退院したあと、俺は母さん――有地都子と一緒に、穂織を離れて暮らすことになった。
じいちゃん――鞍馬玄十郎は穂織に残り、俺たち母子だけが別の土地で生活する。
つまり、俺はじいちゃんと一緒に暮らして育ったわけじゃない。
穂織は、俺にとって“帰る家”というより、“長期休みに行く場所”になった。
……けれど、それでも十分に特別な場所だった。
なにせ、ここが『千恋*万花』の世界だと分かってしまったからだ。
最初にそれを理解した時、正直かなり困った。
嬉しいとか、興奮するとか、そういう気持ちがなかったわけじゃない。前世で知っていた世界に自分がいる、なんて状況だ。普通に考えれば、ちょっとはテンションも上がる。
でも、それ以上に思った。
笑ってる場合じゃない、と。
この世界には、この世界の事情がある。
穂織には穂織の秘密があって、朝武家には朝武家の事情があって、その先には決して軽くない出来事が待っている。
しかも俺は、その“先”を大雑把に知っている。
「……なら、何もしないまま過ごすわけにはいかないよな」
まだ子供だった頃、布団の中で何度そう呟いたか分からない。
もっとも、だからといって何でもできるわけじゃない。
普段の俺は穂織の外で暮らしている。細かい情報が入るわけでもないし、前世の知識も完璧じゃない。覚えているのは大筋だけで、細かいところはかなり曖昧だ。
それに、未来を知っていることを軽々しく誰かに話す気にもなれなかった。
そんなことを言えば頭のおかしいやつだと思われるし、それ以前に、下手に物語の根幹へ触れて何かが大きく狂うのも怖かった。
だから俺は、今の自分にできることだけをやると決めた。
強くなる。
それだけだ。
◇
「将臣、朝ご飯くらい落ち着いて食べなさい」
母さんが少し呆れたように言う。
俺は味噌汁を飲んでから、何でもない顔で答えた。
「急いでるわけじゃないよ」
「どう見ても急いでるのよ」
「食べ終わったら素振りしたいだけ」
「朝から?」
「朝だから、だよ」
そう返すと、母さんは苦笑した。
「本当に好きねえ」
好き、というより、習慣だ。
いや、半分は焦りに近いのかもしれない。
あの世界の未来を知っている以上、何も積み上げないまま時間だけが過ぎていくのは嫌だった。何かあった時、何もできない自分でいるのはもっと嫌だった。
だから木刀を振るう。
母さんには、ただ「強くなりたいから」とだけ伝えていた。
それは嘘じゃない。
ただ、本当の全部でもないだけだ。
◇
小学生になる頃には、長期休みのたびに穂織へ行くのが恒例になっていた。
春休み、夏休み、冬休み。
母さんと一緒に穂織へ行き、じいちゃんのところへ顔を出す。
そして翌朝から、当然のように稽古が始まる。
「将臣。構えろ」
「はい、じいちゃん」
朝の冷えた空気の中で木刀を握ると、自然と背筋が伸びた。
じいちゃんは寡黙だ。必要以上のことは言わないし、褒めることだってほとんどない。
でも、その一言一言に無駄がない。構えた姿だけで強さが伝わってくる。幼い俺でも、それだけはすぐに分かった。
「遅い」
「っ!」
打ち込んだ瞬間、俺の木刀は流され、そのまま胴に一撃。相変わらず容赦がない。
「今のは」
「踏み込みの前に肩が上がった」
「そうだ。次」
「はい!」
きつい。普通にきつい。
腕は痛いし、手のひらは熱いし、朝から子供がやる量じゃないだろこれ、と思わなくもない。
でも、やめる気はなかった。
ここで積み上げたものは、きっと未来の自分を助ける。
そう思っていたからだ。
……ちなみに、その稽古に途中参戦した廉太郎は、見事なまでに脱落した。
◇
「将臣! 俺もやる!」
いとこの鞍馬廉太郎が、木刀を片手に元気よくそう言ってきた時は、ちょっと驚いた。
「へえ。珍しいな」
「珍しいって何だよ! 俺だって強くなりたい時くらいある!」
「時くらい、って自分で言うなよ」
「うるさい!」
やる気だけは十分だった。
