「――許さない……許さない……返せ……許さない……許さない……返せ! 許さない……許さない……返せ……――」
耳の奥に、まとわりつくような男の声が響いていた。
低く、濁っていて、聞いているだけで胸の奥を嫌なものが這い回るような声だった。
恨みと執着だけを煮詰めて、人の形をした何かに無理やり喋らせたような、不気味な呪詛。
暗い。
どこまでも暗い。
底の見えない闇の中で、その男の声だけが何度も何度も反響する。
許さない。
返せ。
許さない。
返せ。
まるで壊れた機械みたいに、同じ言葉を執拗に繰り返しながら、少しずつ、少しずつ近づいてくる。
寒気が走った。
それは、あの祟り神の唸り声とはまた違う。
もっと古くて、もっと湿っていて、もっと根深いもの。
あの黒い影の奥底に沈んでいた、呪いそのものの芯みたいな気配だった。
俺たちが相手にしたのは、まだ表面だけなのかもしれない。
そんな直感だけが、妙にはっきり胸に残る。
「……っ!」
そこで、俺は勢いよく目を開けた。
見慣れた天井が視界に入る。
薄い木目の天井板。障子越しに差し込むやわらかな光。鼻をくすぐる畳の匂いと、かすかな薬草の気配。
「……朝武家、か」
喉がひどく乾いていた。
身体は鉛みたいに重い。指先を少し動かしただけで、全身がぎしりと軋むようなだるさが走る。
けれど、生きている。
まずその事実に、ひとつ息をついた。
「おお、ご主人! ようやく起きたか!」
元気のいい声がして視線を向けると、枕元で心配そうにこちらを覗き込んでいたムラサメちゃんが、ぱっと顔を明るくした。
「ムラサメちゃん……」
「うむ! 待っておれ、今すぐ芳乃たちを呼んでくるのじゃ!」
そう言うなり、ムラサメちゃんはばたばたと部屋を飛び出していく。
相変わらず元気だな、と思いながら、俺はぼんやり天井を見上げた。
そういえば、ムラサメちゃんは霊体だから、基本的に物には触れない。
唯一、俺の体だけには触れられる。俺が持っているものなら一緒に触れられるし、食べ物だって俺から手渡しすれば食べられるけど、一人で看病らしいことをするのは難しい。
それでも真っ先に俺の異変に気づいて、こうして誰より早く皆を呼びに行ってくれる。
その気持ちだけで、なんだか少し救われる気がした。
ほどなくして、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。
「将臣さん……!」
最初に部屋へ飛び込んできたのは芳乃だった。
その後ろに茉子、安晴さん、駒川さん、そしてムラサメちゃんが続く。
白い髪を揺らしながら駆け寄ってきた芳乃は、俺の顔を見た瞬間、心底ほっとしたように息をついた。
「よかった……本当によかったです」
「悪い。心配かけた」
「本当です。とても、心配しました」
「う……すみません」
「ですが、起きてくださってよかったです」
そう言って、芳乃はやわらかく微笑んだ。
その隣で腕を組んでいた茉子も、小さく息をつく。
「将臣さん、ようやくですか」
「待たせた?」
「ええ。ずいぶんと。芳乃様が何度も何度も様子を見に来ておりましたので」
「茉子」
「事実ですが?」
「いや、その情報今いる?」
「必要かどうかはともかく、伝えておくべきかと」
「そこは優しさで伏せてくれても」
「優しさならありますよ。生きていてよかったです、将臣さん」
「……ありがと」
少し意地悪な口調の中に、ちゃんと本音が混じっている。
それがわかったから、素直にそう返した。
安晴さんも、安心したように表情を緩めた。
「将臣君、よかった。本当に無事でよかったよ」
「安晴さんも心配かけました」
「それはもちろん心配するさ。君はもう、他人じゃないんだからね」
その言葉が、じんわり胸に沁みた。
駒川さんは、少し離れた位置で冷静にこちらを見ていた。
腕や肩口に軽い青あざが残っているらしく、いつも通り平然とはしているものの、やはりあの場では無傷では済まなかったらしい。
「起きましたか」
「駒川さんも怪我したって聞きました」
「軽傷です。青あざができた程度ですね。あのときは気絶していましたが」
「それを軽傷って言うの、この家の基準おかしくないですか」
「あなた方に比べれば十分軽いですよ」
さらっと返された。
この人、本当にぶれないな。
「体調は?」
「だるいです。めちゃくちゃ」
「それなら上出来です」
「上出来の基準が低い」
「神力の消耗に加えて、精神的な負荷も大きかったのでしょう。事件から二日経っています」
「……二日?」
思わず聞き返した。
二日。
つまり、あの戦いのあと、丸々二日意識がなかったのか。
「常陸さんも消耗していましたが、有地君の方が深く眠っていました」
「そっか……皆は?」
「私はもう動けます」
