『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

19 / 22
第19話 昼休みの笑い声と、神力を宿す口づけ

 

 

 休日が明けた学院は、いつも通りのざわめきに満ちていた。

 

 窓の外では春の陽射しが中庭を明るく照らし、校舎の中には授業が終わるたびに生徒たちの声が行き交う。平和そのもの――そう言ってしまえば、それまでだ。

 

 けれど今の俺、有地将臣にとっては、その“平和そのもの”が案外ありがたかった。

 

 ついこの前まで、休日といえば穂織のあちこちを回り、呪いの手がかりを探し、剣の稽古をつけてもらい、妙な事件に巻き込まれていたのだ。普通に授業を受けて、普通に昼休みを迎えるだけで、なんだか少し気が抜ける。

 

「将臣、ぼーっとしてるけど大丈夫か?」

「ん? ああ、悪い。ちょっと平和だなって思ってただけ」

「平和を噛み締める高校生って、なかなか渋い感想だな」

 

 廉太郎が呆れたように笑う。

 

 その隣では、新田さんがくすりと笑っていた。さらに藤原さんも肩を揺らしながら、「確かに」と頷いている。

 

 昼休みになり、いつものように俺たちは集まっていた。

 

 俺、芳乃、茉子、レナ、廉太郎、新田さん、藤原さん。そして時々ふらりと遊びに来る一学年下の小春まで加わって、今日はなかなかの大所帯だ。

 

「将臣さん、こちらでよろしいですか?」

「うん、ありがと芳乃」

 

 芳乃が丁寧に弁当包みを机の上へ置く。その仕草一つとっても上品で、周囲の空気まで自然と整うような感じがする。

 

 一方で、その隣の茉子は席に着くなり俺の顔を見て、ふっと意味ありげに目を細めた。

 

「今日はずいぶんと穏やかな顔をしておりますね、将臣さん。休日のうちに何か悟りでも開かれましたか?」

「開いてない。なんでそうなる」

「いえ、あまりに害のなさそうな顔をしておられたので」

「それ褒めてないよな?」

「まさか。常識人らしくて結構ではありませんか」

 

 しれっと言われて、思わずため息が出る。

 

 そんなやり取りを見ていたレナが、目をぱちぱちさせながら首を傾げた。

 

「マコは、今日も通常運転ですね」

「ええ。私の平常とは、だいたいこんなものです」

「安心しました。マコが優しすぎると、逆に何かの前触れかと思います」

「それは心外ですね」

「否定が弱いな、おい」

 

 俺が突っ込むと、茉子はわずかに肩をすくめるだけだった。

 

 そこへ、小春がぱたぱたと軽い足取りでやって来る。

 

「お兄ちゃーん、ここ空いてる?」

「空いてるよ。今日も来たのか」

「うん! だってみんなでお昼食べるの楽しいし!」

 

 そう言って、小春はにこにこと俺の隣へ座った。

 

 それを見た新田さんが、感心したように口を開く。

 

「小春ちゃん、ほんと有地くんに懐いてるよね」

「まあ、昔からこんな感じですので」

「お兄ちゃん、面倒見いいもん」

「いや、そんな大したことしてないけど」

「してるよー。廉兄よりは」

「おい待て小春、なんでそこで俺が下げられるんだ」

「えー、だって廉兄すぐ雑だし」

「身内の評価が辛ぇ……」

 

 廉太郎が本気でへこんだ声を出し、みんなが笑う。

 

 なんてことのない、ただの昼休みだ。

 

 けれど、この“なんてことのない時間”を、俺は前より大事に思うようになっていた。

 

 弁当の蓋を開ける音。

 箸が触れ合う小さな音。

 他愛のない話題で笑う声。

 

 そういうものが、今の自分にはちゃんと守りたい日常なんだと思う。

 

「将臣さん、どうかなさいましたか?」

「いや。みんな揃うと賑やかだなって」

「ふふ。そうですね。私も、こういう時間は嫌いではありません」

 

 芳乃がやわらかく微笑む。

 

 その笑顔を見ただけで、少し肩の力が抜けた。

 

 食事が進むにつれて、話題は自然と休日のことや授業のことに移っていく。藤原さんが教師の口真似をしてみせて、それに廉太郎が吹き出し、新田さんが「やめなよもう」と笑いながらも一番笑っている。レナも最初は遠慮気味だったが、今ではこの輪にもだいぶ馴染んできていた。

