暗い。
どこまでも深く、底の見えない闇の中を沈んでいるようだった。
冷たい土の感触が、まだ体のどこかに残っている気がする。
肩が痛い。背中も重い。息をするたびに全身が鈍く軋んで、まるで体のあちこちに重りを付けられているみたいだった。
意識は浮かび上がりそうで、けれどまだ浮かびきらない。
夢と現実の境目を、何度も行ったり来たりしているような感覚。
その時だった。
「……! ……オ……さん! 将臣さん!」
遠くから、声がした。
必死に呼ぶ声だった。
何かに縋るように、何度も何度もこちらへ届こうとする声。
「将臣さん……! 将臣さん!」
聞き覚えがある。
この声は――
「起きてください……将臣さん……!」
その呼び声に引き上げられるように、俺はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
「……ん……」
ぼやけた視界の中、最初に見えたのは白い髪だった。
顔のすぐ近くに、芳乃がいた。
心配そうに眉を寄せ、俺の顔を覗き込んでいる。
「起きられましたか、将臣さん」
「っ!?」
思った以上に距離が近くて、心臓が大きく跳ねた。
「よ、芳乃!?」
反射的に飛び起きかけて、右手を布団についた瞬間――
「いっ……!」
右肩に鈍い痛みが走った。
思わず顔が歪む。
その痛みで、意識が一気にはっきりした。
見上げる天井。
木の匂いのする部屋。
朝武家の自分の部屋だ。
そして右肩に残る、生々しい痛み。
夢じゃない。
昨夜の記憶が、そこではっきりと蘇った。
夕暮れの道。
慣れない分かれ道。
山へ入り込んだ瞬間にまとわりついてきた悪寒。
闇の中で唸り声を上げた、犬のようで犬ではない異形。
「祟り神……」
思わず口の中で呟く。
あれはやっぱり現実だった。
そして、自分はそこから生きて戻ってきたのだと、肩の痛みがいやでも教えてくる。
「だ、大丈夫ですか!?」
俺の顔色を見て、芳乃がさらに身を乗り出した。
「まだ無理に動いてはいけません。肩を見せてください」
「あ、ああ……」
そう言って、芳乃が俺の右肩へ手を伸ばした、その瞬間だった。
ぴょこん。
「…………は?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
白い髪の上に、ふわりと二つ。
ありえないものが現れていた。
犬耳だった。
「…………」
「将臣さん?」
芳乃は不思議そうにこちらを見る。
だが、俺は返事どころではなかった。
白い髪の間からぴんと立った、獣の耳。
しかも頭に飾りとして乗っているわけではない。ちゃんと体の一部みたいに自然に生えていて、微かにぴくりと動いた。
「…………」
「将臣さん、どうかなさいましたか?」
俺は無言のまま目を擦った。
見間違いだ。
まだ頭がはっきりしていないのかもしれない。
崖から落ちた衝撃で変なものが見えているのかもしれない。
深呼吸して、もう一度芳乃を見る。
やっぱりあった。
犬耳が。
「……いや、待ってくれ」
「はい?」
「なんで普通なんだ?」
「普通……ですか?」
「普通じゃないだろ!? その頭!」
思わず指差すと、芳乃はきょとんとした表情になった。
「頭……ですか?」
「見えてないのか!? いや、自分じゃ見えないかもしれないけど、とにかく……ありえないものが生えてる!」
「ありえないもの……?」
芳乃は怪訝そうに眉をひそめ、俺の指差す方向を目で追った。
そして次の瞬間。
「――――っ」
顔が一気に赤くなった。
ばっと両手で頭を押さえる。
「な……!」
「やっぱりあるんだな!?」
「ち、違います!」
「違わないだろ!」
「これは、その……!」
いつもの落ち着いた芳乃からは考えられないくらい、分かりやすく取り乱していた。
その反応を見た時点で、幻覚じゃないことはもう十分すぎるくらい確信できた。
「将臣さんが、まだ本調子ではないからです!」
「は?」
「見えているのは、たぶん幻覚です!」
「幻覚なら、なんで隠すんだよ」
「うっ」
ぴたり、と芳乃が固まった。
図星だった。
「……芳乃」
「…………」
「説明、してくれるよな?」
できるだけ冷静に言うと、芳乃は耳を押さえたまま、しばらく視線をさまよわせた。
やがて、観念したように小さく息を吐く。
「……分かりました」