茉子が答える。
「ですが、腕に打撲を負っています。しばらくは安静に、とみずはさんに言われています」
「茉子、腕やったのか」
「ええ。大したことはありません」
「大したことはありません、ではありませんよ、常陸さん」
駒川さんが即座に訂正する。
「無理をして悪化させたら厄介です。しばらくは安静です」
「……とのことです」
茉子が少しだけ肩をすくめる。
「私も大丈夫です」
芳乃も続けた。
「リヒテナウアーさんも、大きなお怪我はありません」
「駒川も青あざだけで済んだしのう」
ムラサメちゃんがうんうん頷く。
すると、安晴さんがきょとんとした顔で俺を見た。
「今、ムラサメ様は何て?」
「ああ、“駒川さんも青あざだけで済んだし、皆生きてるのが一番だ”って」
「なるほど。うん、たしかにその通りだね」
安晴さんはやわらかく頷いた。
駒川さんも、ほんの少しだけ目を細める。
「有地君。今のもムラサメ様ですか?」
「はい。“皆、生きておる。まずはそこを喜ぶべきじゃ”って」
「……ええ。その視点は大事ですね」
ムラサメちゃんの声は、俺と芳乃と茉子にしか聞こえない。
だから安晴さんや駒川さんは、こうして時々俺に確認する。
「で、今から話か」
「ええ」
駒川さんが頷く。
「有地君が起きたら説明することになっていました。動けそうなら、リビングへ来てください」
俺はゆっくりと頷き、皆に支えられながら部屋を出た。
◇◇◇
リビングへ入ると、テーブルの上に白布が敷かれ、その上に小さな欠片が三つ置かれていた。
どれも不揃いな古い破片だ。
けれど、近くに寄るだけで、空気がぴりつくような妙な圧を感じる。
席についた俺を確認して、駒川さんが口を開いた。
「まず、今回の祟り神の発生原因から説明します」
「……お願いします」
芳乃が静かに言う。
駒川さんは、白布の上の欠片を見やった。
「もともと、私のところへ最初に持ち込まれた憑代の欠片が一つありました」
「最初に俺たちが持って行ったやつですね」
「ええ。そして次に、有地君とムラサメ様が見つけた欠片が一つ」
「うむ」
ムラサメちゃんが頷く。
「そして今回、祟り神を祓ったあと、有地君が握りしめていた欠片が一つ」
「つまり、今ここにあるのが合計三つ」
俺が確認すると、駒川さんは頷いた。
「はい。そして、今回の祟り神は、この欠片が原因で発生しました」
場の空気が引き締まる。
「私が保管していた欠片を調べていた時のことです。欠片が、瓶の中にある段階から妙な反応を見せていました」
「妙な反応……ですか?」
芳乃が尋ねる。
「ええ。互いに惹かれ合っているような気配があったんです。そこで、私は一つを取り出し、少しだけ表面を削ろうとしました」
「それで?」
俺が促すと、駒川さんは淡々と続けた。
「欠片から、黒い泥のようなものが吹き出しました」
「黒い泥……」
茉子が眉をひそめる。
「最初は液体とも煙ともつかない、不定形の塊でした。ですが、それが瞬く間に膨れ上がり、穢れをまとって、祟り神として発現したのです」
「つまり、あの祟り神は……欠片に溜まっていた呪詛の具現化」
「概ね、その認識で合っています」
駒川さんが答える。
「完全な本体ではなくとも、欠片に蓄積された呪いが形を得た結果でしょう」
重い沈黙が落ちた。
俺は白布の上の欠片を見る。
たったこれだけの破片の中に、あんなものが眠っていたのか。
「……俺、夢の中で声を聞いた」
ふと、口をついて出た。
全員の視線がこっちに集まる。
「夢?」
芳乃が静かに聞き返す。
「うん。真っ暗な中で、男の声がしてた。“許さない”“返せ”って、ずっと繰り返してた」
「男の声、ですか……」
芳乃の表情が引き締まる。
「普通の悪夢って感じじゃなかった。あの祟り神の奥にあったもの……呪いの芯みたいな感じがした」
「ご主人もそう感じたか」
ムラサメちゃんが腕を組んで頷く。
「我輩も、あれはただの穢れの塊ではないと思っておった」
駒川さんが少し首を傾げる。
「有地君。今のムラサメ様は?」
「ああ、“あれはただの穢れの塊じゃないと思ってた”って」
「……なるほど」
「有地君が欠片に触れた影響かもしれませんね」
駒川さんが言う。
「神力を通して、欠片に残る呪いの記憶に触れた可能性もあります」
それが正しいかはわからない。
でも、あの声がただの夢じゃないことだけは、なぜか確信に近かった。
「駒川さん。その欠片、近づけたらどうなります?」
「試してみましょう」
駒川さんが白布の上の三つの欠片を、慎重に寄せていく。
その瞬間。
ぴり、と空気が震えた。
「……っ」
芳乃が小さく息を呑む。
三つの欠片が、まるで磁石みたいに引き寄せられていく。
誰も触れていないのに、吸い寄せられるように動いて――