 

 そんな中、食後のお茶を飲みながら、新田さんがふと思い出したようにレナへ尋ねる。

 

「そういえばレナさん、日本にはもう慣れた?」

「はい。だいぶ慣れました」

「ほんと? 困ってることとかない?」

「困ってることは、あります」

「あるんだ」

「はい」

 

 レナは真面目な顔で、こくりと頷いた。

 

「ワサビには、まだ慣れません」

「ああ、そこか……」

「ワサビは強敵です。鼻にきます。かなり、きます」

「うん、それは分かる」

「ですが、ワサビは日本の心なのでしょう?」

「……ん?」

「ですので、私はいつか必ず慣れてみせます」

 

 ぎゅっと小さく拳を握って、妙な決意表明をするレナ。

 

 その場に数秒、沈黙が落ちた。

 

 いや、ワサビが苦手なのは分かる。分かるんだけど。

 今、なんか妙なワードが混ざらなかったか?

 

「日本の心……?」

「はい。前に聞きました」

「誰からだよそれ」

「たしか、誰かが“わびさび”と言っていました」

「それは侘び寂びと勘違いしているのではありませんか?」

 

 茉子が、半ば確信したような声音で指摘した。

 

 レナは目を丸くする。

 

「ワサビでは、ないのですか?」

「ええ、まったくの別物です」

「えっ」

「侘び寂びは、美意識の一つです。質素さや静けさ、移ろいの中に趣を見出す感覚、とでも申しましょうか」

「おお……」

「一方ワサビは、鼻を強襲してくる緑色の刺激物です」

「急に説明が雑!」

「事実しか述べておりませんが?」

 

 茉子が涼しい顔で返す。

 

 廉太郎が堪えきれず吹き出した。

 

「いやでも、レナさんが“日本の心だからワサビ克服します”って言ってんの、なんか好きだわ」

「私も嫌いじゃないかな」

「むしろ応援したくなるよね」

 

 新田さんと藤原さんまで頷いている。

 

 レナはしばらく呆然としていたが、やがて事実を理解したらしく、肩を落とした。

 

「つまり私は、完全に勘違いしていたのですね……」

「まあ、そういうことになるな」

「ワサビを克服すれば、私はもっと日本人に近づけると思っていました」

「方向性としては間違ってない気もするけど、侘び寂びとは別だな」

「日本語、難しいです……」

 

 がっくりとうなだれるレナ。

 

 その様子があまりに分かりやすくて、また笑いが起きる。

 

 けれど次の瞬間、レナはきりっと顔を上げた。

 

「ですが、私は負けません」

「お、おう」

「いつか必ず、ワサビを平然と食べてみせます」

「なんか変な対抗心がついてない?」

「日本で生きる者として、避けては通れない気がします」

「そこまででもないと思うけどなあ」

 

 俺が苦笑していると、レナは悔しそうに唇を尖らせ、最後に小さく――しかしはっきりと叫んだ。

 

「ファッキンワサビ!」

「レナさん!?」

「レナさん、言葉!」

「すみません。でも今のは心の叫びでした」

「はい。お気持ちは分かりますが、言葉は選びましょうね」

「はい……反省します……」

 

 芳乃にやんわりたしなめられ、レナはしゅんと肩を落とす。

 

 その流れまで含めて面白くて、昼休みの空気はすっかり和んでいた。

 

 ――本当に、穏やかなひと時だった。

 

 だからこそ。

 

 その後、俺のスマホが震えた時、妙に胸騒ぎがした。

 

 画面を見る。

 表示されていたのは――駒川みずはさんからの連絡だった。

 

「将臣さん?」

「……ちょっと、ごめん」

 

 俺が席を外してメッセージを確認すると、内容は短い。

 

『放課後、営業時間が終わった後できればすぐ診療所に来て。話したいことがあるわ』

 

 それだけだ。

 けれど、みずはさんがこんな言い方をする時は、だいたい軽い話じゃない。

 

 俺はすぐに玄十郎へ連絡を入れた。

 

『今日は駒川さんに呼ばれた。放課後の稽古、行けそうにない。ごめん』

 

 少し間を置いて、返事が来る。

 

『構わん。用を優先しろ』

 

 短いが、玄十郎らしい返答だった。

 

 ひとまず胸を撫で下ろしつつ、俺は席へ戻る。

 

