『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

21 / 22
第21話 巫女姫の寝顔と、赤き兆し

 

 

 目的は、はっきりしていた。

 

 朝武家に積み重なってきた呪いを終わらせること。

 祟り神の問題に決着をつけること。

 そして、そのために必要なのが――憑代のカケラを集めること。

 

 やるべきことが明確になった以上、立ち止まっている暇はなかった。

 

 将臣たちは、翌日からすぐに動き始める。

 

 それぞれの役目も、自然と定まっていった。

 

 将臣は、朝は稽古。昼は学校。放課後はムラサメと合流して、陽が落ちるまで山でカケラを探す。

 ムラサメは、朝から昼までひとりで山を探索し、放課後に将臣と合流。夜は将臣と芳乃とともに山の見回りをする。

 芳乃は、放課後までは学校に通い、放課後は健実神社で舞の奉納。夜は将臣、ムラサメとともに山の見回りへ。

 茉子は、放課後までは学校。放課後からは朝武家で家事を取り仕切り、夜は将臣たちが山から帰ってくるまで待機する。

 そしてレナは、朝は将臣の稽古の応援役。昼は学校。放課後からは朝武家で茉子の指導のもと家事を手伝い、夜になると志那津荘へ帰る。

 

 無理のない範囲で。

 それでも、できることは最大限に。

 

 そんなふうにして、それぞれが自分の場所で役目を担うことになった。

 

 

    ◇

 

 

 朝の空気はひんやりとしていて、まだ夜の冷たさを少しだけ引きずっている。

 

 朝武家の裏手。

 踏み固められた地面の上で木刀を構えながら、俺は大きく息を吐いた。

 

 正面には、祖父ちゃん――鞍馬玄十郎が立っている。

 

「構えが甘い」

「っ……!」

 

 低く短い声が飛ぶ。

 

 次の瞬間、祖父ちゃんの木刀が鋭く打ち込まれてきた。

 慌てて受ける。だが受けた瞬間に、腕にずしりと重い衝撃が走った。

 

「受けるな。流せ」

「簡単に言うって……!」

「口を動かす暇があるなら足を動かせ」

 

 言い終わるより先に、次の一撃が来る。

 横。下段。踏み込み。見えても、対応が追いつかない。

 

 木刀同士が打ち合う乾いた音が、朝の静けさに響いた。

 

「遅い」

「っ、く……!」

「考えてから動くな。動きながら考えろ」

「それ、一番むずかしいやつだろ!」

「戦いの最中に易しい難しいを選べると思うな」

 

 正論すぎてぐうの音も出ない。

 

 祖父ちゃんの指導は相変わらず容赦がなかった。

 無駄がなく、厳しく、必要なことしか言わない。だが、その短い言葉のひとつひとつが的確なのも分かる。

 

 構え直す。

 踏み込む。

 打ち込む。

 そのたびに、祖父ちゃんの木刀がぴたりとこちらの甘さを叩いてくる。

 

「腰が浮いとる」

「……っ」

「今のは振ったのではない。振らされた」

「はい……!」

「返事はよい。直せ」

 

 息が上がる。

 朝からやるにはきつすぎる。けれど、このきつさが無駄じゃないことも分かっていた。

 

 少し離れたところから、明るい声が飛んでくる。

 

「マサオミ、頑張ってください!」

「レナさん、気軽に言ってくれるなあ……!」

「でも、さっきのより今の方がよかったです!」

「ほんとに?」

「はい! ちゃんと前に出てました!」

 

 声のした方を見ると、レナが手ぬぐいと水筒を持ってこちらを見ていた。

 最近の朝稽古には、こうしてレナが付き添ってくる。

 

 最初は見学半分だったのだろう。

 けれど今ではすっかり“応援役”が板についていて、水の用意をしたり、休憩のタイミングで声をかけたり、時には今みたいに一生懸命励ましてくれるようになっていた。

 

「マサオミ、次です次!」

「いや、他人事みたいに!」

「他人事ではありません。応援は大事です!」

「それはそうだけど!」

 

 そんなやり取りを聞いていた祖父ちゃんが、わずかに鼻を鳴らす。

 

