玄十郎は、俺に「少し待っておれ」とだけ言い残すと、そのまま神社の奥へと消えていった。
残された俺は、社務所の前の縁側に腰を下ろし、ぼんやりと暗くなっていく境内を眺めていた。
昼間は祭りの名残でそこそこ人の気配もあったが、今はもう静かなものだ。
山あいの穂織の夜は早い。空は藍色に沈み、風に揺れる木々の音と虫の声がやけに耳につく。
そして、俺の膝の上には――。
「……いや、どうすんだよこれ」
思わず、そう呟いてしまった。
真っ二つに折れた刀。
叢雨丸。
ゲームの中でなら“イベントアイテム”とか“物語の鍵”で済むかもしれない。
でも現実で見ると、そんな軽いもんじゃない。
「物語が始まった、って言えば聞こえはいいけど……いや、全然よくないだろ」
俺は頭を抱えた。
穂織。
朝武家。
呪い。
叢雨丸。
前世の知識で、ここが重要な場面だってことは分かる。分かるけど、それとこれとは話が別だ。
現実問題、俺はいま、とんでもないものを壊したかもしれないのだ。
「賠償ってどうなるんだ……?」
喉がひくりと鳴る。
刀だぞ、刀。しかもどう見てもただの刀じゃない。
神社の奥で大事に保管されてた、いかにも由緒正しい一品だ。下手をすれば文化財レベルなんじゃないか。
「何百万……いや、何千万? 最悪、億とかあるのか?」
想像した瞬間、背中がぞわっとした。
「無理無理無理……そんなの払えるわけないだろ。俺だけならまだしも、母さんにまで迷惑かかったらどうすんだよ……!」
せっかく穂織を離れて、母さんと二人で平穏に暮らしてきたのに。
それを俺のやらかしひとつで台無しにするとか、笑えないにもほどがある。
「じいちゃん、少し待てって言ったけど、少しってどれくらいだよ……」
愚痴が漏れる。
だが、返事はない。
代わりに。
「ふむ? お主が我輩のご主人か?」
「……は?」
不意に、上から声が降ってきた。
女の子の声。
しかも、やけに幼くて、妙に偉そうな言い方だ。
俺は反射的に顔を上げ――そして、そのまま固まった。
「……え?」
そこにいたのは、緑がかった長い髪をふわりと浮かせた、小柄な少女だった。
見た目は小学生高学年から中学生くらい。
整った顔立ちに白い肌、どこか人間離れした神秘的な雰囲気。
でも、一番の問題はそこじゃない。
「浮いてる!?」
そう。
その少女は、俺の目の前で当たり前のように宙に浮いていた。
足は地面についていない。
しかも腕を組んで、さも当然のような顔でこちらを見下ろしている。
「な、ななな……!? 誰だお前!? なんで浮いてる!?」
「その驚きよう……ふむ、どうやらちゃんと我輩の姿が見えておるし、声も聞こえておるようだの」
「いや、聞こえてるとかそういう問題じゃない! 浮いてるじゃん!」
「うむ、浮いておる」
「認めるのかよ!」
思わず全力でツッコむと、少女はくすりと笑った。
見た目は可愛いのに、口調が妙に古臭い。
それに、さっきから気になる単語がある。
「……待て。“ご主人”って何だ?」
「そのままの意味じゃ」
「そのままじゃ分からないから聞いてるんだよ!」
すると少女は、ふわりと空中で姿勢を正し、小さな胸を張った。
「我輩の名はムラサメ。その刀、叢雨丸の管理者。まあ、分かりやすく言えば魂のようなものじゃ」
「魂?」
「うむ」
「……幽霊?」
「違うわ!」
即座に怒られた。
「なんでそうなる!」
「いや、魂って言ったら普通そう思うだろ!?」
「まったく、想像力が貧困じゃのう。神秘とか精霊とか、もっとこう、あるであろう」
「いや、いきなり浮いてる女の子が現れた時点で十分神秘なんだけど!」
