『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第20話 欠片が繋ぐもの、親友という願い

 

 

「――許さない……許さない……返せ……許さない……許さない……返せ! 許さない……許さない……返せ……――」

 

 耳の奥に、まとわりつくような男の声が響いていた。

 

 低く、濁っていて、聞いているだけで胸の奥を嫌なものが這い回るような声だった。

 恨みと執着だけを煮詰めて、人の形をした何かに無理やり喋らせたような、不気味な呪詛。

 

 暗い。

 どこまでも暗い。

 

 底の見えない闇の中で、その男の声だけが何度も何度も反響する。

 

 許さない。

 返せ。

 許さない。

 返せ。

 

 まるで壊れた機械みたいに、同じ言葉を執拗に繰り返しながら、少しずつ、少しずつ近づいてくる。

 

 寒気が走った。

 

 それは、あの祟り神の唸り声とはまた違う。

 もっと古くて、もっと湿っていて、もっと根深いもの。

 あの黒い影の奥底に沈んでいた、呪いそのものの芯みたいな気配だった。

 

 俺たちが相手にしたのは、まだ表面だけなのかもしれない。

 

 そんな直感だけが、妙にはっきり胸に残る。

 

「……っ!」

 

 そこで、俺は勢いよく目を開けた。

 

 見慣れた天井が視界に入る。

 薄い木目の天井板。障子越しに差し込むやわらかな光。鼻をくすぐる畳の匂いと、かすかな薬草の気配。

 

「……朝武家、か」

 

 喉がひどく乾いていた。

 身体は鉛みたいに重い。指先を少し動かしただけで、全身がぎしりと軋むようなだるさが走る。

 

 けれど、生きている。

 

 まずその事実に、ひとつ息をついた。

 

「おお、ご主人! ようやく起きたか!」

 

 元気のいい声がして視線を向けると、枕元で心配そうにこちらを覗き込んでいたムラサメちゃんが、ぱっと顔を明るくした。

 

「ムラサメちゃん……」

「うむ! 待っておれ、今すぐ芳乃たちを呼んでくるのじゃ!」

 

 そう言うなり、ムラサメちゃんはばたばたと部屋を飛び出していく。

 

 相変わらず元気だな、と思いながら、俺はぼんやり天井を見上げた。

 

 そういえば、ムラサメちゃんは霊体だから、基本的に物には触れない。

 唯一、俺の体だけには触れられる。俺が持っているものなら一緒に触れられるし、食べ物だって俺から手渡しすれば食べられるけど、一人で看病らしいことをするのは難しい。

 

 それでも真っ先に俺の異変に気づいて、こうして誰より早く皆を呼びに行ってくれる。

 その気持ちだけで、なんだか少し救われる気がした。

 

 ほどなくして、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。

 

「将臣さん……!」

 

 最初に部屋へ飛び込んできたのは芳乃だった。

 その後ろに茉子、安晴さん、駒川さん、そしてムラサメちゃんが続く。

 

 白い髪を揺らしながら駆け寄ってきた芳乃は、俺の顔を見た瞬間、心底ほっとしたように息をついた。

 

「よかった……本当によかったです」

「悪い。心配かけた」

「本当です。とても、心配しました」

「う……すみません」

「ですが、起きてくださってよかったです」

 

 そう言って、芳乃はやわらかく微笑んだ。

 

 その隣で腕を組んでいた茉子も、小さく息をつく。

 

「将臣さん、ようやくですか」

「待たせた?」

「ええ。ずいぶんと。芳乃様が何度も何度も様子を見に来ておりましたので」

「茉子」

「事実ですが?」

「いや、その情報今いる?」

「必要かどうかはともかく、伝えておくべきかと」

「そこは優しさで伏せてくれても」

「優しさならありますよ。生きていてよかったです、将臣さん」

「……ありがと」

 

 少し意地悪な口調の中に、ちゃんと本音が混じっている。

 それがわかったから、素直にそう返した。

 

 安晴さんも、安心したように表情を緩めた。

 

「将臣君、よかった。本当に無事でよかったよ」

「安晴さんも心配かけました」

「それはもちろん心配するさ。君はもう、他人じゃないんだからね」

 

 その言葉が、じんわり胸に沁みた。

 

 駒川さんは、少し離れた位置で冷静にこちらを見ていた。

 腕や肩口に軽い青あざが残っているらしく、いつも通り平然とはしているものの、やはりあの場では無傷では済まなかったらしい。

 

「起きましたか」

「駒川さんも怪我したって聞きました」

「軽傷です。青あざができた程度ですね。あのときは気絶していましたが」

「それを軽傷って言うの、この家の基準おかしくないですか」

「あなた方に比べれば十分軽いですよ」

 

 さらっと返された。

 この人、本当にぶれないな。

 

「体調は?」

「だるいです。めちゃくちゃ」

「それなら上出来です」

「上出来の基準が低い」

「神力の消耗に加えて、精神的な負荷も大きかったのでしょう。事件から二日経っています」

「……二日?」

 

 思わず聞き返した。

 

 二日。

 つまり、あの戦いのあと、丸々二日意識がなかったのか。

 