「何かあったんですか、将臣さん?」

「駒川さんから連絡があってさ。放課後、診療所に行ってくる」

「駒川さんから……ですか」

 

 芳乃の表情が、わずかに引き締まる。

 

 茉子もただ事ではないと察したのか、冗談めいた雰囲気を引っ込めていた。

 

「でしたら、放課後は私たちも――」

「いや、まだ何の話か分からないし。とりあえず俺が行ってみるよ」

「ですが」

「大丈夫。もし何かあったら、すぐ連絡する」

 

 そう言うと、芳乃は少し迷うように目を伏せ、それでも静かに頷いた。

 

「……分かりました。どうか、お気をつけて」

「うん」

 

 その一言が、妙に心に残った。

 

 

     ◇

 

 

 放課後。

 

 俺は芳乃の舞の練習を少し離れたところから見ていた。

 

 夕方の神社は、昼間とは違う静けさをまとっている。差し込む西日が社殿の柱を朱く照らし、空気の中にどこか神聖な緊張感が漂っていた。

 

 芳乃はいつもの巫女装束で、静かに舞っていた。

 

 鈴の音が小さく響く。

 足運びは流れるようで、指先の動き一つまで美しい。

 

 見慣れてきたはずなのに、やっぱり息を呑む。

 

 この舞で、彼女は毎日、穂織の穢れを祓っている。

 誰にも見えないところで。

 誰にも簡単には背負えないものを、一人で背負いながら。

 

 その事実を知ってからは、ただ綺麗だと感じるだけじゃ済まなくなっていた。

 

 やがて舞の奉納が終わる。

 

 最後の所作を丁寧に結び、芳乃が静かに息を吐く。

 張りつめていた空気が、少しだけほどけた――その直後だった。

 

「ぁ……っ」

 

 不意に、甘くかすれた声が漏れる。

 

 思わず目を見開く。

 

 芳乃の肩が、びくりと跳ねた。

 終わったばかりの緊張が別の熱へ変わったみたいに、細い体が小さく震える。

 

「ん……っ、あ……っ」

 

 喉の奥から、まるで絶頂に達したような艶を含んだ喘ぎがこぼれる。

 膝がわずかに折れそうになり、芳乃は慌ててその場に踏みとどまった。

 

「よ、芳乃!?」

 

 声をかけた瞬間、芳乃ははっとしたように自分の頭へ手をやった。

 

 触れた瞬間、その表情が固まる。

 

「……え」

 

 指先に、ふわりとやわらかな感触が触れたのだろう。

 芳乃の頬が一気に赤く染まった。

 

 その頭の上には、白くてやわらかな獣の耳。

 ぴく、ぴくりと震える、見覚えのありすぎる犬耳だった。

 

「犬耳……!?」

「はぁ……っ、あ……っ、ま、将臣さん……こ、これ……」

「や、やっぱり自分でも分かるのか!?」

「わ、分かります……さ、触ってしまって……っ」

「え、いや、その……だ、大丈夫か!?」

「だ、大丈夫では……ありません……っ」

 

 芳乃は頭を押さえたまま、羞恥と戸惑いに声を震わせる。

 

 耳まで赤い。いや、犬耳まで赤くなっている気がする。

 

「と、とにかく……駒川さんのところへ行こう」

「は、はい……っ」

 

 芳乃はまだ息を整えきれていない様子のまま、それでも必死に頷いた。

 

 この異変は、明らかにおかしい。

 以前までなら、芳乃の周囲に妙な変化があっても、ここまで露骨な形では現れなかった。

 

 嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。

 

 

     ◇

 

 

 そうして俺たちが診療所へ向かって歩き出した、その途中だった。

 

「マサオミ? ヨシノ?」

 

 聞き慣れた声に振り向くと、道の先にレナが立っていた。

 片手には志那津荘の包みらしきものがあり、どうやら使いに出ていた帰りらしい。

 

「レナさん?」

「どうしたんですか、こんな時間に」

「志那津荘のお使いの帰りです。……あれ?」

 

 レナがきょとんとした表情で、芳乃を見つめる。

 

「何故ヨシノは獣耳をつけているのですか?」

「っ!?」

「犬耳? かわいいですけど、新しい趣味ですか?」

 

 あまりに純粋すぎる疑問だった。

 

 芳乃は一瞬で顔を真っ赤にし、慌てて両手で頭を押さえる。

 

