休日が明けた学院は、いつも通りのざわめきに満ちていた。
窓の外では春の陽射しが中庭を明るく照らし、校舎の中には授業が終わるたびに生徒たちの声が行き交う。平和そのもの――そう言ってしまえば、それまでだ。
けれど今の俺、有地将臣にとっては、その“平和そのもの”が案外ありがたかった。
ついこの前まで、休日といえば穂織のあちこちを回り、呪いの手がかりを探し、剣の稽古をつけてもらい、妙な事件に巻き込まれていたのだ。普通に授業を受けて、普通に昼休みを迎えるだけで、なんだか少し気が抜ける。
「将臣、ぼーっとしてるけど大丈夫か?」
「ん? ああ、悪い。ちょっと平和だなって思ってただけ」
「平和を噛み締める高校生って、なかなか渋い感想だな」
廉太郎が呆れたように笑う。
その隣では、新田さんがくすりと笑っていた。さらに藤原さんも肩を揺らしながら、「確かに」と頷いている。
昼休みになり、いつものように俺たちは集まっていた。
俺、芳乃、茉子、レナ、廉太郎、新田さん、藤原さん。そして時々ふらりと遊びに来る一学年下の小春まで加わって、今日はなかなかの大所帯だ。
「将臣さん、こちらでよろしいですか?」
「うん、ありがと芳乃」
芳乃が丁寧に弁当包みを机の上へ置く。その仕草一つとっても上品で、周囲の空気まで自然と整うような感じがする。
一方で、その隣の茉子は席に着くなり俺の顔を見て、ふっと意味ありげに目を細めた。
「今日はずいぶんと穏やかな顔をしておりますね、将臣さん。休日のうちに何か悟りでも開かれましたか?」
「開いてない。なんでそうなる」
「いえ、あまりに害のなさそうな顔をしておられたので」
「それ褒めてないよな?」
「まさか。常識人らしくて結構ではありませんか」
しれっと言われて、思わずため息が出る。
そんなやり取りを見ていたレナが、目をぱちぱちさせながら首を傾げた。
「マコは、今日も通常運転ですね」
「ええ。私の平常とは、だいたいこんなものです」
「安心しました。マコが優しすぎると、逆に何かの前触れかと思います」
「それは心外ですね」
「否定が弱いな、おい」
俺が突っ込むと、茉子はわずかに肩をすくめるだけだった。
そこへ、小春がぱたぱたと軽い足取りでやって来る。
「お兄ちゃーん、ここ空いてる?」
「空いてるよ。今日も来たのか」
「うん! だってみんなでお昼食べるの楽しいし!」
そう言って、小春はにこにこと俺の隣へ座った。
それを見た新田さんが、感心したように口を開く。
「小春ちゃん、ほんと有地くんに懐いてるよね」
「まあ、昔からこんな感じですので」
「お兄ちゃん、面倒見いいもん」
「いや、そんな大したことしてないけど」
「してるよー。廉兄よりは」
「おい待て小春、なんでそこで俺が下げられるんだ」
「えー、だって廉兄すぐ雑だし」
「身内の評価が辛ぇ……」
廉太郎が本気でへこんだ声を出し、みんなが笑う。
なんてことのない、ただの昼休みだ。
けれど、この“なんてことのない時間”を、俺は前より大事に思うようになっていた。
弁当の蓋を開ける音。
箸が触れ合う小さな音。
他愛のない話題で笑う声。
そういうものが、今の自分にはちゃんと守りたい日常なんだと思う。
「将臣さん、どうかなさいましたか?」
「いや。みんな揃うと賑やかだなって」
「ふふ。そうですね。私も、こういう時間は嫌いではありません」
芳乃がやわらかく微笑む。
その笑顔を見ただけで、少し肩の力が抜けた。
食事が進むにつれて、話題は自然と休日のことや授業のことに移っていく。藤原さんが教師の口真似をしてみせて、それに廉太郎が吹き出し、新田さんが「やめなよもう」と笑いながらも一番笑っている。レナも最初は遠慮気味だったが、今ではこの輪にもだいぶ馴染んできていた。
そんな中、食後のお茶を飲みながら、新田さんがふと思い出したようにレナへ尋ねる。
「そういえばレナさん、日本にはもう慣れた?」
「はい。だいぶ慣れました」
「ほんと? 困ってることとかない?」
「困ってることは、あります」
「あるんだ」
「はい」
レナは真面目な顔で、こくりと頷いた。
「ワサビには、まだ慣れません」
「ああ、そこか……」
「ワサビは強敵です。鼻にきます。かなり、きます」
「うん、それは分かる」
「ですが、ワサビは日本の心なのでしょう?」
「……ん?」
「ですので、私はいつか必ず慣れてみせます」
ぎゅっと小さく拳を握って、妙な決意表明をするレナ。
その場に数秒、沈黙が落ちた。
いや、ワサビが苦手なのは分かる。分かるんだけど。
今、なんか妙なワードが混ざらなかったか?