こつり、こつりと重なり合い、断面同士がぴたりと噛み合った。
すると、さっきまで断面に走っていた細かなひびや欠け目が、淡い黒銀の光を帯びながら、すうっと埋まっていく。
「傷が……」
俺が思わず呟く。
欠片同士がただ繋がるだけじゃない。
噛み合った境目が滑らかになり、まるで最初から一つだったかのように傷が消えていく。
「合体した……しかも、傷まで」
俺は思わず息をのんだ。
白布の上には、さっきまで三つだったはずの欠片が、より大きな一塊として存在していた。
まだ完成形には遠い。けれど、大きさとしては――
「……これで、全体の三分の一くらいでしょうか」
芳乃が静かに言う。
「そうだな。まだ先は長そうだけど、確実に形は見えてきた」
俺も頷く。
駒川さんは、その欠片を見つめたまま言った。
「やはり、同一の憑代の欠片ですね」
「……なるほど。有地君が夢の中で聞いた“返せ”という言葉、もしかすると」
「もしかすると?」
俺が聞く。
駒川さんは欠片を見つめたまま、静かに告げた。
「憑代自身の意思?なのかもしれません。一つに戻りたがっている……そう考えれば辻褄が合います」
「一つに……戻りたがっている」
芳乃がその言葉を反芻する。
そして、欠片を見つめる目に、わずかな希望が宿った。
「もし、それが本当に元に戻れば……呪いが解ける可能性もあるのではないでしょうか」
「芳乃……」
「少なくとも、何も見えなかった時よりは前進しています。そうですよね」
その声は静かだったけれど、はっきりと未来を見ようとしていた。
ムラサメちゃんも真面目な顔で頷く。
「うむ。我輩もそう思うのじゃ」
「ムラサメ様?」
「このカケラが憑代の呪いに用いられていたのなら、カケラを集めて一つにして元に戻し、手厚く祭りあげて慰撫すれば、魂が鎮まり、砕かれたことへの怒りも収まるのではなかろうか?」
「……慰撫、ですか」
茉子が呟く。
その直後、駒川さんが俺を見た。
「有地君。今のムラサメ様は、何と?」
「ああ……“この欠片が憑代の呪いに使われてたなら、欠片を集めて一つに戻して、ちゃんと祀って慰めれば、魂が鎮まって、砕かれたことへの怒りも収まるんじゃないか”って」
「……そういうことですか」
駒川さんは、はっとしたように目を見開いた。
「私は祟り神を祓うことばかりに目が向いていました。ですが、根本にある魂を鎮める道を示すとは……さすがムラサメ様ですね」
「うむ、もっと褒めてもよいぞ」
ムラサメちゃんが胸を張る。
「……だそうです」
俺がそのまま訳すと、
駒川さんはわずかに口元を緩めた。
「ええ。そのくらいは言いたくなりますよ」
「ムラサメ様らしいですね」
芳乃もやわらかく微笑む。
「封じるだけではなく、鎮める……たしかに、その方が根本的です」
安晴さんも静かに頷いた。
「将臣君、今のムラサメ様にも伝えてくれるかな。僕も、その考えに賛成だよ」
「わかった。“安晴さんも、その考えに賛成だ”って」
「ふふん、わかっておるではないか」
ムラサメちゃんは満足そうに鼻を鳴らした。
今まで霧の中を手探りで進んでいたのが、ようやくうっすら道筋だけ見えてきた。
そんな感覚があった。
そして、だからこそ次に考えるべきことも自然と定まる。
「となると」
ムラサメちゃんが顎に手を当てる。
「診療所で祟り神が芳乃ではなく、レナを襲ったのも気に掛かるのう」
「レナさんを……?」
芳乃が視線を上げる。
「うむ。あれがただ穢れに暴れただけならまだしも、レナへ向かったのには意味があるやもしれぬ。その上で――レナが持っておる可能性は高いのう」
「高祖父が穂織の人間であったという話もある。因縁のある家に欠片が渡っておるなら、レナの家に受け継がれておってもおかしくない」
俺はムラサメちゃんの言葉をそのまま皆に伝えた。
駒川さんも小さく頷く。
「私も同意見です。祟り神がリヒテナウアーさんに反応したことも含めて、もし家に伝わる古い品があるなら、確認する価値は高いでしょう」
そこで安晴さんが静かに口を開いた。
「有力な手がかりだね。焦らず、でも逃さずに確かめていこう」
「はい、お父さん」
芳乃が頷く。
話が一段落したところで、駒川さんは立ち上がった。
「私は診療所へ戻ります。何かあればすぐ呼んでください」
「駒川さん、ありがとうございました」
芳乃が頭を下げる。
「礼には及びません、巫女姫様。むしろ今回はこちらの判断にも問題がありましたから」
「そんな……」
「では、失礼します」
駒川さんはそう言い残し、朝武家を後にした。
◇◇◇
それから時間が過ぎ、学院が終わった放課後。
リビングには、俺と芳乃、茉子、そしてムラサメちゃんがいた。
安晴さんは屋敷の中にはいるけど、この場にはいない。
