目的は、はっきりしていた。
朝武家に積み重なってきた呪いを終わらせること。
祟り神の問題に決着をつけること。
そして、そのために必要なのが――憑代のカケラを集めること。
やるべきことが明確になった以上、立ち止まっている暇はなかった。
将臣たちは、翌日からすぐに動き始める。
それぞれの役目も、自然と定まっていった。
将臣は、朝は稽古。昼は学校。放課後はムラサメと合流して、陽が落ちるまで山でカケラを探す。
ムラサメは、朝から昼までひとりで山を探索し、放課後に将臣と合流。夜は将臣と芳乃とともに山の見回りをする。
芳乃は、放課後までは学校に通い、放課後は健実神社で舞の奉納。夜は将臣、ムラサメとともに山の見回りへ。
茉子は、放課後までは学校。放課後からは朝武家で家事を取り仕切り、夜は将臣たちが山から帰ってくるまで待機する。
そしてレナは、朝は将臣の稽古の応援役。昼は学校。放課後からは朝武家で茉子の指導のもと家事を手伝い、夜になると志那津荘へ帰る。
無理のない範囲で。
それでも、できることは最大限に。
そんなふうにして、それぞれが自分の場所で役目を担うことになった。
◇
朝の空気はひんやりとしていて、まだ夜の冷たさを少しだけ引きずっている。
朝武家の裏手。
踏み固められた地面の上で木刀を構えながら、俺は大きく息を吐いた。
正面には、祖父ちゃん――鞍馬玄十郎が立っている。
「構えが甘い」
「っ……!」
低く短い声が飛ぶ。
次の瞬間、祖父ちゃんの木刀が鋭く打ち込まれてきた。
慌てて受ける。だが受けた瞬間に、腕にずしりと重い衝撃が走った。
「受けるな。流せ」
「簡単に言うって……!」
「口を動かす暇があるなら足を動かせ」
言い終わるより先に、次の一撃が来る。
横。下段。踏み込み。見えても、対応が追いつかない。
木刀同士が打ち合う乾いた音が、朝の静けさに響いた。
「遅い」
「っ、く……!」
「考えてから動くな。動きながら考えろ」
「それ、一番むずかしいやつだろ!」
「戦いの最中に易しい難しいを選べると思うな」
正論すぎてぐうの音も出ない。
祖父ちゃんの指導は相変わらず容赦がなかった。
無駄がなく、厳しく、必要なことしか言わない。だが、その短い言葉のひとつひとつが的確なのも分かる。
構え直す。
踏み込む。
打ち込む。
そのたびに、祖父ちゃんの木刀がぴたりとこちらの甘さを叩いてくる。
「腰が浮いとる」
「……っ」
「今のは振ったのではない。振らされた」
「はい……!」
「返事はよい。直せ」
息が上がる。
朝からやるにはきつすぎる。けれど、このきつさが無駄じゃないことも分かっていた。
少し離れたところから、明るい声が飛んでくる。
「マサオミ、頑張ってください!」
「レナさん、気軽に言ってくれるなあ……!」
「でも、さっきのより今の方がよかったです!」
「ほんとに?」
「はい! ちゃんと前に出てました!」
声のした方を見ると、レナが手ぬぐいと水筒を持ってこちらを見ていた。
最近の朝稽古には、こうしてレナが付き添ってくる。
最初は見学半分だったのだろう。
けれど今ではすっかり“応援役”が板についていて、水の用意をしたり、休憩のタイミングで声をかけたり、時には今みたいに一生懸命励ましてくれるようになっていた。
「マサオミ、次です次!」
「いや、他人事みたいに!」
「他人事ではありません。応援は大事です!」
「それはそうだけど!」
そんなやり取りを聞いていた祖父ちゃんが、わずかに鼻を鳴らす。
「気が散っとる」
「うっ」
「じゃが、今の方が足は動いておったな」
「え?」
「頭で固めるより、余計な力が抜けたのじゃろう」
「……褒めてる?」
「事実を言ったまでだ」
祖父ちゃんらしい言い方だった。