「常陸さんも消耗していましたが、有地君の方が深く眠っていました」

「そっか……皆は?」

「私はもう動けます」

 茉子が答える。

「ですが、腕に打撲を負っています。しばらくは安静に、とみずはさんに言われています」

「茉子、腕やったのか」

「ええ。大したことはありません」

「大したことはありません、ではありませんよ、常陸さん」

 駒川さんが即座に訂正する。

「無理をして悪化させたら厄介です。しばらくは安静です」

「……とのことです」

 茉子が少しだけ肩をすくめる。

 

「私も大丈夫です」

 芳乃も続けた。

「リヒテナウアーさんも、大きなお怪我はありません」

「駒川も青あざだけで済んだしのう」

 ムラサメちゃんがうんうん頷く。

 

 すると、安晴さんがきょとんとした顔で俺を見た。

 

「今、ムラサメ様は何て?」

「ああ、“駒川さんも青あざだけで済んだし、皆生きてるのが一番だ”って」

「なるほど。うん、たしかにその通りだね」

 安晴さんはやわらかく頷いた。

 

 駒川さんも、ほんの少しだけ目を細める。

 

「有地君。今のもムラサメ様ですか?」

「はい。“皆、生きておる。まずはそこを喜ぶべきじゃ”って」

「……ええ。その視点は大事ですね」

 

 ムラサメちゃんの声は、俺と芳乃と茉子にしか聞こえない。

 だから安晴さんや駒川さんは、こうして時々俺に確認する。

 

「で、今から話か」

「ええ」

 駒川さんが頷く。

「有地君が起きたら説明することになっていました。動けそうなら、リビングへ来てください」

 

 俺はゆっくりと頷き、皆に支えられながら部屋を出た。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 リビングへ入ると、テーブルの上に白布が敷かれ、その上に小さな欠片が三つ置かれていた。

 

 どれも不揃いな古い破片だ。

 けれど、近くに寄るだけで、空気がぴりつくような妙な圧を感じる。

 

 席についた俺を確認して、駒川さんが口を開いた。

 

「まず、今回の祟り神の発生原因から説明します」

「……お願いします」

 芳乃が静かに言う。

 

 駒川さんは、白布の上の欠片を見やった。

 

「もともと、私のところへ最初に持ち込まれた憑代の欠片が一つありました」

「最初に俺たちが持って行ったやつですね」

「ええ。そして次に、有地君とムラサメ様が見つけた欠片が一つ」

「うむ」

 ムラサメちゃんが頷く。

「そして今回、祟り神を祓ったあと、有地君が握りしめていた欠片が一つ」

「つまり、今ここにあるのが合計三つ」

 俺が確認すると、駒川さんは頷いた。

 

「はい。そして、今回の祟り神は、この欠片が原因で発生しました」

 

 場の空気が引き締まる。

 

「私が保管していた欠片を調べていた時のことです。欠片が、瓶の中にある段階から妙な反応を見せていました」

「妙な反応……ですか?」

 芳乃が尋ねる。

 

「ええ。互いに惹かれ合っているような気配があったんです。そこで、私は一つを取り出し、少しだけ表面を削ろうとしました」

「それで?」

 俺が促すと、駒川さんは淡々と続けた。

 

「欠片から、黒い泥のようなものが吹き出しました」

「黒い泥……」

 茉子が眉をひそめる。

 

「最初は液体とも煙ともつかない、不定形の塊でした。ですが、それが瞬く間に膨れ上がり、穢れをまとって、祟り神として発現したのです」

「つまり、あの祟り神は……欠片に溜まっていた呪詛の具現化」

「概ね、その認識で合っています」

 駒川さんが答える。

「完全な本体ではなくとも、欠片に蓄積された呪いが形を得た結果でしょう」

 

 重い沈黙が落ちた。

 

 俺は白布の上の欠片を見る。

 たったこれだけの破片の中に、あんなものが眠っていたのか。

 

「……俺、夢の中で声を聞いた」

 ふと、口をついて出た。

 

 全員の視線がこっちに集まる。

 

「夢?」

 芳乃が静かに聞き返す。

 

「うん。真っ暗な中で、男の声がしてた。“許さない”“返せ”って、ずっと繰り返してた」

「男の声、ですか……」

 芳乃の表情が引き締まる。

 

「普通の悪夢って感じじゃなかった。あの祟り神の奥にあったもの……呪いの芯みたいな感じがした」

「ご主人もそう感じたか」

 ムラサメちゃんが腕を組んで頷く。

「我輩も、あれはただの穢れの塊ではないと思っておった」

 

 駒川さんが少し首を傾げる。

 

「有地君。今のムラサメ様は?」

「ああ、“あれはただの穢れの塊じゃないと思ってた”って」

「……なるほど」

 

「有地君が欠片に触れた影響かもしれませんね」

 駒川さんが言う。

「神力を通して、欠片に残る呪いの記憶に触れた可能性もあります」

 

 それが正しいかはわからない。

 でも、あの声がただの夢じゃないことだけは、なぜか確信に近かった。

 

「駒川さん。その欠片、近づけたらどうなります?」

「試してみましょう」

 

 駒川さんが白布の上の三つの欠片を、慎重に寄せていく。

 

 その瞬間。

 

 ぴり、と空気が震えた。

 

「……っ」

 芳乃が小さく息を呑む。

 

 三つの欠片が、まるで磁石みたいに引き寄せられていく。

 誰も触れていないのに、吸い寄せられるように動いて――

 

 こつり、こつりと重なり合い、断面同士がぴたりと噛み合った。

 

