『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第3話 穂織の春祭りと、折れてはいけないもの

 

 

穂織は遠い。

 

実家から電車に揺られて最寄り駅まで行き、そこからさらにタクシーで三十分ほど山道を進んで、ようやく辿り着く。

小さい頃は何とも思っていなかったけれど、今こうして改めて来ると、ずいぶん奥まった場所にあるのだと実感する。

 

タクシーの窓の外には、山、木々、細い道。

時折見える民家も、どこかよそよそしい。

 

運転手は気さくそうなおじさんだったが、穂織の名前を出した時、ほんの少しだけ表情が変わった。

 

「穂織まで行くのかい」

「はい」

「春祭りか」

「まあ、そんなところです」

 

おじさんは少しだけ間を置いてから、前を向いたまま言った。

 

「あの辺りは、昔からあんまりいい話を聞かないからなあ」

「……イヌツキの土地、とかですか?」

「お、知ってるのか」

 

穂織は昔から、周辺の住人たちにあまり良く思われていない。

 

イヌツキの土地。

呪われた土地。

何かよくないものが棲みついている場所。

 

そんな風に言われている。

本気で信じている者もいれば、ただの気味悪い言い伝えとして避けている者もいるが、どちらにせよ印象はよくない。

 

(まあ、完全なデタラメでもないんだよな……)

 

将臣は心の中でだけ呟いた。

 

前世の知識は曖昧だ。

細かいところまでは思い出せない。

 

ただ、朝武家に呪いがあること。

祟り神は犬の姿をしていること。

穂織に伝わる話は本当半分、嘘半分であること。

そのくらいは覚えている。

 

「着きましたよ」

 

運転手の声で、将臣は意識を戻した。

 

「ありがとうございます」

 

代金を払って外に出ると、春の風が頬を撫でる。

懐かしい空気だった。

 

けれど、それをじっくり味わうより先に、耳へ飛び込んできたのは祭りの喧騒だった。

 

「うわ……人、多いな」

 

穂織の入り口からすでに観光客の姿が見える。

露店の呼び声、笑い声、子供のはしゃぐ声。

静かな土地という印象の強い穂織が、今日は別の町みたいに賑わっていた。

 

春祭り。

 

玄十郎からは、宿を手伝えとだけ言われて来た。

だがこの様子なら、たしかに人手が必要だろう。

 

「これは忙しそうだな……」

 

宿へ向かおうとした、その時だった。

 

「……まー坊?」

 

懐かしい呼び方に、将臣ははっとして振り返った。

 

そこに立っていたのは、優しい面影を残しつつ、昔よりもずっと大人びた女性だった。

 

「芦花ねえ……?」

 

「やっぱりまー坊だ。久しぶりだね」

 

馬庭芦花。

幼い頃からよく知る、近所のお姉さんみたいな存在。

 

四年近く会っていなかったはずなのに、その笑い方は昔のままだ。

けれど、見た目はずいぶん変わっていた。

 

(……綺麗になったな)

 

昔から優しくて、面倒見のいい人だった。

でも今はそこに女性らしい落ち着きが加わっていて、正直かなりどきりとする。

 

「どうしたの、まー坊。ぼーっとして」

「いや……その」

「その?」

 

首を傾げる芦花に、将臣は変にごまかさなかった。

 

「芦花ねえ、綺麗になったな」

 

「――えっ」

 

芦花の動きが止まった。

 

「前から綺麗だったけど、なんていうか、もっと綺麗になった」

「ま、まー坊!?」

「思ったことを言っただけだけど」

「そ、そういうのは普通もっと照れたり誤魔化したりするものでしょ!?」

 

みるみるうちに、芦花の頬が赤くなる。

耳までちゃんと赤い。

 

将臣は少しだけ面白くなった。

 

「そんなに変なこと言ったか?」

「変じゃないけど、心臓に悪いの!」

「それは悪かった」

「悪いと思ってる顔じゃないよぉ……」

 

昔と変わらない反応に、将臣は自然と笑ってしまった。

 

