『千恋*万花 ー神代残響譚ー』   作:yukey

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第7話 変な期待はしないでください

 

 

 翌朝、目を覚ました俺は、しばらくの間、ぼんやりと天井を見上げていた。

 

 見慣れない木目の天井。障子越しに差し込む柔らかな朝の光。耳を澄ませば、どこか遠くで鳥の鳴き声まで聞こえる。

 

 朝武家の客間。

 

 昨日までは、まるで縁のなかった場所だ。

 

「……ほんとに泊まったんだよな、ここに」

 

 半分寝ぼけた頭でそんなことを呟きながら、ゆっくり上体を起こす。

 

 昨夜のことは、夢にしては妙にはっきりしすぎていた。

 

 穂織に来て、神社で神刀を抜いてしまって、ムラサメちゃんと出会って、安晴さんたちに迎えられて、そして――。

 

『とはいえ、本当に今すぐ結婚して欲しいわけじゃない。さしずめ、芳乃の婚約者になって貰いたい』

 

「婚約者、ねぇ……」

 

 口に出してみても、まったく実感が湧かない。

 

 いきなりそんな話をされて、「はいそうですか」と納得できるわけがない。そもそも、昨日ここに来たばかりなんだぞ、俺は。

 

 ただ、あの場で一番引っかかっているのは、安晴さんの言葉そのものじゃない。

 

 芳乃の表情だ。

 

 あの時の芳乃は、露骨に怒ったわけでも、泣いたわけでもない。ただ、すっと表情を整えたまま、何かを飲み込んでいるように見えた。

 

「……まあ、考えても今はわからないか」

 

 悩んでいても仕方ない。

 

 俺は布団から出て、手早く身支度を整える。借りた寝間着を軽く直し、髪を手ぐしで整えてから部屋を出た。

 

 朝の朝武家は静かだった。

 

 広い廊下はひんやりしていて、歩くたびに床が小さく軋む。木造の大きな家独特の空気が、どこか懐かしいような、落ち着かないような不思議な感覚を連れてくる。

 

 昨日、案内された位置関係を思い出しながら、俺はリビングの方へ向かった。

 

「たしか、こっちだったよな」

 

 角を曲がり、長い廊下を進む。

 

 その途中でも、頭の片隅には昨日の会話が残っていた。

 

 婚約者候補。

 

 普通なら、その場でもっとはっきり嫌だと言ってもよさそうなものなのに、芳乃はそうしなかった。否定はした。けれど、それ以上何か言いかけてやめたようにも見えた。

 

「……考えすぎか?」

 

 自分にそう言い聞かせつつ、リビングの引き戸に手をかける。

 

 そっと開けてみると――中には誰もいなかった。

 

「あれ?」

 

 思わず声が漏れる。

 

 台所にも居間にも人影はなく、広い部屋には朝の光だけが静かに差し込んでいた。

 

「誰もいないのか……?」

 

「ふぁー……おあよー……」

 

 背後から、眠気の抜けていない気の抜けた声がした。

 

 振り向いた瞬間、俺はそのまま固まった。

 

「…………っ」

 

 そこにいたのは芳乃だった。

 

 まだ寝起きなのか、ぼんやりした顔のまま立っている。いつもの巫女服ではなく、和服の寝巻き姿だった。けれどそれは完全な和風ではなく、袖口や裾には控えめなフリルがついていて、少しだけ洋風に寄せられている。淡いピンク色も相まって、普段の凛とした姿とはずいぶん印象が違った。

 

 ――ただし。

 

 その寝巻きは、かなり着崩れていた。

 

 胸元が大きくはだけていて、視線の置き場に困るなんてものじゃない。今にも見えてはいけないものが見えそうになっている。

 

 いや、危ない。本当に危ない。

 

「お、おはようございます!」

 

 俺は反射的に視線を逸らし、必要以上に大きな声で挨拶した。

 

「……へ?」

 

 芳乃はきょとんとした声を漏らす。

 

 どうやらまだ頭が働いていないらしい。だが、一拍遅れて自分の格好と俺の反応の意味を理解したようだった。

 

「――っ!?」

 

 顔を真っ赤にして、ばっと後ろを向く。

 

 そして、そのまま。

 

 バチン!