「日本の心……?」
「はい。前に聞きました」
「誰からだよそれ」
「たしか、誰かが“わびさび”と言っていました」
「それは侘び寂びと勘違いしているのではありませんか?」
茉子が、半ば確信したような声音で指摘した。
レナは目を丸くする。
「ワサビでは、ないのですか?」
「ええ、まったくの別物です」
「えっ」
「侘び寂びは、美意識の一つです。質素さや静けさ、移ろいの中に趣を見出す感覚、とでも申しましょうか」
「おお……」
「一方ワサビは、鼻を強襲してくる緑色の刺激物です」
「急に説明が雑!」
「事実しか述べておりませんが?」
茉子が涼しい顔で返す。
廉太郎が堪えきれず吹き出した。
「いやでも、レナさんが“日本の心だからワサビ克服します”って言ってんの、なんか好きだわ」
「私も嫌いじゃないかな」
「むしろ応援したくなるよね」
新田さんと藤原さんまで頷いている。
レナはしばらく呆然としていたが、やがて事実を理解したらしく、肩を落とした。
「つまり私は、完全に勘違いしていたのですね……」
「まあ、そういうことになるな」
「ワサビを克服すれば、私はもっと日本人に近づけると思っていました」
「方向性としては間違ってない気もするけど、侘び寂びとは別だな」
「日本語、難しいです……」
がっくりとうなだれるレナ。
その様子があまりに分かりやすくて、また笑いが起きる。
けれど次の瞬間、レナはきりっと顔を上げた。
「ですが、私は負けません」
「お、おう」
「いつか必ず、ワサビを平然と食べてみせます」
「なんか変な対抗心がついてない?」
「日本で生きる者として、避けては通れない気がします」
「そこまででもないと思うけどなあ」
俺が苦笑していると、レナは悔しそうに唇を尖らせ、最後に小さく――しかしはっきりと叫んだ。
「ファッキンワサビ!」
「レナさん!?」
「レナさん、言葉!」
「すみません。でも今のは心の叫びでした」
「はい。お気持ちは分かりますが、言葉は選びましょうね」
「はい……反省します……」
芳乃にやんわりたしなめられ、レナはしゅんと肩を落とす。
その流れまで含めて面白くて、昼休みの空気はすっかり和んでいた。
――本当に、穏やかなひと時だった。
だからこそ。
その後、俺のスマホが震えた時、妙に胸騒ぎがした。
画面を見る。
表示されていたのは――駒川みずはさんからの連絡だった。
「将臣さん?」
「……ちょっと、ごめん」
俺が席を外してメッセージを確認すると、内容は短い。
『放課後、営業時間が終わった後できればすぐ診療所に来て。話したいことがあるわ』
それだけだ。
けれど、みずはさんがこんな言い方をする時は、だいたい軽い話じゃない。
俺はすぐに玄十郎へ連絡を入れた。
『今日は駒川さんに呼ばれた。放課後の稽古、行けそうにない。ごめん』
少し間を置いて、返事が来る。
『構わん。用を優先しろ』
短いが、玄十郎らしい返答だった。
ひとまず胸を撫で下ろしつつ、俺は席へ戻る。
「何かあったんですか、将臣さん?」
「駒川さんから連絡があってさ。放課後、診療所に行ってくる」
「駒川さんから……ですか」
芳乃の表情が、わずかに引き締まる。
茉子もただ事ではないと察したのか、冗談めいた雰囲気を引っ込めていた。
「でしたら、放課後は私たちも――」
「いや、まだ何の話か分からないし。とりあえず俺が行ってみるよ」
「ですが」
「大丈夫。もし何かあったら、すぐ連絡する」
そう言うと、芳乃は少し迷うように目を伏せ、それでも静かに頷いた。
「……分かりました。どうか、お気をつけて」