「そうだ、じいちゃんの宿に行こうと思ってたんだけど」

「ああ、玄十郎さんなら今は健実神社にいるよ」

「神社?」

「うん。春祭りの実行委員をしてるから、今はそっち。宿もすごく忙しいけど、まず神社に来るんじゃないかなって思ってた」

「なるほど」

 

「私も今から戻るところだし、一緒に行こっか、まー坊」

「助かるよ、芦花ねえ」

 

そうして将臣は、芦花と並んで健実神社へ向かった。

 

道すがら、途切れていた時間を埋めるように色々と話す。

穂織のこと、祭りのこと、最近のこと。

 

「でもほんと、まー坊も大きくなったね」

「まあ、高校生だしな」

「それだけじゃなくて。なんだか前よりずっと頼もしくなった」

「芦花ねえに言われると照れるな」

「そ、そうやってすぐ返すところが前よりずるくなったと思う……」

「ひどいな」

「ひどくないよ。ほんとのことだもん」

 

そんなやり取りをしながら歩いていると、やがて健実神社が見えてきた。

 

境内は祭りの熱気に包まれていた。

露店が並び、人が行き交い、賑やかな声が響いている。

 

そして、その空気の中で、ふと一角だけが静まって見えた。

 

神楽殿。

 

ちょうど奉納の舞が行われていた。

 

白い衣に緋袴。

凛とした空気を纏って舞う少女の姿に、将臣は思わず足を止めた。

 

朝武芳乃。

 

健実神社の巫女姫様。

 

(……やっぱり、綺麗だな)

 

将臣は見惚れた。

前世の曖昧な知識で知っていた人物。だが、実際に目の前で見るとまるで違う。

 

その時だった。

 

ふいに、将臣の視界におかしなものが映る。

 

――芳乃の頭の上に、犬耳。

 

「……は?」

 

思わず目を凝らす。

確かに見えた気がした。黒髪の上に、ぴくりと揺れる耳。

 

だが次の瞬間には、何もない。

 

「なんだ、今の……」

 

「お兄ちゃん!」

「将臣!」

 

後ろから声をかけられ、将臣は振り向いた。

 

駆けてきたのは小春と廉太郎だった。

 

「久しぶりだね、お兄ちゃん!」

「全然来ねーから忘れられたのかと思ったぞ」

「悪かったって」

「ほんとだよー」

「まあ来たならいいけどな」

 

小春は昔のまま人懐っこく、廉太郎も相変わらず気安い。

懐かしい顔ぶれを前にすると、さっきの違和感も少し薄れた。

 

(……気のせい、か)

 

祭りの雰囲気に当てられたのだろう。

そう思うことにする。

 

「じいちゃんは?」

「奥にいるよ、お兄ちゃん」

「今ならたぶん手が空いてるはずだぜ」

「じゃあ案内するね、まー坊」

 

芦花、小春、廉太郎に連れられて、将臣は神社の奥へ進んだ。

 

そこにいたのは、変わらず無駄のない立ち姿の老人。

 

鞍馬玄十郎。

 

寡黙で、厳しくて、けれど将臣にとっては祖父であると同時に師匠でもある人だ。

小さい頃から、立ち方も、呼吸も、間合いも、徹底的に叩き込まれてきた。

 

「じいちゃん」

 

「……来たか」

 

短い一言。

それだけなのに、自然と背筋が伸びる。

 

将臣は軽く頭を下げた。

 

「久しぶり。なかなか顔を出せなくて悪かった」

「……気にするな」

「宿の手伝い、ちゃんとやるよ」

「そうか」

「祭り、かなり人多いな」

「今年は特に多い」

 

相変わらず言葉は少ない。

けれどそれが玄十郎らしかった。

 

「鈍ってはおらんな」

「誰に鍛えられたと思ってるんだよ」

「……ならいい」

 

その一言だけで、師匠に見られている感じがする。

 

しばらく玄十郎と話しているうちに、境内の一角にあった催しの周囲から人が少しずつ引いていった。

 

そこには、岩鞘に刺さった一振りの剣がある。

 

さっきまでは祭りの客たちが代わる代わる抜こうとしていたらしいが、今はちょうど途切れていて、人が少ない。

 