俺は座布団にもたれながら、だいぶ落ち着いてきた身体の具合を確かめていた。
まだだるさはあるけど、朝よりはずっとましだ。
そこへ、玄関の方から軽やかな足音が近づいてくる。
次の瞬間、リビングの障子が勢いよく開いた。
「みなさん! お見舞いに来ました!」
明るい声とともに現れたのは、もちろんレナさんだった。
学院帰りらしく、制服姿のまま。
金色の髪を揺らし、手には見舞いらしい包みまで抱えている。
「レナさん」
「マサオミ! 起きていてよかったです!」
レナさんはぱっと表情を輝かせると、まっすぐこっちへやってくる。
「気分はどうですか? 痛いところはないですか? ちゃんとおとなしくしていますか?」
「最後の質問だけ妙に保護者っぽいな」
「大事なことです!」
「まあ、朝よりはだいぶまし」
「本当ですか? 無理してないですか?」
「してないしてない」
レナさんは俺の顔を覗き込んで、ようやく少し安心したように息をついた。
「よかったです……昨日も今日も、ずっと心配していたのですよ」
「心配かけたな」
「はい。すごくです」
「そこは否定しないんだな」
「しません!」
きっぱり言われて、ちょっと苦笑する。
芳乃も穏やかに口を開いた。
「レナさん、お見舞いありがとうございます」
「いいえ! 友達のお見舞いですから当然です!」
そこで俺は、少し真面目な顔になる。
「レナさん。ちょっと、今回のことを話したい」
「はい?」
「まず、今日ここで聞く話は、他言しないでほしい」
「秘密のお話ですね?」
「そう。かなり」
「わかりました!」
レナさんは胸に手を当てて、大きく頷いた。
「一昨日の事は、他の人には俺たち、山で怪我したってことにしてる」
「山?」
「うん。廉太郎たちにも、学院の連中にもそう説明するつもりだ」
「なるほどです。秘密作戦ですね!」
「まあ、そんな感じ」
「わかりました! 私もちゃんと合わせます!」
俺は今回の祟り神の件を、できるだけわかりやすく説明した。
学校で起きた異変。黒い泥。あの怪物。そして、欠片との関係。
レナさんは途中で何度も目を丸くしながらも、最後までしっかり話を聞いていた。
「……なるほどです」
レナさんは真剣な顔で頷く。
「確か、あのモンスターの名前は――タタミ神!」
「祟り神な」
俺が即座に突っ込む。
「違いましたか!」
「だいぶ違う」
「畳だと、急に和風の生活感が出ますね」
茉子がくすりと笑う。
「緊張感が一気に消えるのう」
ムラサメちゃんも呆れ半分で言った。
レナさんはえへへと笑ってから、こほんと咳払いした。
「では改めて、タタ……祟り神ですね!」
「訂正は偉い」
「ありがとうございます!」
空気が少し和んだところで、俺は改めて本題を切り出した。
「それで、レナさんに聞きたいことがある」
「はい?」
「レナさん、水晶石の欠片みたいなものを持ってないか?」
「水晶石のカケラ、ですか?」
「うん。古い破片みたいなものでもいい。家に代々伝わってるものとか、穂織に関係があるって言われて受け継いでるものとか」
「……あ」
レナさんは、はっとしたように目を見開いた。
「あります」
「やっぱり」
「えっ?」
芳乃が息を呑む。
レナさんは自分の鞄を開け、ごそごそと探り始めた。
やがて、丁寧に包まれた小さな布袋を取り出す。
「これです。私の家に代々伝わっていたものです。おじいちゃんのおじいちゃんから、おじいちゃんに伝わってきたと聞いています」
「見せてもらっていい?」
「もちろんです」
レナさんがそっと包みを開く。
中から現れたのは、鈍い色をした小さな欠片だった。
古びた破片にしか見えない。
けれど、それがテーブルの上の欠片に近づいた瞬間――ぴり、と空気が震えた。
「……間違いないですね」
芳乃が静かに呟く。
「これも、憑代の欠片です」
「うむ、間違いなかろう」
ムラサメちゃんも頷く。
やっぱりだ。
レナさんの家に伝わっていたものも、呪いの一部だった。
「レナさん」
俺は真っ直ぐに彼女を見た。
「すごく大事なものだってわかってる。でも、これを俺たちに譲ってもらえないかな」
芳乃も深く頭を下げる。
「お願いします、レナさん。この欠片は、朝武家の呪いを解くための重要な手がかりになるかもしれません」
「私からもお願いいたします」
茉子も続けた。
レナさんは少し驚いたように目をぱちぱちさせたあと、ふっとやわらかく笑った。
「……わかりました」
「お願いします! 俺に出来る事なら何でもします!」
「おお! 何でもしてくれるのですね? マ・サ・オ・ミ?」
「うっ」
しまった。
流れで言った“何でもします”が綺麗に回収されに来た。
ここで弱気になるのも格好がつかない。
俺は胸を張って言い切る。
「お、男に二言は無い!」
「おおー!」