「気が散っとる」

「うっ」

「じゃが、今の方が足は動いておったな」

「え?」

「頭で固めるより、余計な力が抜けたのじゃろう」

「……褒めてる?」

「事実を言ったまでだ」

 

 祖父ちゃんらしい言い方だった。

 

 レナはぱっと表情を明るくする。

 

「ほら! 大旦那様もそう言ってます!」

「なんでレナさんが得意げなんだよ」

「私が応援した成果かもしれません」

「ちゃっかりしてるなあ」

「当然です。応援係ですから」

「いつの間に正式役職みたいになってるんだ」

「いま決まりました」

「またセルフ任命か」

 

 思わず苦笑すると、レナも楽しそうに笑った。

 

 朝日が差し込んで、レナの金髪がやわらかく光る。

 こうして明るく声をかけられると、不思議と気持ちが軽くなる。

 

「休め」

 祖父ちゃんが短く言う。

 

「はい」

「はい、大丈夫です! マサオミ、お水です」

 

 すかさずレナが駆け寄ってくる。

 差し出された水筒を受け取りながら、俺は息を整えた。

 

「どうも」

「お疲れさまです。今の打ち込み、前よりずっとよかったです」

「ほんと?」

「はい。最初よりちゃんと前に出てましたし、さっきは受けた後に崩れませんでした」

「そこまで見てるの?」

「見てますよ。応援係ですから」

「応援係って、そんな観察眼いる?」

「必要です。だって、頑張ってるところをちゃんと見てないと、応援できません」

「……それは、まあ」

「それに」

「それに?」

「朝のマサオミ、けっこうかっこいいです」

「……不意打ちやめてくれる?」

「え?」

「いや、なんでもない」

 

 きょとんとした顔をされて、こっちだけが変に意識したみたいで落ち着かない。

 

 祖父ちゃんが呆れたようにひとつ息をつく。

 

「休憩が済んだなら戻れ」

「はいはい、厳しいなあ」

「鍛錬に甘さはいらん」

「大旦那様、でもちょっとだけ休ませてあげてください」

「甘やかすな、リヒテナウアーさん」

「これは優しさです」

「甘さと紙一重じゃ」

「では、優しさ多めの方でお願いします」

「勝手に決めるな」

 

 祖父ちゃんとレナのやり取りに、思わず笑ってしまう。

 

 厳しい稽古の最中なのに、こうして明るい声が混ざるだけで空気が少し柔らかくなる。

 今やっていることは軽いものではない。けれど、レナがそばで応援してくれる朝は、不思議と気持ちが前を向いた。

 

 そして、そんな時間を重ねるうちに、俺とレナの距離も少しずつ自然に縮まっていった。

 

 

    ◇

 

 

 昼は学校だ。

 

 授業が始まれば、俺も芳乃も茉子もレナも、ひとまずはいつも通りの顔をする。

 もちろん本当にいつも通りなわけじゃない。頭の片隅には、カケラのことも、夜の見回りのこともある。

 

 それでも授業は進み、チャイムは鳴り、周囲の生徒たちは普段通りに笑い、話し、日常を過ごしている。

 

 その何気なさが、逆に今の自分たちの状況の異質さを際立たせていた。

 

 昼休み。

 教室の窓から差し込む光の中で、レナが前の席から少し身を乗り出す。

 

「マサオミ」

「ん?」

「今朝、けっこう頑張ってましたね」

「朝の話を昼に蒸し返すのやめてくれ」

「だって、本当にかっこよかったですから」

「だから不意打ち」

「? 褒めてるだけですよ?」

「それが一番困るんだって」

「マサオミ、変です」

「変じゃない」

「じゃあ照れてるんですか?」

「……」

「照れてるんですね」

「断定するな!」

 

 レナが楽しそうに笑う。

 こういう軽いやり取りも、最近はずいぶん増えた。

 

 以前なら、どこか距離を測るような空気があった。

 けれど今は違う。朝を一緒に過ごすようになったせいか、レナは前よりずっと気安く俺に声をかけてくる。

 

 そして俺も、それを自然に受け止めるようになっていた。

 

 

    ◇

 

 

 放課後になると、それぞれが自分の役目に向かう。

 

