第18話 穂織の休日、服と山と、静かに動き出すもの
休日の朝になった。
空はよく晴れていて、穂織の山並みを照らす光もどこかやわらかい。
平日より人の気配が少ないせいか、町全体が少しだけ静かに息をしているように感じられた。
遠くから鳥の声が聞こえ、山から吹いてくる風が頬を撫でる。春らしい穏やかさの中に、まだ少しだけ冷たさを残したその空気が、妙に心地よかった。
そんな朝の道を、俺――有地将臣は芳乃と茉子を連れて志那津荘へ向かっていた。
「しかし、本当にこの三人で迎えに行くんだな」
何となく口にすると、隣を歩く茉子がすぐにこちらを見る。
「何か不都合でもあるのですか、将臣さん」
「いや、不都合ってほどじゃないけどさ。休日に女の子二人連れて、さらに別の女の子を案内しに行くって、字面だけ見ると何か妙だなって」
「将臣さんが妙なことを考えているだけでは?」
「ぐっ」
ばっさりだった。
反対側を歩いていた芳乃が、少しだけ困ったように微笑む。
「私は、よいことだと思いますよ。レナさんはまだ穂織に来たばかりですし、せっかくのお休みですから、この町を楽しんでいただけたら嬉しいです」
「芳乃はほんと真面目だな」
「将臣さんは、もう少し真面目になってください」
「え、俺そんなに不真面目?」
「少なくとも今の発言からは、あまり真面目さを感じませんでした」
芳乃にやんわり刺され、茉子にも無言で頷かれる。
地味にへこむ。
「まあでも、今日は普通に楽しみではあるんだよな」
「それは分かります」
芳乃が頷いた。
「レナさんが、穂織をどう感じるのか……私も少し気になります」
「そうですね。昨日も色々なものに興味を示していらっしゃいましたし、今日も賑やかになりそうです」
茉子の言う通りかもしれない。
そんなことを話しているうちに、志那津荘が見えてきた。
玄関先には、すでに見慣れた二人の姿がある。
「あ、来た来た」
先に気づいたのは廉太郎だった。
いつもの気安い調子で片手を上げる。
「将臣、遅ぇぞ」
「時間ぴったりだろ」
「迎えに来る側がぴったりは、ちょっと遅いんだよ」
「どんな理屈だよ」
「巫女姫様が真面目すぎるだけで、将臣はそんなもんだろ」
「鞍馬君、そういう言い方はよくありません」
「はいはい、すみません」
反省の色が薄い返事をしながら、廉太郎は笑っている。
その隣には、金髪の少女――レナさんが立っていた。
「おはようございます、みなさん」
明るく頭を下げるレナさんに、俺たちも挨拶を返す。
「おはよう、レナさん」
「おはようございます、レナさん」
「おはようございます」
するとレナさんは、ぱっと顔を綻ばせた。
「今日はよろしくお願いします。みなさんが来てくれて、私はとても嬉しいです」
「大げさだな」
「大げさじゃないですよ。こういうの、すごくあたたかいです」
そう言われると、少し照れくさい。
廉太郎が話を進めるように言った。
「で、今日はどこ行くんだ? レナさんの希望優先でいいだろ」
「だな。レナさん、どこか行きたい所あるか?」
そう聞くと、レナさんは少し考えるようにしてから、芳乃と茉子の服を見た。
「場所というより、やってみたいことがあります」
「やってみたいこと?」
「はい。私、ヨシノやマコみたいな服、着てみたいです」
「服?」
「はい。穂織の女の子の服、とても可愛いです。少し和風で、でも普段着で、やさしい感じがします。私、ああいう服とても好きです」
その言葉に、俺は思わず頷いた。
「それ、分かる」
「マサオミもですか?」
「前から思ってたんだよな。この町の服装って独特だなって。完全な和服じゃないけど、普通の街の服とも違うし」
「この町の服屋なら、大体こういう雰囲気のものは置いてありますよ」
茉子が答える。
「学生さんたちもよく行くお店があります。レナさんにも合うものが見つかるかもしれません」
「いいですね!」
レナさんが嬉しそうに言う。
「穂織の服、ぜひ着てみたいです」
だが、廉太郎だけは少し渋い顔をした。
「……服屋かぁ」
「何だよ、その反応」