 

「い、いたい……っ」

 

 自分の頬を叩いた。

 

「な、何やってるんだよ!?」

「き、気合いです……!」

「入れ方が雑すぎるだろ!」

 

 少し涙目になりながらも、芳乃は胸元を整え、乱れた髪を手早く直す。すぅ、と小さく深呼吸をしてから、こちらへ向き直った。

 

 その時にはもう、さっきまでの寝ぼけた空気はどこにもなかった。

 

 ぴんと背筋を伸ばし、表情を引き締め、いつもの凛とした姿に戻っている。

 

「……おはようございます、将臣さん」

「お、おはよう」

 

 キリッとした挨拶に、こっちまで変に背筋が伸びた。

 

 芳乃はこほんと小さく咳払いしてから、視線を少しだけそらす。

 

「先ほどのあの姿は、普段の姿ではありません」

「う、うん」

「ですから、変な期待はしないでください」

「しないって」

 

 即答すると、芳乃はじっとこちらを見た。

 

「……本当ですか?」

「本当だよ」

「本当に?」

「なんでそんなに念押しするんだよ」

「必要ですから」

「必要なのか」

「必要です」

 

 ぴしゃりと返される。

 

 でもその口調の端に、ほんの少しだけ気恥ずかしさが残っているのがわかった。

 

「今のことだけではありません」

「え?」

「昨日のお話のことです」

 

 やっぱりそこに繋がるか。

 

 俺も自然と表情を引き締めた。

 

「お父さんがどういう考えで、あのようなお話をされたのかはわかりませんが……将臣さんは、私の婚約者ではありません」

「……はっきり言うな」

「はっきり申し上げておくべきことですから」

 

 芳乃の声は落ち着いていた。

 

 感情をぶつけてくるような言い方じゃない。むしろ丁寧なくらいだ。だけど、その分だけはっきりと線を引かれているのがわかる。

 

「昨日あの場でそういう話になったからといって、それで何かが決まるわけではありません」

「まあ、それはそうだな」

「ですから将臣さんも、あまり深く受け取らないでください」

「変な期待はするな、って?」

「はい」

 

 迷いなく頷く。

 

「私を、そういう相手として見ないでください」

「随分はっきり言うな」

「曖昧にしておく方が問題です」

 

 その答え方は、いかにも芳乃らしかった。

 

 きちんとしていて、筋が通っていて、隙がない。巫女姫として見られてもおかしくない、整った物言いだった。

 

 だからこそ、逆に思う。

 

 これはきっと、感情をそのまま出しているわけじゃない。

 

 自分の内側にあるものをきれいに包んで、表に出しても差し支えない形に整えて話している。

 

「私は、朝武家の娘として軽々しくそのようなお話を受け入れるつもりはありません」

「……」

「立場上、いろいろと求められることはあります。ですが、それとこれとは別です」

 

 それは否定というより、宣言だった。

 

 誰に向けたものでもなく、自分でそう決めている、という響きがある。

 

「将臣さんは昨日ここに来たばかりです」

「ああ」

「穂織のことも、朝武家のことも、まだよくご存じないでしょう」

「まあ、そうだな」

「でしたら、あまり余計なことには関わらないでください」

 

 その言葉に、少し引っかかるものを感じた。

 

「余計なこと?」

「ええ」

「それって婚約者の話のことか?」

「……それも含めて、です」

 

 芳乃はまっすぐ俺を見る。

 

「将臣さんは、昨日の件でこちらに滞在することになってしまいました」

「しまいましたって」

「事実です」

「否定はできないけどさ」

「ですから、これ以上面倒なことにまで首を突っ込む必要はありません」

「面倒なこと、ね」

「はい」

 

 短い返事。

 

 でも、その短さの奥に、まだ言わない何かがある気がした。

 

 何かを知っていて、でもそれは話さないと決めているような。

 

「俺を遠ざけたいのか?」

「そういう言い方は適切ではありません」

「じゃあどういう言い方なんだよ」

「将臣さんのためを思って申し上げています」

「俺のため?」

「はい」

 

 芳乃は一切迷わずに答えた。

 

「将臣さんは、知らなくていいことまで知る必要はありません」

「……」

「ここでの暮らしに慣れるまで、余計なことは気にせずにいてください。それが一番です」

 

 穏やかな言い方だった。

 

 けれど、その穏やかさはどこか壁みたいでもあった。ここから先には踏み込まないでください、と静かに告げられている気がする。

 

「芳乃」

「何でしょう」

「それ、お前なりに俺を気遣って言ってるだろ」

「気遣ってなどいません」

「いや、してるだろ」

「しておりません」

 

 即座に否定された。

 

 ただ、その声はほんの少しだけ硬かった。

 