「ち、違います! これは、その……つ、つけているわけではなくて……!」

「え? でも、ありますよ?」

「み、見ないでください……っ」

「ええっ、どうしてですか!?」

「ど、どうしてもです!」

 

 恥ずかしさで半泣きみたいになりながら、芳乃は耳を隠そうとする。

 けれど両手で押さえても犬耳はぴこぴこと自己主張していて、隠しきれていない。

 

 俺はその光景に一瞬だけ気が抜けそうになったが、次の瞬間、もっと大きな問題に気づいた。

 

 見えている。

 レナには、はっきりと見えている。

 

 それだけじゃない。

 

 レナの視線が、今度は俺たちの傍らに浮かぶムラサメへ向いた。

 

「その子は誰かの妹さんですか?」

 

 一瞬、場が止まった。

 

「……む?」

 ムラサメがぽかんとする。

「妹とは我輩の事か?」

 

 自分を指差しながら、ムラサメが心底不思議そうに首を傾げた。

 

 レナはにこりと微笑み、まるで初対面の相手へ挨拶するように口を開く。

 

「はい。レナ・リヒテナウアーと申します。あなたのお名前は?」

「う、うむ……ムラサメと申す……」

 

 いつもなら妙に偉そうなムラサメが、珍しく戸惑っていた。

 

 それも無理はない。

 これまで自分の姿を見て、こうして自然に会話してきた相手なんて、俺以外ほとんどいなかったのだから。

 

 けれどレナは気にした様子もなく、ぱっと顔を輝かせた。

 

「WAO! いい名前ですね。ムラサメちゃん」

「れなりひてにゃうわー……も……いい名前だぞ」

「猫じゃないです。リヒテナウアーですよ。でも、レナと呼んでくださいね。」

「う、うむ。承知したぞ、レナ」

 

 普通に会話が成立している。

 

 いや、成立してしまっている。

 

 俺は隣の茉子を見る。

 ちょうど同じタイミングで、茉子もこちらを見ていた。

 

 その目がはっきり告げていた。

 

 ――このままではまずいです。

 

 俺も心の中で全力で同意する。

 

 芳乃の犬耳が見えているだけじゃない。

 ムラサメの姿まで完全に認識し、しかも自然に会話している。

 

 これはただ事じゃない。

 

「レナさん」

「はい?」

「とりあえず、一緒に来てもらってもいいですか?」

「え?」

「今の状況、たぶん普通じゃないんです。放っておけなくて」

「それは、私もそう思いますが……」

 

 レナが戸惑ったように包みを抱え直した、その時だった。

 

「失礼します、レナさん」

「え?」

「少々、強引にでもご同行願います」

 

 茉子がにこやかに言いながら、すっとレナの右腕を取った。

 

「よ、芳乃……!?」

「ご、ごめんなさいレナさん……っ。でも今は、来ていただきます……!」

 

 まだ顔を真っ赤にしたままの芳乃まで、反対側からレナの左腕を抱える。

 

「えっ、えっ、な、何ですか!?」

「ごめん、びっくりするよな。でも今は一緒に来てほしいんだ」

「マサオミ、これ強制連行では!?」

「うん……かなり強引なのは分かってる。でも必要なんだ」

「こ、これが神隠しですか!?」

「違う違う! さすがにそこまで物騒じゃないから!」

「ヨシノ!? マコ!? そんなに真剣な顔をしないでください、逆に怖いです!」

「大丈夫です、志那津荘には将臣さんから連絡を入れていただきますので」

「そ、そうです……! レナさんのお使いの件も、ちゃんと将臣さんから説明していただきますから……!」

「そこで他人任せにするなよ!? いや、するけど!」

「マサオミ、決定事項なのですね!?」

「悪い、レナさん。でも志那津荘にはちゃんと俺から連絡を入れる。だから今は心配しないでくれ」

「うぅ……分かりました……」

 

 そのまま、芳乃と茉子に両脇から抱えられるような形で、レナは半ば持ち上げられる勢いで引っ張られていく。

 

「ちょ、ちょっと待ってください! 私、歩けます! 自分で歩けます!」

「ええ、存じております。でも念のためです」

「何の念なんですか!?」

「逃がさないため、でしょうか」

「怖いです、マコ!?」

 