「うん」
その一言が、妙に心に残った。
◇
放課後。
俺は芳乃の舞の練習を少し離れたところから見ていた。
夕方の神社は、昼間とは違う静けさをまとっている。差し込む西日が社殿の柱を朱く照らし、空気の中にどこか神聖な緊張感が漂っていた。
芳乃はいつもの巫女装束で、静かに舞っていた。
鈴の音が小さく響く。
足運びは流れるようで、指先の動き一つまで美しい。
見慣れてきたはずなのに、やっぱり息を呑む。
この舞で、彼女は毎日、穂織の穢れを祓っている。
誰にも見えないところで。
誰にも簡単には背負えないものを、一人で背負いながら。
その事実を知ってからは、ただ綺麗だと感じるだけじゃ済まなくなっていた。
やがて舞の奉納が終わる。
最後の所作を丁寧に結び、芳乃が静かに息を吐く。
張りつめていた空気が、少しだけほどけた――その直後だった。
「ぁ……っ」
不意に、甘くかすれた声が漏れる。
思わず目を見開く。
芳乃の肩が、びくりと跳ねた。
終わったばかりの緊張が別の熱へ変わったみたいに、細い体が小さく震える。
「ん……っ、あ……っ」
喉の奥から、まるで絶頂に達したような艶を含んだ喘ぎがこぼれる。
膝がわずかに折れそうになり、芳乃は慌ててその場に踏みとどまった。
「よ、芳乃!?」
声をかけた瞬間、芳乃ははっとしたように自分の頭へ手をやった。
触れた瞬間、その表情が固まる。
「……え」
指先に、ふわりとやわらかな感触が触れたのだろう。
芳乃の頬が一気に赤く染まった。
その頭の上には、白くてやわらかな獣の耳。
ぴく、ぴくりと震える、見覚えのありすぎる犬耳だった。
「犬耳……!?」
「はぁ……っ、あ……っ、ま、将臣さん……こ、これ……」
「や、やっぱり自分でも分かるのか!?」
「わ、分かります……さ、触ってしまって……っ」
「え、いや、その……だ、大丈夫か!?」
「だ、大丈夫では……ありません……っ」
芳乃は頭を押さえたまま、羞恥と戸惑いに声を震わせる。
耳まで赤い。いや、犬耳まで赤くなっている気がする。
「と、とにかく……駒川さんのところへ行こう」
「は、はい……っ」
芳乃はまだ息を整えきれていない様子のまま、それでも必死に頷いた。
この異変は、明らかにおかしい。
以前までなら、芳乃の周囲に妙な変化があっても、ここまで露骨な形では現れなかった。
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
◇
そうして俺たちが診療所へ向かって歩き出した、その途中だった。
「マサオミ? ヨシノ?」
聞き慣れた声に振り向くと、道の先にレナが立っていた。
片手には志那津荘の包みらしきものがあり、どうやら使いに出ていた帰りらしい。
「レナさん?」
「どうしたんですか、こんな時間に」
「志那津荘のお使いの帰りです。……あれ?」
レナがきょとんとした表情で、芳乃を見つめる。
「何故ヨシノは獣耳をつけているのですか?」
「っ!?」
「犬耳? かわいいですけど、新しい趣味ですか?」
あまりに純粋すぎる疑問だった。
芳乃は一瞬で顔を真っ赤にし、慌てて両手で頭を押さえる。
「ち、違います! これは、その……つ、つけているわけではなくて……!」
「え? でも、ありますよ?」
「み、見ないでください……っ」
「ええっ、どうしてですか!?」
「ど、どうしてもです!」
恥ずかしさで半泣きみたいになりながら、芳乃は耳を隠そうとする。
けれど両手で押さえても犬耳はぴこぴこと自己主張していて、隠しきれていない。