なぜかレナさんのテンションが上がった。
そして、満面の笑みで言い放つ。
「では私、ニッポンの伝統芸能が見たいです♪」
「日本の伝統芸能? 能や歌舞伎でしょうか?」
茉子が首を傾げる。
「いいえ」
レナさんはにっこり笑って、両手を胸の前で合わせた。
「ハ・ラ・キ・リ~」
「そんな伝統芸能はありません!」
芳乃が即座に、しかも珍しく勢いよく突っ込んだ。
一瞬の静寂のあと、俺たちは揃って吹き出した。
「いや、さすがにそれは伝統芸能じゃないだろ」
「でもニッポンっぽいです!」
「偏った知識ですね」
茉子が少し呆れたように笑う。
「レナ、今のは心臓に悪いぞ」
ムラサメちゃんも肩をすくめる。
レナさんはくすくす笑ったあと、少しだけ表情をやわらげた。
「冗談です。本当の願いは、もっと普通のことですよ」
「本当の願い?」
俺が聞き返す。
レナさんは一人ひとりの顔を見るように視線を巡らせ、最後に俺を見た。
「これからも、友達でいてほしいです」
「……それだけ?」
「おっと、私は安い女ではありません。それだけではありません」
レナさんは少しだけ照れくさそうに、それでもしっかりと言った。
「ただの友達ではダメです。親友でないとダメです」
「親友」
「はい、親友です」
その言葉は軽やかな調子なのに、芯のところはまっすぐだった。
冗談めかしているけど、たぶんこれがレナさんの本音なんだろう。
「さぁ、どうしますか?」
煽るように、けれど少しだけ不安も混じった目で、レナさんが俺たちを見る。
俺は芳乃と茉子、そしてムラサメちゃんと顔を見合わせた。
答えなんて決まってる。
「もちろん」
俺が言う。
「はい。もちろんです、レナさん」
芳乃が続く。
「断る理由がありませんね」
茉子も微笑む。
「うむ、親友でよいぞ!」
ムラサメちゃんが偉そうに頷く。
するとレナさんは、ぱっと顔を輝かせた。
「では決まりです! みなさん、今日から親友です!」
「今日からって、そういうもんかな」
「そういうものです!」
「勢いが強い」
「親友は勢いも大事です!」
勢いで決まる親友、というのもどうなんだと思わなくはないが、レナさんらしいといえばものすごくレナさんらしかった。
「それでは」
レナさんは、布に包まれた欠片をそっと差し出した。
「これはみなさんにお渡しします。どうか役立ててください」
「ありがとう、レナさん」
「ありがとうございます」
芳乃が大事そうに受け取る。
俺たちはそのまま、すでに一つにまとまっていた欠片のそばへ、新しい欠片を置いた。
するとまた、欠片が微かに震え、吸い寄せられるように近づいていく。
白布の上で、断面がぴたりと噛み合い――
かちり、と小さな音を立てて一つに繋がった。
さらに、その繋ぎ目に残っていた傷やひびも、すうっと薄れ、ほとんど見えなくなっていく。
「……また傷が消えた」
俺が思わず呟く。
「これで、だいたい三分の一を超えたくらいか」
「ええ。まだ足りませんが、形はずいぶん見えてきました」
芳乃が静かに言う。
少しずつ、確かに前へ進んでいる。
それが目に見える形になったことが、妙に心強かった。
「これで、また一歩近づけますね」
芳乃が静かに言う。
「はい。きっと」
その瞳には、はっきりと希望が宿っていた。
……と、そこで。
「さて!」
急にレナさんがぱん、と手を叩いた。
「大事なお話は終わりましたね?」
「え、まあ一応」
「では次です!」
何が次なんだ。
嫌な予感より先に、レナさんはびしっと俺と茉子を指差した。
「マサオミもマコも怪我人です! そしてヨシノも疲れています!」
「たしかに、疲れてはおりますが……」
「私も怪我人扱いなのですね」
茉子が少しだけ苦笑する。
「腕、打ってるんだろ」
「ええ。駒川さんに、しばらくは安静にと言われてしまいました」
「常陸さん、そこで無理をする顔をしないでください」
芳乃がすかさず釘を刺す。
「……善処します」
「説得力がありませんね」
「ありませんね」
俺と芳乃の声が揃った。
「ですので! 私、家事を手伝います!」
「……家事?」
「はい、家事です! お掃除、お洗濯、お料理、お片付け、なんでも手伝います!」
「いや、でもさすがにそこまでしてもらうのは」
「遠慮はだめです!」
びしっと言い切られた。
「みなさん、山で怪我して、倒れて、疲れているのです。こういう時は周りが支えるべきです!」
「危うく真相を言いそうになってない?」
「なってません! ちゃんと山で怪我です!」
「微妙に危ないな……」
「でも、気持ちはありがたいですね」
芳乃がやわらかく笑う。
「それに私は親友です! 親友なのですから、これくらい当然です!」
「親友になってからの行動力がすごい」
「親友パワーです!」