「私はただ、将臣さんに無用な誤解や面倒を背負っていただきたくないだけです」

「それを気遣いって言うんじゃないのか」

「違います」

「違うのか」

「違います」

 

 むきになって言い返すあたり、説得力はあまりない。

 

 俺がつい笑ってしまうと、芳乃は少しむっとした顔をした。

 

「何ですか」

「いや。そうやって否定するところ、やっぱり芳乃だなって」

「意味がわかりません」

「優しいくせに認めないところとか」

「……知りません」

 

 そっぽを向いた横顔が、少しだけ赤い。

 

 でもすぐに、芳乃は表情を戻した。

 

「とにかく、将臣さんは私の婚約者ではありません」

「そこに戻るのか」

「大事なことですから」

「変な期待はするな、って?」

「はい」

 

 きっぱりと頷く。

 

「ですから、どうか必要以上に踏み込まないでください」

「……」

「私に対しても、この家に対しても、です」

 

 やっぱり、それはただの拒絶じゃない。

 

 俺を遠ざけようとしている。けれどそれは、自分を守るためというより、俺を巻き込みたくないから――そんなふうに聞こえた。

 

「……わかった。とりあえず、芳乃にその気がないのは理解した」

「理解が早くて助かります」

「でも、何か隠してるだろ」

「隠していません」

「即答だな」

「そのようなものはありません」

「間髪入れずに否定するなあ……」

 

 言葉は崩れない。表情も乱れない。

 

 だけど、そこから先は踏み込ませないという意志だけは、嫌というほど伝わってきた。

 

 すると芳乃は、話を切るように視線を外した。

 

「……朝はまだ冷えます」

「え?」

「廊下で長く立ち話をしていると、風邪を引きますよ」

「急に話変えたな」

「台所に白湯くらいならあります。必要でしたら勝手に使ってください」

「それ、やっぱり心配してるよな」

「違います。客人が体調を崩されると困るだけです」

「それを心配って言うんだよ」

「言いません」

「言うだろ」

「言いません」

 

 言い張る口調が少しだけ子供っぽくて、思わず笑いそうになる。

 

 芳乃はますます不満そうな顔をした。

 

「何がおかしいんですか」

「いや、何でもない」

「そうですか」

 

 芳乃は髪を指先で軽く整えると、背を向けた。

 

「私は着替えてきますので、将臣さんは好きにしていてください」

「ああ、わかった」

「ただし、本当に変な期待はしないでくださいね」

「まだ言うのか」

「とても大事なことですから」

「はいはい」

 

 白い髪を揺らして去っていく背中を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。

 

「……婚約者じゃない、か」

 

 それはたぶん、本音なんだろう。

 

 でも、そこまで強く言う理由は、それだけじゃない気がした。

 

 朝武家のこと。穂織のこと。俺がまだ知らない何かに、なるべく近づけたくない。そんなふうに聞こえた。

 

「……ますます気になるな」

 

 とはいえ、今ここで考え込んでも答えは出ない。

 

 俺はひとまず気持ちを切り替え、昨日借りたタオルや服を洗濯に出そうと思って風呂場の方へ向かった。

 

 

 朝武家の廊下はまだ覚えきれていない。

 

 昨日案内された記憶を頼りに、脱衣所の前らしき場所へたどり着く。

 

「たしか、この辺だったよな」

 

 中から物音はしない。

 

 もう使っていないのだろうと思い、俺は特に深く考えず、そのまま扉を開けた。

 

 その瞬間――

 

「っ!」

 

 視界の端で何かが動いたと思った時には、もう遅かった。

 

「動かないでください」

 

「うおっ!?」

 

 一気に背後から腕を取られ、そのまま体勢を崩される。足を払われ、反射的に踏ん張ろうとしたが、その前に関節をきれいに押さえられた。あっという間に両腕の自由を奪われ、背中側からがっちり拘束される。

 

 首筋には、冷たい刃物の感触。

 

 クナイだ。

 

「声を上げないでください」

「いや、ちょ、待て!?」

「質問に答えてください。あなたは誰ですか」

「その前に、こっちも状況を確認したいんだけど!?」

 

 そこで俺は、自分を拘束している相手の異様さに気づいた。

 

 背中に当たる感触が、明らかにおかしい。

 

 服越しじゃない。

 

 むき出しの肌だ。

 

「…………」

「どうしました?」

「どうしましたじゃないだろ!」

「静かにしてください」

「いや、この状況で静かには無理だって!」

 

 変に動けば、当たってはいけないところに触れてしまいそうで、文字通り身動きが取れない。

 