小春はその後ろで、少し離れた場所に座っている。
「お兄ちゃん、廉兄たぶんすぐ無理って言うと思う」
「言わねーよ!?」
「うーん、言いそう」
小春の予想は、ものの見事に当たった。
稽古開始から十分後。
「む、無理だってこれ! 手が痛い! 腕も痛い! なんで将臣は平気なんだよ!?」
「平気じゃないけど」
「平気そうに見えるんだよ!」
「廉太郎」
じいちゃんが低い声で呼ぶ。
「は、はいっ!」
「振れ」
「えぇぇ……」
翌日。
「今日はちょっと腹の調子が悪い!」
翌々日。
「俺は見て学ぶタイプだから!」
その次の日には、
「将臣、頑張れ! 俺は心の中で応援してる!」
と、完全に観客席へ移動していた。
「それ、参加してるって言わないよな?」
「気持ちは参加してる!」
「便利な言葉だなあ……」
小春は呆れた顔でため息をつく。
「廉にい、最初だけは立派なんだけどなあ……」
「小春、それ本人の前で言う?」
「本当だもん」
容赦がない。
でもまあ、それが小春だ。
廉太郎は鍛錬からはすぐ脱落したけど、なんだかんだ俺の様子は気になるらしく、稽古のあとに絡んでくることは多かった。
そういうところは、嫌いじゃなかった。
◇
穂織へ行けば、会う相手はじいちゃんやいとこたちだけじゃない。
幼馴染のお姉さんみたいな存在――馬庭芦花ねえにも、昔からよく声をかけてもらっていた。
「将臣くん、また稽古してたの?」
「してたよ」
「えらいねえ。でも、無理しすぎちゃ駄目だよ?」
「大丈夫。ちゃんと休んでるし」
「ふふっ、本当にしっかりしてるなあ」
芦花ねえは、会うたびにそう言って柔らかく笑う。
綺麗なお姉さん、という言葉をそのまま形にしたみたいな人だ。
正直、前世の感覚込みだとちょっとドキッとすることもある。けど、さすがにそんな顔を子供の自分が表に出すわけにもいかないので、できるだけ平静を装っていた。
「芦花ねえ、将臣に甘すぎない?」
廉太郎がそんなことを言うと、
「そうかな?」
芦花ねえは首をかしげる。
「そうだよ。将臣なんて、じいちゃんくらい厳しくしていいんだって」
「それは困る」
「ほら、将臣くんも嫌がってるし」
くすくすと笑う芦花ねえ。
こういう穏やかな空気は、わりと好きだった。
そして、それと同じくらい印象深かったのが――朝武芳乃と常陸茉子との出会いだ。
◇
「あなたが、将臣さんですか?」
最初にそう声をかけてきたのは、朝武芳乃だった。
一瞬、俺は言葉に詰まる。
前世で知っていたキャラクターが目の前にいる。しかも、思っていた以上に“芳乃だった”。
まだ子供なのに、もう雰囲気が違う。落ち着いていて、姿勢が良くて、でも堅すぎるわけじゃない。まっすぐで、きちんとしていて、こちらを見る目に芯がある。
「……そうだけど」
「玄十郎さんのところに来ていると伺いました」
「長期休みの時だけね」
すると、その横からもう一人がすっと前に出る。
「ふむ。見たところ、それほど強そうには見えませんね」
常陸茉子だった。
口調は丁寧だ。丁寧なんだけど、なんだろうこの微妙に人を小突いてくる感じ。
「初対面でそれ言う?」
「事実を申し上げただけですが?」
「いや、事実かどうかはまだ分からないだろ」
「そうでしょうか。少なくとも、いかにも強者という風格はありません」
「言い方が妙に丁寧なだけで、だいぶ失礼だよな?」
「気のせいでは?」
「たぶん気のせいじゃないです」
俺がそう返すと、茉子は少しだけ口元を緩めた。
からかわれてるな、これ。
「茉子、失礼です」
芳乃が静かにたしなめる。
その声はやわらかいけど、ちゃんと芯があった。
「初対面の方に、そのような言い方をするものではありません」
「ですが芳乃様、気になるものは気になります」
「気になっても、口に出していいとは限りません」
「……それはもっともですね」
口では素直に引き下がりつつ、茉子の目は全然反省していなかった。むしろちょっと面白がっているようにすら見える。