レナはぱっと表情を明るくする。
「ほら! 大旦那様もそう言ってます!」
「なんでレナさんが得意げなんだよ」
「私が応援した成果かもしれません」
「ちゃっかりしてるなあ」
「当然です。応援係ですから」
「いつの間に正式役職みたいになってるんだ」
「いま決まりました」
「またセルフ任命か」
思わず苦笑すると、レナも楽しそうに笑った。
朝日が差し込んで、レナの金髪がやわらかく光る。
こうして明るく声をかけられると、不思議と気持ちが軽くなる。
「休め」
祖父ちゃんが短く言う。
「はい」
「はい、大丈夫です! マサオミ、お水です」
すかさずレナが駆け寄ってくる。
差し出された水筒を受け取りながら、俺は息を整えた。
「どうも」
「お疲れさまです。今の打ち込み、前よりずっとよかったです」
「ほんと?」
「はい。最初よりちゃんと前に出てましたし、さっきは受けた後に崩れませんでした」
「そこまで見てるの?」
「見てますよ。応援係ですから」
「応援係って、そんな観察眼いる?」
「必要です。だって、頑張ってるところをちゃんと見てないと、応援できません」
「……それは、まあ」
「それに」
「それに?」
「朝のマサオミ、けっこうかっこいいです」
「……不意打ちやめてくれる?」
「え?」
「いや、なんでもない」
きょとんとした顔をされて、こっちだけが変に意識したみたいで落ち着かない。
祖父ちゃんが呆れたようにひとつ息をつく。
「休憩が済んだなら戻れ」
「はいはい、厳しいなあ」
「鍛錬に甘さはいらん」
「大旦那様、でもちょっとだけ休ませてあげてください」
「甘やかすな、リヒテナウアーさん」
「これは優しさです」
「甘さと紙一重じゃ」
「では、優しさ多めの方でお願いします」
「勝手に決めるな」
祖父ちゃんとレナのやり取りに、思わず笑ってしまう。
厳しい稽古の最中なのに、こうして明るい声が混ざるだけで空気が少し柔らかくなる。
今やっていることは軽いものではない。けれど、レナがそばで応援してくれる朝は、不思議と気持ちが前を向いた。
そして、そんな時間を重ねるうちに、俺とレナの距離も少しずつ自然に縮まっていった。
◇
昼は学校だ。
授業が始まれば、俺も芳乃も茉子もレナも、ひとまずはいつも通りの顔をする。
もちろん本当にいつも通りなわけじゃない。頭の片隅には、カケラのことも、夜の見回りのこともある。
それでも授業は進み、チャイムは鳴り、周囲の生徒たちは普段通りに笑い、話し、日常を過ごしている。
その何気なさが、逆に今の自分たちの状況の異質さを際立たせていた。
昼休み。
教室の窓から差し込む光の中で、レナが前の席から少し身を乗り出す。
「マサオミ」
「ん?」
「今朝、けっこう頑張ってましたね」
「朝の話を昼に蒸し返すのやめてくれ」
「だって、本当にかっこよかったですから」
「だから不意打ち」
「? 褒めてるだけですよ?」
「それが一番困るんだって」
「マサオミ、変です」
「変じゃない」
「じゃあ照れてるんですか?」
「……」
「照れてるんですね」
「断定するな!」
レナが楽しそうに笑う。
こういう軽いやり取りも、最近はずいぶん増えた。
以前なら、どこか距離を測るような空気があった。
けれど今は違う。朝を一緒に過ごすようになったせいか、レナは前よりずっと気安く俺に声をかけてくる。
そして俺も、それを自然に受け止めるようになっていた。
◇
放課後になると、それぞれが自分の役目に向かう。
芳乃は健実神社へ向かい、舞の奉納。
レナは朝武家へ向かい、茉子のもとで家事の手伝い。
茉子は怪我がまだ完治していないため、家の中の仕事を中心に采配を振るう。
そして俺は、ムラサメちゃんと合流して山へ入る。
ムラサメちゃんは、すでに朝から山を見て回っている。
