「待たせた。将臣」
低く、腹に響くような声が夜の境内に落ちた。
社の奥から戻ってきたじいちゃん――鞍馬玄十郎の姿を見て、俺はようやく小さく息を吐いた。
……いや、安心したわけじゃない。むしろ逆だ。
じいちゃんが戻ってきたということは、つまり。
叢雨丸を折った件について、いよいよ正式に話が始まるということだ。
抜いただけでも大事なのに、俺はそれを折った。
自分で思い返しても意味が分からない。
いや、やったのは間違いなく俺なんだけど、どう考えてもやらかしの規模が大きすぎる。
しかも、じいちゃんは一人じゃなかった。
その後ろに、二人の人影がある。
一人は、神主装束に身を包んだ柔和そうな男性。
穏やかに笑っていて、ぱっと見は人当たりのいい優しそうな人だ。だけど、その笑顔の奥に、神社の主らしい底の見えなさも感じる。
そして、もう一人。
白と赤の巫女服。
夜の闇に浮かぶような白い髪。
月明かりを受けて淡く光るその髪は、雪みたいに透き通って見えた。
整った顔立ちに、静かで凛とした雰囲気。
それでいて、冷たいわけじゃない。近寄りがたい神聖さと、どこかやわらかな優しさが同居している。
朝武芳乃。
穂織の巫女姫様。
そして、昔の俺がこの土地で出会った少女。
……綺麗だな、と思った。
いや、昔から可愛かった。
でも今は、可愛いより先に綺麗が来る。
そのうえ、数年ぶりの再会だ。
さすがにちょっと、心臓に悪い。
「早速だが将臣」
じいちゃんが俺を見据える。
「お前には叢雨丸を折った責任を取ってもらう」
「責……任」
やっぱりそこだよな!
心の中で叫びつつ、俺の喉がひくつく。
そりゃ責任はある。俺がやったんだから当然だ。
でも改めて言われると重い。重すぎる。
何をどう償えっていうんだ。
弁償? 無理だろ。
だってあれ、どう考えても金でどうにかなる類の刀じゃない。
「そんなに固くならなくても大丈夫だよ、将臣君」
やわらかい声でそう言ったのは、神主姿の男の人だった。
「いきなり怒鳴ったりはしないからさ」
「その言い方だと、別方向で何かありそうなんですけど……」
「あはは。まあ、話としてはそれなりに重いかな」
「やっぱり軽くはないんですね……」
俺が引きつると、その人は気さくに笑った。
……話しやすそうではある。
でも絶対、この人ただ優しいだけじゃないな。
じいちゃんが簡潔に紹介する。
「こちら、健実神社の神主、朝武安晴様。そして、巫女姫様であられる芳乃様だ」
「久しぶりだね、将臣君」
安晴さんが、親しげにそう言った。
「……お久しぶりです、将臣さん」
芳乃がすっと頭を下げる。
その仕草一つで育ちの良さが分かる。
声も落ち着いていて綺麗だ。柔らかいけど、芯が通っている。
「あ、ああ。久しぶり、芳乃」
そう返すと、芳乃はほんの少しだけ表情を和らげた。
……なんかもう、再会の時点でだいぶ心臓が忙しいんだけど。
でもそんなことを考えてる場合じゃない。
俺はいま、神社の大事な刀を折った当人だ。
すると芳乃が、少しためらいながらも俺に尋ねてきた。
「あの、叢雨丸を抜いたというのは……本当なのですか?」
「あー……本当。正確には、抜いたっていうか……折ったんだけど」
「折った……」
芳乃の顔がぴたりと固まる。
そりゃそうだよな。
巫女姫様の立場なら、冗談じゃ済まない話だろうし。
けれど芳乃は、すぐに視線を横へ動かした。
そこには、俺の隣でふわふわ浮いている小柄な少女がいる。
「ムラサメ様。本当なのですか?」
「うむ。本当じゃ」
ムラサメが胸を張って答えた。
「我輩が許したのだ」
そのやり取りを見て、俺は思わず口を挟んだ。
「ってことは、芳乃もムラサメちゃんが見えるのか?」
その瞬間。
芳乃の目が、はっきりと丸くなった。
「……ムラサメ、ちゃん……?」
あ、やっぱりそこ引っかかるよな。
「いや、その……なんというか、自然にそう呼ぶようになったというか……」
言い訳がましくなる俺に対して、ムラサメはえらそうに腕を組んだ。
「よいではないか。我輩は気にしておらぬ」
「いや、気にしてないのは分かるけどさ」
「ご主人がそう呼ぶことを、我輩は許しておる」
「ご主人……」
今度は芳乃がそっちに反応した。
白い髪を揺らしながら、芳乃は俺とムラサメを交互に見る。
その瞳には驚きがありありと浮かんでいた。
「ムラサメ様が、そのように将臣さんを……?」