 芳乃は健実神社へ向かい、舞の奉納。

 レナは朝武家へ向かい、茉子のもとで家事の手伝い。

 茉子は怪我がまだ完治していないため、家の中の仕事を中心に采配を振るう。

 そして俺は、ムラサメちゃんと合流して山へ入る。

 

 ムラサメちゃんは、すでに朝から山を見て回っている。

 だから俺が放課後に合流する頃には、ある程度目星がついていることが多かった。

 

「ご主人、今日はこっちじゃ」

「また奥の方か」

「うむ。朝のうちに気配を拾っておいた」

「便利だな、その感覚」

「便利というより、我輩の本分じゃな」

 

 山道を進みながら、ムラサメちゃんは周囲を見回す。

 小柄な身体に似合わず、その立ち姿は妙に頼もしい。

 

 最初のうちは比較的見つけやすかった。

 木の根元、岩陰、浅い土の中。そういう場所にカケラが埋もれていて、叢雨丸を近づければ反応が出ることも多かった。

 

 だが、半分ほどまで集まってからは一気に難しくなった。

 

「……ないな」

「うむ。反応はあるのじゃが、薄い」

「最近ずっとそれ言ってる気がする」

「事実じゃから仕方あるまい」

 

 落ち葉をどかし、岩の隙間を覗き込み、少し土を掘る。

 それでも見つからない。

 

 山の空気は静かだ。

 けれど静かだからこそ、何かがじっと潜んでいるような感覚が強い。

 

「残ってるやつほど、見つけにくいな」

「山に馴染み始めておるのかもしれぬな」

「馴染む?」

「憑代自身が一つに戻りたがっておるのじゃろう。そう考えれば辻褄は合う。じゃが、その分だけ山の気と混ざり、拾いにくくなる」

「厄介な性質してるな」

「うむ。実に面倒じゃ」

 

 そう言いながらも、ムラサメちゃんの目は真剣だった。

 

 探索を続けて、ようやく一つ見つけた時には、日がだいぶ傾いていた。

 赤みを帯び始めた光の中で、俺は小さな欠片を布袋に収める。

 

「これで、だいたい半分くらいか?」

「そのくらいじゃな。順調ではある」

「でも、この先はもっときつい」

「うむ。じゃからこそ気を抜くでないぞ、ご主人」

「わかってる」

「ほんとうかのう。無茶をする前科が多いからの」

「それを言われると弱い」

「弱いなら最初から慎重にせい」

 

 呆れたような声に苦笑しつつ、俺たちは山を下りた。

 

 

    ◇

 

 

 その頃、朝武家では。

 

「レナさん、お盆はもう少し高く持ってください。そうした方が安定します」

「こうですか?」

「はい。だいぶいいです」

「おお……マコ先生、ありがとうございます」

「先生というほどではありませんが」

「いえ、十分先生です。私、最初は絶対に何か落とすと思ってました」

「正直、私も少し思っていました」

「思ってたんですか!?」

「ええ」

「マコ、正直です」

「ですが、今はかなり手際がよくなりましたよ」

「……ほんとですか?」

「はい。少なくとも、朝武家で働く方として見ても不自然ではないくらいには」

「それ、かなり褒めてませんか?」

「褒めています」

 

 茉子は怪我のせいで激しく動くことはできないが、その代わり家の中のことを細かく見ていた。

 その指示を受けて動くレナも、持ち前の素直さと真面目さでどんどん仕事を覚えていく。

 

 掃除、配膳、片づけ、ちょっとした準備。

 分からないことはきちんと聞き、教わったことはすぐに吸収する。

 

 その姿勢のおかげで、朝武家の中でもレナはあっという間に馴染んでいった。

 

 廊下の拭き掃除をしている時も。

 

「レナさん、雑巾は端から順に。戻らないように進めた方が効率がいいです」

「なるほど……おお、本当です。やりやすいです」

「最初に動線を決めるのは大事ですよ」

「マコ、家事なのに戦術みたいです」

「朝武家は広いので、意外と侮れません」

「それ、分かってきました……」

 

 配膳をしている時も。

 