だから俺が放課後に合流する頃には、ある程度目星がついていることが多かった。
「ご主人、今日はこっちじゃ」
「また奥の方か」
「うむ。朝のうちに気配を拾っておいた」
「便利だな、その感覚」
「便利というより、我輩の本分じゃな」
山道を進みながら、ムラサメちゃんは周囲を見回す。
小柄な身体に似合わず、その立ち姿は妙に頼もしい。
最初のうちは比較的見つけやすかった。
木の根元、岩陰、浅い土の中。そういう場所にカケラが埋もれていて、叢雨丸を近づければ反応が出ることも多かった。
だが、半分ほどまで集まってからは一気に難しくなった。
「……ないな」
「うむ。反応はあるのじゃが、薄い」
「最近ずっとそれ言ってる気がする」
「事実じゃから仕方あるまい」
落ち葉をどかし、岩の隙間を覗き込み、少し土を掘る。
それでも見つからない。
山の空気は静かだ。
けれど静かだからこそ、何かがじっと潜んでいるような感覚が強い。
「残ってるやつほど、見つけにくいな」
「山に馴染み始めておるのかもしれぬな」
「馴染む?」
「憑代自身が一つに戻りたがっておるのじゃろう。そう考えれば辻褄は合う。じゃが、その分だけ山の気と混ざり、拾いにくくなる」
「厄介な性質してるな」
「うむ。実に面倒じゃ」
そう言いながらも、ムラサメちゃんの目は真剣だった。
探索を続けて、ようやく一つ見つけた時には、日がだいぶ傾いていた。
赤みを帯び始めた光の中で、俺は小さな欠片を布袋に収める。
「これで、だいたい半分くらいか?」
「そのくらいじゃな。順調ではある」
「でも、この先はもっときつい」
「うむ。じゃからこそ気を抜くでないぞ、ご主人」
「わかってる」
「ほんとうかのう。無茶をする前科が多いからの」
「それを言われると弱い」
「弱いなら最初から慎重にせい」
呆れたような声に苦笑しつつ、俺たちは山を下りた。
◇
その頃、朝武家では。
「レナさん、お盆はもう少し高く持ってください。そうした方が安定します」
「こうですか?」
「はい。だいぶいいです」
「おお……マコ先生、ありがとうございます」
「先生というほどではありませんが」
「いえ、十分先生です。私、最初は絶対に何か落とすと思ってました」
「正直、私も少し思っていました」
「思ってたんですか!?」
「ええ」
「マコ、正直です」
「ですが、今はかなり手際がよくなりましたよ」
「……ほんとですか?」
「はい。少なくとも、朝武家で働く方として見ても不自然ではないくらいには」
「それ、かなり褒めてませんか?」
「褒めています」
茉子は怪我のせいで激しく動くことはできないが、その代わり家の中のことを細かく見ていた。
その指示を受けて動くレナも、持ち前の素直さと真面目さでどんどん仕事を覚えていく。
掃除、配膳、片づけ、ちょっとした準備。
分からないことはきちんと聞き、教わったことはすぐに吸収する。
その姿勢のおかげで、朝武家の中でもレナはあっという間に馴染んでいった。
廊下の拭き掃除をしている時も。
「レナさん、雑巾は端から順に。戻らないように進めた方が効率がいいです」
「なるほど……おお、本当です。やりやすいです」
「最初に動線を決めるのは大事ですよ」
「マコ、家事なのに戦術みたいです」
「朝武家は広いので、意外と侮れません」
「それ、分かってきました……」
配膳をしている時も。
「お味噌汁は最後に運んだ方が冷めにくいです」
「はい!」
「あと、その持ち方だと少し危ないですね」
「こうですか?」
「そうです。かなり安定します」
「おお……なんだか家事レベルが上がった気がします」
「レベル制なんですか」
「あります。いま私はレベル2くらいです」
「では、もう少しで見習い卒業ですね」