「いや、女物の服が多い店って、男はちょっと入りづらいだろ」
「お前、そういうの気にするタイプだったのか」
「気にするわ。むしろ将臣は気にしなさすぎなんだよ」
「俺はイラストの参考にもなりそうだから、ちょっと興味あるんだよ」
「仕事熱心なんだか、好奇心なんだか分かんねえ理由だな」
「両方だ」
胸を張ると、茉子が呆れたようにため息をついた。
「清々しいですね」
「でも、将臣さんのお仕事には確かに役立ちそうです」
芳乃は納得したように頷く。
「衣装の参考は多い方がよいのでしょう?」
「そうそう。写真で見るのと実物で見るのじゃ、全然違うし」
「でしたら決まりですね」
芳乃がそうまとめ、俺たちはそのまま町の服屋へ向かうことになった。
◇
案内された店は、穂織の町並みによく似合う、小ぢんまりとした服屋だった。
木の看板に、引き戸。
中に入ると、ちりん、と澄んだ音が鳴る。
「おお……」
思わず声が漏れる。
棚やハンガーに並んでいるのは、今風の服もあるが、それ以上に穂織らしい服が目についた。
柔らかな色合いのブラウス。
少し和柄を思わせる飾りの入ったスカート。
控えめなのに可愛らしくて、ちゃんと日常着として着られそうな服ばかりだ。
「将臣、何かすげえ楽しそうだな」
廉太郎が呆れ半分で言う。
「そりゃ楽しいだろ。これ、面白いな……。ちゃんと普段着なのに、ちゃんと穂織っぽい」
「マサオミ、やっぱりこういうの好きなんですね」
「好きっていうか、見てて飽きないんだよ。作る側の目で見ちゃうっていうか」
「将臣さんは、そういうところをよく見ていますよね」
芳乃が少し感心したように言う。
「描く時に使えそうだからな」
そんなことを話しつつ服を見て回っていると、レナが少し困った顔をした。
「どうした、レナさん」
「可愛い服はたくさんありますけど……少し問題がありそうです」
「問題?」
レナは少しだけ躊躇ってから、自分の胸元に手を添えた。
「私、胸が大きいので、合うものがなかなかありません」
「あー……」
分かりやすい問題だった。
次の瞬間、なぜか全員の視線が俺に集まる。
「いや、俺を見るなよ?」
「見ていません」
「見ていませんよ」
「見てないです」
「絶対今見ただろ!」
しれっと否定された。納得がいかない。
とはいえ、レナさんの言う通り、ぴったり合う服を見つけるのは少し難しそうだった。
それでも、ゆとりのある形のものを中心に探すと、いくつか候補は見つかる。
「これと、これなら大丈夫かもしれません」
「じゃあ試してみたらどうだ?」
「はい」
レナさんが何着か持って試着室へ向かうのを見送りながら、俺は店内を見回した。
すると、芳乃と茉子にも似合いそうな服が目に入る。
「……なあ」
「何でしょう、将臣さん」
「せっかくだし、芳乃と茉子も着てみないか?」
「……はい?」
芳乃が目を瞬かせる。
茉子は露骨に警戒した顔になった。
「どういう風の吹き回しでしょう」
「いや、レナさんだけだと参考が偏るかなって。着る人によって印象違うし」
「参考、ですか」
「仕事の」
「便利な言葉ですね」
「便利だな」
「認めるのですね」
茉子の視線がじとっと刺さる。
芳乃は困ったように微笑んだ。
「ですが、私は……そういうのは少し申し訳ないです。服は足りていますし」
「私も同意見です。わざわざ着る理由がありません」
「いやいや、まだ買うって話じゃなくて、ちょっと見せてほしいだけで」
「その言い方ですと、先に別の意図があるように聞こえるのですが」
「疑い深くない?」
「将臣さんの普段の言動の積み重ねですね」
「反論しづらい……」
だが、ここで引くのは惜しい。
「頼むよ。ほんとに仕事の参考にしたいんだ」
俺は二人を真面目に見る。
「芳乃は上品で柔らかい感じが似合うし、茉子はきりっとしてるけど、ちょっと可愛い寄りの服も絶対似合う。見てみたい」
「……」
「……」
二人が揃って少し黙った。
そこで廉太郎が横からにやにやしながら言う。
「将臣、お前それ言い方がずるいんだよ」