「雑な必殺技名みたいに言わないで」
でも、そのまっすぐさに、誰も強くは否定できなかった。
芳乃は少し迷ったあと、やわらかく頭を下げる。
「……ありがとうございます、レナさん。ですが、朝武家は広いですし、神社の方もあります。一人では大変ですよ?」
「むむ……たしかにです」
「だから、やるなら無理のない範囲で――」
「足りないなら増やしましょう!」
「増やすって、何を」
「人手です!」
嫌な予感がした直後、レナさんはもうスマホを取り出していた。
「レンタロウとコハルに応援を頼みます!」
「行動が早い!」
「善は急げです!」
◇◇◇
数十分後。
朝武家の玄関が、やたら賑やかになっていた。
「よっ、将臣。起きたのか」
最初に顔を出したのは廉太郎だ。
「無茶しやがって。少しは加減しろよな」
「それができたら苦労してない」
「それを堂々と言うな」
その後ろから、小春がぴょこっと顔を出す。
「お兄ちゃん、大丈夫!? 顔色まだちょっと悪いよ?」
「心配かけたな、小春」
「もー、ほんとだよ。廉兄も起きたって聞いたらすぐ行くぞって言ってたんだから」
「おい、余計なこと言うな」
「えへへー」
そしてさらに、ぱたぱたと軽い足音が続いた。
「巫女姫様ー! お手伝いに来ましたー!」
元気よく入ってきたのは新田さんだ。
明るくて、人懐っこくて、声まで弾んでいる。
「有地くん起きてる! よかったー!」
「ありがとう、新田さん」
その後ろから、少し控えめに藤原さんも顔を出した。
「その……無理しないでくださいね、有地くん。まだお顔、ちょっとお疲れですし……」
やわらかくて優しい声だった。
新田さんとは対照的だけど、どちらも気遣いがまっすぐ伝わってくる。
「藤原さんもありがとう」
「いえ……少しでもお力になれたら、って」
もちろん、皆には山で怪我をしたことになっている。
祟り神や欠片のことは伏せたままだ。
「山であんな派手にやらかすとか、将臣らしいよな」
廉太郎が呆れたように言う。
「いや、俺そんな野生児みたいな扱い?」
「だってありえるだろ」
「否定しきれないのが嫌だな……」
「お兄ちゃん、今度からもうちょっと慎重にね?」
「善処します」
「将臣さん、その返事は信用できませんね」
茉子が即座に言う。
「みんな同じこと言うな」
思った以上に大人数になってきた。
気づけば朝武家は、ちょっとした共同作業の現場みたいになっていた。
廉太郎は重い荷物を運び、小春は器用に片付けを手伝い、新田さんは「これやります! あれもやります!」と元気よく動き回る。
藤原さんはその横で、丁寧に洗い物や整理を進めていた。
「将臣、そこ座ってろ。怪我人がうろちょろすると邪魔だ」
「はいはい」
「お兄ちゃんは休んでて! 飲み物持ってくる?」
「……なんか申し訳ない」
「親友と従妹パワーです!」
なぜかレナさんが胸を張る。
「そこに君まで乗るんだ」
「もちろんです!」
そしてそのレナさん本人も、めちゃくちゃ働いていた。
「ヨシノ、これはどこですか?」
「それは神社で使うものですので、こちらの棚に」
「了解です!」
「レナさん、そちらは刃物ですのでお気をつけください」
「マコ、任せてください! 私はやればできます!」
「今ちょっと不安になったので、やはり私がやります」
「ひどいです!」
「巫女姫様、これこっちでいいですかー?」
新田さんが元気よく聞く。
「はい、新田さん。ありがとうございます」
「えへへ、任せてください!」
「藤原さん、無理はしていませんか?」
芳乃が気遣うと、
「だ、大丈夫です。こういうの、嫌いじゃないので……」
藤原さんは少し照れたように笑った。
「春菜、そっち終わったらこっち手伝ってくれ」
廉太郎が声をかける。
「はーい、廉太郎!」
「美月も悪いな」
「ううん、気にしないで、廉太郎くん」
廉太郎だけが二人を名前呼びしているのが、妙に自然で、少しだけこの辺りの人間関係が見えてくる。
賑やかなやり取りが、広い屋敷に心地よく響く。
つい二日前まで、あの学校で死ぬかもしれない戦いをしていたなんて、ちょっと信じられないくらいだった。
でも、こういう時間があるから、俺たちはまた前を向けるんだろう。
夕方頃には、驚くほど家の中が整っていた。
「おお……」
「すごいですね……」
芳乃も目を丸くしている。
「これで任務完了です!」
レナさんがびしっとポーズを決める。
「任務って」
「朝武家家事支援作戦です!」
なんだそれ。
でも、たしかに作戦は大成功だ。
芳乃は皆の前で丁寧に頭を下げた。
「皆さん、本当にありがとうございました。もしよろしければ、お礼に夕食を――」
「あー、悪い巫女姫様」
廉太郎が頭をかいた。
「うちはもう家で用意されてるんだ」