「やった!」
そして、芳乃の舞の準備を手伝う時も。
「ヨシノ、これで大丈夫ですか?」
舞の準備を整えながら、レナが芳乃に声をかける。
「はい。ありがとうございます、レナさん」
「舞の前って、こんなに準備があるんですね」
「毎日のことですから慣れていますが……手伝っていただけると、とても助かります」
「ならよかったです」
そう言って笑うレナに、芳乃もやわらかく笑い返す。
その光景は穏やかだった。
穏やかであるほど、芳乃の胸には別の思いも積もっていく。
――レナさんを、巻き込んでしまっている。
朝武家の事情。呪い。祟り神。憑代のカケラ。
本来なら、外の人間を巻き込んでいいものではない。
それなのにレナは、自分から手を貸し、皆のために動いてくれている。
ありがたい。だからこそ、申し訳なさも増していく。
舞の装束に袖を通しながら、芳乃は小さく息を吐いた。
「芳乃様、どうかなさいましたか?」
茉子が気づいて声をかける。
「いえ……少し考え事を」
「レナさんのこと、ですね」
「……はい」
「お気持ちは分かります。ですが、あの方はご自分の意思でここにいます」
「それでも、危険に巻き込むかもしれません」
「そうですね」
茉子はすぐに否定しなかった。
その代わり、穏やかな声で続ける。
「ですが、何も知らされずに守られるだけ、というのもまた辛いものです。少なくともレナさんは、力になりたいと思ってここにいるのでしょう」
「……そう、ですね」
「芳乃様が気に病むのはお優しいからです。ですが、抱え込みすぎるのは別問題ですよ?」
「耳が痛いです」
「将臣さんにも言われたのでは?」
「……言われました」
「でしょうね」
そこで茉子が少しだけ笑う。
「頼れるところは頼ってください。私も、将臣さんも、ムラサメ様もおります」
「レナさんも、ですね」
「ええ。きっと、あの方はそう言ってほしいはずです」
芳乃は頷いた。
簡単に不安が消えるわけではない。だが、それでも少しだけ胸が軽くなる。
その一方で、レナはそんな芳乃の内心を知らず、いつも通り明るい顔で言う。
「ヨシノ、今日も舞、頑張ってください」
「はい」
「終わったらお茶の用意しておきます」
「そこまでしていただかなくても」
「したいんです。私、いま“できることをやる係”ですから」
「それ、係だったんですね」
「はい。今、決めました」
「レナさんもそういうところがありますね」
「あります」
「少し将臣さんに似ています」
「えっ、私マサオミに似てますか?」
「……そういう、良くも悪くも自分で決めて動くところが」
「それ、褒めてます?」
「ふふ……たぶん、褒めています」
レナが目を丸くして、それから嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、芳乃もまた少しだけ肩の力を抜く。
舞の時間は、もうすぐだった。
◇
夜。
見回りは、俺と芳乃、そしてムラサメちゃんの三人で行うようになっていた。
祟り神が出る気配はないか。
穢れが濃くなっていないか。
神社の周囲と、山の入り口付近を中心に、短い時間だけ確認する。
夜の山は昼とは違う。
風の音ひとつで空気が変わる。
虫の声も、遠くで鳴く獣の気配も、どこか緊張を誘う。
「今日は静かですね」
提灯の灯りの中、芳乃が小さく言う。
「静かすぎて逆に不気味だな」
「何もないなら、その方がいいです」
「それはそうだけど」
隣を歩く芳乃の白い髪が、夜の灯りを受けて淡く光る。
舞を終えたばかりだからか、どこか少し疲れて見えた。
「芳乃、ちゃんと休めてるか?」
「……急にどうしたんですか」
「いや、ちょっと顔色」
「大丈夫です」
「その返し、あんまり信用できないんだけど」