声は小さかったが、逃げる気はなくなったらしい。
「ですが、これはわたし一人の口からお話しするより、お父さんからもご説明した方がよい内容です」
「安晴さんから?」
「はい。朝武家の呪いに関わる話ですから」
その言葉に、昨夜の異形の姿が再び脳裏をよぎる。
「……やっぱり、関係あるんだな」
「あります」
芳乃ははっきり頷いた。
「先ほど将臣さんが見たこれは……呪いの副作用です」
「副作用……」
「はい。そして一度出てしまうと、祟り神を祓うまで消えません」
「じゃあ、それ今ずっとそのままなのか?」
「……そうです」
芳乃はますます顔を赤くしながら答えた。
「ですから、本来ならお見せしたくありませんでした」
「いや、見えるものは見えるし……」
「見ない努力をしてください」
「無茶言うな」
「無茶でもです」
ぴしゃりと言い切られた。
けれどその横顔はいつもよりずっと余裕がなくて、いかにも不本意そうだった。
俺は痛む肩を庇いながら、ゆっくりと体を起こした。
「立てますか?」
「肩は痛いけど、まあなんとか」
「無理はしないでください。支えます」
「いや、そこまでは――」
「支えます」
「……はい」
静かなのに有無を言わせない声音だった。
結局、俺は芳乃に軽く腕を支えられながら部屋を出ることになった。
廊下を歩く間も、つい何度か芳乃の頭の方に視線が向いてしまう。
「……そんなに見ないでください」
「いや、気になるだろ普通」
「普通ではありません」
「それはそうだけど!」
「でしたら、なおさら見ないでください」
もっともなような、そうでもないような理屈だった。
そんなやり取りをしながらリビングへ入ると、そこにはすでに安晴さんと茉子、それにムラサメちゃんがいた。
ただ、いつもと違うのは空気だった。
安晴さんは軽い笑みを引っ込め、真面目な顔をしている。
茉子も静かで、いつもの余裕を残しつつも口数は少ない。
ムラサメちゃんは部屋の隅に立ち、腕を組んだまま黙ってこちらを見ていた。
俺が座ると、安晴さんがゆっくり頭を下げた。
「将臣君。まずは謝らせてほしい」
「え……」
「今回の件、本当に申し訳なかった。君が祟り神に襲われるようなことになったのは、こちらの説明不足だ」
軽口のない、まっすぐな謝罪だった。
「朝武家の事情に巻き込みながら、肝心なことを話していなかった。その結果、君を危険に晒してしまった」
「……俺も、暗くなってから一人で歩いてましたし」
「それでもだよ」
安晴さんは首を横に振る。
「穂織の夜道や山の危険性を知らなかったのは、こちらがちゃんと伝えていなかったからだ。それは朝武の側の落ち度でもある」
その真剣な言い方に、俺もそれ以上は言えなかった。
安晴さんは顔を上げ、静かに問いかけてくる。
「将臣君は、穂織の伝承についてどこまで知っている?」
「昔話として聞いたくらいです」
「聞いている範囲でいい。話してみてくれるかい?」
俺は子どもの頃に聞かされた話を思い返しながら、口を開いた。
「昔、妖怪に唆された隣の大名が穂織を攻めてきた。負けそうになったところで祈祷をして、叢雨丸を授かった。その刀で妖怪を退治して、敵は敗走して、穂織に平和が戻った……そういう話です」
「うん。大筋はその通りだ」
安晴さんは頷いた。
「そして、その話は作り話じゃない。本当にあったことなんだよ」
「……本当に?」
「本当に」
静かな断言だった。
「朝武家は、その戦いで穂織を守った家系だ。そして討たれた妖怪は、消える間際に呪いを残した」
「その呪いが……祟り神」
「そうだ」
昨夜の異形が鮮明に脳裏へ蘇る。
「あれは朝武家に残された呪いそのものだ。完全に消えたわけではなく、この土地と朝武家に長く絡みつき続けてきた」
そこで安晴さんの視線が、芳乃の頭の方へ向く。
「そして、その影響は朝武家の直系に色濃く現れる」
芳乃が押さえていた手に、少し力がこもる。
「先ほど将臣君が見たものも、その一つだよ」
「……犬耳」
「言葉にしないでください……!」
即座に芳乃が抗議する。
だが否定ではなく、ただ純粋に恥ずかしいからやめてほしいという響きだった。
安晴さんが少し苦笑しながら続ける。
「これは朝武家の直系に現れる呪いの副作用でね。本来なら、ムラサメ様と同じで普通の人には見えない」
