『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第6話 穂織で始まる新生活

 

 

 朝、目が覚めた。

 

 障子越しに差し込む朝日が、ぼんやりと部屋の中を照らしている。木の匂いがする、静かな和室。見慣れた自分の部屋とは違う天井を見上げながら、俺はしばらく瞬きもせずに固まっていた。

 

「……あー……そっか」

 

 寝起きのぼんやりした頭で、昨夜のことを少しずつ思い出していく。

 

 俺は今、穂織にいる。

 

 春祭りに来て、叢雨丸を抜いて――いや、正確には折ってしまって。ムラサメちゃんが現れて、朝武家の事情を聞かされて、その流れで。

 

「婚約者候補、ね……」

 

 口に出した瞬間、じわじわと実感が湧いてきて、思わず両手で顔を覆った。

 

「いや、ほんと何でそうなるんだよ……」

 

 昨日の俺に言ってやりたい。祭りに行くだけのつもりで、人生ごとひっくり返る覚悟はできてるか、と。

 

 もちろん、叢雨丸を折った時点でただ事じゃないのはわかっていた。わかっていたけど、その責任の取り方が“芳乃の婚約者候補になること”だなんて、いくらなんでも飛躍しすぎだろ。

 

 普通なら冗談だと思う。いや、俺だって最初は半分くらい冗談じゃないかと思った。

 

 でも、あの場にいた誰一人として笑っていなかった。

 

 特に安晴さんは、終始落ち着いた口調だったけど、その実ひどく真剣だった。

 

『とはいえ、本当に今すぐ結婚してほしいわけじゃない。さしずめ、芳乃の婚約者になってもらいたい』

 

 あの声を思い出す。穏やかで、柔らかいのに、不思議と拒絶を許さない重みがあった。

 

『婚約者……』

 

 その時の俺は、たぶんかなり間の抜けた顔をしていたと思う。

 

 だって婚約者だぞ?

 

 彼女ですらない。知り合いからいきなり一足飛びで婚約者候補。普通の恋愛イベントなら、せめてもう少し段階を踏むだろ。

 

 しかも相手は芳乃だ。

 

 幼い頃に会ったことはある。再会もした。けれど、だからといって気軽にそういう話を受け入れられる相手じゃない。朝武家の娘で、穂織の巫女姫様で、町にとっても特別な存在だ。

 

 そんな相手の婚約者候補に、俺がなる?

 

「無茶苦茶だ……」

 

 布団の上でごろりと寝返りを打つ。

 

 けれど、混乱していたのは婚約者の話だけじゃない。

 

 問題は、その後に続いた話だった。

 

『将臣、このような事情になったのだ。当然、宿を手伝ってもらうわけにはいかん』

 

『え? じゃあどうするんだよ。忙しいんじゃなかったのか?』

 

『その程度、心配せんでよい。それよりも今後、お前にはこの穂織に住んでもらう。当然、学校も転校してもらいたい』

 

『はぁ!? 転校!? ちょっと待ってくれ、さすがに急すぎる!』

 

 あれは本気で声が裏返った。

 

 婚約者候補という言葉の衝撃が大きすぎて一瞬流しかけていたけど、よく考えなくてもこっちのほうが現実的な問題としては重い。

 

 穂織に住む。

 

 学校を転校する。

 

 つまり、今までの生活を一度全部置いていけと言われているようなものだ。

 

 友人関係はそこまで広くないとはいえ、まったく無いわけじゃない。学校だってある。なにより――

 

「仕事、あるしな……」

 

 そこが一番大きかった。

 

 俺は高校生でありながら、ネットを通じてイラストの仕事を受けている。配信だってしている。もちろん大人みたいに会社勤めしてるわけじゃないし、収入も安定してるとは言えない。けれど、あれはただの遊びじゃない。

 

 自分で積み上げてきたものだ。

 

 前世の知識をきっかけに始めた部分はある。でも、それを続けてきたのは今の俺だ。描いて、工夫して、見せ方を考えて、依頼をこなして、少しずつ信用を得てきた。

 

 簡単に捨てられるわけがない。

 

 そう思って反論しようとした時だった。

 

『責任を取ると言ったではないか。それとも、好きな女子でもおるのか?』

 

『いねぇよ! 違う、そういう話じゃなくて、俺にも色々事情が――』

 

『将臣!!』

 

 その一喝で、全身がびくっと震えた。

 

 じいちゃんの怒鳴り声自体は知らないわけじゃない。子どもの頃から鍛えられてきたし、油断すれば叱られてきた。でも、昨日のあの声はいつもと違った。

 

 怒りというより、切迫していた。

 

 そして、その直後。

 

『無理を言っているのは先刻承知。それでも、どうか飲み込んでくれんか』

 

 そう言って、玄十郎じいちゃんは頭を下げた。

 

 あの時の空気は、今でもはっきり覚えている。

 

 一瞬、時間が止まったみたいだった。

 

