かえって怪しく見えますね」

「茉子、お前わざとだろ」

「さて、何のことでしょう」

 

 絶対わざとだ。

 

 けれど、その軽口のおかげで空気が少しだけ和らぐ。

 

「ちなみに、ご主人」

 いつの間にか近くへ戻ってきていたムラサメちゃんが、ひょこっと口を挟む。

「女医に色目を使うような余裕があるなら、もっと別のところに気を回すのじゃ」

「誤解が増える言い方やめろ!?」

「我輩は事実確認をしておるだけじゃ」

「してないよな!?」

「ふふっ……」

 

 芳乃がたまらず吹き出し、それにつられて茉子も笑う。

 

 さっきまでの少しだけ重い空気が、そこでようやくきれいにほどけた気がした。

 

 俺はノートを抱え直しながら、二人と並んで学校へ向かった。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 学校には、あらかじめ遅刻することを連絡してあった。

 

 だから教室へ入るのに大きな問題はなかったが、それでも転校してきたばかりの身には少し落ち着かない。

 

 視線を感じる。

 ひそひそ声も聞こえる。

 

 まあ、そりゃそうだ。

 転校してきたばかりのやつが、早速遅刻気味に登校してきたら目立つに決まっている。

 

 けれど今の俺には、それ以上に気になるものがあった。

 

 ――駒川さんから受け取ったノートだ。

 

 授業の合間。

 休み時間。

 昼休み。

 

 空いた時間を見つけては、少しずつページをめくっていく。

 

 朝武家の呪いに関する古い記録。

 断片的に残された言い伝え。

 祟り神の性質についての考察。

 そして、なぜ呪いが今なお続いているのかという仮説。

 

「……難しいな」

 

 思わず小さくこぼれる。

 

 古い言い回しも多いし、専門的な話も混じっていて、一度で全部理解するのは難しい。

 

 けれど、分からないなりに読んでいると、少しずつ見えてくるものがあった。

 

 朝武家の呪いは、単純に“犬の祟り神がいる”で済む話じゃない。

 長い時間をかけて積もった穢れ。

 代々の役目。

 断ち切れなかった因縁。

 

 そういうものが何重にも重なって、今の形になっている。

 

 ただ恐ろしいだけだったものが、“正体を知るべき相手”へと変わっていく。

 

 それは、怖さが消えるということではない。

 でも、ただ怯えるだけではなくなるということだった。

 

 知らない怪異は、ただ怖い。

 でも知ろうとすれば、少なくとも立ち向かう形は考えられる。

 

 昼休み、ノートを閉じて小さく息を吐く。

 

「……まだ全然足りないな」

 

 でも、足りないなら読むしかない。

 

 放課後になってからも、その思いは変わらなかった。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 放課後。

 

 いつものように、祖父ちゃんとの稽古へ向かう。

 

 打ち込みと型を一通り終え、木刀を下ろしたところで、俺は呼吸を整えながら口を開いた。

 

「祖父ちゃん。少し話がある」

「なんだ、将臣」

「今日、駒川さんから朝武家の呪いについてのノートを預かりました」

「ほう。駒川先生からか」

「ああ。呪いを解く方法を探すためにも、まずは相手を知るべきだと思って」

 

 祖父ちゃんはしばらく黙っていた。

 

 その無言が妙に重くて、自然と背筋が伸びる。

 

 やがて、祖父ちゃんは短く言った。

 

「よい」

「……いいのか?」

「敵を知るのは当然だ」

「ありがとう」

「ただし、知ったつもりになるな」

「ああ」

「分からぬことは分からぬまま持っておけ。焦って答えを決めるな」

「分かった」

「駒川先生の考察は役に立つ。あの人は昔から、そういうことを地道に追っておる」

「医者なりの見方ってやつか」

「そうだ」

「なるほど」

 

 真顔で返されて、思わず少し笑う。

 

 でも、その口ぶりにはちゃんと信頼があった。

 

 祖父ちゃんは寡黙だし、言葉数も少ない。

 けれど本当に信用している相手のことは、ちゃんと認めているのが分かる。

 

「今日はここまででよい」

「え?」

「早めに切り上げる。読むのであろう」

「……ああ」

「なら読め。今のお前には、それも必要だ」

「ありがとう、祖父ちゃん」

 

 俺がそう言うと、祖父ちゃんは小さく頷いた。

 

 厳しい人だけど、こういうところは本当にありがたい。

 今の俺に必要なものを、ちゃんと見てくれている。

 