 すると、さっきまで断面に走っていた細かなひびや欠け目が、淡い黒銀の光を帯びながら、すうっと埋まっていく。

 

「傷が……」

 俺が思わず呟く。

 

 欠片同士がただ繋がるだけじゃない。

 噛み合った境目が滑らかになり、まるで最初から一つだったかのように傷が消えていく。

 

「合体した……しかも、傷まで」

 俺は思わず息をのんだ。

 

 白布の上には、さっきまで三つだったはずの欠片が、より大きな一塊として存在していた。

 まだ完成形には遠い。けれど、大きさとしては――

 

「……これで、全体の三分の一くらいでしょうか」

 芳乃が静かに言う。

「そうだな。まだ先は長そうだけど、確実に形は見えてきた」

 俺も頷く。

 

 駒川さんは、その欠片を見つめたまま言った。

 

「やはり、同一の憑代の欠片ですね」

「……なるほど。有地君が夢の中で聞いた“返せ”という言葉、もしかすると」

「もしかすると?」

 俺が聞く。

 

 駒川さんは欠片を見つめたまま、静かに告げた。

 

「憑代自身の意思?なのかもしれません。一つに戻りたがっている……そう考えれば辻褄が合います」

「一つに……戻りたがっている」

 芳乃がその言葉を反芻する。

 

 そして、欠片を見つめる目に、わずかな希望が宿った。

 

「もし、それが本当に元に戻れば……呪いが解ける可能性もあるのではないでしょうか」

「芳乃……」

「少なくとも、何も見えなかった時よりは前進しています。そうですよね」

 

 その声は静かだったけれど、はっきりと未来を見ようとしていた。

 

 ムラサメちゃんも真面目な顔で頷く。

 

「うむ。我輩もそう思うのじゃ」

「ムラサメ様?」

「このカケラが憑代の呪いに用いられていたのなら、カケラを集めて一つにして元に戻し、手厚く祭りあげて慰撫すれば、魂が鎮まり、砕かれたことへの怒りも収まるのではなかろうか?」

「……慰撫、ですか」

 茉子が呟く。

 

 その直後、駒川さんが俺を見た。

 

「有地君。今のムラサメ様は、何と?」

「ああ……“この欠片が憑代の呪いに使われてたなら、欠片を集めて一つに戻して、ちゃんと祀って慰めれば、魂が鎮まって、砕かれたことへの怒りも収まるんじゃないか”って」

「……そういうことですか」

 

 駒川さんは、はっとしたように目を見開いた。

 

「私は祟り神を祓うことばかりに目が向いていました。ですが、根本にある魂を鎮める道を示すとは……さすがムラサメ様ですね」

「うむ、もっと褒めてもよいぞ」

 ムラサメちゃんが胸を張る。

「……だそうです」

 俺がそのまま訳すと、

 駒川さんはわずかに口元を緩めた。

 

「ええ。そのくらいは言いたくなりますよ」

「ムラサメ様らしいですね」

 芳乃もやわらかく微笑む。

「封じるだけではなく、鎮める……たしかに、その方が根本的です」

 安晴さんも静かに頷いた。

「将臣君、今のムラサメ様にも伝えてくれるかな。僕も、その考えに賛成だよ」

「わかった。“安晴さんも、その考えに賛成だ”って」

「ふふん、わかっておるではないか」

 ムラサメちゃんは満足そうに鼻を鳴らした。

 

 今まで霧の中を手探りで進んでいたのが、ようやくうっすら道筋だけ見えてきた。

 そんな感覚があった。

 

 そして、だからこそ次に考えるべきことも自然と定まる。

 

「となると」

 ムラサメちゃんが顎に手を当てる。

「診療所で祟り神が芳乃ではなく、レナを襲ったのも気に掛かるのう」

「レナさんを……?」

 芳乃が視線を上げる。

 

「うむ。あれがただ穢れに暴れただけならまだしも、レナへ向かったのには意味があるやもしれぬ。その上で――レナが持っておる可能性は高いのう」

「高祖父が穂織の人間であったという話もある。因縁のある家に欠片が渡っておるなら、レナの家に受け継がれておってもおかしくない」

 俺はムラサメちゃんの言葉をそのまま皆に伝えた。

 

 駒川さんも小さく頷く。

 

「私も同意見です。祟り神がリヒテナウアーさんに反応したことも含めて、もし家に伝わる古い品があるなら、確認する価値は高いでしょう」

 そこで安晴さんが静かに口を開いた。

 

「有力な手がかりだね。焦らず、でも逃さずに確かめていこう」

「はい、お父さん」

 芳乃が頷く。

 

 話が一段落したところで、駒川さんは立ち上がった。

 

「私は診療所へ戻ります。何かあればすぐ呼んでください」

「駒川さん、ありがとうございました」

 芳乃が頭を下げる。

「礼には及びません、巫女姫様。むしろ今回はこちらの判断にも問題がありましたから」

「そんな……」

「では、失礼します」

 

 駒川さんはそう言い残し、朝武家を後にした。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 それから時間が過ぎ、学院が終わった放課後。

 

 リビングには、俺と芳乃、茉子、そしてムラサメちゃんがいた。

 安晴さんは屋敷の中にはいるけど、この場にはいない。

 

 俺は座布団にもたれながら、だいぶ落ち着いてきた身体の具合を確かめていた。

 まだだるさはあるけど、朝よりはずっとましだ。

 