 物理的にも倫理的にも詰んでいる。

 

「三つ数えるまでに答えてください」

「待て、これ本当に誰――」

 

 そこで、耳元から聞こえる声に妙な聞き覚えを感じた。

 

 落ち着いた敬語。どこか柔らかいが、芯のある女性の声。

 

「……茉子、か?」

「――っ」

 

 背後の相手がぴくりと反応した。

 

「その声……将臣さん?」

「やっぱり茉子か!?」

「えっ、あ、ち、違っ……いえ、違いませんけれど!?」

「どういう状況だこれ!?」

「そ、それはこちらの台詞でもあるのですが……!」

 

 完全に動揺している声だった。

 

「俺は昨日からここで暮らすことになったんだよ! 洗濯しようと思って風呂場に来ただけ!」

「え……?」

「え、じゃない! 茉子こそ何してるんだよ!」

「朝のお掃除のあと、そのまま私も使っておりまして……」

「風呂を?」

「……はい」

「そこで俺が入ってきたから迎撃した?」

「……はい」

「裸で!?」

「とっさだったんです!」

 

 悲鳴みたいな声で返ってくる。

 

 だが、拘束はまだ解かれない。

 

「お、落ち着いてください、将臣さん」

「落ち着けるか!」

「わ、私もだいぶ落ち着いておりません!」

「それは伝わってる!」

 

 茉子の呼吸が少し乱れている。

 

 どうやら本当にパニックになっているらしい。

 

「その……絶対に振り向かないでくださいね」

「この体勢でどうやって振り向くんだよ!」

「そ、そうでした……」

 

 妙にしおらしい声が返ってきた。

 

「今から拘束を解きますので、そのまま目を閉じて、前だけを向いていてください」

「わかったから早く!」

「もし少しでも後ろを見ようとしたら……」

「したら?」

「当てます」

「何を!?」

「当て身をです!」

「予告が物騒すぎるだろ!」

 

 少しずつ拘束が緩む。

 

 俺は言われた通り、目をきつく閉じたまま前を向く。

 

「はい、そのままで……」

「おう」

「もう一歩、前へ」

「こうか?」

「はい、そうです……そのまま……」

 

 後ろで衣擦れの音がした。

 

 思わず気になって振り向きかけた、その瞬間。

 

 とん、と首筋に衝撃が走る。

 

「え?」

 

「申し訳ありませんっ!」

 

 必死な声を最後に、俺の意識はすとんと闇へ落ちた。

 

 

「将臣さんっ……! 将臣さん、起きてください……!」

 

 焦った声が遠くから聞こえる。

 

 ゆっくりと意識が浮上していき、重たいまぶたを開く。

 

「……ん……」

 

 目の前には、今にも泣きそうな顔をした茉子がいた。

 

「起きました!? よかった……! 本当によかったです……!」

「ち、近い近い……」

「す、すみません!」

 

 飛び退くように距離を取った茉子は、それでもなお心底ほっとした顔をしていた。

 

 どうやら俺は客間に運ばれていたらしい。布団の上に寝かされていて、首のあたりがじんわり痛む。

 

「……ここ、どこだ」

「客間です。あの、本当に申し訳ありませんでした……!」

「起きた瞬間から謝罪の圧がすごいな……」

「だ、だって、私……将臣さんを気絶させてしまいましたし……!」

「まあ、それはそうなんだけど」

 

 茉子はその場でぺこぺこと何度も頭を下げてくる。

 

 いつもの少し余裕のある、どこかからかうような笑みはどこにもない。ただただ本気で焦って、本気で申し訳なく思っているらしい。

 

「本当に申し訳ありません。まさか将臣さんだとは思わなくて……!」

「いや、事情はわかったよ」

「朝、風呂場を掃除していたんです。そのあと、自分も少し汗を流しておこうと思って、そのまま入っておりまして……」

「そこに俺が来た、と」

「はい……。誰かが入ってくる気配がして、てっきり不審者かと……」

「家の中で裸のまま迎撃するやつがあるか?」

「とっさだったんです!」

「いや、それはわかるけど」

「しかも将臣さんだと気づいた時には、もうこの状態で……どう離せばよいのかわからなくなってしまって……」

「まあ、うん、それもわからなくはない」

「そ、それで少しでも見られたらどうしようと……っ」

「それで当て身?」

「……はい」

「判断が早すぎるんだよなあ」

「申し開きのしようもありません……!」

 

 また深々と頭を下げる。

 

 ここまで必死に謝られると、逆に怒る気が削がれてしまう。

 

