『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第2話 未来を知る俺は、何も言わずに強くなる

 

 

 退院したあと、俺は母さん――有地都子と一緒に、穂織を離れて暮らすことになった。

 

 じいちゃん――鞍馬玄十郎は穂織に残り、俺たち母子だけが別の土地で生活する。

 

 つまり、俺はじいちゃんと一緒に暮らして育ったわけじゃない。

 

 穂織は、俺にとって“帰る家”というより、“長期休みに行く場所”になった。

 

 ……けれど、それでも十分に特別な場所だった。

 

 なにせ、ここが『千恋*万花』の世界だと分かってしまったからだ。

 

 最初にそれを理解した時、正直かなり困った。

 

 嬉しいとか、興奮するとか、そういう気持ちがなかったわけじゃない。前世で知っていた世界に自分がいる、なんて状況だ。普通に考えれば、ちょっとはテンションも上がる。

 

 でも、それ以上に思った。

 

 笑ってる場合じゃない、と。

 

 この世界には、この世界の事情がある。

 

 穂織には穂織の秘密があって、朝武家には朝武家の事情があって、その先には決して軽くない出来事が待っている。

 

 しかも俺は、その“先”を大雑把に知っている。

 

「……なら、何もしないまま過ごすわけにはいかないよな」

 

 まだ子供だった頃、布団の中で何度そう呟いたか分からない。

 

 もっとも、だからといって何でもできるわけじゃない。

 

 普段の俺は穂織の外で暮らしている。細かい情報が入るわけでもないし、前世の知識も完璧じゃない。覚えているのは大筋だけで、細かいところはかなり曖昧だ。

 

 それに、未来を知っていることを軽々しく誰かに話す気にもなれなかった。

 

 そんなことを言えば頭のおかしいやつだと思われるし、それ以前に、下手に物語の根幹へ触れて何かが大きく狂うのも怖かった。

 

 だから俺は、今の自分にできることだけをやると決めた。

 

 強くなる。

 

 それだけだ。

 

 

     ◇

 

 

「将臣、朝ご飯くらい落ち着いて食べなさい」

 

 母さんが少し呆れたように言う。

 

 俺は味噌汁を飲んでから、何でもない顔で答えた。

 

「急いでるわけじゃないよ」

 

「どう見ても急いでるのよ」

 

「食べ終わったら素振りしたいだけ」

 

「朝から?」

 

「朝だから、だよ」

 

 そう返すと、母さんは苦笑した。

 

「本当に好きねえ」

 

 好き、というより、習慣だ。

 

 いや、半分は焦りに近いのかもしれない。

 

 あの世界の未来を知っている以上、何も積み上げないまま時間だけが過ぎていくのは嫌だった。何かあった時、何もできない自分でいるのはもっと嫌だった。

 

 だから木刀を振るう。

 

 母さんには、ただ「強くなりたいから」とだけ伝えていた。

 

 それは嘘じゃない。

 

 ただ、本当の全部でもないだけだ。

 

 

     ◇

 

 

 小学生になる頃には、長期休みのたびに穂織へ行くのが恒例になっていた。

 

 春休み、夏休み、冬休み。

 

 母さんと一緒に穂織へ行き、じいちゃんのところへ顔を出す。

 

 そして翌朝から、当然のように稽古が始まる。

 

「将臣。構えろ」

 

「はい、じいちゃん」

 

 朝の冷えた空気の中で木刀を握ると、自然と背筋が伸びた。

 

 じいちゃんは寡黙だ。必要以上のことは言わないし、褒めることだってほとんどない。

 

 でも、その一言一言に無駄がない。構えた姿だけで強さが伝わってくる。幼い俺でも、それだけはすぐに分かった。

 

「遅い」

 

「っ!」

 

 打ち込んだ瞬間、俺の木刀は流され、そのまま胴に一撃。相変わらず容赦がない。

 

「今のは」

 

「踏み込みの前に肩が上がった」

 

「そうだ。次」

 

「はい!」

 

 きつい。普通にきつい。

 

 腕は痛いし、手のひらは熱いし、朝から子供がやる量じゃないだろこれ、と思わなくもない。

 

 でも、やめる気はなかった。

 

 ここで積み上げたものは、きっと未来の自分を助ける。

 

 そう思っていたからだ。

 

 ……ちなみに、その稽古に途中参戦した廉太郎は、見事なまでに脱落した。

 

 

     ◇

 

 

「将臣! 俺もやる!」

 

 いとこの鞍馬廉太郎が、木刀を片手に元気よくそう言ってきた時は、ちょっと驚いた。

 

「へえ。珍しいな」

 

「珍しいって何だよ! 俺だって強くなりたい時くらいある!」

 

「時くらい、って自分で言うなよ」

 