「そうなのか?」
「褒めながら頼むと断りづらいだろ」
「無自覚ならなお悪いですね」
茉子に刺された。
だが、そのおかげか、芳乃がふっと笑う。
「……将臣さんが、そこまで仰るのでしたら」
「芳乃様」
「せっかくですし、少しだけ楽しませていただくのも悪くないと思います」
「芳乃様がそうおっしゃるのでしたら、私も合わせます」
「助かる!」
「ただし」
茉子がきっぱり言った。
「あまり変なものは選ばないでくださいね」
「俺を何だと思ってるんだ」
「妙なところで悪ノリする人です」
「そこまでではないだろ」
「あると思いますよ」
芳乃まで同意してきた。つらい。
◇
最初に試着室から出てきたのはレナさんだった。
淡い色のブラウスに、穂織らしい意匠の入ったスカート。
穏やかな雰囲気の服なのに、金髪のレナが着ると少し異国風の華やかさも出る。
「どう、でしょうか?」
「似合う」
「とてもお似合いです」
「ええ、素敵です」
「すごくいいな」
感想はきれいに揃った。
レナさんはほっとしたように笑う。
「よかったです」
「ただ、やはりここは少し窮屈そうですね」
茉子が胸元を見て言う。
「そうなんです。少しだけ、ここがきついです」
「なら、もう少し余裕のある形の方が良さそうだな」
「色味は合っていますから、別の形を探しましょう」
芳乃が一緒に別の候補を見始める。
その様子は自然で、見ていて何だか微笑ましかった。
続いて試着室から出てきたのは芳乃だった。
薄桃色に近い柔らかなワンピース風の服。
襟元や袖に控えめな飾りがあり、派手ではないのに、目を引く。
「……どうでしょうか」
「似合いすぎだろ」
即答すると、芳乃が少し目を伏せた。
「そ、そうですか……?」
「うん、めちゃくちゃ」
「とてもお似合いです、ヨシノ」
「巫女姫様、そういう格好も全然ありですね」
皆の反応を受けて、芳乃の頬がほんのり赤くなる。
「ありがとうございます……でも、少し恥ずかしいです」
「いや、ほんとに似合ってるから」
「将臣さん、あまり真っ直ぐ言わないでください」
「何でだよ」
「そういうところですよ」
茉子が呆れたように挟むが、意味はよく分からない。
最後に出てきたのは茉子だった。
動きやすさを残しつつ、普段よりも少しだけ可愛らしさのある服。
いつもの従者らしい雰囲気とは違い、年相応の柔らかさが前に出ている。
「……どうでしょうか」
「お、いいじゃん」
「マコ、とても似合っています」
「常陸さん、そういうのも全然ありだな」
廉太郎の言葉に、茉子がじろりと視線を向ける。
「そういうのも、とは何ですか」
「いや、褒めてるって」
「雑ですね」
そのやり取りに笑いながら、俺も頷く。
「いや、ほんと似合う。普段と雰囲気違うけど、それがまたいい」
「……そうですか」
茉子は平然と返したが、少しだけ視線を逸らした。
「将臣さんの選ぶものは少し不安でしたが、悪くありませんね」
「不安だったのかよ」
「かなり」
「そこまで!?」
そんなふうに何度か試着を繰り返し、最終的にレナさんにもぴったり合う一着が見つかった。
「これ、すごく好きです」
鏡の前でレナさんがくるりと回る。
「穂織に来た感じが、もっとします」
「うん、それが一番しっくりくるな」
「とても素敵です、レナさん」
芳乃も頷く。
そうして三人とも、それぞれ気に入った服が決まった。
そして会計の時になって――俺は迷わず財布を出した。
「じゃあ、これ全部で」
「え?」
芳乃が目を見開く。
「将臣さん?」
「いや、せっかくだし」
「せっかく、ではありません」
茉子がすぐに突っ込んだ。
「私たちは試着しただけです。買っていただく理由はありません」
「でも、芳乃と茉子にも付き合ってもらったし、レナさんだけ買って二人に何もなしってのも変だろ」
「変ではありませんよ。今日はレナさんのために来たのですから」
「それでもなあ」
俺は頭をかく。
「仕事の参考にもなったし、そのお礼ってことで」
「将臣さん……」
芳乃が戸惑ったように俺を見る。