俺はその光景に一瞬だけ気が抜けそうになったが、次の瞬間、もっと大きな問題に気づいた。
見えている。
レナには、はっきりと見えている。
それだけじゃない。
レナの視線が、今度は俺たちの傍らに浮かぶムラサメへ向いた。
「その子は誰かの妹さんですか?」
一瞬、場が止まった。
「……む?」
ムラサメがぽかんとする。
「妹とは我輩の事か?」
自分を指差しながら、ムラサメが心底不思議そうに首を傾げた。
レナはにこりと微笑み、まるで初対面の相手へ挨拶するように口を開く。
「はい。レナ・リヒテナウアーと申します。あなたのお名前は?」
「う、うむ……ムラサメと申す……」
いつもなら妙に偉そうなムラサメが、珍しく戸惑っていた。
それも無理はない。
これまで自分の姿を見て、こうして自然に会話してきた相手なんて、俺以外ほとんどいなかったのだから。
けれどレナは気にした様子もなく、ぱっと顔を輝かせた。
「WAO! いい名前ですね。ムラサメちゃん」
「れなりひてにゃうわー……も……いい名前だぞ」
「猫じゃないです。リヒテナウアーですよ。でも、レナと呼んでくださいね。」
「う、うむ。承知したぞ、レナ」
普通に会話が成立している。
いや、成立してしまっている。
俺は隣の茉子を見る。
ちょうど同じタイミングで、茉子もこちらを見ていた。
その目がはっきり告げていた。
――このままではまずいです。
俺も心の中で全力で同意する。
芳乃の犬耳が見えているだけじゃない。
ムラサメの姿まで完全に認識し、しかも自然に会話している。
これはただ事じゃない。
「レナさん」
「はい?」
「とりあえず、一緒に来てもらってもいいですか?」
「え?」
「今の状況、たぶん普通じゃないんです。放っておけなくて」
「それは、私もそう思いますが……」
レナが戸惑ったように包みを抱え直した、その時だった。
「失礼します、レナさん」
「え?」
「少々、強引にでもご同行願います」
茉子がにこやかに言いながら、すっとレナの右腕を取った。
「よ、芳乃……!?」
「ご、ごめんなさいレナさん……っ。でも今は、来ていただきます……!」
まだ顔を真っ赤にしたままの芳乃まで、反対側からレナの左腕を抱える。
「えっ、えっ、な、何ですか!?」
「ごめん、びっくりするよな。でも今は一緒に来てほしいんだ」
「マサオミ、これ強制連行では!?」
「うん……かなり強引なのは分かってる。でも必要なんだ」
「こ、これが神隠しですか!?」
「違う違う! さすがにそこまで物騒じゃないから!」
「ヨシノ!? マコ!? そんなに真剣な顔をしないでください、逆に怖いです!」
「大丈夫です、志那津荘には将臣さんから連絡を入れていただきますので」
「そ、そうです……! レナさんのお使いの件も、ちゃんと将臣さんから説明していただきますから……!」
「そこで他人任せにするなよ!? いや、するけど!」
「マサオミ、決定事項なのですね!?」
「悪い、レナさん。でも志那津荘にはちゃんと俺から連絡を入れる。だから今は心配しないでくれ」
「うぅ……分かりました……」
そのまま、芳乃と茉子に両脇から抱えられるような形で、レナは半ば持ち上げられる勢いで引っ張られていく。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私、歩けます! 自分で歩けます!」
「ええ、存じております。でも念のためです」
「何の念なんですか!?」
「逃がさないため、でしょうか」
「怖いです、マコ!?」
普段の芳乃なら、こんな強引な真似はなかなかしない。