 普段の芳乃なら、こんな強引な真似はなかなかしない。

 それでも今は、それだけ切羽詰まっているということだ。

 

 レナも途中からただならぬ空気を察したのか、最後には諦めたように肩を落とした。

 

「……分かりました。そこまで言うなら、行きます」

「ありがとうございます、レナさん」

「でも、あとでちゃんと説明してくださいね?」

「ああ。志那津荘にも俺から連絡入れる」

「はい。そこは頼みました、マサオミ」

 

 そうして俺たちは、半ばレナを確保するような形で、急いで診療所へ向かった。

 

 

     ◇

 

 

 診療所に着く頃には、すっかり日が傾いていた。

 

 中に入ると、いつもの消毒液の匂いと静けさが出迎える。

 けれど今日は、その静けさが妙に重かった。

 

「駒川さん?」

「みずはさん、いますか?」

 

 呼びかけても、返事はない。

 

 嫌な沈黙だけが広がる。

 

 その時だった。

 

「……っ、なんだか、少し……気分が……」

 

 レナがふらついた。

 

「レナさん!?」

「レナさん!」

「だ、だいじょうぶ……では、ないかもしれません……」

 

 顔色が悪い。

 明らかに様子がおかしい。

 

 直後、診療所の奥から、ぞわりと空気が歪んだ。

 

 冷たい。

 粘つくような悪意。

 息が詰まりそうなほどの、不快な気配。

 

「っ……来るぞ!」

 

 俺が声を上げた瞬間、暗がりの向こうからそれは現れた。

 

 獣じみた異形。

 黒く濁った瘴気をまとい、ぎらつく目だけが不気味に光っている。

 

 祟り神。

 

 しかも、今までよりずっと濃い気配をまとっていた。

 

「芳乃様、下がってください!」

「茉子!」

「レナさんも、こちらへ!」

 

 茉子が芳乃とレナを庇うように前へ出る。

 

 その手には、素早く抜き放たれたクナイ。

 

「やれやれ……診療所の中で暴れるとは、無粋にもほどがありますね」

「茉子、気をつけて!」

「ええ。言われるまでもありません」

 

 言うが早いか、茉子が床を蹴った。

 

 その動きは速い。

 まるで影が滑るみたいに、祟り神の懐へ入り込む。

 

「はっ!」

 

 鋭い一閃。

 クナイが瘴気を裂く。

 

 祟り神が唸り声を上げ、反射的に腕を振るった。

 茉子はそれを紙一重でかわし、さらに二本目を投げる。

 

 金属音。

 嫌な衝突音。

 黒い霧が弾ける。

 

 ――押してる、のか?

 

 そう思った次の瞬間、祟り神の体から濁った力が一気に膨れ上がった。

 

「っ、まず――」

 

 言い切る前に、衝撃が走る。

 

 茉子の体が弾かれた。

 

「茉子!」

「かはっ……!」

 

 壁へ叩きつけられ、そのまま床へ崩れ落ちる。

 

 動かない。

 

「茉子さん!」

「そんな……!」

 

 芳乃が息を呑み、レナの顔から血の気が引く。

 

 祟り神はそのまま、じり、と前へ出た。

 標的を見定めるように、ゆっくりと。

 

 絶体絶命。

 その言葉が頭をよぎる。

 

 俺は歯を食いしばり、隣に浮かぶムラサメちゃんへ視線を向けた。

 

「ムラサメちゃん! 何かないのか!」

「何か、とな?」

「このままじゃ駄目だ! 俺にできることはないのかって聞いてんだよ!」

「……ある」

 

 ムラサメちゃんが、珍しく真面目な顔で言った。

 

「我輩とご主人は繋がっておる。叢雨丸の使い手たるご主人なら、一時的に神力を宿すことも不可能ではない」

「神力……?」

「本来ならば、軽々しく扱えるものではない。じゃが、今はそれしか手があるまい」

「どうすればいい」

「簡単じゃ」

 

 ムラサメちゃんが、すっと俺の前へ降りてくる。

 

 真っ直ぐに、俺を見上げた。

 

「我輩から、力を渡す」

 

 その言葉の意味を理解するより先に、ムラサメちゃんが少しだけ頬を赤らめた。

 

「ただし……その、方法は……」

「方法は?」

「……口づけじゃ」

「は!?」

「大声を出すでない!」

 

 いや無理だろ!

 こんな状況で!?