 そこへ、玄関の方から軽やかな足音が近づいてくる。

 

 次の瞬間、リビングの障子が勢いよく開いた。

 

「みなさん! お見舞いに来ました!」

 

 明るい声とともに現れたのは、もちろんレナさんだった。

 

 学院帰りらしく、制服姿のまま。

 金色の髪を揺らし、手には見舞いらしい包みまで抱えている。

 

「レナさん」

「マサオミ! 起きていてよかったです!」

 

 レナさんはぱっと表情を輝かせると、まっすぐこっちへやってくる。

 

「気分はどうですか? 痛いところはないですか? ちゃんとおとなしくしていますか?」

「最後の質問だけ妙に保護者っぽいな」

「大事なことです!」

「まあ、朝よりはだいぶまし」

「本当ですか? 無理してないですか?」

「してないしてない」

 

 レナさんは俺の顔を覗き込んで、ようやく少し安心したように息をついた。

 

「よかったです……昨日も今日も、ずっと心配していたのですよ」

「心配かけたな」

「はい。すごくです」

「そこは否定しないんだな」

「しません!」

 

 きっぱり言われて、ちょっと苦笑する。

 

 芳乃も穏やかに口を開いた。

 

「レナさん、お見舞いありがとうございます」

「いいえ! 友達のお見舞いですから当然です!」

 

 そこで俺は、少し真面目な顔になる。

 

「レナさん。ちょっと、今回のことを話したい」

「はい?」

「まず、今日ここで聞く話は、他言しないでほしい」

「秘密のお話ですね?」

「そう。かなり」

「わかりました!」

 

 レナさんは胸に手を当てて、大きく頷いた。

 

「一昨日の事は、他の人には俺たち、山で怪我したってことにしてる」

「山?」

「うん。廉太郎たちにも、学院の連中にもそう説明するつもりだ」

「なるほどです。秘密作戦ですね!」

「まあ、そんな感じ」

「わかりました! 私もちゃんと合わせます!」

 

 俺は今回の祟り神の件を、できるだけわかりやすく説明した。

 学校で起きた異変。黒い泥。あの怪物。そして、欠片との関係。

 

 レナさんは途中で何度も目を丸くしながらも、最後までしっかり話を聞いていた。

 

「……なるほどです」

 レナさんは真剣な顔で頷く。

「確か、あのモンスターの名前は――タタミ神!」

「祟り神な」

 俺が即座に突っ込む。

「違いましたか!」

「だいぶ違う」

「畳だと、急に和風の生活感が出ますね」

 茉子がくすりと笑う。

「緊張感が一気に消えるのう」

 ムラサメちゃんも呆れ半分で言った。

 

 レナさんはえへへと笑ってから、こほんと咳払いした。

 

「では改めて、タタ……祟り神ですね!」

「訂正は偉い」

「ありがとうございます!」

 

 空気が少し和んだところで、俺は改めて本題を切り出した。

 

「それで、レナさんに聞きたいことがある」

「はい?」

「レナさん、水晶石の欠片みたいなものを持ってないか?」

「水晶石のカケラ、ですか?」

「うん。古い破片みたいなものでもいい。家に代々伝わってるものとか、穂織に関係があるって言われて受け継いでるものとか」

「……あ」

 

 レナさんは、はっとしたように目を見開いた。

 

「あります」

「やっぱり」

「えっ?」

 芳乃が息を呑む。

 

 レナさんは自分の鞄を開け、ごそごそと探り始めた。

 やがて、丁寧に包まれた小さな布袋を取り出す。

 

「これです。私の家に代々伝わっていたものです。おじいちゃんのおじいちゃんから、おじいちゃんに伝わってきたと聞いています」

「見せてもらっていい?」

「もちろんです」

 

 レナさんがそっと包みを開く。

 

 中から現れたのは、鈍い色をした小さな欠片だった。

 

 古びた破片にしか見えない。

 けれど、それがテーブルの上の欠片に近づいた瞬間――ぴり、と空気が震えた。

 

「……間違いないですね」

 芳乃が静かに呟く。

「これも、憑代の欠片です」

「うむ、間違いなかろう」

 ムラサメちゃんも頷く。

 

 やっぱりだ。

 レナさんの家に伝わっていたものも、呪いの一部だった。

 

「レナさん」

 俺は真っ直ぐに彼女を見た。

「すごく大事なものだってわかってる。でも、これを俺たちに譲ってもらえないかな」

 

 芳乃も深く頭を下げる。

 

「お願いします、レナさん。この欠片は、朝武家の呪いを解くための重要な手がかりになるかもしれません」

「私からもお願いいたします」

 茉子も続けた。

 

 レナさんは少し驚いたように目をぱちぱちさせたあと、ふっとやわらかく笑った。

 

「……わかりました」

「お願いします! 俺に出来る事なら何でもします!」

 

「おお! 何でもしてくれるのですね? マ・サ・オ・ミ?」

「うっ」

 

 しまった。

 流れで言った“何でもします”が綺麗に回収されに来た。

 

 ここで弱気になるのも格好がつかない。

 俺は胸を張って言い切る。

 

「お、男に二言は無い!」

「おおー!」

 

 なぜかレナさんのテンションが上がった。

 

 そして、満面の笑みで言い放つ。

 