それでも今は、それだけ切羽詰まっているということだ。
レナも途中からただならぬ空気を察したのか、最後には諦めたように肩を落とした。
「……分かりました。そこまで言うなら、行きます」
「ありがとうございます、レナさん」
「でも、あとでちゃんと説明してくださいね?」
「ああ。志那津荘にも俺から連絡入れる」
「はい。そこは頼みました、マサオミ」
そうして俺たちは、半ばレナを確保するような形で、急いで診療所へ向かった。
◇
診療所に着く頃には、すっかり日が傾いていた。
中に入ると、いつもの消毒液の匂いと静けさが出迎える。
けれど今日は、その静けさが妙に重かった。
「駒川さん?」
「みずはさん、いますか?」
呼びかけても、返事はない。
嫌な沈黙だけが広がる。
その時だった。
「……っ、なんだか、少し……気分が……」
レナがふらついた。
「レナさん!?」
「レナさん!」
「だ、だいじょうぶ……では、ないかもしれません……」
顔色が悪い。
明らかに様子がおかしい。
直後、診療所の奥から、ぞわりと空気が歪んだ。
冷たい。
粘つくような悪意。
息が詰まりそうなほどの、不快な気配。
「っ……来るぞ!」
俺が声を上げた瞬間、暗がりの向こうからそれは現れた。
獣じみた異形。
黒く濁った瘴気をまとい、ぎらつく目だけが不気味に光っている。
祟り神。
しかも、今までよりずっと濃い気配をまとっていた。
「芳乃様、下がってください!」
「茉子!」
「レナさんも、こちらへ!」
茉子が芳乃とレナを庇うように前へ出る。
その手には、素早く抜き放たれたクナイ。
「やれやれ……診療所の中で暴れるとは、無粋にもほどがありますね」
「茉子、気をつけて!」
「ええ。言われるまでもありません」
言うが早いか、茉子が床を蹴った。
その動きは速い。
まるで影が滑るみたいに、祟り神の懐へ入り込む。
「はっ!」
鋭い一閃。
クナイが瘴気を裂く。
祟り神が唸り声を上げ、反射的に腕を振るった。
茉子はそれを紙一重でかわし、さらに二本目を投げる。
金属音。
嫌な衝突音。
黒い霧が弾ける。
――押してる、のか?
そう思った次の瞬間、祟り神の体から濁った力が一気に膨れ上がった。
「っ、まず――」
言い切る前に、衝撃が走る。
茉子の体が弾かれた。
「茉子!」
「かはっ……!」
壁へ叩きつけられ、そのまま床へ崩れ落ちる。
動かない。
「茉子さん!」
「そんな……!」
芳乃が息を呑み、レナの顔から血の気が引く。
祟り神はそのまま、じり、と前へ出た。
標的を見定めるように、ゆっくりと。
絶体絶命。
その言葉が頭をよぎる。
俺は歯を食いしばり、隣に浮かぶムラサメちゃんへ視線を向けた。
「ムラサメちゃん! 何かないのか!」
「何か、とな?」
「このままじゃ駄目だ! 俺にできることはないのかって聞いてんだよ!」
「……ある」
ムラサメちゃんが、珍しく真面目な顔で言った。
「我輩とご主人は繋がっておる。叢雨丸の使い手たるご主人なら、一時的に神力を宿すことも不可能ではない」
「神力……?」
「本来ならば、軽々しく扱えるものではない。じゃが、今はそれしか手があるまい」
「どうすればいい」
「簡単じゃ」
ムラサメちゃんが、すっと俺の前へ降りてくる。
真っ直ぐに、俺を見上げた。
「我輩から、力を渡す」
その言葉の意味を理解するより先に、ムラサメちゃんが少しだけ頬を赤らめた。
「ただし……その、方法は……」
「方法は?」
「……口づけじゃ」
「は!?」
「大声を出すでない!」
いや無理だろ!