「……まあ、俺も何も知らずに入ったし、お互い事故みたいなもんだろ」

「ですが、気絶させてしまいました……!」

「そこはまあ、だいぶびっくりしたけど」

「本当にすみません……!」

 

 そこへ、障子が開いて安晴さんがひょこっと顔を出した。

 

「あ、起きたみたいだねえ」

「安晴さん……」

「いやあ、ごめんね、将臣くん。こっちでちゃんと話を通しておけばよかったんだけど」

「それは本当にそう思います」

「うんうん、そうだよねえ」

 

 安晴さんは困ったように笑いながら部屋に入ってくる。

 

「茉子くんも、びっくりしちゃったみたいで」

「……大変失礼いたしました」

「反省してるみたいだから、そのへんで許してあげてくれると助かるなあ」

「まあ、もういいですけど」

「よかったよかった」

 

 安晴さんはのんびりそう言ってから、改めて俺の方を見た。

 

「将臣くん、体の方は平気?」

「首がちょっと痛いくらいです」

「そっかそっか。大事にはなってなさそうで安心したよ」

「いや、十分大事だった気もしますけど」

「はは、たしかに」

 

 そこで茉子が、居住まいを正すように背筋を伸ばした。

 

「改めまして、将臣さん。常陸茉子と申します。朝武家に仕えております」

「有地将臣です。……まあ、改めてって感じでもないけど」

「ええ。昔にも何度かお会いしていますし」

「小さい頃、芳乃のそばによくいたよな」

「はい。あの頃より、ずいぶん立派になられました」

「茉子もな」

「ふふ、ありがとうございます」

 

 その笑い方で、ようやく少しだけ茉子らしさが戻ってきた気がした。

 

 柔らかい敬語の中に、少しだけ相手を和ませるような余裕がある。さっきまで全力で謝っていた人と同じとは思えないくらいだ。

 

 安晴さんが、ぽんと手を打つ。

 

「さて、それじゃあせっかくだし、今日は茉子くんに穂織を案内してもらおうか」

「案内、ですか?」

「うん。将臣くん、昨日来たばっかりでまだ何もわからないでしょ?」

「まあ、そうですね」

「それに……今回のお詫びも兼ねて、ねえ?」

「はい……。そうさせていただけるなら」

 

 茉子は真面目な顔で頷くと、改めてこちらに向き直った。

 

「もしよろしければ、本日は私が穂織をご案内いたします」

「いいのか?」

「はい。きちんと埋め合わせをさせてください」

「埋め合わせって、別にそこまでしなくても」

「私の気が済みません」

「そこまで言うなら……頼もうかな」

「ありがとうございます」

 

 茉子はほっとしたように微笑んだ。

 

 それから、何か思い出したように小さく首を傾げる。

 

「ですが、その前に」

「ん?」

「もうお一人、ご案内しなければならない方がいらっしゃるんです」

「もう一人?」

「はい。ちょうど待ち合わせをしておりますので」

「誰なんだ?」

「着いてからのお楽しみ、です」

 

 少しだけ悪戯っぽく目を細める。

 

 その横で、安晴さんものんびり笑った。

 

「将臣くんなら、会っておいた方がいい相手だと思うよ」

「二人してそこで濁すんですね……」

「その方が面白いかなって」

「安晴さん、そんなこと言うタイプだったんですか」

「たまにはねえ」

 

 思わず苦笑する。

 

 さっきまで散々な目に遭ったはずなのに、不思議と空気は悪くなかった。

 

 むしろ少しずつ、この家の空気に馴染み始めているような気さえする。

 

 もちろん、芳乃の言葉はまだ引っかかっている。

 

 婚約者ではない。変な期待はするな。必要以上に踏み込むな。

 

 それはきっと芳乃の本音なんだろう。

 

 でも、その奥にあるものは、まだ見えない。

 

「……まあ、今は考えても仕方ないか」

 

 まずは穂織という土地を知ることだ。

 

 そして、待ち合わせの相手が誰なのかを確かめること。

 

 俺は布団から立ち上がり、軽く首を回してから茉子を見る。

 

「じゃあ、案内よろしく」

「はい、お任せください。……今度は気絶させないように気をつけます」

「今度がある前提で言うなよ」

「ふふ、失礼しました」

 

 柔らかく笑う茉子に続いて、俺は客間を出た。

 

 こうして俺は、茉子と一緒に待ち合わせの場所へ向かうことになった。

 

 穂織を知るために。

 

 そして、もう一人の案内役と合流するために。

 

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