「うるさい!」

 

 やる気だけは十分だった。

 

 小春はその後ろで、少し離れた場所に座っている。

 

「お兄ちゃん、廉兄たぶんすぐ無理って言うと思う」

 

「言わねーよ!?」

 

「うーん、言いそう」

 

 小春の予想は、ものの見事に当たった。

 

 稽古開始から十分後。

 

「む、無理だってこれ! 手が痛い! 腕も痛い! なんで将臣は平気なんだよ!?」

 

「平気じゃないけど」

 

「平気そうに見えるんだよ!」

 

「廉太郎」

 

 じいちゃんが低い声で呼ぶ。

 

「は、はいっ!」

 

「振れ」

 

「えぇぇ……」

 

 翌日。

 

「今日はちょっと腹の調子が悪い!」

 

 翌々日。

 

「俺は見て学ぶタイプだから!」

 

 その次の日には、

 

「将臣、頑張れ! 俺は心の中で応援してる!」

 

 と、完全に観客席へ移動していた。

 

「それ、参加してるって言わないよな?」

 

「気持ちは参加してる!」

 

「便利な言葉だなあ……」

 

 小春は呆れた顔でため息をつく。

 

「廉にい、最初だけは立派なんだけどなあ……」

 

「小春、それ本人の前で言う?」

 

「本当だもん」

 

 容赦がない。

 

 でもまあ、それが小春だ。

 

 廉太郎は鍛錬からはすぐ脱落したけど、なんだかんだ俺の様子は気になるらしく、稽古のあとに絡んでくることは多かった。

 

 そういうところは、嫌いじゃなかった。

 

 

     ◇

 

 

 穂織へ行けば、会う相手はじいちゃんやいとこたちだけじゃない。

 

 幼馴染のお姉さんみたいな存在――馬庭芦花ねえにも、昔からよく声をかけてもらっていた。

 

「将臣くん、また稽古してたの?」

 

「してたよ」

 

「えらいねえ。でも、無理しすぎちゃ駄目だよ?」

 

「大丈夫。ちゃんと休んでるし」

 

「ふふっ、本当にしっかりしてるなあ」

 

 芦花ねえは、会うたびにそう言って柔らかく笑う。

 

 綺麗なお姉さん、という言葉をそのまま形にしたみたいな人だ。

 

 正直、前世の感覚込みだとちょっとドキッとすることもある。けど、さすがにそんな顔を子供の自分が表に出すわけにもいかないので、できるだけ平静を装っていた。

 

「芦花ねえ、将臣に甘すぎない?」

 

 廉太郎がそんなことを言うと、

 

「そうかな?」

 

 芦花ねえは首をかしげる。

 

「そうだよ。将臣なんて、じいちゃんくらい厳しくしていいんだって」

 

「それは困る」

 

「ほら、将臣くんも嫌がってるし」

 

 くすくすと笑う芦花ねえ。

 

 こういう穏やかな空気は、わりと好きだった。

 

 そして、それと同じくらい印象深かったのが――朝武芳乃と常陸茉子との出会いだ。

 

 

     ◇

 

 

「あなたが、将臣さんですか?」

 

 最初にそう声をかけてきたのは、朝武芳乃だった。

 

 一瞬、俺は言葉に詰まる。

 

 前世で知っていたキャラクターが目の前にいる。しかも、思っていた以上に“芳乃だった”。

 

 まだ子供なのに、もう雰囲気が違う。落ち着いていて、姿勢が良くて、でも堅すぎるわけじゃない。まっすぐで、きちんとしていて、こちらを見る目に芯がある。

 

「……そうだけど」

 

「玄十郎さんのところに来ていると伺いました」

 

「長期休みの時だけね」

 

 すると、その横からもう一人がすっと前に出る。

 

「ふむ。見たところ、それほど強そうには見えませんね」

 

 常陸茉子だった。

 

 口調は丁寧だ。丁寧なんだけど、なんだろうこの微妙に人を小突いてくる感じ。

 

「初対面でそれ言う?」

 

「事実を申し上げただけですが?」

 

「いや、事実かどうかはまだ分からないだろ」

 

「そうでしょうか。少なくとも、いかにも強者という風格はありません」

 

「言い方が妙に丁寧なだけで、だいぶ失礼だよな?」

 

「気のせいでは?」

 

「たぶん気のせいじゃないです」

 

 俺がそう返すと、茉子は少しだけ口元を緩めた。

 

 からかわれてるな、これ。

 

「茉子、失礼です」

 

 芳乃が静かにたしなめる。

 

 その声はやわらかいけど、ちゃんと芯があった。

 

「初対面の方に、そのような言い方をするものではありません」

 

「ですが芳乃様、気になるものは気になります」

 