するとレナもおずおずと口を開いた。
「私だけ買ってもらって、ヨシノとマコが何もないのは、私もちょっと気になります」
「ほら」
「ほら、ではありません」
茉子にぴしゃりと返された。
だが、芳乃は少し考えてから、小さく笑った。
「……では、お言葉に甘えてしまっても、よろしいでしょうか」
「もちろん」
「ありがとうございます。大切にします」
「芳乃様が受け取られるのでしたら、私も遠慮なくいただきます。ありがとうございます、将臣さん」
「もうちょい素直でもいいだろ」
「十分素直です」
茉子はしれっと言う。
レナも嬉しそうに服を抱えた。
「ありがとうございます、マサオミ。私、日本でこういうプレゼントをもらうの、初めてです」
「そんな大したもんじゃないけどな」
「いえ。だからこそ嬉しいです」
そう真っ直ぐ言われると、さすがに少し照れる。
横で廉太郎がにやにやしていた。
「将臣、お前たまに自然にイケメンみたいなことするよな」
「みたいなって何だよ」
「でも会計の時に現実に引き戻されるタイプのイケメン」
「否定できないな……」
◇
服屋を出たあとは、そのまま田心屋へ向かった。
「しかし、田心屋って甘味処だよな?」
歩きながら俺が聞くと、廉太郎が頷く。
「そうだけど、最近は昼の食事も出してるんだよ。うどんとか定食とか、意外とちゃんとしてる」
「へえ。甘味処で昼飯ってちょっと不思議だな」
すると、レナさんが「あ」と思い出したように声を上げた。
「田心屋、覚えています」
「え?」
「私が初めて穂織に来た時、マサオミとマコに案内してもらったでしょう? その時に教えてもらいました」
その言葉に、俺は茉子と顔を見合わせた。
「あー……そうだったな」
「そうでしたね」
言われてみればそうだ。
あの時はレナさんと出会ったばかりで、あれこれ案内しながら町を歩いたんだった。
「あと、ロカにも会いました」
レナさんが続ける。
「とても優しいお姉さんでした」
「芦花ねえか。ああ、確かにいたな」
「ええ。あの時も親しげに話しかけてくださいましたね」
店に入ると、ちょうど芦花ねえが気づいてこちらに顔を向けた。
「あれ、まー坊たちじゃん。今日は大人数だね」
いつもの明るさはそのままだが、どこか包み込むようなお姉さんっぽい柔らかさがある。
「芦花ねえ、こんにちは」
「いらっしゃい。レナちゃんも来てたんだ」
「はい、ロカ。こんにちは」
「ふふ、ちゃんと覚えてくれてて嬉しいな。今日は穂織案内の続き、みたいな感じ?」
「そんなところです」
「いいねえ。休日をちゃんと楽しんでる感じ」
芦花ねえがそう言ったところで、店の奥から軽い足音が近づいてきた。
「あっ、お兄ちゃん!」
元気な声と一緒に現れたのは小春だった。
田心屋の店員用の前掛けをつけていて、いかにも手伝いの最中といった様子だ。
「お、小春」
「今日はみんなで来たんだね!」
にこにこと笑いながら、小春がこちらへ駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませっ。お席、ご案内するね!」
「小春、ここで働いてたのか?」
「うん! アルバイトだよ!」
元気いっぱいに胸を張る。
「忙しい時だけだけど、結構楽しいんだよ?」
「へえ、頑張ってるな」
「えへへ」
そんなやり取りを見ていた芳乃が、ふと小首を傾げた。
「将臣さん」
「ん?」
「今、小春さんは将臣さんのことを『お兄ちゃん』と……」
「あ」
しまった、と思った時にはもう遅い。
芳乃は不思議そうな顔のまま続ける。
「将臣さんには、ご兄妹はいらっしゃらなかったはずではありませんか?」
「ああ、それはな」
俺は苦笑しながら説明する。
「小春と廉太郎は俺の従兄弟なんだよ。小さい頃からの流れで、こいつは俺のことを『お兄ちゃん』って呼んでるだけ」
「なるほど、そういうことでしたか」
芳乃は納得したように頷いた。
だが、その隣で茉子がすっと目を細める。
「従兄弟なのに、『お兄ちゃん』と呼ばせているのですか」
「え」