 じいちゃんが、頭を下げる。

 

 寡黙で、厳しくて、簡単には本音を見せないあの人が、俺に向かって頭を下げる。

 

 それを見た瞬間、言い返そうとしていた言葉が全部喉の奥で止まってしまった。

 

「……あれは、ずるいよな」

 

 ぽつりと呟く。

 

 ずるい、なんて言い方は失礼かもしれない。だけど本当に、それくらい効いたのだ。

 

 だってあのじいちゃんが、そこまでして俺に頼む理由があるということだ。それだけ朝武家の事情が重くて、芳乃の立場が簡単じゃなくて、そして俺が叢雨丸を折ったことがただの事故では済まないということでもある。

 

 軽い気持ちで断れる状況じゃなかった。

 

 だから俺は、しばらく黙ったあとで条件を出した。

 

『わかったよ。ただし条件がある。穂織に住むのも、転校するのも構わない。けど、この条件だけは譲れない』

 

 すると安晴さんが、少し驚いたように、それでも穏やかな顔のまま尋ねてきた。

 

『何かな、将臣くん。僕にできることだろうか?』

 

『別に難しいことじゃありません。俺は高校生ですが、ネットを介して仕事をしています。だから、パソコンを使わせてほしいんです』

 

 正直、あの場でちゃんと通じるかは半信半疑だった。

 

 穂織の空気は穏やかで、昔ながらの町だ。ネットで仕事をしている、なんて言われても、ぴんと来ない人のほうが多いだろう。

 

 けれど安晴さんは変に疑うこともなく、ふむ、と小さく頷いた。

 

『そうなのかい? それくらいなら構わないけど』

 

『ありがとうございます。事情が事情なので、今受けている分を納品したら、しばらく新しい依頼は受けないつもりです。少しだけ整理する時間をもらえれば』

 

『わかった。けれど、家にあるパソコンは結構古くてね。君の仕事に使えるかどうかはわからないよ?』

 

『ああ、いえ。使いたいのは自宅の機材なんです。だから一日だけでいいので、荷物を取りに帰らせてもらえませんか?』

 

 そこまで言うと、安晴は一度顎に手を当ててから、芳乃とムラサメちゃんへ視線を向けた。

 

『芳乃、ムラサメ様。どうかな』

 

『一日、二日程度なら問題なかろう』

 

 答えたのはムラサメちゃんだった。

 

 相変わらず小柄な体に不釣り合いな威厳で、腕を組みながら当然のように言う。見た目だけなら可愛い女の子なのに、喋ると妙な説得力があるのが不思議だ。

 

 芳乃も静かに続いた。

 

『そうですね。大丈夫だと思います』

 

『そうか。なら問題あるまい』

 

『ありがとう』

 

 その時ようやく、胸の奥の張りつめたものが少しだけ緩んだ気がした。

 

 全部を捨てろと言われたわけじゃない。俺の事情も、一応は考えてくれている。それがわかっただけでも大きかった。

 

 するとそのあと、芳乃が少しだけためらいがちに口を開いた。

 

『将臣さんは……どのようなお仕事をされているのですか?』

 

『ん? ああ、イラスト作成と、それに伴う配信活動を少しね』

 

『配信、ですか?』

 

『簡単に言うと、絵を描いたり、誰かに見せたり、そういうのをネットでやってる感じ』

 

 我ながらざっくりした説明だ。けれど、知らない相手に一から話すならこんなものだろう。

 

 芳乃は小さく首を傾げたままだった。言葉だけではイメージが湧かないらしい。

 

『ちょっと待って。見せたほうが早いか』

 

 俺はスマホを取り出して、保存していたイラストを開く。仕事用にまとめてあるフォルダの中から、比較的見せやすいものを選んで画面に映した。

 

『こういうのを描いてる』

 

 その瞬間、芳乃の表情が変わった。

 

『す、凄いです……!』

 

『お、おう』

 

 思った以上に食いついてきた。

 

 普段の彼女は、落ち着いていて、どこか一歩引いたところから周囲を見るタイプだ。なのに今は、画面を覗き込むように前のめりになっている。

 

『綺麗で、とても繊細で……色使いも素敵です。こちらの絵は、なんだか見ているだけで楽しい気持ちになります』

 

『そっちはちょっと可愛い寄りに描いたやつだな』

 

『はい。すごく可愛いです。こちらは雰囲気が大人っぽくて、こちらは柔らかくて……同じ方が描いたとは思えないくらい、印象が違います』

 

 そこまで丁寧に見てくれるとは思わなくて、少し驚いた。

 

 でも、ちゃんと見てくれてるのが伝わってきて嬉しかった。

 

『はは、ありがとう。そこまで言ってもらえると照れるな』

 

『本当に凄いと思います。将臣さんは、その……多才なのですね』

 

『そんな大したもんじゃないよ。好きで続けてたら、たまたま仕事になっただけだ』

 