「気になっても、口に出していいとは限りません」

 

「……それはもっともですね」

 

 口では素直に引き下がりつつ、茉子の目は全然反省していなかった。むしろちょっと面白がっているようにすら見える。

 

 うん、知ってた。そういうタイプだ。

 

 けど、それが嫌じゃないあたり、たぶん俺もだいぶこの空気に馴染めそうだった。

 

「そんなに気になるなら、明日の朝稽古でも見に来る?」

 

 俺が言うと、茉子の眉がぴくっと動く。

 

「よろしいのですか?」

 

「別に減るもんじゃないし」

 

「なるほど。では、遠慮なく拝見させていただきます。口だけではないところを見せていただけると助かります」

 

「一言多いなあ……」

 

「気のせいでは?」

 

「それ、さっきも聞いた」

 

 芳乃が小さく息をついて、それから俺に向き直った。

 

「すみません、将臣さん。茉子はこういうところがありまして」

 

「いや、別にいいよ。分かりやすいし」

 

「分かりやすい、ですか」

 

「うん。言いたいことを妙に丁寧に言ってくるタイプだって」

 

「それはなかなか的確ですね」

 

 茉子が悪びれもせずに言う。

 

 そのやり取りに、芳乃は少しだけ困ったように笑った。

 

 その笑い方が妙に自然で、俺は少しだけ肩の力が抜けた。

 

 ああ、ちゃんと仲良くなれそうだな――と、その時思った。

 

 

     ◇

 

 

 それからの長期休みは、少しずつ賑やかになっていった。

 

 朝はじいちゃんとの稽古。

 

 昼には廉太郎や小春と騒ぎ、芦花ねえに声をかけられる。

 

 そして、芳乃や茉子とも顔を合わせるようになった。

 

「将臣さんは、本当に毎日稽古をしているのですね」

 

 芳乃が感心したように言う。

 

「まあ、長期休みでこっちに来てる間くらいはね」

 

「見ているこちらが疲れそうです」

 

 茉子がさらっと言った。

 

「それ褒めてる?」

 

「半分ほどは」

 

「残り半分は?」

 

「よくそこまで飽きずに続けられるものだ、という感心です」

 

「感心はしてるんだな」

 

「はい。一応は」

 

「一応ってつける必要あった?」

 

 俺が苦笑すると、芳乃が少しだけ真面目な顔になった。

 

「ですが、将臣さんは本当に強くなりたいのですね」

 

「うん」

 

「どうして、そこまで?」

 

 その問いに、俺は少しだけ言葉を選んだ。

 

 本当の理由は言えない。

 

 未来を知っているから、なんて言えるはずがない。

 

 だから、答えはいつも通りだ。

 

「強くなりたいから。……それじゃ理由になってない?」

 

「いいえ」

 

 芳乃ははっきりと首を横に振った。

 

「それで十分だと思います。自分の意思でそう思えるのは、立派なことです」

 

 その言い方は、子供っぽい無邪気な肯定じゃなかった。

 

 ちゃんと考えた上で、まっすぐに認めてくれている感じがした。

 

 だから少しだけ、嬉しかった。

 

「ありがとうございます、芳乃様。将臣さんも喜んでおります」

 

「茉子、勝手に人の感情を代弁しないでくれる?」

 

「では違うのですか?」

 

「……少しは喜んでるけど」

 

「でしたら問題ありませんね」

 

「問題ある気もするけどなあ……」

 

 そんなやり取りをしながら、俺たちは少しずつ距離を縮めていった。

 

 俺はこの世界の未来を知っている。

 

 でも、それを二人に話すつもりはなかった。

 

 話せば、何かが変わるかもしれない。

 

 そして、その変化をまだ幼い俺が背負い切れる自信はなかった。

 

 だから黙っていた。

 

 黙ったまま、強くなろうとした。

 

 せめて、何かが起きた時に後悔しないように。

 

 

     ◇

 

 

 小学生の頃から積み上げた鍛錬は、中学に入って一気に形になった。

 

 剣道で結果を出し始め、そのまま個人戦で全国制覇。

 

 一度だけじゃない。二度、三度と勝ち続けて、気づけば全国三連覇なんて肩書きがついていた。

 

「将臣、おまえ本当にすごいことになってるな……」

 

 久しぶりに会った廉太郎が、呆れたように言う。

 

「全国三連覇って何だよ。漫画の主人公か?」

 

「自分でもちょっとそう思う」

 

「思うんだ!?」

 

「いや、さすがに出来すぎだろっていう自覚はある」

 

「自覚があるなら少しは手加減しろよ!」

 

「試合でどうやって手加減するんだよ」

 

 そんなふうに笑い合えるくらいには、廉太郎との距離感も変わっていなかった。

 