 おかげで、その日のうちにノートはかなり読み進めることができた。

 

 

   ◇◇◇

 

 

 夜。

 

 自室の机に向かい、ノートの最後の方を読んでいた俺は、ふと手を止めた。

 

「……遅いな」

 

 ムラサメちゃんが、まだ戻ってきていない。

 

 山を探ると言って出ていってから、だいぶ時間が経っている。

 あいつは普段こそ自由気ままだけど、こういう時は意外ときっちりしている。

 

 だからこそ、少し気になった。

 

「大丈夫だとは思うけど……」

 

 そう呟いた、その時だった。

 

 こんこん、と控えめなノックの音がする。

 

「はい」

 

 襖が開き、そこに立っていたのは芳乃だった。

 

 いつもより少しだけ硬い表情。

 でも、その瞳には迷いよりも決意が見えた。

 

「芳乃?」

「夜分に失礼します、将臣さん」

「どうした?」

「……少し、お話ししたいことがありまして」

「話?」

「はい。その前に、謝らなければならないことがあります」

「謝る?」

 

 芳乃は小さく息を整えてから、静かに頭を下げた。

 

「先ほど、みずはさんからご連絡をいただきました」

「駒川さんから?」

「はい。将臣さんに、朝武家の呪いについてまとめた資料をお渡ししたと」

「……ああ」

「本来であれば、朝武家に関することは、私からきちんとお話しすべきでした」

「芳乃」

「それなのに、私が何もお伝えしないままでいたせいで、みずはさんにそのようなお気遣いをさせてしまいました。申し訳ありません」

 

 そう言って、芳乃はもう一度頭を下げる。

 

 その様子に、俺は慌てて首を振った。

 

「いや、芳乃が謝ることじゃないだろ」

「ですが――」

「むしろ、ごめん。俺も勝手に探るような真似をした」

「将臣さん……」

「ちゃんと話す前に、外から知ろうとしたのは事実だからさ。悪かった」

「……いいえ」

 

 芳乃はゆっくりと顔を上げた。

 

「将臣さんがそうなさったのは、私がきちんと向き合っていなかったからです」

「そんなことは」

「あります。私、ずっと……お話ししなければと思いながら、できませんでした」

「…………」

「知られてしまうのが怖かったのだと思います」

「芳乃……」

「将臣さんが離れていってしまうのではないかと。そう思ってしまっていたのかもしれません」

 

 その言葉はか細かったけれど、嘘のない声音だった。

 

 俺はすぐには返事ができなかった。

 

 そんなふうに思わせていたことも。

 そんなふうに悩ませていたことも。

 胸の奥が、少し痛んだ。

 

「でも」

 芳乃は、そこで小さく首を振る。

「もう、そうしていてはいけないと思いました」

「……朝武家の呪いのことを?」

「はい」

 

 芳乃は胸の前で手を重ねたまま、まっすぐ俺を見つめる。

 

「今まで、私はきちんとお話ししてきませんでした」

「それは……」

「はい。私が避けていたからです」

「芳乃」

「ですから、今夜きちんとお話しします。将臣さんに、朝武家の呪いのことを」

 

 声は静かだった。

 けれど、はっきりとしていた。

 

「私の部屋に来ていただけますか?」

 

 一瞬だけ、言葉に詰まる。

 

 芳乃の部屋に呼ばれる、という事実に妙な緊張が走ったのもある。

 けれどそれ以上に、彼女が自分からここまで踏み込んでくれたことが大きかった。

 

「……いいのか?」

「はい」

「無理してないか?」

「しておりません」

 

 芳乃は小さく首を振る。

 

「将臣さんは、もう逃げずに向き合おうとしてくださっています」

「…………」

「でしたら、私も逃げてはいけません」

「芳乃……」

「来て、いただけますか?」

 

 俺は机の上のノートを閉じ、立ち上がった。

 

「ああ。行くよ」

「……はい」

 

 芳乃は、ほっとしたように微笑んだ。

 

 俺はその後ろについて部屋を出る。

 

 廊下を進む足音が、静かな夜の中に小さく響く。

 

 この先で聞く話は、きっと軽いものじゃない。

 朝武家の呪いの、その核心に触れることになるのだろう。

 

 それでも、もう目を逸らすつもりはなかった。

 

 芳乃の背中を見つめながら、俺はそっと拳を握る。

 

 ――知る。

 ――向き合う。

 ――その先で、解く方法を見つける。

 

 そのための夜が、今、始まろうとしていた。

 

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