こんな状況で!?
「そ、それしかないのか!?」
「ない! というか我輩も好きで言っておるわけではないのじゃ!」
「ご主人……早くせぬか!」
「ムラサメちゃんまで赤くなるなよ!」
なんだこの会話。
状況が状況じゃなかったら、間違いなく頭を抱えてる。
だが祟り神は待ってくれない。
芳乃たちのすぐ前まで迫っている。
「将臣さん……!」
「ご主人!」
迷っている暇はなかった。
「……やるぞ!」
「う、うむ……!」
覚悟を決めて、俺はムラサメちゃんへ顔を寄せた。
ムラサメちゃんもぎゅっと目を閉じる。
小さな肩が震えているのが見えた。
そして――唇が触れる。
その瞬間。
熱が、体の奥へ流れ込んできた。
「っ……!?」
ただ熱いだけじゃない。
清らかで、鋭くて、力強い。
まるで体中の血が、一斉に光へ変わったみたいな感覚だった。
心臓が跳ねる。
視界が明るくなる。
全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
「これが……神力……!」
拳を握るだけで分かる。
今なら、いける。
「将臣さん! 危ない!」
芳乃の叫びと同時に、祟り神が跳んだ。
その狙いは――レナさん!?
「させるかっ!」
床を蹴る。
自分でも信じられないほどの速度で間に入り、祟り神の攻撃を弾き飛ばす。
衝撃が腕に伝わる。
だが、折れない。怯まない。
祟り神が低く唸る。
「今度は、こっちだ!」
そのまま踏み込み、拳を叩き込む。
どん、と重い音が診療所に響いた。
拳が、確かな手応えを持って異形を捉える。
黒い瘴気が弾け、祟り神が苦悶の声を上げた。
「おおおおっ!」
二発、三発。
迷いなく打ち込む。
剣でもない。
技でもない。
ただ神力を宿した拳で、真正面から叩き潰す。
祟り神の輪郭が崩れる。
黒い霧が裂け、散り、消えていく。
最後にもう一度、全力で拳を振り抜いた。
「――消えろっ!!」
轟音と共に、祟り神は完全に霧散した。
静寂が戻る。
荒い呼吸だけが、自分の耳にやけに大きく響いていた。
「……勝った、のか」
「将臣さん……」
「ご主人、今じゃ」
振り向くと、ムラサメちゃんがふらりと近づいてきていた。
「え?」
「神力を返してもらう。長く宿せば、ご主人の身がもたぬ」
「ちょ、待っ――」
言い終える前に、再び唇が触れた。
「――っ!?」
今度は逆だ。
体の奥から、さっきまで満ちていた熱が一気に引いていく。
力が抜ける。
視界が揺れる。
膝が笑う。
「ムラサメちゃん……」
「すまぬ、ご主人。これ以上は危険なのじゃ」
ムラサメちゃんの声が、遠い。
神力が抜けていくと同時に、全身を強烈な脱力感が襲った。
立っていられない。
芳乃が慌てて駆け寄ってくる。
「将臣さん!」
「だい、じょうぶ……って言いたいけど、さすがに……」
無理だ。
言葉も途中で途切れる。
レナの心配そうな顔。
茉子がうっすらと意識を取り戻し、こちらを見ているのが視界の端に映った。
ムラサメちゃんも、いつになく不安げな顔をしている。
よかった。
みんな、無事だ。
その事実にだけ、ほっとした。
「将臣さん、しっかりしてください……!」
「ご主人!」
芳乃の声が、やけに近くて、遠い。
俺は最後にそれだけを聞きながら――そのまま意識を手放した。
暗闇へ落ちていく寸前、かすかに思う。
平和な昼休みから、なんでこうなるんだよ。
……ほんと、俺の穂織での日常、落差が激しすぎるだろ。
そんな、どうでもいい感想を最後に。
俺の意識は、完全に闇へ沈んだ。