うん、知ってた。そういうタイプだ。
けど、それが嫌じゃないあたり、たぶん俺もだいぶこの空気に馴染めそうだった。
「そんなに気になるなら、明日の朝稽古でも見に来る?」
俺が言うと、茉子の眉がぴくっと動く。
「よろしいのですか?」
「別に減るもんじゃないし」
「なるほど。では、遠慮なく拝見させていただきます。口だけではないところを見せていただけると助かります」
「一言多いなあ……」
「気のせいでは?」
「それ、さっきも聞いた」
芳乃が小さく息をついて、それから俺に向き直った。
「すみません、将臣さん。茉子はこういうところがありまして」
「いや、別にいいよ。分かりやすいし」
「分かりやすい、ですか」
「うん。言いたいことを妙に丁寧に言ってくるタイプだって」
「それはなかなか的確ですね」
茉子が悪びれもせずに言う。
そのやり取りに、芳乃は少しだけ困ったように笑った。
その笑い方が妙に自然で、俺は少しだけ肩の力が抜けた。
ああ、ちゃんと仲良くなれそうだな――と、その時思った。
◇
それからの長期休みは、少しずつ賑やかになっていった。
朝はじいちゃんとの稽古。
昼には廉太郎や小春と騒ぎ、芦花ねえに声をかけられる。
そして、芳乃や茉子とも顔を合わせるようになった。
「将臣さんは、本当に毎日稽古をしているのですね」
芳乃が感心したように言う。
「まあ、長期休みでこっちに来てる間くらいはね」
「見ているこちらが疲れそうです」
茉子がさらっと言った。
「それ褒めてる?」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「よくそこまで飽きずに続けられるものだ、という感心です」
「感心はしてるんだな」
「はい。一応は」
「一応ってつける必要あった?」
俺が苦笑すると、芳乃が少しだけ真面目な顔になった。
「ですが、将臣さんは本当に強くなりたいのですね」
「うん」
「どうして、そこまで?」
その問いに、俺は少しだけ言葉を選んだ。
本当の理由は言えない。
未来を知っているから、なんて言えるはずがない。
だから、答えはいつも通りだ。
「強くなりたいから。……それじゃ理由になってない?」
「いいえ」
芳乃ははっきりと首を横に振った。
「それで十分だと思います。自分の意思でそう思えるのは、立派なことです」
その言い方は、子供っぽい無邪気な肯定じゃなかった。
ちゃんと考えた上で、まっすぐに認めてくれている感じがした。
だから少しだけ、嬉しかった。
「ありがとうございます、芳乃様。将臣さんも喜んでおります」
「茉子、勝手に人の感情を代弁しないでくれる?」
「では違うのですか?」
「……少しは喜んでるけど」
「でしたら問題ありませんね」
「問題ある気もするけどなあ……」
そんなやり取りをしながら、俺たちは少しずつ距離を縮めていった。
俺はこの世界の未来を知っている。
でも、それを二人に話すつもりはなかった。
話せば、何かが変わるかもしれない。
そして、その変化をまだ幼い俺が背負い切れる自信はなかった。
だから黙っていた。
黙ったまま、強くなろうとした。
せめて、何かが起きた時に後悔しないように。
◇
小学生の頃から積み上げた鍛錬は、中学に入って一気に形になった。
剣道で結果を出し始め、そのまま個人戦で全国制覇。
一度だけじゃない。二度、三度と勝ち続けて、気づけば全国三連覇なんて肩書きがついていた。
「将臣、おまえ本当にすごいことになってるな……」
久しぶりに会った廉太郎が、呆れたように言う。
「全国三連覇って何だよ。漫画の主人公か?」
「自分でもちょっとそう思う」
「思うんだ!?」
「いや、さすがに出来すぎだろっていう自覚はある」
「自覚があるなら少しは手加減しろよ!」
「試合でどうやって手加減するんだよ」
そんなふうに笑い合えるくらいには、廉太郎との距離感も変わっていなかった。