「大丈夫です。少し疲れているだけですから」
「それを大丈夫って言うの、真面目な人の悪い癖だろ」
「将臣さんにだけは言われたくありません」
「うっ」
即答されて、思わず詰まる。
「無茶をして、怪我をして、それでも大丈夫と言い張っていた方はどこの誰ですか?」
「……俺です」
「はい」
「すみませんでした」
「よろしいです」
そこで少しだけ、芳乃が笑った。
夜の見回りで交わす会話は、朝のレナとのそれとは少し違う。
騒がしく笑うのではなく、静かな空気の中でひとつひとつ言葉を重ねていく感じだ。
その静けさが、むしろ距離を近くする。
足元を照らす提灯の灯りが揺れる。
夜気は少し冷たい。
その中で、芳乃の声だけが近くにある。
「レナさんのこと、気にしてる?」
俺がそう聞くと、芳乃は少しだけ黙った。
「……はい」
「やっぱり」
「私は、レナさんを巻き込んでしまったと思っています」
「でも、レナさんは自分でここにいる」
「それでもです」
芳乃の声は静かだった。
「レナさんは優しいです。頼れば、きっと力になろうとしてくださいます。だからこそ……これ以上、危険なことに巻き込んでしまうのではないかと、不安になるのです」
「芳乃らしいな」
「そうでしょうか」
「そうだよ。自分のことより、先に人のことを心配する」
「……朝武家の者として当然です」
「いや、朝武家だからじゃなくて、芳乃だからだろ」
そう言った瞬間、芳乃が目を丸くした。
それから視線を少し逸らし、小さく息を吐く。
「将臣さんは、時々……そういうことをあっさり言いますよね」
「変なこと言った?」
「いえ。変ではありません。……困るだけです」
「困る?」
「答えにくい、という意味です」
提灯の灯りのせいだけではないだろう。
芳乃の頬が、わずかに赤く見えた。
「でも、ひとりで抱え込むなよ」
「……はい」
「俺もいるし、ムラサメちゃんもいる」
「茉子も、ですね」
「そうそう」
「レナさんも」
「ああ」
「でしたら……少しだけ、頼ってみることにします」
「少しだけか」
「いきなり全部は無理です」
「まあ、それならいいか」
そう言うと、芳乃はほんの少しだけ、安心したように笑った。
「将臣さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「……聞かないでください」
「そこまで言って?」
「言っただけです」
「ずるいな」
「将臣さんほどではありません」
そんなやり取りが自然にできるくらいには、確かに距離が縮まっていた。
夜の見回りは、本来なら危険を確かめる時間だ。
けれど今の俺にとっては、芳乃のことを前より近く感じられる時間にもなっていた。
ある夜には、神社の石段を下りる時に、芳乃の足元がわずかに揺らいだことがあった。
「っと……」
「大丈夫か?」
「あ、はい。少しぼんやりしていただけです」
「大丈夫じゃない時のやつだろ、それ」
「……否定できません」
「ほら」
反射的に手を差し出す。
芳乃は一瞬迷ったあと、そっと俺の手を取った。
細い指先。
少しひんやりしていて、それでいて柔らかい。
「ありがとうございます」
「離すなよ。石段、暗いし」
「……はい」
たったそれだけのことなのに、妙に心臓が落ち着かなくなる。
隣を見ると、芳乃も少しだけ視線を伏せていた。
その夜、握った手は石段を下りきるまで離れなかった。
◇
そうして日々は過ぎていく。
朝は祖父ちゃんの指導で稽古をして、レナが応援してくれる。
昼は学校。
放課後はムラサメちゃんと山でカケラ探し。
夜は芳乃とムラサメちゃんと見回り。
茉子は朝武家を支え、レナはその手伝いをこなし、夜になると志那津荘へ帰る。
みんながそれぞれの場所で役目を果たしていた。