「私も、おじいちゃんが今日は早く帰ってこいって言ってたの」
小春も続く。
「私も今日は家でご飯なんですー。また今度ゆっくり呼んでください!」
新田さんが元気よく言い、
「私も……その、家で待ってるので。また今度、ぜひ」
藤原さんもやわらかく微笑んだ。
それを聞いて、芳乃は残念そうにしながらも微笑む。
「そうでしたか。では、今日はこのお気持ちだけ受け取ってください」
「気にしなくていいって」
「また何かあったら呼んでくれよ、巫女姫様」
「おう、今度は倒れる前に頼れよ、将臣」
「善処します」
「たぶんしない顔ですね」
茉子がぼそっと言う。
「信用がない」
「実績がありますので」
ぐうの音も出ない。
そうして、廉太郎たちは帰っていった。
残ったのは、俺たちとレナさん。
「レナさんも送るよ」
俺が言うと、レナさんは首を振った。
「いいえ、私は夕食をいただいて、お風呂もいただいてから志那津荘へ帰ります!」
「さらっと予定を確定させたな」
「たくさん働きましたから、ご褒美は必要です!」
「レナさんらしいですね……」
芳乃がくすっと笑う。
「もちろん、お風呂も皆さんと仲良く入りたいです!」
「お風呂も!?」
「はい! ヨシノ、マコ、ムラサメちゃん、一緒に入りましょう!」
「うむ? 風呂はよいのう」
「ムラサメ様は乗り気なんですね」
「湯は好きじゃからのう」
そしてなぜか、その流れは自然に成立した。
夕食はいつもより少し賑やかだった。
レナさんが家事を手伝ったあとだからか、妙な一体感まである。
「これ、美味しいです!」
「口に合ってよかったです、レナさん」
「ヨシノのご飯は最強です!」
「そんな、大げさです」
「いえ、本当です。マサオミ、毎日これを食べているのですか?」
「まあ、食べてる」
「ずるいです!」
「ずるいの概念おかしくない?」
「親友として少し分けてほしいです!」
「分けるってどうやって」
「気持ちでです!」
「無理だろ」
ちなみにムラサメちゃんは、俺が箸でつまんで差し出したものを「うむ、苦しゅうない」と言いながら食べていた。
本人は偉そうだけど、その仕組みを知らない人が見たらちょっと不思議な光景だろう。
戦いのあとだからこそ、こういう普通の時間が身に沁みる。
そして食後、女子組はそのまま風呂へ向かった。
穂織の湯は、この土地ならではの不思議な力をわずかに宿している。
神性を若干ながら帯びていて、穢れを祓い、厄を落とし、怪我の治りも少し良くする――朝武家では昔からそう言われているらしい。
だから今日の風呂は、ただ汗を流すだけじゃない。
傷ついた体と心を休める意味でも、ちょうどいいのかもしれない。
女子風呂の方では、さっそく賑やかな声が上がっていた。
「わぁ……いいお湯です!」
レナさんの弾んだ声が響く。
「穂織のお湯は、少し特別なんです」
芳乃がやわらかく説明する。
「神性をわずかに帯びていて、穢れを祓い、厄を落とす力があると伝えられています。怪我の治りも少し良くなるそうですよ」
「なるほどです! では今日はスペシャルお風呂ですね!」
「そうですね」
茉子も肩まで湯に浸かりながら、小さく息をつく。
「こうして入っていると、腕の痛みも少し和らぐ気がします」
「茉子、今日は湯船で暴れないでくださいね」
「暴れませんよ」
「たぶん」
そのとき、湯船の中でムラサメちゃんがじーっと三人を見比べていた。
「……むぅ」
「ムラサメ様? どうかしましたか?」
芳乃が首を傾げる。
ムラサメちゃんは露骨に不満そうな顔で、芳乃、茉子、レナさんの胸元を順番に見た。
「なんというか……ずるいのう」
「ずるい?」
レナさんがきょとんとする。
「うむ。芳乃も、茉子も、レナも……みんな立派すぎるのじゃ」
「……何がでしょう?」
茉子が聞くと、
「胸じゃ」
ムラサメちゃんはきっぱり言った。
一瞬、湯気の中で空気が止まる。
「む、ムラサメ様!?」
芳乃が顔を赤くする。
「いきなり何を仰っているのですか!」
「事実じゃろう! 我輩だけ、明らかに成長の余地を残しすぎておるではないか!」
「そこ、比較するところですか……?」
茉子が呆れ半分で言う。
レナさんは自分の胸元を見てから、ムラサメちゃんを見て、にこっと笑った。
「ムラサメちゃんは、小さくてかわいいのです!」
「慰めになっておらぬ!」
「ええっ!?」
「我輩も、ご主人に“おお……”と思わせたいのじゃ!」
「何を張り合ってるんですか!?」
芳乃の突っ込みが冴える。
茉子は肩を震わせながら笑いをこらえていた。
「ですが、たしかにムラサメ様はそのままで愛らしいかと」
「茉子までそう言う! 年少枠扱いは不本意じゃ!」
「年少枠……」
レナさんが吹き出す。
「かわいいです!」
「じゃーかーらー!」