「もしや将臣さん、ロリコンという高尚な趣味をお持ちでは?」
「違うわ!」
思わず即答した。
「何だよその最悪の解釈!」
「冗談です」
「目が全然冗談じゃなかったぞ!?」
「普段の行いが悪いのでは?」
「そんなところで信用失ってたまるか!」
すると小春が、不思議そうに目をぱちくりさせた。
「お兄ちゃん、ロリコンなの?」
「小春まで乗るな!」
「乗っていません。純粋な疑問です」
茉子がしれっと言う。
「純粋で済む話じゃないだろ!」
横で廉太郎が腹を抱えて笑っていた。
「将臣、お前ほんとそういうとこ面白いよな」
「お前も止めろ!」
「無理無理」
そんなやり取りをしているうちに、芦花ねえが呆れ半分に笑う。
「はいはい、その辺にしときなさい。ほら、小春ちゃん。ちゃんとお客様を案内してあげて」
「はーい!」
小春は元気よく返事をして、くるりと俺たちの方へ向き直った。
「じゃあ、こっちどうぞ!」
そうして小春に案内され、俺たちは席へ向かった。
「お兄ちゃんたちはここね! 巫女姫様も、どうぞ!」
「ありがとうございます、小春さん」
芳乃が微笑むと、小春は少し照れたように笑う。
「えへへ。ごゆっくり!」
席に着き、注文を済ませる。
昼時だが、今日は少し空いているようで、店内は落ち着いていた。
甘い香りと出汁の匂いが混ざっていて、妙に安心する。
「こういうお店、私はとても好きです」
レナさんが店内を見回しながら言う。
「静かで、あたたかい感じがします」
「田心屋は落ち着きますからね」
芳乃が微笑む。
「私も好きです」
「巫女姫様は甘いもの好きだもんな」
「鞍馬君、それは余計です」
「事実だろ?」
「……否定はしませんけれど」
そんなやり取りをしながら、料理を食べ進める。
どれも素朴で美味く、買い物をして歩いたあとにはちょうどよかった。
そして食事が終わり、ひと息ついたところで、芳乃がちらりと甘味の品書きを見た。
その視線が、一度、二度と戻っていく。
「……芳乃?」
「は、はい」
「今、ものすごく見てたよな」
「そ、そんなことは……」
言いながら、もう一度ちらりと見る。
全然隠せていない。
廉太郎が吹き出した。
「巫女姫様、食後の甘いもん行きたいんだろ」
「ち、違います。私は別に、そこまででは……」
「でも、さっきからずっと見てますよ?」
茉子が冷静に追撃する。
「えっ」
「栗あんみつ、抹茶白玉、田心屋特製あんみつ、季節の甘味……順番に目で追っていらっしゃいました」
「茉子っ!?」
芳乃の頬が赤くなる。
レナさんがくすっと笑った。
「ヨシノ、甘い物とても好きなんですね」
「……好きです」
ついに認めた。
「でも、その……お昼のあとですし、皆さんに付き合わせるのも……」
「いや、全然いいだろ」
俺が言うと、芳乃がこちらを見る。
「せっかく甘味処に来て、甘いもん食わない方がもったいないし」
「そうだな。ここまで来たら食うだろ」
廉太郎も軽く頷く。
「むしろ巫女姫様が遠慮してる方が珍しい」
「私はいつも遠慮しています」
「甘味の前だけちょっと圧が強いですよ、芳乃様」
「茉子、それは言わなくてよいです」
言い返しているが、否定しきれていない。
そんな芳乃が珍しくて、つい笑ってしまう。
「じゃあ追加で頼もう。芳乃は何にする?」
「えっ」
「いや、だからせっかくだし」
そう言うと、芳乃は一瞬だけ迷ったあと、品書きを見た。
そして見た瞬間、さっきまでの遠慮が少しだけ吹き飛んだらしい。
「では……あの、抹茶白玉も気になりますし、季節の甘味も捨て難くて、その、もし皆さんで分けるのでしたら、田心屋特製あんみつも……」
「ちょっと待て」
「……はい?」
「今、ちょっとだけ暴走しかけなかった?」
「そ、そんなことありません!」
「いや、ありましたよね」
「ありましたね」
「ありました」
三方向から即答された。
芳乃は真っ赤になった。
「……少しだけ、気が緩みました」
「少しどころじゃなかった気もするけどな」
でも、その様子が可愛くて、誰も本気では止めなかった。