そして、その積み重ねの中で、レナは急速に皆の輪に馴染んでいった。
朝は、俺の稽古の応援役として。
昼は、学校で自然に言葉を交わす相手として。
放課後は、朝武家の家事を手伝う頼もしい助っ人として。
舞の準備では芳乃を支え、家の中では茉子の指示をきちんとこなし、玄十郎にも物怖じせずに話しかける。
「大旦那様、お茶です」
「……置いておけ」
「はい。熱いので気をつけてください」
「……うむ」
「いま、ちょっとだけ優しかったですね」
「気のせいじゃ」
「気のせいではありません」
「……リヒテナウアーさん、お主は妙なところで図太いのう」
「褒め言葉として受け取ります」
「誰が褒めた」
そんなやり取りが生まれるくらいには、もう自然にそこにいた。
集まった憑代のカケラは、半分ほど。
順調といえば順調。
けれど、そこから先が難航していた。
だからこそ、少しずつ焦りも募っていたのだと思う。
そんなある朝――その異変は起きた。
◇
最初に感じたのは、妙な温もりだった。
布団の中がやけに暖かい。
いつもより熱がこもっている気がする。しかもその熱は、自分ひとりで寝ている時のものとは明らかに違った。
「……ん……?」
まだ頭は半分眠ったままだ。
寝返りを打とうとして、そこで違和感に気づく。
動けない。
正確には、動きづらい。
腕のあたりに柔らかい重みがあって、身体の横にもぴったり何かがくっついている。
そこでようやく、ぼんやりした意識に警報が鳴った。
――いや待て。何これ。
ゆっくり、恐る恐る目を開ける。
最初に見えたのは白だった。
朝の薄明かりの中でやわらかく光る、長い白髪。
「…………は?」
思考が止まった。
白い髪が、すぐ目の前にある。
近い。近すぎる。あと少し顔を寄せれば、そのまま鼻先が触れてしまいそうな距離だ。
その髪の向こうに見えるのは、閉じた瞼と長い睫毛。すっと通った鼻筋。ほんのり桜色の唇。
寝息に合わせてかすかに胸が上下して、そのたびにかかる吐息が頬をくすぐる。
芳乃だった。
「…………え?」
いや、待て待て待て。
なんで芳乃がここにいる。
なんで俺の布団の中にいる。
というか、なんでこんなに密着してる。
状況確認のために視線を下げて、さらに固まる。
芳乃が、俺の腕にしっかり抱きついていた。
片手が触れてるとか、寝返りの拍子で近くなったとか、そういう言い訳の利く距離じゃない。
両腕で逃がすまいとするみたいに抱え込み、身体までぴったり寄せている。完全に抱き枕扱いだった。
「ちょ、え、なんで!?」
声は出せない。
出したら起きる。起きたら終わる。いろいろと終わる。
心臓がうるさい。
朝一番に鳴っていい音じゃない。ばくばくどころか、もはや戦太鼓だ。
必死に昨日の記憶を探る。
夜の見回りを終えて、朝武家に戻って。
普通に自分の部屋に入って、普通に寝た。そこまでは覚えている。
芳乃の部屋に行った覚えなんて当然ない。そんな度胸があるなら、今こんなに混乱していない。
じゃあ芳乃の方が来たのか?
いや、何がどうなったらそうなる。
そっと身体を引こうとしてみる。
だが、芳乃の腕が思った以上にしっかりしていて離れられない。動いた拍子に、逆に顔がさらに近づいてしまった。
「っ……!」
近い。ほんとに近い。
寝ている芳乃は、起きている時よりずっと無防備だった。
普段は巫女姫として背筋を伸ばし、柔らかくもきちんとした表情を崩さないのに、今は警戒心の欠片もない。
頬はほんのり赤く、まつ毛は長く、口元は少しだけ緩んでいる。
しかも、ふわりと落ち着いた甘い香りがする。
これはまずい。
いろんな意味でまずい。
起こすべきか。
いやでも、この距離で目を開けられたら説明不能だろ。
というか説明が欲しいのはこっちなんだけど!?