わいわいと騒がしい声が湯気の中に響く。
そして、ひとしきり騒いだあと、芳乃が少しぼんやりとした様子で額に手を当てた。
「……あれ」
「ヨシノ?」
レナさんが首を傾げる。
「少し、のぼせたのかもしれません」
「大丈夫ですか、芳乃様」
茉子が気遣う。
「はい、少し早めに上がれば大丈夫だと思います」
「無理は禁物じゃぞ」
ムラサメちゃんも言う。
芳乃は小さく頷き、先に湯船を出た。
◇◇◇
その頃、俺は自分の部屋で少し休みながら、ぼんやり天井を見ていた。
体調はまだ万全じゃない。けど、動けないほどでもない。
風呂上がりのタイミングを見て、自分も入ろうと思い、廊下へ出る。
するとちょうど、その角を曲がったところで――
「あ……」
小さな声がした。
見れば、先に風呂から上がったらしい芳乃が、廊下に立っていた。
薄い寝間着姿に、まだ少し湿った白髪。
頬がほんのり赤い。
「芳乃? どうした」
「いえ、その……少し、のぼせたのかもしれません」
そう言った直後、ふらりと身体が揺れた。
「っ、危ない!」
反射的に手を伸ばす。
倒れかけた芳乃の身体を、そのまま抱き止める形になった。
「……!」
細い肩。
ふわりと石鹸と湯上がりの匂いが鼻先をかすめる。
あ、これまずいやつだ、と認識したときにはもう遅かった。
芳乃は俺の腕の中で目を見開いて固まり、みるみるうちに顔を赤くした。
「よ、芳乃? 大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ、です……!」
「いや全然大丈夫そうに見えないけど」
「だ、大丈夫ですから……!」
声が少し上ずっている。
というか俺も普通に心臓に悪い。
慌てて身体を支え直すと、芳乃ははっと我に返ったように俺から距離を取った。
「す、すみません……!」
「いや、謝るのはこっちだろ。勝手に抱き止めたし」
「いえ、あの、あれは必要なことでしたので……!」
必要なこと、と言いながらも、顔は真っ赤だ。
耳まで赤い。
なんだこれ。
可愛すぎて困るんだけど。
いやいや、今それどころじゃない。
「とりあえず座るか? まだふらついてるなら」
「い、いえ。もう平気です」
「ほんとか?」
「……少しだけ、休めば」
「じゃあ早めに寝た方がいいな」
「はい……そうします」
芳乃は胸元を押さえるようにして、視線をさまよわせたあと、ようやく小さく頷いた。
「将臣さん」
「ん?」
「その……助けてくださって、ありがとうございました」
「どういたしまして」
「…………」
なぜか芳乃はそこでまた少し赤くなって、そそくさと踵を返した。
「おやすみなさい、将臣さん!」
「あ、うん。おやすみ、芳乃」
ぱたぱたと少し早足で去っていく背中を見送りながら、俺は廊下にひとり取り残される。
「……なんだこれ」
心臓がうるさい。
いや、倒れそうな相手を支えただけだ。
ただそれだけ。
それだけなんだけど――
「ご主人、にやにやしておるのう」
「うわっ!?」
いつの間にか背後にいたムラサメちゃんに、思いきりびくっとした。
「なんで無音で現れるの!?」
「我輩はもともとそういう存在じゃからのう」
「今の見てた?」
「見ておった」
「最悪だ」
「安心せい。面白かっただけじゃ」
「全然安心できない」
ムラサメちゃんはくっくっと楽しそうに笑う。
「芳乃、ずいぶん赤くなっておったのう」
「言うな」
「ご主人もじゃぞ?」
「……言うなって」
即座に返すと、ムラサメちゃんは満足そうに頷いた。
「まあよい。今日は皆、少し前に進めた日じゃ」
「……そうだな」
「欠片も手に入った。親友も増えた。悪くない一日じゃ」
「最後のまとめ方が雑だけど、まあ否定はしない」
「ふふふ。では、風呂に入ってさっさと休むがよい」
そう言って、ムラサメちゃんはふわりと姿を消す。
ひとり残された廊下で、俺は小さく息をついた。
呪いの正体は、まだ遠い。
欠片もまだ足りない。
あの夢の中の男の声も、きっとこれからもっと近づいてくる。
それでも。
今日、俺たちは確かに一つ手がかりを手に入れた。
そしてそれは、呪いだけじゃなく、人との繋がりによってもたらされたものだった。
レナさんの願い。
親友でいること。
それはたぶん、想像していた以上に大きな意味を持つんだろう。
「……親友、か」
呟いてみると、少しだけ照れくさい。
でも悪くない。
悪くないどころか、案外こういうのは、今の俺にはありがたいのかもしれない。
平和な日常は、相変わらずすぐどこかへ吹き飛ぶ。
けれどそのたびに、誰かが手を伸ばしてくれる。
だったらきっと、まだ戦える。
俺はそう思いながら、湯気の気配が残る廊下の先へと歩き出した。
――呪いはまだ終わらない。
けれど、ひとりじゃない。
そう思えた夜だった。