「お兄ちゃん、あれやってみたら?」

と小春が言う。

 

「今なら空いてるしな」

と廉太郎。

 

「まー坊なら案外抜けたりして」

と芦花。

 

三人とも、完全に面白がっていた。

 

「……やらせたいだけだろ」

「ばれた?」

と廉太郎がにやりと笑う。

 

その時、玄十郎が剣の方へ視線を向けた。

 

「試してみろ」

 

「じいちゃんまで?」

「経験だ」

 

いかにも師匠らしい一言だった。

こう言われると断りにくい。

 

「分かったよ」

 

将臣は剣の前へ進み出る。

 

岩に深く納まったその剣は、祭りの出し物にしては妙な存在感があった。

どこか、ただの飾りではない感じがする。

 

「まー坊、がんばって」

「お兄ちゃん、抜けたらすごいよ!」

「まあ無理だと思うけどな」

「廉兄、そういうこと言わないの!」

 

後ろで好き勝手言っている三人を背に、将臣は柄へ手をかけた。

 

その瞬間。

 

バチッ。

 

「っ……!?」

 

指先から腕へ、鋭い静電気のような感覚が走る。

 

思わず眉をひそめた。

 

「どうした、お兄ちゃん?」

「いや……静電気みたいなのが」

「この時期に?」

「気のせいじゃね?」

「まー坊、大丈夫?」

 

どうやら三人には何も分からなかったらしい。

 

「……まあ、いいか」

 

将臣はそのまま少しだけ力を込める。

 

すると。

 

べきっ。

 

「…………あ」

 

あまりにもあっさりと、剣が折れた。

 

無理やり引っ張ったわけじゃない。

力任せにへし折ったわけでもない。

 

ただ、ほんの少し力を入れた次の瞬間、まるで最初からそこが脆かったみたいに、刀身が途中からすんなり折れてしまったのだ。

 

将臣の手には、上半分だけになった剣。

岩鞘には、残り半分が刺さったまま。

 

「…………」

「…………」

「…………」

 

場の空気が止まる。

 

最初に声を漏らしたのは芦花だった。

 

「……え?」

 

続いて廉太郎。

 

「……は?」

 

そして小春。

 

「……折れた……?」

 

将臣自身が一番聞きたい。

 

「いや、俺も何が起きたか分からないんだけど」

「まー坊!?」

「お兄ちゃん!?」

「お前、なにしてんだよ!?」

 

廉太郎が素で引いている。

ひどいが、気持ちは分かる。

 

将臣はそっと玄十郎を見た。

 

玄十郎は無言で、折れた剣と将臣を見比べていた。

 

怖い。

 

怒鳴らないのが逆に怖い。

 

「……将臣」

「はい」

「あとで話す」

「……はい」

 

短い。

だが、ものすごく重い。

 

その圧に耐えきれなかったのか、芦花がそっと後ずさる。

 

「じゃ、じゃあ私は宿の方を見てくるね、まー坊!」

「え」

 

「そ、そうだな! 俺も手伝いあるし!」

と廉太郎が続く。

 

「小春も行く! い、急がないと!」

「いや待て」

「が、頑張ってね、お兄ちゃん!」

「あとよろしくな!」

「じゃ、じゃあね、まー坊!」

 

三人は見事なくらい息を合わせて、その場から逃げ出した。

 

「裏切るの早すぎるだろ!?」

 

返事はない。

芦花も、小春も、廉太郎も、あっという間に人混みの向こうへ消えてしまった。

 

残されたのは、将臣と、折れた剣と、無言の玄十郎。

 

気まずい。

ものすごく気まずい。

 

けれど、その沈黙の中で将臣は気づく。

 

折れた剣から、何か得体の知れない気配が滲んでいる。

 

ただの祭りの出し物ではない。

そう思わせるだけの異質さがあった。

 

(……やっぱり、始まるのか)

 

穂織へ来たその日。

将臣は春祭りの真っ最中に、“折れてはいけないもの”を折ってしまった。

 

そしてそれが、この穂織で再び何かが動き出す合図になるのだった。

 

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