「お味噌汁は最後に運んだ方が冷めにくいです」

「はい!」

「あと、その持ち方だと少し危ないですね」

「こうですか?」

「そうです。かなり安定します」

「おお……なんだか家事レベルが上がった気がします」

「レベル制なんですか」

「あります。いま私はレベル2くらいです」

「では、もう少しで見習い卒業ですね」

「やった!」

 

 そして、芳乃の舞の準備を手伝う時も。

 

「ヨシノ、これで大丈夫ですか?」

 舞の準備を整えながら、レナが芳乃に声をかける。

 

「はい。ありがとうございます、レナさん」

「舞の前って、こんなに準備があるんですね」

「毎日のことですから慣れていますが……手伝っていただけると、とても助かります」

「ならよかったです」

 

 そう言って笑うレナに、芳乃もやわらかく笑い返す。

 

 その光景は穏やかだった。

 穏やかであるほど、芳乃の胸には別の思いも積もっていく。

 

 ――レナさんを、巻き込んでしまっている。

 

 朝武家の事情。呪い。祟り神。憑代のカケラ。

 本来なら、外の人間を巻き込んでいいものではない。

 

 それなのにレナは、自分から手を貸し、皆のために動いてくれている。

 ありがたい。だからこそ、申し訳なさも増していく。

 

 舞の装束に袖を通しながら、芳乃は小さく息を吐いた。

 

「芳乃様、どうかなさいましたか?」

 茉子が気づいて声をかける。

 

「いえ……少し考え事を」

「レナさんのこと、ですね」

「……はい」

「お気持ちは分かります。ですが、あの方はご自分の意思でここにいます」

「それでも、危険に巻き込むかもしれません」

「そうですね」

 

 茉子はすぐに否定しなかった。

 その代わり、穏やかな声で続ける。

 

「ですが、何も知らされずに守られるだけ、というのもまた辛いものです。少なくともレナさんは、力になりたいと思ってここにいるのでしょう」

「……そう、ですね」

「芳乃様が気に病むのはお優しいからです。ですが、抱え込みすぎるのは別問題ですよ?」

「耳が痛いです」

「将臣さんにも言われたのでは?」

「……言われました」

「でしょうね」

 

 そこで茉子が少しだけ笑う。

 

「頼れるところは頼ってください。私も、将臣さんも、ムラサメ様もおります」

「レナさんも、ですね」

「ええ。きっと、あの方はそう言ってほしいはずです」

 

 芳乃は頷いた。

 簡単に不安が消えるわけではない。だが、それでも少しだけ胸が軽くなる。

 

 その一方で、レナはそんな芳乃の内心を知らず、いつも通り明るい顔で言う。

 

「ヨシノ、今日も舞、頑張ってください」

「はい」

「終わったらお茶の用意しておきます」

「そこまでしていただかなくても」

「したいんです。私、いま“できることをやる係”ですから」

「それ、係だったんですね」

「はい。今、決めました」

「レナさんもそういうところがありますね」

「あります」

「少し将臣さんに似ています」

「えっ、私マサオミに似てますか?」

「……そういう、良くも悪くも自分で決めて動くところが」

「それ、褒めてます?」

「ふふ……たぶん、褒めています」

 

 レナが目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。

 その笑顔を見て、芳乃もまた少しだけ肩の力を抜く。

 

 舞の時間は、もうすぐだった。

 

 

    ◇

 

 

 夜。

 

 見回りは、俺と芳乃、そしてムラサメちゃんの三人で行うようになっていた。

 

 祟り神が出る気配はないか。

 穢れが濃くなっていないか。

 神社の周囲と、山の入り口付近を中心に、短い時間だけ確認する。

 

 夜の山は昼とは違う。

 

 風の音ひとつで空気が変わる。

 虫の声も、遠くで鳴く獣の気配も、どこか緊張を誘う。

 

「今日は静かですね」

 提灯の灯りの中、芳乃が小さく言う。

 

「静かすぎて逆に不気味だな」

「何もないなら、その方がいいです」

「それはそうだけど」

 

 隣を歩く芳乃の白い髪が、夜の灯りを受けて淡く光る。

 舞を終えたばかりだからか、どこか少し疲れて見えた。

 