頭の中が完全に混乱していた、その時だった。
「ご主人、朝じゃ――」
聞き慣れたムラサメちゃんの声。
助かった。
そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。
ムラサメちゃんの視線が、布団の中の俺たちを捉え、そのままぴたりと止まる。
沈黙。
数秒後、片眉がすっと上がった。
「……何をやっておる」
「違う! 待って! これは俺にもわからない!」
「ほう?」
「起きたらこうなってただけで!」
「見事な言い訳じゃのう」
「言い訳じゃないって!」
「よもやこのような関係になろうとは……」
「違う! 事後じゃない!」
「なんと! まさかこれからじゃったか……もしや、我輩、お邪魔?」
「だから違うって!」
小声で済ませたいのに、ツッコミの勢いが抑えられない。
ムラサメちゃんは腕を組み、完全に面白がっている目をしていた。
「いやほんと、俺にも意味わかんないからな!? 昨日は普通に寝たんだって!」
「ほほう。では芳乃が自らご主人の寝所へ忍び込み、添い寝どころか抱きついておると」
「そういう言い方やめろ! 一気に誤解がひどくなる!」
「誤解かのう? 我輩の目には、なかなか熱烈に見えるが」
「寝相の問題だろたぶん!」
「ふむ。ではその寝相とやら、なかなか将来有望じゃな」
「何の将来だ!」
布団の中で焦る俺とは対照的に、ムラサメちゃんはやたら楽しそうだった。
だがその騒ぎは、当然ながら廊下にも聞こえる。
「将臣さん、朝ですよ。ムラサメ様が来ていると思うのですが、朝の鍛錬には行かないんです……か?」
茉子の声。
まずい、と思った次の瞬間には襖が開いていた。
茉子は部屋の中を見て、ぴたりと止まる。
視線が、ムラサメちゃんの横を抜けて布団へ。
俺。
芳乃。
密着。
抱きつき。
言い逃れ不能の構図。
数秒の静止のあと、茉子はすっと微笑み、深々と一礼した。
「朝チュンの最中とはつゆ知らず、大変申し訳ありません。すぐにお風呂の準備を」
「だから事後じゃない!」
「まぁ! もしかしてこれから?」
「そのネタはもうやった!」
「朝の鍛錬は、腰の鍛錬に変更したんですかぁ? もう、お若いんですから」
「そのゲスい発想はやめろ!」
「えー」
「えー、じゃない!」
味方がいない。
この部屋、俺の味方がひとりもいない。
「というか茉子、お前まで乗るな!」
「乗るなとは失礼ですね。私はただ、目の前の事実を受け止めているだけです」
「受け止め方が汚れてる!」
「でも、なかなか絵になりますよ? 白髪の巫女姫様が、朝から将臣さんに抱きついて離さないなんて」
「だから俺に言うな!」
「では芳乃様が起きたら直接うかがいましょうか」
「やめろ! 混乱が倍になる!」
そうこうしているうちに、布団の中の芳乃が小さく身じろぎした。
「……ん……」
ぴたり、とその場の空気が止まる。
芳乃の睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。
寝起きらしく、少しとろんとした視線が、まっすぐ目の前の俺を捉えた。
この距離だ。
視線が合った瞬間、俺の心臓がまた嫌な跳ね方をする。
「お、おはようございます」
芳乃の思考が固まるのが、見ていてわかった。
「っ――!?」
「ま、ままま、将臣さんっ!!??」
次の瞬間、白い頬が一気に真っ赤に染まる。
耳まで、首筋まで、見る見るうちに赤くなっていく。
そして。
「な、なんで将臣さんが私の部屋に!? それに一緒に寝て……寝て!!?」