結局、いくつか甘味を追加で頼んで、みんなで少しずつ分けて食べることになった。
「おいしいです……」
ひと口食べた芳乃の表情が、目に見えてやわらかくなる。
「芳乃、顔がゆるみすぎ」
「そ、そうでしょうか」
「はい。すごく幸せそうです」
レナさんが楽しそうに笑う。
「ヨシノ、いつもより少しだけ子どもっぽいです」
「それは……恥ずかしいので、あまり言わないでください」
「でも、そういう巫女姫様も珍しくていいんじゃね?」
「鞍馬君まで……」
甘味に少しだけ浮かれている芳乃を見るのは、新鮮で悪くなかった。
そんな穏やかな空気の中で、午後の予定を相談することになった。
「で、昼からどうする?」
「みなさんは、普段どうやって遊んでいるのですか?」
レナさんが尋ねる。
芳乃は少し考えてから答えた。
「私は普段、お勤めがありますので……あまり遊びらしいことはしていません」
「私も芳乃様のお供が優先ですから、あまり一般的な遊びには詳しくありません」
「俺は引っ越してきたばっかりで、この辺の地理にはまだ疎いしな」
そう言うと、廉太郎が肩をすくめた。
「俺は昔は山で遊んでたけど、今はだらだら過ごしてることの方が多いな」
「夢がないなお前」
「将臣にだけは言われたくねえよ」
「何でだよ」
「放っといたら寝てそうだから」
「否定しづらい」
するとレナさんが、少し目を輝かせた。
「山、行ってみたいです」
「山?」
「はい。穂織の山、とてもきれいですから」
「それなら釣りでもするか?」
廉太郎が提案する。
「川の方でな。初心者でも遊べる場所あるぞ」
「お、いいなそれ」
「私、やってみたいです」
レナさんが嬉しそうに言う。
「私も、皆さんと一緒でしたら楽しそうです」
芳乃も頷いた。
その時、料理を運んでいた芦花が会話を聞いていたのか、少し笑いながら言った。
「釣りはいいけど、まー坊は川で無茶しないようにね?」
「うっ」
「え?」
芳乃が不思議そうにこちらを見る。
「将臣さん、どういうことですか?」
芦花ねえは、しょうがないなあという顔で肩をすくめた。
「昔ね、この子、川で溺れて大変だったの。助かったから今こうして笑えるけど、あの時はほんと周りもひやっとしたんだから」
「そんな軽く言うなよ」
「でも本当でしょ?」
そこへ廉太郎も乗っかる。
「いや、あの時はほんと大変だったぞ。周りもかなり慌ててたし、将臣、水だけじゃなくて小石まで飲み込んで、あとでめちゃくちゃ苦しそうだったしな」
「お前、その言い方やめろよ」
「事実だろ」
レナさんも心配そうな顔になる。
「マサオミ、本当にですか?」
「……本当です」
俺がそう答えると、芳乃の表情がきゅっと引き締まった。
「将臣さん。今日は絶対に無茶をしてはいけません」
「はい」
「絶対ですよ?」
「はい」
「本当にです」
レナさんまで真顔で頷く。
「私も少し怖いです」
「了解。今日は大人しくしてる」
「将臣がそう言うと逆に不安だけどな」
「廉太郎、お前ひどくない?」
そんなふうに笑い合いながら、席を立つことになった。
その時、皿を下げに来た小春が、ぱっと廉太郎の方を見た。
「廉兄」
「ん?」
「巫女姫様にご迷惑かけないようにね」
一瞬、場が静かになる。
次の瞬間、俺は吹き出しそうになった。
「小春、お前……」
「正論ですね」
「その通りです」
「いや、何でみんな俺を見るんだよ!?」
廉太郎が抗議するが、説得力は薄い。
小春は腰に手を当て、少しだけ得意げに言った。
「廉兄、調子に乗る時あるから」
「お前なあ……」
「だから、ちゃんとしてね?」
そう言われると、廉太郎も強くは返せなかったらしい。
「……分かったよ」
その様子を見て、芦花ねえがくすっと笑う。
「小春ちゃん、案外しっかり見てるんだよねえ」
「もちろん!」
小春は元気よく答えた。
「じゃあ、みんな行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
「行ってきます、ロカ、コハル」
「ありがとうございます、小春さん」