「なんか俺も最初はそんな感じだったよ」
「最初からご主人として扱っておるぞ」
「そこはブレないな……」
ムラサメの断言に、俺は軽く頭を抱える。
すると芳乃は、まだ少し驚いたままぽつりと漏らした。
「私の知るムラサメ様は、もっと近寄りがたく、気高い印象でしたので……」
「今も気高いぞ?」
「いや、それは分かるけど」
「ただし、ご主人は別じゃ」
「堂々と特別扱いするのやめてくれない?」
なんというか、こそばゆい。
しかも芳乃の前だから余計にだ。
そこでじいちゃんが短く告げる。
「巫女姫様は朝武の直系だ。ムラサメ様が見える」
「はい。幼い頃から見えております」
芳乃が頷く。
それを聞いて、俺はふともう一人のことが気になった。
「ってことは、安晴さんも見えるんですか?」
「あー、僕は見えないよ」
安晴さんは肩をすくめて笑った。
「僕は入婿だからね。朝武の血を引いてるわけじゃないし」
「なるほど……」
「だから、こういう時は芳乃や将臣君の反応で“ああ、今そこにいるんだなあ”って察してる感じ」
「それで普通に話についていけるの、地味にすごいですね」
「神主をやってると、そのへんは案外どうにかなるもんだよ」
安晴さんはそう言って笑った後、少しだけ表情を改めた。
「それでさ、将臣君」
「は、はい」
「責任を取る覚悟はあるかな?」
口調は柔らかい。
でも、その意味は全然柔らかくない。
俺は背筋を伸ばした。
ここで逃げるつもりはない。
逃げたところでどうにかなる話でもないし、なにより、これは俺が起こしたことだ。
「……あります。俺がやったことですから」
「うん、いい返事だ」
安晴さんは満足そうに頷いた。
「じゃあ、叢雨丸を抜いた責任として――」
来る。
俺はごくりと唾を飲み込んだ。
賠償か。奉公か。
神社の雑務を一生手伝えとか、そのあたりだろうか。
そう思った次の瞬間。
「――僕の娘と結婚してもらいたい」
「「けっ!! けっこんんん!!!???!」」
俺と芳乃の声が、見事に重なった。
静まり返った夜の境内に、二人分の絶叫が響き渡る。
「お、お父さん!?」
芳乃が真っ赤になって安晴さんを見る。
「な、何を急に仰っているのですか!?」
「いやいやいやいや待ってください!?」
俺も負けじと叫ぶ。
「責任ってそういう責任なんですか!? 飛躍しすぎじゃないですか!?」
「そうかな? わりと筋は通ってると思うけど」
「通ってないですって!」
「お父さん、せめて順番というものがあるでしょう……!」
芳乃が珍しく強めの口調になる。
でも言葉遣いはあくまで丁寧で、そのへんがいかにも芳乃らしい。
ただ、白い頬は耳まで真っ赤だ。
たぶん俺も同じくらい赤い。
「いやあ、でも大事な話だからさ」
安晴さんは悪びれずに笑っている。
この人、絶対ちょっと面白がってるだろ。
「笑いごとじゃないです!」
「お父さん、将臣さんが本気で困っておられます!」
また俺と芳乃の言葉が重なった。
一瞬、お互いそれに気づいて同時に黙る。
……やめろ。
こういうタイミングで息が合うな。余計に変な空気になるだろ。
「うん、相性は悪くなさそうだね」
「判断が早い!」
俺が即座にツッコむと、安晴さんは「あはは」と笑った。
それから、ようやく少し真面目な顔になる。
「分かった分かった。じゃあ、順番に説明するよ、将臣君」
「お願いします……」
「まず前提として、叢雨丸はただの刀じゃない。朝武家とこの穂織に深く関わる、特別な神刀なんだ」
「……はい」
「それを抜ける人間は限られている。いや、ほとんどいないと言った方がいいかな」
安晴さんの声音が、少しだけ低くなる。
「将臣君は朝武の血筋じゃない。それなのに叢雨丸を抜いて、しかもムラサメ様に認められた」
「うむ。我輩が認めたのじゃ」
ムラサメが胸を張る。
「ご主人は面白い男だからの」
「選定理由が軽いんだよ!」
「大事であろう?」
「大事かもしれないけどもっとこう、運命とか資質とかないのか!?」
「結果として我輩のご主人になったのじゃ。十分であろう」
「強い……」
反論できない。
いや、納得はしてないけど。
そんな俺たちのやり取りを見て、芳乃はまた少しだけ驚いたように目を瞬かせていた。
やっぱり、ムラサメがここまで砕けた態度を取るのは、芳乃から見ても相当珍しいんだろう。
安晴さんは苦笑しつつ続ける。