小春は小春で、
「お兄ちゃん、昔から変に落ち着いてたもんね」
なんてことを言う。
「変ってつける必要ある?」
「あります」
即答だった。
ひどい。
でも、周囲から見てもそのくらいには“普通じゃない”らしい。
勉強の方も順調だった。
前世の記憶があるぶん理解が早いし、一度覚えたことを整理するのも得意だ。もちろん努力はしているけど、それでも土台が違うのは事実だった。
結果として、学校でも上位、剣道でもトップ。
いわゆる文武両道を、そのまま形にしたような状態になっていた。
さらに、この頃から俺は絵も描くようになった。
前世の趣味だったものを、今の人生でも自然に再開した感じだ。
最初はただの息抜きだった。でも、描いているうちにどんどんのめり込んでいった。
キャラの表情。構図。背景。色彩。
頭の中のイメージを形にしていく時間は、剣道とは違う意味で夢中になれた。
そして高校に入る頃には、それが仕事として成立するくらいには評価されていた。
ネットでは大げさに“神絵師”なんて呼ばれることもある。
正直、そこまで言われるとかなりむず痒い。
でも、剣道以外にも自分の武器があるのは悪くなかった。
◇
ただ、高校に入るとさすがに忙しくなった。
学校。剣道。絵の仕事。
その三つを回していると、穂織へ行く時間はどんどんなくなっていく。
気づけば、穂織を最後に訪れたのは小学生の頃、なんて状態になっていた。
芳乃はどうしているだろう。
茉子は相変わらず、丁寧な言葉で人をからかっているんだろうか。
廉太郎は……まあ、廉太郎のままだろう。
小春はもっとしっかりしていそうだし、芦花ねえは相変わらず優しいんだろうな。
そんなふうに思い出すことはあっても、日常は待ってくれない。
そうして時間だけが過ぎて――高校二年生になる前の春休み。
その夜、夕食の席で母さんが何気ない調子で言った。
「将臣、たまには穂織に行ってきたら?」
その一言で、俺の箸が止まった。
「お祖父さんのところ、最近ぜんぜん顔出してないでしょう?」
「……まあ、たしかに」
「春休みなんだし、少し宿の手伝いでもしてきなさい。いい気分転換にもなるでしょ?」
胸の奥が、どくんと鳴る。
――来た。
根拠なんてない。ただの勘だ。
でも俺には分かった。
ここが、始まりだ。
俺が知っている物語へと繋がる、大きな分かれ道。
「将臣?」
母さんが不思議そうに顔を覗き込んでくる。
まずい。少し黙りすぎた。
「あ、いや……そうだね」
俺はできるだけ自然に頷いた。
「久しぶりに行ってみるよ」
「うん、それがいいわ。お祖父さんも喜ぶし、宿も人手があると助かるでしょ」
「手伝いって、俺にできることあるかな」
「荷物運びでも掃除でも、若いんだから何でもできるでしょ」
「雑だなあ……」
「細かいことは現地で考えなさい」
母さんは楽しそうに笑う。
けれど、俺の胸の内はそんなに穏やかじゃなかった。
ついに来る。
穂織へ戻る時が。
小学生の頃から積み上げた鍛錬。
全国三連覇の実績。
学んできた知識。
描き続けてきた絵。
そして、誰にも話していない未来の記憶。
全部を抱えて、俺はもう一度、あの町へ行く。
懐かしい場所へ。
懐かしい人たちのもとへ。
そして、これから動き出す物語の中心へ。
「……よし」
「何がよし、なの?」
「いや、なんでもない」
ごまかすように笑って、俺は静かに息を吐いた。
大丈夫だ。
俺は、何も知らない子供のままここまで来たわけじゃない。
ずっと準備してきた。
ずっと、強くなろうとしてきた。
だから今度は、きっと前より上手くやれる。
そう信じて、俺――有地将臣は、春休みに穂織へ向かうことを決めた。
ここから先は、俺の知っている物語であり、同時に俺自身の物語になる。
そしてたぶん、もう後戻りはできない。
――でも、それでいい。
だって俺は、あの日からずっと、この時のために木刀を振ってきたのだから。