「また来ますね、馬庭さん」
そうして俺たちは、午後の山遊びへ向かうため田心屋をあとにした。
◇
その後、釣りの準備のため、健実神社に再集合する。
先に着いていた芳乃が、神社の脇でバケツを持って待っていた。
「お待たせしました」
「ありがとう。借りても大丈夫なのか?」
「はい。神社にあるものですから」
「その言い方だと備品管理が雑そうに聞こえるな」
「そんなことはありません」
少しだけ頬を膨らませる芳乃に、つい笑ってしまう。
廉太郎も道具を持って合流し、俺たちはそのまま山へ向かった。
木漏れ日の差す山道を歩いていると、町とはまた違う静けさに包まれる。
鳥の声、水の気配、草の匂い。
「きれいです……」
レナさんが感嘆の声を漏らす。
「本当に、空気が違います」
「穂織の山は、静かで落ち着きますから」
芳乃がそう答える。
少し歩いたところで、廉太郎がふと足を止めた。
「あ、スカンポあるじゃん」
「スカンポ?」
レナさんが聞き返す。
「こういう山で見つかるやつだよ。皮むいて食える」
「食べられるんですか?」
「食える食える。ほら」
そう言って廉太郎が一本折り、外側を少し剥いて差し出した。
芳乃が恐る恐る受け取り、一口かじる。
「……っ、すっぱいです!」
次の瞬間、目を丸くした。
レナさんも興味本位で口にして――同じように固まる。
「す、すっぱいです! 本当に食べられる物ですか、これ!?」
「その反応、面白いですね」
茉子が思わずくすっと笑った。
「大丈夫ですよ。ちゃんと食べられるものです」
「そうなんですか……?」
芳乃がまだ半信半疑の顔をしている。
「ええ。ちなみに、正式名称はイタドリです。こちらではスカンポと呼ぶこともありますけれど」
「へえ……」
「マコ、物知りです」
「山に入る機会が多いですから」
そう言って茉子自身も一本取って食べてみせる。
「ほら、問題ありません」
「ほんとだ……」
「でも、かなりすっぱいです……」
「慣れですよ」
茉子は少し楽しそうに言ってから、周囲を見回した。
「ついでに山菜もありそうですね。少し採ってきます」
「今から?」
「はい。今夜は山菜の天ぷらにしましょう」
「お、いいな」
「ですが、山菜だけでは少し寂しいですね」
茉子がそこで、すっと俺を見る。
「将臣さん」
「何だよ、その嫌な予感しかしない呼び方」
「ぜひ川魚も釣ってください。夕食を豪華にしましょう」
「圧が強い」
「大丈夫ですよ。将臣さんならきっとできます」
「その励まし、期待じゃなくてプレッシャーなんだよなあ……」
「気のせいでは?」
「絶対違うだろ」
廉太郎が吹き出す。
「将臣、頑張れよ。今夜のおかずがかかってるぞ」
「お前も釣るんだよ!」
「もちろん。けど、将臣の成果はちゃんと見てるからな」
「ひどい連携だな……」
「では、私は少し行ってきます」
「気をつけてくださいね、茉子」
「はい、芳乃様」
そうして茉子は、軽やかな足取りで山の方へ入っていった。
◇
川辺に着くと、水の流れは思ったより穏やかで、初心者でも釣りをするにはちょうどよさそうだった。
「よし、じゃあ簡単に教えるぞ」
廉太郎が竿の持ち方や仕掛けの扱いを説明する。
芳乃もレナさんも真剣に聞いていたが、その表情には少しだけ緊張が見える。
「私、釣りは初めてです」
芳乃が言う。
「私もです。ちゃんとできるか、ちょっと心配です」
レナさんも頷く。
「大丈夫大丈夫。最初はみんなそんなもんだって」
「そうそう。とりあえず投げてみれば何とかなる」
「その励まし、雑じゃないか?」
「将臣よりはマシだろ」
「何でそこで比較されるんだよ」
そんなふうに言いながら、二人はおっかなびっくり竿を持つ。
糸を垂らす仕草も慎重で、少しぎこちない。
「こ、こうでしょうか」
「うん、そのままゆっくりでいい」
「レナさんも、焦らなくて大丈夫ですよ」
「はい……でも、少し緊張します」
最初のうちは、魚がかかったのか、水の流れなのかもよく分からない様子だった。
「い、今のは何でしょうか」