「芳乃、ちゃんと休めてるか?」

「……急にどうしたんですか」

「いや、ちょっと顔色」

「大丈夫です」

「その返し、あんまり信用できないんだけど」

「大丈夫です。少し疲れているだけですから」

「それを大丈夫って言うの、真面目な人の悪い癖だろ」

「将臣さんにだけは言われたくありません」

「うっ」

 

 即答されて、思わず詰まる。

 

「無茶をして、怪我をして、それでも大丈夫と言い張っていた方はどこの誰ですか?」

「……俺です」

「はい」

「すみませんでした」

「よろしいです」

 

 そこで少しだけ、芳乃が笑った。

 

 夜の見回りで交わす会話は、朝のレナとのそれとは少し違う。

 騒がしく笑うのではなく、静かな空気の中でひとつひとつ言葉を重ねていく感じだ。

 

 その静けさが、むしろ距離を近くする。

 

 足元を照らす提灯の灯りが揺れる。

 夜気は少し冷たい。

 その中で、芳乃の声だけが近くにある。

 

「レナさんのこと、気にしてる?」

 俺がそう聞くと、芳乃は少しだけ黙った。

 

「……はい」

「やっぱり」

「私は、レナさんを巻き込んでしまったと思っています」

「でも、レナさんは自分でここにいる」

「それでもです」

 

 芳乃の声は静かだった。

 

「レナさんは優しいです。頼れば、きっと力になろうとしてくださいます。だからこそ……これ以上、危険なことに巻き込んでしまうのではないかと、不安になるのです」

「芳乃らしいな」

「そうでしょうか」

「そうだよ。自分のことより、先に人のことを心配する」

「……朝武家の者として当然です」

「いや、朝武家だからじゃなくて、芳乃だからだろ」

 

 そう言った瞬間、芳乃が目を丸くした。

 

 それから視線を少し逸らし、小さく息を吐く。

 

「将臣さんは、時々……そういうことをあっさり言いますよね」

「変なこと言った?」

「いえ。変ではありません。……困るだけです」

「困る?」

「答えにくい、という意味です」

 

 提灯の灯りのせいだけではないだろう。

 芳乃の頬が、わずかに赤く見えた。

 

「でも、ひとりで抱え込むなよ」

「……はい」

「俺もいるし、ムラサメちゃんもいる」

「茉子も、ですね」

「そうそう」

「レナさんも」

「ああ」

「でしたら……少しだけ、頼ってみることにします」

「少しだけか」

「いきなり全部は無理です」

「まあ、それならいいか」

 

 そう言うと、芳乃はほんの少しだけ、安心したように笑った。

 

「将臣さん」

「ん?」

「ありがとうございます」

「何が?」

「……聞かないでください」

「そこまで言って?」

「言っただけです」

「ずるいな」

「将臣さんほどではありません」

 

 そんなやり取りが自然にできるくらいには、確かに距離が縮まっていた。

 

 夜の見回りは、本来なら危険を確かめる時間だ。

 けれど今の俺にとっては、芳乃のことを前より近く感じられる時間にもなっていた。

 

 ある夜には、神社の石段を下りる時に、芳乃の足元がわずかに揺らいだことがあった。

 

「っと……」

「大丈夫か?」

「あ、はい。少しぼんやりしていただけです」

「大丈夫じゃない時のやつだろ、それ」

「……否定できません」

「ほら」

 

 反射的に手を差し出す。

 芳乃は一瞬迷ったあと、そっと俺の手を取った。

 

 細い指先。

 少しひんやりしていて、それでいて柔らかい。

 

「ありがとうございます」

「離すなよ。石段、暗いし」

「……はい」

 

 たったそれだけのことなのに、妙に心臓が落ち着かなくなる。

 隣を見ると、芳乃も少しだけ視線を伏せていた。

 

 その夜、握った手は石段を下りきるまで離れなかった。

 

 

    ◇

 

 

 そうして日々は過ぎていく。

 

 朝は祖父ちゃんの指導で稽古をして、レナが応援してくれる。

 昼は学校。

 放課後はムラサメちゃんと山でカケラ探し。

 夜は芳乃とムラサメちゃんと見回り。

 

 茉子は朝武家を支え、レナはその手伝いをこなし、夜になると志那津荘へ帰る。

 みんながそれぞれの場所で役目を果たしていた。

 