「では私、ニッポンの伝統芸能が見たいです♪」

「日本の伝統芸能? 能や歌舞伎でしょうか?」

 茉子が首を傾げる。

「いいえ」

 

 レナさんはにっこり笑って、両手を胸の前で合わせた。

 

「ハ・ラ・キ・リ~」

「そんな伝統芸能はありません!」

 芳乃が即座に、しかも珍しく勢いよく突っ込んだ。

 

 一瞬の静寂のあと、俺たちは揃って吹き出した。

 

「いや、さすがにそれは伝統芸能じゃないだろ」

「でもニッポンっぽいです!」

「偏った知識ですね」

 茉子が少し呆れたように笑う。

「レナ、今のは心臓に悪いぞ」

 ムラサメちゃんも肩をすくめる。

 

 レナさんはくすくす笑ったあと、少しだけ表情をやわらげた。

 

「冗談です。本当の願いは、もっと普通のことですよ」

「本当の願い?」

 俺が聞き返す。

 

 レナさんは一人ひとりの顔を見るように視線を巡らせ、最後に俺を見た。

 

「これからも、友達でいてほしいです」

「……それだけ?」

「おっと、私は安い女ではありません。それだけではありません」

 

 レナさんは少しだけ照れくさそうに、それでもしっかりと言った。

 

「ただの友達ではダメです。親友でないとダメです」

「親友」

「はい、親友です」

 

 その言葉は軽やかな調子なのに、芯のところはまっすぐだった。

 冗談めかしているけど、たぶんこれがレナさんの本音なんだろう。

 

「さぁ、どうしますか?」

 

 煽るように、けれど少しだけ不安も混じった目で、レナさんが俺たちを見る。

 

 俺は芳乃と茉子、そしてムラサメちゃんと顔を見合わせた。

 

 答えなんて決まってる。

 

「もちろん」

 俺が言う。

「はい。もちろんです、レナさん」

 芳乃が続く。

「断る理由がありませんね」

 茉子も微笑む。

「うむ、親友でよいぞ!」

 ムラサメちゃんが偉そうに頷く。

 

 するとレナさんは、ぱっと顔を輝かせた。

 

「では決まりです! みなさん、今日から親友です!」

「今日からって、そういうもんかな」

「そういうものです!」

「勢いが強い」

「親友は勢いも大事です!」

 

 勢いで決まる親友、というのもどうなんだと思わなくはないが、レナさんらしいといえばものすごくレナさんらしかった。

 

「それでは」

 

 レナさんは、布に包まれた欠片をそっと差し出した。

 

「これはみなさんにお渡しします。どうか役立ててください」

「ありがとう、レナさん」

「ありがとうございます」

 芳乃が大事そうに受け取る。

 

 俺たちはそのまま、すでに一つにまとまっていた欠片のそばへ、新しい欠片を置いた。

 

 するとまた、欠片が微かに震え、吸い寄せられるように近づいていく。

 白布の上で、断面がぴたりと噛み合い――

 

 かちり、と小さな音を立てて一つに繋がった。

 

 さらに、その繋ぎ目に残っていた傷やひびも、すうっと薄れ、ほとんど見えなくなっていく。

 

「……また傷が消えた」

 俺が思わず呟く。

「これで、だいたい三分の一を超えたくらいか」

「ええ。まだ足りませんが、形はずいぶん見えてきました」

 芳乃が静かに言う。

 

 少しずつ、確かに前へ進んでいる。

 それが目に見える形になったことが、妙に心強かった。

 

「これで、また一歩近づけますね」

 芳乃が静かに言う。

「はい。きっと」

 その瞳には、はっきりと希望が宿っていた。

 

 ……と、そこで。

 

「さて!」

 

 急にレナさんがぱん、と手を叩いた。

 

「大事なお話は終わりましたね?」

「え、まあ一応」

「では次です!」

 

 何が次なんだ。

 

 嫌な予感より先に、レナさんはびしっと俺と茉子を指差した。

 

「マサオミもマコも怪我人です! そしてヨシノも疲れています!」

「たしかに、疲れてはおりますが……」

「私も怪我人扱いなのですね」

 茉子が少しだけ苦笑する。

「腕、打ってるんだろ」

「ええ。駒川さんに、しばらくは安静にと言われてしまいました」

「常陸さん、そこで無理をする顔をしないでください」

 芳乃がすかさず釘を刺す。

「……善処します」

「説得力がありませんね」

「ありませんね」

 俺と芳乃の声が揃った。

 

「ですので! 私、家事を手伝います!」

「……家事?」

「はい、家事です! お掃除、お洗濯、お料理、お片付け、なんでも手伝います!」

「いや、でもさすがにそこまでしてもらうのは」

「遠慮はだめです!」

 

 びしっと言い切られた。

 

「みなさん、山で怪我して、倒れて、疲れているのです。こういう時は周りが支えるべきです!」

「危うく真相を言いそうになってない?」

「なってません! ちゃんと山で怪我です!」

「微妙に危ないな……」

「でも、気持ちはありがたいですね」

 芳乃がやわらかく笑う。

 

「それに私は親友です! 親友なのですから、これくらい当然です!」

「親友になってからの行動力がすごい」

「親友パワーです!」

「雑な必殺技名みたいに言わないで」

 

 でも、そのまっすぐさに、誰も強くは否定できなかった。

 

 芳乃は少し迷ったあと、やわらかく頭を下げる。

 