「じゃあ、なんで俺には見えるんですか?」
「霊感の強い人なら、ごく稀に見えることがあるんだ」
「……霊感」
「そう。誰にでも見えるものじゃない。だから普通は隠し通せるんだけど、君には見えてしまったわけだね」
「全然ありがたくないな……」
「わたしも、見られてありがたいものではありません」
芳乃が真顔で言う。
その反応に、少しだけ空気が緩んだ。
だが安晴さんはすぐに真面目な口調へ戻った。
「それと、祟り神について覚えておいてほしいことがある。基本的に、あれが狙うのは朝武家の直系だ。つまり芳乃だね」
「じゃあ俺が襲われたのは……」
「例外だよ。昨夜は祟り神が実体化に近い状態だったんだろう、ではなく――」
安晴さんはそこで言葉を区切り、少しだけ表情を引き締めた。
「祟り神が実体化するのは、呪いの力が溜まりに溜まった時だ」
「呪いの力が……」
「うん。普段はそこまでいかないように抑えている。芳乃が毎日、舞を奉納して穢れを祓っているからだよ」
俺は思わず芳乃を見る。
芳乃は静かに視線を伏せた。
「毎日……?」
「そう。朝武家の巫女姫として、呪いから生じる穢れを少しずつ祓っているんだ。だから祟り神が実体化することは本来滅多にない」
「じゃあ、昨日は……」
「舞の奉納だけでは、穢れを完全に祓い切ることはできないんだ」
安晴さんの声は穏やかだったが、内容は重かった。
「溜まった穢れが限界を超えれば、祟り神は力を増し、こうして実体化する。そうなった時は、直接祓わなければならない」
その言葉に、部屋の空気がさらに張り詰めた気がした。
毎日舞を捧げて、ようやく抑え込んでいる。
けれど、それだけでは足りない。
限界まで穢れが溜まれば、実際に山へ出て祓わなければならない。
つまり芳乃は、ずっとそんな役目を背負ってきたということだ。
「……だから、夜の山に行くのか」
「そういうことだね」
安晴さんは頷いた。
俺は無意識に拳を握っていた。
そこまで聞いてようやく分かった。
芳乃がどれだけ普通の顔をして、普通じゃないものを背負っていたのか。
そして同時に、もう一つのことも。
「……芳乃が、俺を遠ざけようとしてたのって」
その言葉に、芳乃の肩がわずかに揺れた。
「このことに巻き込みたくなかったからか」
しばしの沈黙。
先に答えたのは、安晴さんだった。
「そうだよ」
静かな肯定だった。
「芳乃は君を、この呪いの件からできるだけ遠ざけようとしていた」
「…………」
「朝武家の直系が背負うものは軽くない。だからこそ、余計な人間を巻き込みたくなかったんだろうね」
その言葉を聞いて、これまでの芳乃の態度が頭の中で繋がった。
婚約者の話をされても、どこか距離を置こうとしていたこと。
必要以上に踏み込ませまいとしていたこと。
何かを隠しているようでいて、それでも冷たくなりきれなかったこと。
全部、拒絶じゃなかった。
むしろ逆だ。
巻き込みたくないから、近づけたくなかったのだ。
俺が芳乃を見ると、芳乃は耳を押さえたまま、静かに言った。
「……はい」
短い返事だった。
「将臣さんには、知らないままでいていただく方がよいと思っていました」
「芳乃……」
「ですが、もう見られてしまいましたし、昨夜の件もあります。これ以上、何も知らずにいてくださいとは言えません」
その声は落ち着いていた。
でも、それは諦めに近い静けさにも聞こえた。
そこで、今まで黙っていた茉子に安晴さんが目を向けた。
「そして、もう一つ。今夜、祟り神と対峙するのは芳乃だけじゃない」
その言葉に、俺は茉子を見る。
茉子は普段通りの柔らかな笑みを浮かべたまま、軽く一礼した。
「わたしもお供いたしますので」
「茉子も戦うのか?」
「ええ。もともと常陸家は、代々朝武家の護衛として仕えてまいりましたから」
さらりと言うが、その言葉には思った以上の重みがあった。
安晴さんが補足する。
「朝武家の護衛役は、ただ腕が立てばいいわけじゃない。祟り神の事情を知った上で、それに対抗できる備えを受け継いできた家が担ってきたんだ」
「対抗できる備え……?」
「茉子くんの忍び装束だよ」
安晴さんの視線を受けて、茉子が自分の袖を軽く摘まんだ。
「この装束は朝武家から賜ったものです。代々、護衛役へ託されてきた品でして」
「普通の忍び服ってわけじゃないのか」