 

「そ、それしかないのか!?」

「ない! というか我輩も好きで言っておるわけではないのじゃ!」

「ご主人……早くせぬか!」

「ムラサメちゃんまで赤くなるなよ!」

 

 なんだこの会話。

 状況が状況じゃなかったら、間違いなく頭を抱えてる。

 

 だが祟り神は待ってくれない。

 芳乃たちのすぐ前まで迫っている。

 

「将臣さん……!」

「ご主人!」

 

 迷っている暇はなかった。

 

「……やるぞ!」

「う、うむ……!」

 

 覚悟を決めて、俺はムラサメちゃんへ顔を寄せた。

 

 ムラサメちゃんもぎゅっと目を閉じる。

 小さな肩が震えているのが見えた。

 

 そして――唇が触れる。

 

 その瞬間。

 

 熱が、体の奥へ流れ込んできた。

 

「っ……!?」

 

 ただ熱いだけじゃない。

 清らかで、鋭くて、力強い。

 まるで体中の血が、一斉に光へ変わったみたいな感覚だった。

 

 心臓が跳ねる。

 視界が明るくなる。

 全身の感覚が研ぎ澄まされていく。

 

「これが……神力……!」

 

 拳を握るだけで分かる。

 今なら、いける。

 

「将臣さん! 危ない!」

 

 芳乃の叫びと同時に、祟り神が跳んだ。

 

 その狙いは――レナさん!?

 

「させるかっ!」

 

 床を蹴る。

 

 自分でも信じられないほどの速度で間に入り、祟り神の攻撃を弾き飛ばす。

 

 衝撃が腕に伝わる。

 だが、折れない。怯まない。

 

 祟り神が低く唸る。

 

「今度は、こっちだ!」

 

 そのまま踏み込み、拳を叩き込む。

 

 どん、と重い音が診療所に響いた。

 

 拳が、確かな手応えを持って異形を捉える。

 黒い瘴気が弾け、祟り神が苦悶の声を上げた。

 

「おおおおっ!」

 

 二発、三発。

 迷いなく打ち込む。

 

 剣でもない。

 技でもない。

 ただ神力を宿した拳で、真正面から叩き潰す。

 

 祟り神の輪郭が崩れる。

 黒い霧が裂け、散り、消えていく。

 

 最後にもう一度、全力で拳を振り抜いた。

 

「――消えろっ!!」

 

 轟音と共に、祟り神は完全に霧散した。

 

 静寂が戻る。

 

 荒い呼吸だけが、自分の耳にやけに大きく響いていた。

 

「……勝った、のか」

「将臣さん……」

「ご主人、今じゃ」

 

 振り向くと、ムラサメちゃんがふらりと近づいてきていた。

 

「え?」

「神力を返してもらう。長く宿せば、ご主人の身がもたぬ」

「ちょ、待っ――」

 

 言い終える前に、再び唇が触れた。

 

「――っ!?」

 

 今度は逆だ。

 体の奥から、さっきまで満ちていた熱が一気に引いていく。

 

 力が抜ける。

 視界が揺れる。

 膝が笑う。

 

「ムラサメちゃん……」

「すまぬ、ご主人。これ以上は危険なのじゃ」

 

 ムラサメちゃんの声が、遠い。

 

 神力が抜けていくと同時に、全身を強烈な脱力感が襲った。

 立っていられない。

 

 芳乃が慌てて駆け寄ってくる。

 

「将臣さん!」

「だい、じょうぶ……って言いたいけど、さすがに……」

 

 無理だ。

 言葉も途中で途切れる。

 

 レナの心配そうな顔。

 茉子がうっすらと意識を取り戻し、こちらを見ているのが視界の端に映った。

 ムラサメちゃんも、いつになく不安げな顔をしている。

 

 よかった。

 みんな、無事だ。

 

 その事実にだけ、ほっとした。

 

「将臣さん、しっかりしてください……!」

「ご主人!」

 

 芳乃の声が、やけに近くて、遠い。

 

 俺は最後にそれだけを聞きながら――そのまま意識を手放した。

 

 暗闇へ落ちていく寸前、かすかに思う。

 

 平和な昼休みから、なんでこうなるんだよ。

 

 ……ほんと、俺の穂織での日常、落差が激しすぎるだろ。

 

 そんな、どうでもいい感想を最後に。

 

 俺の意識は、完全に闇へ沈んだ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。