「……ありがとうございます、レナさん。ですが、朝武家は広いですし、神社の方もあります。一人では大変ですよ?」

「むむ……たしかにです」

「だから、やるなら無理のない範囲で――」

「足りないなら増やしましょう!」

「増やすって、何を」

「人手です!」

 

 嫌な予感がした直後、レナさんはもうスマホを取り出していた。

 

「レンタロウとコハルに応援を頼みます!」

「行動が早い!」

「善は急げです!」

 

 

 ◇◇◇

 

 

 数十分後。

 

 朝武家の玄関が、やたら賑やかになっていた。

 

「よっ、将臣。起きたのか」

 最初に顔を出したのは廉太郎だ。

「無茶しやがって。少しは加減しろよな」

「それができたら苦労してない」

「それを堂々と言うな」

 

 その後ろから、小春がぴょこっと顔を出す。

 

「お兄ちゃん、大丈夫!? 顔色まだちょっと悪いよ?」

「心配かけたな、小春」

「もー、ほんとだよ。廉兄も起きたって聞いたらすぐ行くぞって言ってたんだから」

「おい、余計なこと言うな」

「えへへー」

 

 そしてさらに、ぱたぱたと軽い足音が続いた。

 

「巫女姫様ー! お手伝いに来ましたー!」

 元気よく入ってきたのは新田さんだ。

 明るくて、人懐っこくて、声まで弾んでいる。

 

「有地くん起きてる! よかったー!」

「ありがとう、新田さん」

 

 その後ろから、少し控えめに藤原さんも顔を出した。

 

「その……無理しないでくださいね、有地くん。まだお顔、ちょっとお疲れですし……」

 やわらかくて優しい声だった。

 新田さんとは対照的だけど、どちらも気遣いがまっすぐ伝わってくる。

 

「藤原さんもありがとう」

「いえ……少しでもお力になれたら、って」

 

 もちろん、皆には山で怪我をしたことになっている。

 祟り神や欠片のことは伏せたままだ。

 

「山であんな派手にやらかすとか、将臣らしいよな」

 廉太郎が呆れたように言う。

「いや、俺そんな野生児みたいな扱い?」

「だってありえるだろ」

「否定しきれないのが嫌だな……」

「お兄ちゃん、今度からもうちょっと慎重にね?」

「善処します」

「将臣さん、その返事は信用できませんね」

 茉子が即座に言う。

「みんな同じこと言うな」

 

 思った以上に大人数になってきた。

 

 気づけば朝武家は、ちょっとした共同作業の現場みたいになっていた。

 

 廉太郎は重い荷物を運び、小春は器用に片付けを手伝い、新田さんは「これやります! あれもやります!」と元気よく動き回る。

 藤原さんはその横で、丁寧に洗い物や整理を進めていた。

 

「将臣、そこ座ってろ。怪我人がうろちょろすると邪魔だ」

「はいはい」

「お兄ちゃんは休んでて! 飲み物持ってくる?」

「……なんか申し訳ない」

「親友と従妹パワーです!」

 なぜかレナさんが胸を張る。

「そこに君まで乗るんだ」

「もちろんです!」

 

 そしてそのレナさん本人も、めちゃくちゃ働いていた。

 

「ヨシノ、これはどこですか?」

「それは神社で使うものですので、こちらの棚に」

「了解です!」

「レナさん、そちらは刃物ですのでお気をつけください」

「マコ、任せてください! 私はやればできます!」

「今ちょっと不安になったので、やはり私がやります」

「ひどいです!」

 

「巫女姫様、これこっちでいいですかー?」

 新田さんが元気よく聞く。

「はい、新田さん。ありがとうございます」

「えへへ、任せてください!」

「藤原さん、無理はしていませんか?」

 芳乃が気遣うと、

「だ、大丈夫です。こういうの、嫌いじゃないので……」

 藤原さんは少し照れたように笑った。

 

「春菜、そっち終わったらこっち手伝ってくれ」

 廉太郎が声をかける。

「はーい、廉太郎!」

「美月も悪いな」

「ううん、気にしないで、廉太郎くん」

 

 廉太郎だけが二人を名前呼びしているのが、妙に自然で、少しだけこの辺りの人間関係が見えてくる。

 

 賑やかなやり取りが、広い屋敷に心地よく響く。

 

 つい二日前まで、あの学校で死ぬかもしれない戦いをしていたなんて、ちょっと信じられないくらいだった。

 

 でも、こういう時間があるから、俺たちはまた前を向けるんだろう。

 

 夕方頃には、驚くほど家の中が整っていた。

 

「おお……」

「すごいですね……」

 芳乃も目を丸くしている。

 

「これで任務完了です!」

 レナさんがびしっとポーズを決める。

「任務って」

「朝武家家事支援作戦です!」

 

 なんだそれ。

 でも、たしかに作戦は大成功だ。

 

 芳乃は皆の前で丁寧に頭を下げた。

 

「皆さん、本当にありがとうございました。もしよろしければ、お礼に夕食を――」

「あー、悪い巫女姫様」

 廉太郎が頭をかいた。

「うちはもう家で用意されてるんだ」

「私も、おじいちゃんが今日は早く帰ってこいって言ってたの」

 小春も続く。

「私も今日は家でご飯なんですー。また今度ゆっくり呼んでください!」

 新田さんが元気よく言い、

「私も……その、家で待ってるので。また今度、ぜひ」

 藤原さんもやわらかく微笑んだ。

 