 そして、その積み重ねの中で、レナは急速に皆の輪に馴染んでいった。

 

 朝は、俺の稽古の応援役として。

 昼は、学校で自然に言葉を交わす相手として。

 放課後は、朝武家の家事を手伝う頼もしい助っ人として。

 舞の準備では芳乃を支え、家の中では茉子の指示をきちんとこなし、玄十郎にも物怖じせずに話しかける。

 

「大旦那様、お茶です」

「……置いておけ」

「はい。熱いので気をつけてください」

「……うむ」

「いま、ちょっとだけ優しかったですね」

「気のせいじゃ」

「気のせいではありません」

「……リヒテナウアーさん、お主は妙なところで図太いのう」

「褒め言葉として受け取ります」

「誰が褒めた」

 

 そんなやり取りが生まれるくらいには、もう自然にそこにいた。

 

 集まった憑代のカケラは、半分ほど。

 

 順調といえば順調。

 けれど、そこから先が難航していた。

 

 だからこそ、少しずつ焦りも募っていたのだと思う。

 

 そんなある朝――その異変は起きた。

 

 

    ◇

 

 

 最初に感じたのは、妙な温もりだった。

 

 布団の中がやけに暖かい。

 いつもより熱がこもっている気がする。しかもその熱は、自分ひとりで寝ている時のものとは明らかに違った。

 

「……ん……?」

 

 まだ頭は半分眠ったままだ。

 寝返りを打とうとして、そこで違和感に気づく。

 

 動けない。

 

 正確には、動きづらい。

 腕のあたりに柔らかい重みがあって、身体の横にもぴったり何かがくっついている。

 

 そこでようやく、ぼんやりした意識に警報が鳴った。

 

 ――いや待て。何これ。

 

 ゆっくり、恐る恐る目を開ける。

 

 最初に見えたのは白だった。

 朝の薄明かりの中でやわらかく光る、長い白髪。

 

「…………は?」

 

 思考が止まった。

 

 白い髪が、すぐ目の前にある。

 近い。近すぎる。あと少し顔を寄せれば、そのまま鼻先が触れてしまいそうな距離だ。

 

 その髪の向こうに見えるのは、閉じた瞼と長い睫毛。すっと通った鼻筋。ほんのり桜色の唇。

 寝息に合わせてかすかに胸が上下して、そのたびにかかる吐息が頬をくすぐる。

 

 芳乃だった。

 

「…………え?」

 

 いや、待て待て待て。

 

 なんで芳乃がここにいる。

 なんで俺の布団の中にいる。

 というか、なんでこんなに密着してる。

 

 状況確認のために視線を下げて、さらに固まる。

 

 芳乃が、俺の腕にしっかり抱きついていた。

 

 片手が触れてるとか、寝返りの拍子で近くなったとか、そういう言い訳の利く距離じゃない。

 両腕で逃がすまいとするみたいに抱え込み、身体までぴったり寄せている。完全に抱き枕扱いだった。

 

「ちょ、え、なんで!?」

 

 声は出せない。

 出したら起きる。起きたら終わる。いろいろと終わる。

 

 心臓がうるさい。

 朝一番に鳴っていい音じゃない。ばくばくどころか、もはや戦太鼓だ。

 

 必死に昨日の記憶を探る。

 

 夜の見回りを終えて、朝武家に戻って。

 普通に自分の部屋に入って、普通に寝た。そこまでは覚えている。

 芳乃の部屋に行った覚えなんて当然ない。そんな度胸があるなら、今こんなに混乱していない。

 

 じゃあ芳乃の方が来たのか?

 

 いや、何がどうなったらそうなる。

 

 そっと身体を引こうとしてみる。

 だが、芳乃の腕が思った以上にしっかりしていて離れられない。動いた拍子に、逆に顔がさらに近づいてしまった。

 

「っ……!」

 

 近い。ほんとに近い。

 

 寝ている芳乃は、起きている時よりずっと無防備だった。

 普段は巫女姫として背筋を伸ばし、柔らかくもきちんとした表情を崩さないのに、今は警戒心の欠片もない。

 

 頬はほんのり赤く、まつ毛は長く、口元は少しだけ緩んでいる。

 しかも、ふわりと落ち着いた甘い香りがする。

 

 これはまずい。

 いろんな意味でまずい。

 

 起こすべきか。

 いやでも、この距離で目を開けられたら説明不能だろ。

 というか説明が欲しいのはこっちなんだけど!?