「まあ理由はともかく、朝武家からすると、将臣君はもう“ただの外の人”じゃいられないんだ」
「外の人じゃ……いられない」
「そう。見なかったことにはできないし、何も知らないまま帰していい話でもない」
その言葉が、じわりと胸に沈んだ。
そうだ。
これはただのラブコメみたいな騒動じゃない。
俺は叢雨丸を折った。
ムラサメに認められた。
その時点で、穂織の深い部分に足を踏み込んでしまっている。
もう、以前みたいにただの帰省客ではいられない。
「それで……結婚、なんですか」
どうにかそう絞り出すと、安晴さんは軽く頷いた。
「うん。分かりやすく言えばそういうことかな」
「分かりやすく言いすぎなんですよ……」
俺が脱力すると、じいちゃんが低く言った。
「将臣」
「なに、じいちゃん」
「お前はもう、穂織の外側には戻れん」
短い言葉だった。
でも、それだけで十分すぎるほど重かった。
じいちゃんは無駄なことを言わない。
そのじいちゃんが言うなら、それはもう現実なんだろう。
「……将臣さん」
おずおずと、芳乃が俺の名前を呼ぶ。
見ると、その瞳には戸惑いがあった。
でも同時に、目の奥には逃げずに受け止めようとする強さもある。
やっぱり芳乃は、儚げな見た目だけの子じゃない。
白い髪に白い肌で、触れれば壊れそうなくらい綺麗なのに、芯は驚くほど強い。
「わ、私は……その、急にこのようなお話をされても、すぐには……」
「うん、それは分かる。俺も全然頭が追いついてない」
「……ですよね」
芳乃は少しだけ肩の力を抜いた。
その反応を見て、俺も少しだけ冷静になれた。
そうだ。
困っているのは俺だけじゃない。芳乃だって、いきなりこんな話を持ち出されているんだ。
なら、ここで俺だけが一人で取り乱しても仕方ない。
俺は大きく息を吸って、安晴さんを見た。
「安晴さん」
「うん?」
「結婚の話は正直、急すぎます。でも、責任から逃げるつもりはありません」
自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと続ける。
「叢雨丸を折ったことも、俺が穂織に深く関わることになったことも、ちゃんと向き合います」
それを聞いて、安晴さんは少しだけ目を細めた。
「うん。そう言ってくれるなら十分だよ、将臣君」
その声はやわらかいままだったけど、さっきより少し真面目だった。
「もちろん、今すぐ結婚しろって話じゃない」
「そ、そうですよね……!」
俺と芳乃が同時に安堵する。
安晴さんはそこで、ちらりと芳乃を見る。
「ただ、将臣君にはこれから朝武家と深く関わってもらうことになる。その中で、芳乃のこともちゃんと考えてほしい……ってことかな」
「そ、それはつまり……」
「まあ、婚約者候補くらいの感じで受け取ってくれれば」
「候補でも重いです!」
反射的に叫ぶ俺の隣で、芳乃が俯いた。
「こ、婚約者候補……」
白い髪の隙間から見える耳まで真っ赤だった。
俺ももう、自分の顔が熱いのを自覚していた。
「うむ。よいではないか」
ムラサメが満足そうに頷く。
「ご主人と巫女姫様、なかなかお似合いじゃぞ」
「やめてくれ頼むから!」
「ムラサメ様まで……!」
俺たちが揃って悲鳴を上げた、その時だった。
ふわりと夜風が吹き抜ける。
木々がざわめき、境内の空気が一瞬だけ張り詰めた。
さっきまでの混乱とは種類の違う緊張が、その場を包む。
安晴さんの表情が変わる。
じいちゃんの目も、すっと鋭くなる。
「……将臣君」
安晴さんが、今度は冗談の色を消して俺を見る。
「ここから先は、もっとちゃんと話さないといけない」
「ちゃんと、というと……」
「朝武家のこと。叢雨丸のこと。ムラサメ様のこと。そして、この穂織にかかっている呪いのことだ」
その言葉に、胸が大きく脈打った。
来た。
いよいよ核心だ。
俺は前世の知識で、この穂織に呪いがあることだけは知っている。
でも、覚えているのは大雑把なことだけだ。細かい部分は曖昧で、肝心なところほど抜け落ちている。
だからこそ、ここから先は自分の耳で聞いて、自分の目で見て、向き合わなきゃいけない。
――ただ、その前に。
これだけはどうしても言わせてほしい。
久しぶりに再会した白髪の巫女姫様と、数分後に結婚話が持ち上がるなんて、誰が予想できるんだ。
本当に聞いてない。
俺の穂織生活、開幕からイベント密度が濃すぎるだろ……。