がばっ、と飛び起きた。
勢いがよすぎて、危うく布団に足を取られて転びそうになる。俺もとっさに手を伸ばしかけて、余計に変な空気になった。
「いや、たぶんここ俺の部屋」
「えっ」
「夜這いしたんじゃろ?」
ムラサメちゃんが、あまりにも自然に言った。
「よよ、夜這いなんかしてません! 起きたら私の部屋に将臣さんがいたんですよ! って、あれ?」
反射的に言い返した芳乃は、そのまま部屋の中を見回してぴたりと固まる。
見慣れた自室ではない。
置いてある荷物も、本棚の位置も、窓際の景色も違う。
「……将臣さんの、部屋?」
「みたいだな」
「そ、そんな……なぜ私が……?」
芳乃は布団の上で膝を抱え込むように座り、真っ赤なまま額に手を当てた。
本当に何も覚えていない顔だった。
「うーむ、芳乃。本当に覚えておらぬのか?」
「わ、わかりません。自分の部屋で寝ていて、気がついたら将臣さんの顔があったのですから」
その返答に、さすがにムラサメちゃんも少し真顔になる。
俺もようやく、これはただの寝ぼけでは片づかない気がしてきた。
そこでふと、別の違和感に気づいた。
「芳乃、犬耳が出てる。体に違和感はない?」
「あ、あれ? 本当だ」
芳乃が慌てて頭に手をやる。
白い髪の間から、ぴくっと犬耳がのぞいていた。
真っ赤な顔で、耳までぴくぴく揺れているものだから、緊張感があるのかないのかわからなくなる。
「体に何か変な感じは?」
「いえ……ですが、少し胸のあたりが落ち着かないような……まだドキドキしてわかりません」
「……ご主人」
ムラサメちゃんの声色が、今度こそ完全に変わった。
「憑代のカケラの様子は?」
「叢雨丸の近くにある。この袋の中だ」
俺は枕元近くに置いていた袋を手に取る。
昨日まで回収したカケラをまとめて入れていた袋だ。
その口を開いた瞬間。
袋の中から、赤い光が漏れた。
「な、なんだこれ!?」
さっきまでの騒がしさが、一瞬で吹き飛ぶ。
中に入っていた憑代のカケラが、赤く光っていた。
脈打つような激しい明滅ではない。だが、昨日までとは明らかに違う。
まるで、何かに反応しているように。
「このような事は初めてじゃ。みな、用心せよ」
ムラサメちゃんが低く言う。
部屋の空気が、一気に張り詰めた。
茉子も冗談を引っ込め、すぐに表情を改める。
「芳乃様、無理はなさらず。何かあればすぐ仰ってください」
「は、はい」
「将臣さん、叢雨丸はすぐ抜ける位置に」
「わかった」
警戒する。
だが、周囲に目立った変化はない。
風は吹かない。
部屋も揺れない。
祟り神の気配が一気に濃くなったわけでもない。
ただ、袋の中のカケラだけが、不気味な赤い光を放っている。
「何も……起きませんね」
芳乃が不安そうに呟く。
「だからこそ不気味じゃの」
ムラサメちゃんは袋を睨んだまま言う。
「何かの前触れかもしれぬし、単なる反応かもしれぬ。じゃが、わからぬものが一番怖い」
俺も息を呑んだ。
半分まで集まったカケラ。
順調に進んでいると思っていた探索。
少しずつ近づいていた、それぞれとの距離。
だが、その先に待っているものが、本当に穏やかなものとは限らない。
朝の騒動で熱くなっていた頭が、一気に冷えていく。
この現象が何を意味するのかは、まだわからない。
わからないからこそ、慎重になるしかなかった。
赤く光るカケラを見つめながら、俺たちは誰からともなく息を潜める。
――何かが、動き出そうとしている。
そんな予感だけが、静かな朝の部屋に重く沈んでいた。