言い返すと、ムラサメは満足そうに頷いた。
「うむ、そこは認めてよい」
「認めてよい、じゃないんだよなぁ……」
なんというか、調子が狂う。
もっとこう、厳かで怖い存在かと思っていたのに、意外とノリが軽い。
それでも、俺の視線は自然と膝の上の叢雨丸に落ちた。
「……で、そのムラサメってのが、これの管理者?」
「そうじゃ」
「もしかして、刀を折った報復に来たとか?」
「そういった類いのものではない!」
ぴしゃりと否定される。
「第一、この程度なら叢雨丸は元に戻る」
「……は?」
「元に戻る」
「いやいやいや、真っ二つなんだけど?」
「問題ない」
「問題大ありだろ!」
俺が叫ぶと、ムラサメはやれやれと言いたげに肩をすくめた。
「百聞は一見にしかず、じゃ」
そう言ってムラサメは、俺の膝の上の叢雨丸へすっと手を伸ばした。
細い指先が刀身に触れた、その瞬間。
眩い光が、周囲一帯を包み込んだ。
「うおっ!?」
思わず目を閉じる。
熱はない。けれど、空気そのものが震えているような、不思議な圧があった。木々がざわめき、どこか遠くで鈴の音のような澄んだ響きが重なる。
やがて光が収まり、恐る恐る目を開ける。
「……戻ってる」
叢雨丸は、元通りになっていた。
あれほど綺麗に折れていたはずなのに、継ぎ目ひとつ見当たらない。最初から何事もなかったかのように、静かにそこにある。
「どうじゃ?」
「どうじゃ、じゃないだろ……何これ……」
「神力じゃな」
「便利すぎない?」
俺は呆然としながら、刀とムラサメを交互に見た。
疑いようがない。
こいつは本物だ。幻でも見間違いでもない。
「……何者なんだ、お前」
「だから言ったであろう。我輩はムラサメ。神力を司る者である」
「神力を司る者、ねぇ……」
改めて見ると、見た目は可愛らしい女の子なのに、纏っている雰囲気はどこか浮世離れしている。
でも、それ以上に俺の中で引っかかったのは――。
「ムラサメって、なんかそのままだな」
「何がじゃ」
「いや、もっとこう……親しみやすい呼び方とかないのか?」
「親しみやすい呼び方?」
ムラサメはきょとんとした。
俺は少し考えてから、軽く肩をすくめる。
「ムラサメちゃん、とか」
「……ちゃん?」
その瞬間、ムラサメの目が丸くなった。
「な、なんじゃその妙に気安い呼び方は!」
「いや、見た目ちっちゃいし」
「ちっちゃい言うな!」
「じゃあムラサメさん?」
「それも何か違う気がするのう……」
「じゃあ、ムラサメちゃんでいいだろ」
「勝手に決めるでない!」
ぷんすか怒っている様子が、なんだか年相応で可笑しい。
「でも、ムラサメってそのまま呼ぶより、ムラサメちゃんの方がしっくりくるんだよな」
「む……」
「ダメか?」
「……まあ、ご主人がそう呼びたいと言うなら、別に構わぬが」
「お、じゃあ決まりだな。よろしく、ムラサメちゃん」
「う、うむ……」
ムラサメはそっぽを向いた。
ただ、耳がほんの少し赤い。
……意外とこういうの弱いタイプなんだな。
そんなことを思っていると、ムラサメが急に得意げな顔に戻った。
「まあ、見えておるだけでも驚きじゃがな。普通の者には我輩の姿は見えぬし、声も聞こえぬ」
「え、そうなのか?」
「うむ。だからこそ、お主がご主人たりえるわけじゃ」
そこでムラサメは、どこか悪戯っぽく笑った。
「もっとも、我輩は魂だけの存在。実体はないがな」
「実体がない?」
「そうじゃ。見えても触れられぬ。そういう存在じゃ」
「へぇ……」
俺はムラサメをまじまじと見た。
たしかに浮いてるし、神秘的だし、魂だと言われれば納得ではある。