 

 頭の中が完全に混乱していた、その時だった。

 

「ご主人、朝じゃ――」

 

 聞き慣れたムラサメちゃんの声。

 

 助かった。

 そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。

 

 ムラサメちゃんの視線が、布団の中の俺たちを捉え、そのままぴたりと止まる。

 沈黙。

 数秒後、片眉がすっと上がった。

 

「……何をやっておる」

 

「違う! 待って! これは俺にもわからない!」

「ほう?」

「起きたらこうなってただけで!」

「見事な言い訳じゃのう」

「言い訳じゃないって!」

「よもやこのような関係になろうとは……」

「違う! 事後じゃない!」

「なんと! まさかこれからじゃったか……もしや、我輩、お邪魔?」

「だから違うって!」

 

 小声で済ませたいのに、ツッコミの勢いが抑えられない。

 

 ムラサメちゃんは腕を組み、完全に面白がっている目をしていた。

 

「いやほんと、俺にも意味わかんないからな!? 昨日は普通に寝たんだって!」

「ほほう。では芳乃が自らご主人の寝所へ忍び込み、添い寝どころか抱きついておると」

「そういう言い方やめろ! 一気に誤解がひどくなる!」

「誤解かのう? 我輩の目には、なかなか熱烈に見えるが」

「寝相の問題だろたぶん!」

「ふむ。ではその寝相とやら、なかなか将来有望じゃな」

「何の将来だ!」

 

 布団の中で焦る俺とは対照的に、ムラサメちゃんはやたら楽しそうだった。

 

 だがその騒ぎは、当然ながら廊下にも聞こえる。

 

「将臣さん、朝ですよ。ムラサメ様が来ていると思うのですが、朝の鍛錬には行かないんです……か?」

 

 茉子の声。

 

 まずい、と思った次の瞬間には襖が開いていた。

 

 茉子は部屋の中を見て、ぴたりと止まる。

 

 視線が、ムラサメちゃんの横を抜けて布団へ。

 俺。

 芳乃。

 密着。

 抱きつき。

 言い逃れ不能の構図。

 

 数秒の静止のあと、茉子はすっと微笑み、深々と一礼した。

 

「朝チュンの最中とはつゆ知らず、大変申し訳ありません。すぐにお風呂の準備を」

「だから事後じゃない!」

「まぁ! もしかしてこれから?」

「そのネタはもうやった!」

「朝の鍛錬は、腰の鍛錬に変更したんですかぁ? もう、お若いんですから」

「そのゲスい発想はやめろ!」

「えー」

「えー、じゃない!」

 

 味方がいない。

 この部屋、俺の味方がひとりもいない。

 

「というか茉子、お前まで乗るな!」

「乗るなとは失礼ですね。私はただ、目の前の事実を受け止めているだけです」

「受け止め方が汚れてる!」

「でも、なかなか絵になりますよ? 白髪の巫女姫様が、朝から将臣さんに抱きついて離さないなんて」

「だから俺に言うな!」

「では芳乃様が起きたら直接うかがいましょうか」

「やめろ! 混乱が倍になる!」

 

 そうこうしているうちに、布団の中の芳乃が小さく身じろぎした。

 

「……ん……」

 

 ぴたり、とその場の空気が止まる。

 

 芳乃の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。

 寝起きらしく、少しとろんとした視線が、まっすぐ目の前の俺を捉えた。

 

 この距離だ。

 視線が合った瞬間、俺の心臓がまた嫌な跳ね方をする。

 

「お、おはようございます」

 

 芳乃の思考が固まるのが、見ていてわかった。

 

「っ――!?」

「ま、ままま、将臣さんっ!!??」

 

 次の瞬間、白い頬が一気に真っ赤に染まる。

 耳まで、首筋まで、見る見るうちに赤くなっていく。

 

 そして。

 

「な、なんで将臣さんが私の部屋に!? それに一緒に寝て……寝て!!?」

 