 それを聞いて、芳乃は残念そうにしながらも微笑む。

 

「そうでしたか。では、今日はこのお気持ちだけ受け取ってください」

「気にしなくていいって」

「また何かあったら呼んでくれよ、巫女姫様」

「おう、今度は倒れる前に頼れよ、将臣」

「善処します」

「たぶんしない顔ですね」

 茉子がぼそっと言う。

「信用がない」

「実績がありますので」

 

 ぐうの音も出ない。

 

 そうして、廉太郎たちは帰っていった。

 

 残ったのは、俺たちとレナさん。

 

「レナさんも送るよ」

 俺が言うと、レナさんは首を振った。

 

「いいえ、私は夕食をいただいて、お風呂もいただいてから志那津荘へ帰ります!」

「さらっと予定を確定させたな」

「たくさん働きましたから、ご褒美は必要です!」

「レナさんらしいですね……」

 芳乃がくすっと笑う。

 

「もちろん、お風呂も皆さんと仲良く入りたいです!」

「お風呂も!?」

「はい! ヨシノ、マコ、ムラサメちゃん、一緒に入りましょう!」

「うむ? 風呂はよいのう」

「ムラサメ様は乗り気なんですね」

「湯は好きじゃからのう」

 

 そしてなぜか、その流れは自然に成立した。

 

 夕食はいつもより少し賑やかだった。

 レナさんが家事を手伝ったあとだからか、妙な一体感まである。

 

「これ、美味しいです!」

「口に合ってよかったです、レナさん」

「ヨシノのご飯は最強です!」

「そんな、大げさです」

「いえ、本当です。マサオミ、毎日これを食べているのですか?」

「まあ、食べてる」

「ずるいです!」

「ずるいの概念おかしくない?」

「親友として少し分けてほしいです!」

「分けるってどうやって」

「気持ちでです!」

「無理だろ」

 

 ちなみにムラサメちゃんは、俺が箸でつまんで差し出したものを「うむ、苦しゅうない」と言いながら食べていた。

 本人は偉そうだけど、その仕組みを知らない人が見たらちょっと不思議な光景だろう。

 

 戦いのあとだからこそ、こういう普通の時間が身に沁みる。

 

 そして食後、女子組はそのまま風呂へ向かった。

 

 穂織の湯は、この土地ならではの不思議な力をわずかに宿している。

 神性を若干ながら帯びていて、穢れを祓い、厄を落とし、怪我の治りも少し良くする――朝武家では昔からそう言われているらしい。

 

 だから今日の風呂は、ただ汗を流すだけじゃない。

 傷ついた体と心を休める意味でも、ちょうどいいのかもしれない。

 

 女子風呂の方では、さっそく賑やかな声が上がっていた。

 

「わぁ……いいお湯です!」

 レナさんの弾んだ声が響く。

「穂織のお湯は、少し特別なんです」

 芳乃がやわらかく説明する。

「神性をわずかに帯びていて、穢れを祓い、厄を落とす力があると伝えられています。怪我の治りも少し良くなるそうですよ」

「なるほどです! では今日はスペシャルお風呂ですね!」

「そうですね」

 茉子も肩まで湯に浸かりながら、小さく息をつく。

「こうして入っていると、腕の痛みも少し和らぐ気がします」

「茉子、今日は湯船で暴れないでくださいね」

「暴れませんよ」

「たぶん」

 

 そのとき、湯船の中でムラサメちゃんがじーっと三人を見比べていた。

 

「……むぅ」

「ムラサメ様? どうかしましたか?」

 芳乃が首を傾げる。

 

 ムラサメちゃんは露骨に不満そうな顔で、芳乃、茉子、レナさんの胸元を順番に見た。

 

「なんというか……ずるいのう」

「ずるい?」

 レナさんがきょとんとする。

「うむ。芳乃も、茉子も、レナも……みんな立派すぎるのじゃ」

「……何がでしょう?」

 茉子が聞くと、

「胸じゃ」

 ムラサメちゃんはきっぱり言った。

 

 一瞬、湯気の中で空気が止まる。

 

「む、ムラサメ様!?」

 芳乃が顔を赤くする。

「いきなり何を仰っているのですか!」

「事実じゃろう! 我輩だけ、明らかに成長の余地を残しすぎておるではないか!」

「そこ、比較するところですか……?」

 茉子が呆れ半分で言う。

 

 レナさんは自分の胸元を見てから、ムラサメちゃんを見て、にこっと笑った。

 

「ムラサメちゃんは、小さくてかわいいのです!」

「慰めになっておらぬ!」

「ええっ!?」

「我輩も、ご主人に“おお……”と思わせたいのじゃ!」

「何を張り合ってるんですか!?」

 芳乃の突っ込みが冴える。

 

 茉子は肩を震わせながら笑いをこらえていた。

 

「ですが、たしかにムラサメ様はそのままで愛らしいかと」

「茉子までそう言う! 年少枠扱いは不本意じゃ!」

「年少枠……」

 レナさんが吹き出す。

「かわいいです!」

「じゃーかーらー!」

 

 わいわいと騒がしい声が湯気の中に響く。

 

 そして、ひとしきり騒いだあと、芳乃が少しぼんやりとした様子で額に手を当てた。

 