でも――。
「……試していいか?」
「うむ、試してみるがよい」
ムラサメは自信満々に胸を張る。
「どうせ、我輩には触れられぬからの」
「そんなドヤ顔で言うことか?」
「よいからやってみるがよい」
そこまで言われると、こっちも妙に気になってくる。
俺はおそるおそる手を伸ばした。
「いや、でも本当に触れられないんだよな?」
「触れられぬ」
「絶対?」
「絶対じゃ」
「じゃあ、いくぞ?」
「うむ」
ゆっくりと、慎重に手を伸ばす。
ムラサメの肩あたりに触れるつもりだった。
つもりだったのに――。
「……あれ?」
触れた。
普通に。
すり抜けるどころか、しっかり柔らかな感触が手のひらに伝わった。
ただし、狙った場所が悪かった。
「…………」
「…………」
俺の手は、なぜかムラサメの胸に当たっていた。
時間が止まる。
俺は硬直した。
ムラサメも硬直した。
次の瞬間、みるみるうちにムラサメの顔が真っ赤に染まる。
「っ~~~~!?」
「い、いや、違っ――」
「な、な、な、何をしておるかこのたわけぇぇぇぇぇぇっ!!」
どんっ!!
「ぐはっ!?」
ものすごい勢いで突き飛ばされた。
実体ないんじゃなかったのかよ、とツッコむ暇もない。俺の身体はそのまま後ろに吹っ飛び、縁側に背中をぶつけた。
「いっっ……! ちょ、待て! 今のは事故だ!」
「事故で済むかぁぁっ! 何ゆえよりによってそこに触れるのじゃ!」
「俺だって好きで触ったわけじゃない! ていうか触れられないって言ったのそっちだろ!?」
「そ、それはその……我輩もそう思っておったのじゃ!」
ムラサメは胸元を押さえながら、わたわたと空中で距離を取った。
顔は耳まで真っ赤だ。
「というか、触れられるなら先に言ってくれよ!」
「我輩が知るかぁ! 今のは我輩だって初めてじゃ!」
「初めて!?」
「そ、そうじゃ! そもそも他の者には見えも聞こえもせぬし、触れもせぬのじゃ!」
「じゃあなんで俺だけ!?」
「それを今から考えるところじゃろうが!」
怒鳴り返され、俺は口をつぐんだ。
確かに、その通りだ。
でもこっちだってパニックである。
「……いや、本当に悪かった」
「う、うむ……まあ、わざとではないのなら……その、よい」
「ごめん」
「……うむ」
ムラサメはまだ真っ赤なまま、ちらちらとこちらを見ては逸らしている。
さっきまで偉そうだったのに、今は完全に調子を崩していた。
なんというか、年相応の女の子っぽい反応で、少しだけ安心する。
……いや、安心してる場合じゃないんだけど。
「でも、触れられるってことは、やっぱり俺って特別なのか?」
「おそらくはな」
ムラサメはこほんと咳払いして、何とかいつもの調子を取り戻そうとしていた。
「叢雨丸に選ばれたご主人ゆえ、ということなのかもしれぬ」
「ご主人、ねぇ」
「うむ。ゆえに、これからよろしく頼むぞ」
改めてそう言って、ムラサメ――いや、ムラサメちゃんは小さく胸を張る。
さっきの一件のせいで説得力が少し揺らいでいる気もするが、それでもその瞳には確かな意志があった。
俺はそんな彼女を見上げて、深く息を吐く。
折れた刀は元に戻った。
目の前には、浮いてる神秘的な少女。
しかも、その少女にはなぜか俺だけが触れられる。
どう考えても、普通じゃない。
でも――。
「……よろしく、ムラサメちゃん」
「う、うむ。任せるがよい!」
少し照れたように、それでも偉そうに頷くムラサメちゃんを見て、俺はようやく実感した。
ああ、始まったんだ。
これが――
俺とムラサメちゃんの、最初の出会いだった。