 がばっ、と飛び起きた。

 

 勢いがよすぎて、危うく布団に足を取られて転びそうになる。俺もとっさに手を伸ばしかけて、余計に変な空気になった。

 

「いや、たぶんここ俺の部屋」

「えっ」

「夜這いしたんじゃろ?」

 ムラサメちゃんが、あまりにも自然に言った。

 

「よよ、夜這いなんかしてません! 起きたら私の部屋に将臣さんがいたんですよ! って、あれ?」

 

 反射的に言い返した芳乃は、そのまま部屋の中を見回してぴたりと固まる。

 

 見慣れた自室ではない。

 置いてある荷物も、本棚の位置も、窓際の景色も違う。

 

「……将臣さんの、部屋?」

「みたいだな」

「そ、そんな……なぜ私が……?」

 

 芳乃は布団の上で膝を抱え込むように座り、真っ赤なまま額に手を当てた。

 本当に何も覚えていない顔だった。

 

「うーむ、芳乃。本当に覚えておらぬのか?」

「わ、わかりません。自分の部屋で寝ていて、気がついたら将臣さんの顔があったのですから」

 

 その返答に、さすがにムラサメちゃんも少し真顔になる。

 

 俺もようやく、これはただの寝ぼけでは片づかない気がしてきた。

 

 そこでふと、別の違和感に気づいた。

 

「芳乃、犬耳が出てる。体に違和感はない?」

「あ、あれ? 本当だ」

 

 芳乃が慌てて頭に手をやる。

 白い髪の間から、ぴくっと犬耳がのぞいていた。

 

 真っ赤な顔で、耳までぴくぴく揺れているものだから、緊張感があるのかないのかわからなくなる。

 

「体に何か変な感じは?」

「いえ……ですが、少し胸のあたりが落ち着かないような……まだドキドキしてわかりません」

「……ご主人」

 

 ムラサメちゃんの声色が、今度こそ完全に変わった。

 

「憑代のカケラの様子は?」

「叢雨丸の近くにある。この袋の中だ」

 

 俺は枕元近くに置いていた袋を手に取る。

 昨日まで回収したカケラをまとめて入れていた袋だ。

 

 その口を開いた瞬間。

 

 袋の中から、赤い光が漏れた。

 

「な、なんだこれ!?」

 

 さっきまでの騒がしさが、一瞬で吹き飛ぶ。

 

 中に入っていた憑代のカケラが、赤く光っていた。

 脈打つような激しい明滅ではない。だが、昨日までとは明らかに違う。

 

 まるで、何かに反応しているように。

 

「このような事は初めてじゃ。みな、用心せよ」

 ムラサメちゃんが低く言う。

 

 部屋の空気が、一気に張り詰めた。

 

 茉子も冗談を引っ込め、すぐに表情を改める。

 

「芳乃様、無理はなさらず。何かあればすぐ仰ってください」

「は、はい」

「将臣さん、叢雨丸はすぐ抜ける位置に」

「わかった」

 

 警戒する。

 だが、周囲に目立った変化はない。

 

 風は吹かない。

 部屋も揺れない。

 祟り神の気配が一気に濃くなったわけでもない。

 

 ただ、袋の中のカケラだけが、不気味な赤い光を放っている。

 

「何も……起きませんね」

 芳乃が不安そうに呟く。

 

「だからこそ不気味じゃの」

 ムラサメちゃんは袋を睨んだまま言う。

「何かの前触れかもしれぬし、単なる反応かもしれぬ。じゃが、わからぬものが一番怖い」

 

 俺も息を呑んだ。

 

 半分まで集まったカケラ。

 順調に進んでいると思っていた探索。

 少しずつ近づいていた、それぞれとの距離。

 

 だが、その先に待っているものが、本当に穏やかなものとは限らない。

 

 朝の騒動で熱くなっていた頭が、一気に冷えていく。

 

 この現象が何を意味するのかは、まだわからない。

 わからないからこそ、慎重になるしかなかった。

 

 赤く光るカケラを見つめながら、俺たちは誰からともなく息を潜める。

 

 ――何かが、動き出そうとしている。

 

 そんな予感だけが、静かな朝の部屋に重く沈んでいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。