「はい。若干ですが神性が宿っておりますので、祟り神のような存在とも渡り合えるようになっています」
何でもないことのように言っているが、内容は全然何でもなくない。
つまり、茉子が今から着るのは、単なる戦闘服ではなく、朝武家が代々護衛のために与えてきた対祟り神用の装束ということか。
「……そんなものまであるのか、この家」
「あるんだよねえ」
安晴さんは苦笑混じりに言う。
「長い時間をかけて、必要なものを積み重ねてきた結果だよ」
穂織の伝承が本当なら、朝武家がこうして対策を持っているのも当然なのかもしれない。
でも、そんな話を当たり前みたいに受け入れ始めている自分が少し怖かった。
そこでムラサメちゃんが静かに口を開いた。
「ご主人」
「ん?」
「此度は運よく生き延びただけと思え。次も同じとは限らぬ」
「……分かってる」
厳しい言葉だった。
でも、その通りだった。
あの崖からの落下で、少し運が悪ければ今こうして目を覚ましてすらいなかったかもしれない。
安晴さんは頷き、それから芳乃と茉子へ視線を向けた。
「さて、説明はここまでだ」
その一言で、空気がまた変わる。
「将臣君は休んでいてくれ。その間に、こちらは動く」
「動くって……祟り神を祓いに?」
「うん。実体化したまま放っておくわけにはいかないからね」
芳乃が静かに立ち上がる。
「行ってまいります」
茉子もそれに続いた。
「では、わたしも」
二人はいったん部屋を出て、しばらくして戻ってくる。
芳乃は巫女装束。
白と紅を纏ったその姿は、普段以上に凛としていて、この土地の“巫女姫”としての威厳を感じさせた。
茉子は忍び装束。
先ほど聞いた話を知った後では、その装束の見え方もまるで違う。単なる忍びの衣ではなく、代々朝武家を護ってきた役目そのものを形にしたような姿だった。
二人が並ぶと、朝武家が背負っているものの重さが、嫌でも伝わってくる。
「……本当に行くのか」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
芳乃がまっすぐ俺を見る。
「はい」
「危なくないのか」
「危なくないとは言えません」
きっぱりとした返事だった。
「ですが、祟り神を祓わなければ、この呪いも収まりません。放置すれば、また被害が出る可能性もあります」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
茉子が軽く肩をすくめる。
「こういう時のために、わたしたちがおりますので」
「でも……」
「ご安心ください、将臣さん」
茉子は柔らかく笑う。
「負けるつもりで行くわけではありません」
簡単に言っているようで、その実、覚悟の重さがにじんでいた。
俺は拳を握る。
止めたかった。
でも、俺には止める力も、代わりに行く力もない。
ただ見送るしかない自分が、どうしようもなくもどかしかった。
そんな俺に、芳乃が一歩近づいた。
「将臣さん」
「……ん?」
「ご心配には及びません」
静かな声だった。
「必ず戻ります」
その一言は、妙にまっすぐ胸に入ってきた。
そして、少しだけ表情を和らげる。
「それに……あなたが無事で、本当によかったです」
「芳乃……」
不意にそんなことを言われて、言葉が詰まる。
普段の芳乃が、ここまで素直に感情を出すのは珍しい。
胸の奥が少し熱くなった、その時。
犬耳が、ぴくりと動いた。
「…………」
「…………」
どうしても、そっちに目が行く。
芳乃は一瞬で気づいたらしい。
「……今、見ましたね」
「いや、そりゃ見えるから……」
「見ないでください」
「それは無理があるだろ」
「無理でもです」
きっぱり言い切るあたりが、いかにも芳乃らしい。
茉子がくすりと笑う。
「芳乃様、そのままでも大変お可愛らしいですよ」
「茉子!」
「失礼いたしました」
全然反省していない顔だった。
それでも、そのやり取りのおかげで、張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ。
芳乃と茉子はそのまま部屋を出る。
廊下の向こうへ、夜へ向かう二つの背中が消えていった。
襖が閉まる。
そこでようやく、部屋の中が静まり返った。
残ったのは、俺と安晴さんの二人だけだった。