「多分ちょっと触っただけだな」
「お魚さん、いますね……!」
そんなやり取りを繰り返しながら、少しずつ慣れていく。
そしてしばらくして――。
「あっ」
芳乃が小さく声を上げた。
「何か、引いています」
「そのまま、慌てずに!」
「は、はい……!」
ぎこちなくも必死に竿を引き上げる芳乃。
すると、小ぶりな魚がぴちぴちと跳ねながら水面から上がった。
「釣れました……!」
「おおー!」
「すごいです、ヨシノ!」
「巫女姫様、やりましたね」
「やるじゃん、芳乃!」
皆で声を上げると、芳乃は驚きと嬉しさが混じった顔で魚を見つめた。
「ほ、本当に釣れるのですね……!」
「そりゃ釣りだからな」
「でも、こうして実際に釣れると感動しますね」
その様子を見ていたレナさんも、さらにやる気になったらしい。
「私も頑張ります」
そして数分後。
「きゃっ、何か来ました!」
「落ち着け、レナさん。ゆっくり!」
「は、はい!」
ばしゃ、と水しぶきを上げながら、レナさんも見事に一匹釣り上げる。
「釣れました! 本当に釣れました!」
「おめでとうございます」
「すごいです、レナさん」
「やったな」
レナさんは心から嬉しそうに笑った。
「楽しいです……! 最初は少し怖かったですけど、すごく楽しいです!」
そこからは二人とも、だんだん釣りそのものに慣れていった。
最初のおっかなびっくりした様子は少しずつ消え、当たりが来るたびに目を輝かせるようになる。
「また来ました」
「今度は私です!」
「巫女姫様、結構筋いいな」
「レナさんも上手くなってきてるな」
わいわいと賑やかな時間が流れていく。
一方で俺はというと、そこそこの釣果だった。
「……何か二人の方が楽しそうだな」
「実際、かなり楽しそうですよ」
いつの間にか戻ってきていた茉子が、篭を提げて言った。
「山菜も採れましたし、皆さんの釣りも順調ですし、なかなかよい休日ですね」
「お、ちゃんと採ってきたのか」
「ええ。今夜の天ぷらは期待してください」
「こっちは?」
俺がバケツを見る。
「将臣さんの川魚次第ですね」
「まだ言うか」
「もちろんです」
茉子はしれっと言った。
「負けてはいられませんから」
「対抗心の向け方がおかしいだろ」
少しだけ笑いが漏れる。
川辺に並んで座り、のんびりと水を見つめる時間は、不思議と心地よかった。
大きな事件があるわけでもない。
何か特別なことを成し遂げるわけでもない。
それでも、こうして皆で笑って過ごす時間は、ちゃんと心に残る。
「今日は、本当にいい休日です」
ふいにレナさんがそう言った。
皆の視線が自然とそちらへ向く。
「服を見て、お昼を食べて、山に来て、こうして釣りをして……。みなさんと一緒で、私はとても嬉しいです」
「それならよかった」
俺がそう言うと、レナさんはふわりと笑った。
「はい。穂織が、もっと好きになりました」
その一言に、芳乃の表情がやわらかくほどける。
「そう思っていただけたなら、私も嬉しいです」
「また別の場所にもご案内したいですね」
茉子も静かに言う。
「だな。今度はまた別の穂織も見せたいかも」
「将臣が言うと、また何か余計なこと考えてそうなんだよな」
「廉太郎、お前ひどくない?」
笑いが広がる。
――こういう休日も、悪くない。
そう、素直に思えた。
◇
一方、その頃。
診療所では、駒川みずはが机の上の水晶石の欠片を見つめていた。
昼下がりの静かな室内。
差し込む光の中で、その欠片だけがひやりとした存在感を放っている。
「……そんな、まさか」
手元の資料と欠片を見比べ、みずはの表情がわずかに強張る。
何かが引っかかって、古い記録を引っ張り出して確認しただけだった。
けれど、そこに書かれていた内容は、彼女の予想よりもずっと重かった。
「これ……もし本当にそうなら……」
静かな部屋に、その呟きだけが落ちた。
みずはは欠片を見つめたまま、しばらく動かなかった。
穏やかな休日の裏側で。
まだ誰も知らない新しい手がかりが、静かに次の扉を叩こうとしていた。