 小春は小春で、

 

「お兄ちゃん、昔から変に落ち着いてたもんね」

 

 なんてことを言う。

 

「変ってつける必要ある?」

 

「あります」

 

 即答だった。

 

 ひどい。

 

 でも、周囲から見てもそのくらいには“普通じゃない”らしい。

 

 勉強の方も順調だった。

 

 前世の記憶があるぶん理解が早いし、一度覚えたことを整理するのも得意だ。もちろん努力はしているけど、それでも土台が違うのは事実だった。

 

 結果として、学校でも上位、剣道でもトップ。

 

 いわゆる文武両道を、そのまま形にしたような状態になっていた。

 

 さらに、この頃から俺は絵も描くようになった。

 

 前世の趣味だったものを、今の人生でも自然に再開した感じだ。

 

 最初はただの息抜きだった。でも、描いているうちにどんどんのめり込んでいった。

 

 キャラの表情。構図。背景。色彩。

 

 頭の中のイメージを形にしていく時間は、剣道とは違う意味で夢中になれた。

 

 そして高校に入る頃には、それが仕事として成立するくらいには評価されていた。

 

 ネットでは大げさに“神絵師”なんて呼ばれることもある。

 

 正直、そこまで言われるとかなりむず痒い。

 

 でも、剣道以外にも自分の武器があるのは悪くなかった。

 

 

     ◇

 

 

 ただ、高校に入るとさすがに忙しくなった。

 

 学校。剣道。絵の仕事。

 

 その三つを回していると、穂織へ行く時間はどんどんなくなっていく。

 

 気づけば、穂織を最後に訪れたのは小学生の頃、なんて状態になっていた。

 

 芳乃はどうしているだろう。

 

 茉子は相変わらず、丁寧な言葉で人をからかっているんだろうか。

 

 廉太郎は……まあ、廉太郎のままだろう。

 

 小春はもっとしっかりしていそうだし、芦花ねえは相変わらず優しいんだろうな。

 

 そんなふうに思い出すことはあっても、日常は待ってくれない。

 

 そうして時間だけが過ぎて――高校二年生になる前の春休み。

 

 その夜、夕食の席で母さんが何気ない調子で言った。

 

「将臣、たまには穂織に行ってきたら?」

 

 その一言で、俺の箸が止まった。

 

「お祖父さんのところ、最近ぜんぜん顔出してないでしょう?」

 

「……まあ、たしかに」

 

「春休みなんだし、少し宿の手伝いでもしてきなさい。いい気分転換にもなるでしょ?」

 

 胸の奥が、どくんと鳴る。

 

 ――来た。

 

 根拠なんてない。ただの勘だ。

 

 でも俺には分かった。

 

 ここが、始まりだ。

 

 俺が知っている物語へと繋がる、大きな分かれ道。

 

「将臣?」

 

 母さんが不思議そうに顔を覗き込んでくる。

 

 まずい。少し黙りすぎた。

 

「あ、いや……そうだね」

 

 俺はできるだけ自然に頷いた。

 

「久しぶりに行ってみるよ」

 

「うん、それがいいわ。お祖父さんも喜ぶし、宿も人手があると助かるでしょ」

 

「手伝いって、俺にできることあるかな」

 

「荷物運びでも掃除でも、若いんだから何でもできるでしょ」

 

「雑だなあ……」

 

「細かいことは現地で考えなさい」

 

 母さんは楽しそうに笑う。

 

 けれど、俺の胸の内はそんなに穏やかじゃなかった。

 

 ついに来る。

 

 穂織へ戻る時が。

 

 小学生の頃から積み上げた鍛錬。

 全国三連覇の実績。

 学んできた知識。

 描き続けてきた絵。

 そして、誰にも話していない未来の記憶。

 

 全部を抱えて、俺はもう一度、あの町へ行く。

 

 懐かしい場所へ。

 懐かしい人たちのもとへ。

 そして、これから動き出す物語の中心へ。

 

「……よし」

 

「何がよし、なの?」

 

「いや、なんでもない」

 

 ごまかすように笑って、俺は静かに息を吐いた。

 

 大丈夫だ。

 

 俺は、何も知らない子供のままここまで来たわけじゃない。

 

 ずっと準備してきた。

 ずっと、強くなろうとしてきた。

 

 だから今度は、きっと前より上手くやれる。

 

 そう信じて、俺――有地将臣は、春休みに穂織へ向かうことを決めた。

 

 ここから先は、俺の知っている物語であり、同時に俺自身の物語になる。

 

 そしてたぶん、もう後戻りはできない。

 

 ――でも、それでいい。

 

 だって俺は、あの日からずっと、この時のために木刀を振ってきたのだから。

 

 

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