『好きなことを形にして、それをお仕事に出来るのは、とても素敵なことだと思います』

 

 真正面からそう言われると弱い。

 

 ネットのコメントで褒められるのも嬉しいが、面と向かって、しかもあの芳乃に真っ直ぐ言われると破壊力が違う。

 

 なんというか、くすぐったい。

 

 ムラサメちゃんも隣から画面を覗き込み、感心したように頷いた。

 

『ほう。なかなか見事ではないか。お主、こういう方面でも才があるのだな』

 

『一応な』

 

『ふむ。ご主人としての格が少し上がったぞ』

 

『上からだな、おい』

 

『我は上位存在だからの』

 

『自分で言うな』

 

 そんなやり取りに、思わず芳乃がくすっと笑う。

 

 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった瞬間だった。

 

 ただ、俺にはまだやることが残っていた。

 

『っと、ごめん。少し電話してもいいか?』

 

『ええ、もちろんです』

 

 芳乃からスマホを返してもらい、俺は軽く会釈してから席を外すように廊下へ出た。

 

 かける相手は葛葉さん。今の活動で世話になっている、仕事関係の窓口みたいな人だ。

 

 急に音信不通になるわけにはいかない。

 

 数コールのあと、相手が出る。

 

『もしもし、葛葉さん? 将臣です。夜分遅くにすみません』

 

 事情をどう説明するか、一瞬迷う。けれど本当のことを言えるはずもない。

 

『実は家の都合で、急遽こっちに住むことになったんです』

 

 少し間が空いた。

 

『……ええ、はい。詳しい説明はちょっと難しいんですけど。はい、家庭の事情としか』

 

 自分で言っていて苦しい。けれど、それ以外に言いようがなかった。

 

 穂織に移り住むことになって、婚約者候補にされて、朝武家の事情に巻き込まれました――なんて説明して、信じてもらえるわけがない。

 

『はい。今受けている仕事はきちんと終わらせます。その後は、しばらく休業という形でお願いします』

 

『……はい。配信のほうも一度告知を出してから休みに入ろうと思ってます』

 

『ご迷惑をおかけします。はい……はい。近いうちに荷物を取りに戻る予定なので、その時に改めて』

 

『……ありがとうございます。失礼します。おやすみなさい』

 

 通話を切ると、廊下の静けさがやけに耳に残った。

 

 なんとか話は通った。もちろん迷惑はかける。でも、ちゃんと区切りはつけられそうだ。

 

「ふぅ……」

 

 スマホを下ろして、小さく息を吐く。

 

 昨日は本当に色々ありすぎた。

 

 祭りに来て、剣を折って、付喪神みたいな存在に出会って、婚約者候補になって、移住と転校の話が決まって、仕事の整理まで始める。

 

「一日で人生変わりすぎだろ……」

 

 思わず苦笑が漏れる。

 

 でも、不思議だった。

 

 混乱している。不安もある。これから面倒なことが山ほど起きる気しかしない。それなのに、どこかで思っている自分がいた。

 

 ――たぶん、ここからが本番なんだろうな、と。

 

 前世の記憶は曖昧だ。千恋万花の知識も、大雑把な流れしか覚えていない。朝武家が呪われた家系であること。祟り神は犬の姿であること。レナさんが呪いの詳細を握っていること。

 

 それくらいだ。

 

 細かい順序も、誰がいつ何を言ったかも、全部が全部わかるわけじゃない。

 

 それでも、何も知らないよりはずっといい。

 

 少しでも知っているなら、その分だけ動けるかもしれない。誰かを助けられるかもしれない。少なくとも、ただ流されるだけで終わらずに済むかもしれない。

 

「……まずは、自分の足元を固めないとな」

 

 穂織で暮らすことになった以上、やるべきことは多い。

 

 家に戻って荷物をまとめること。学校の手続き。仕事の区切り。配信の告知。朝武家との距離感。芳乃との関係。そしてムラサメちゃんのこともある。

 

 考えるだけで頭が痛くなるくらい、やることは山積みだ。

 

 でも、こういう時は一つずつ片づけていくしかない。

 

 布団から立ち上がり、大きく伸びをする。

 

 朝の空気はまだ少し冷たくて、頭がすっと冴えていく気がした。障子を開けると、穂織の朝の景色が静かに広がっている。

 

 遠くの山。澄んだ空気。ゆっくり流れる時間。

 

 都会とは何もかも違う。

 

 これから本当に、ここで暮らしていくのか。

 

 そう思うと、少しだけ不安になって――同時に、ほんの少しだけ胸が高鳴った。

 

「よし」

 

 軽く頬を叩いて、気合いを入れる。

 

「じゃあ、起きますか!」

 

 昨日までとは違う朝。

 

 昨日までとは違う場所。

 

 そしてきっと、昨日までとは少しずつ違っていく俺の日常。

 

 こうして――穂織での新しい生活が、静かに動き始めた。

 

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