「……あれ」

「ヨシノ?」

 レナさんが首を傾げる。

「少し、のぼせたのかもしれません」

「大丈夫ですか、芳乃様」

 茉子が気遣う。

「はい、少し早めに上がれば大丈夫だと思います」

「無理は禁物じゃぞ」

 ムラサメちゃんも言う。

 

 芳乃は小さく頷き、先に湯船を出た。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 その頃、俺は自分の部屋で少し休みながら、ぼんやり天井を見ていた。

 体調はまだ万全じゃない。けど、動けないほどでもない。

 

 風呂上がりのタイミングを見て、自分も入ろうと思い、廊下へ出る。

 

 するとちょうど、その角を曲がったところで――

 

「あ……」

 

 小さな声がした。

 

 見れば、先に風呂から上がったらしい芳乃が、廊下に立っていた。

 

 薄い寝間着姿に、まだ少し湿った白髪。

 頬がほんのり赤い。

 

「芳乃? どうした」

「いえ、その……少し、のぼせたのかもしれません」

 

 そう言った直後、ふらりと身体が揺れた。

 

「っ、危ない!」

 

 反射的に手を伸ばす。

 倒れかけた芳乃の身体を、そのまま抱き止める形になった。

 

「……!」

 

 細い肩。

 ふわりと石鹸と湯上がりの匂いが鼻先をかすめる。

 

 あ、これまずいやつだ、と認識したときにはもう遅かった。

 

 芳乃は俺の腕の中で目を見開いて固まり、みるみるうちに顔を赤くした。

 

「よ、芳乃? 大丈夫か?」

「だ、だいじょうぶ、です……!」

「いや全然大丈夫そうに見えないけど」

「だ、大丈夫ですから……!」

 

 声が少し上ずっている。

 というか俺も普通に心臓に悪い。

 

 慌てて身体を支え直すと、芳乃ははっと我に返ったように俺から距離を取った。

 

「す、すみません……!」

「いや、謝るのはこっちだろ。勝手に抱き止めたし」

「いえ、あの、あれは必要なことでしたので……!」

 

 必要なこと、と言いながらも、顔は真っ赤だ。

 耳まで赤い。

 

 なんだこれ。

 可愛すぎて困るんだけど。

 

 いやいや、今それどころじゃない。

 

「とりあえず座るか? まだふらついてるなら」

「い、いえ。もう平気です」

「ほんとか?」

「……少しだけ、休めば」

「じゃあ早めに寝た方がいいな」

「はい……そうします」

 

 芳乃は胸元を押さえるようにして、視線をさまよわせたあと、ようやく小さく頷いた。

 

「将臣さん」

「ん?」

「その……助けてくださって、ありがとうございました」

「どういたしまして」

「…………」

 

 なぜか芳乃はそこでまた少し赤くなって、そそくさと踵を返した。

 

「おやすみなさい、将臣さん!」

「あ、うん。おやすみ、芳乃」

 

 ぱたぱたと少し早足で去っていく背中を見送りながら、俺は廊下にひとり取り残される。

 

「……なんだこれ」

 

 心臓がうるさい。

 

 いや、倒れそうな相手を支えただけだ。

 ただそれだけ。

 それだけなんだけど――

 

「ご主人、にやにやしておるのう」

「うわっ!?」

 

 いつの間にか背後にいたムラサメちゃんに、思いきりびくっとした。

 

「なんで無音で現れるの!?」

「我輩はもともとそういう存在じゃからのう」

「今の見てた?」

「見ておった」

「最悪だ」

「安心せい。面白かっただけじゃ」

「全然安心できない」

 

 ムラサメちゃんはくっくっと楽しそうに笑う。

 

「芳乃、ずいぶん赤くなっておったのう」

「言うな」

「ご主人もじゃぞ?」

「……言うなって」

 

 即座に返すと、ムラサメちゃんは満足そうに頷いた。

 

「まあよい。今日は皆、少し前に進めた日じゃ」

「……そうだな」

「欠片も手に入った。親友も増えた。悪くない一日じゃ」

「最後のまとめ方が雑だけど、まあ否定はしない」

「ふふふ。では、風呂に入ってさっさと休むがよい」

 

 そう言って、ムラサメちゃんはふわりと姿を消す。

 

 ひとり残された廊下で、俺は小さく息をついた。

 

 呪いの正体は、まだ遠い。

 欠片もまだ足りない。

 あの夢の中の男の声も、きっとこれからもっと近づいてくる。

 

 それでも。

 

 今日、俺たちは確かに一つ手がかりを手に入れた。

 そしてそれは、呪いだけじゃなく、人との繋がりによってもたらされたものだった。

 

 レナさんの願い。

 親友でいること。

 

 それはたぶん、想像していた以上に大きな意味を持つんだろう。

 

「……親友、か」

 

 呟いてみると、少しだけ照れくさい。

 

 でも悪くない。

 悪くないどころか、案外こういうのは、今の俺にはありがたいのかもしれない。

 

 平和な日常は、相変わらずすぐどこかへ吹き飛ぶ。

 けれどそのたびに、誰かが手を伸ばしてくれる。

 

 だったらきっと、まだ戦える。

 

 俺はそう思いながら、湯気の気配が残る廊下の先へと歩き出した。

 

 ――呪いはまだ終わらない。

 けれど、ひとりじゃない。

 

 そう思えた夜だった。

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