特別な才能もなく、平凡な毎日を過ごしていた彼の生活は、ある少女との出会いをきっかけに少しずつ変わっていく。
控えめで、優しくて、少し臆病な少女――
小泉花陽
おにぎりをきっかけに始まった、小さな関係。
それはやがて、ゆっくりと距離を縮めていく。
まだ、この時は誰も気づいていなかった。
その優しさの奥にある、
とても静かで――
とても重たい想いに。
これは、逃げ場のない恋が始まる、最初の物語。
俺の名前は神崎悠真。
音ノ木坂学院に通う二年生だ。
これといって特別な特徴はない。
勉強も平均、運動も普通。友達もそれなりにいる、ごく普通の男子生徒だ。
ただ、最近少しだけ変わったことがある。
それは――
小泉花陽と仲が良くなったことだった。
きっかけは、ほんの些細な出来事だった。
昼休み、購買に並んでいた時のことだ。
その日は人気のおにぎりが販売されていて、生徒たちが列を作っていた。
やっと自分の順番になり、最後の一つのおにぎりを手に取ろうとした時だった。
隣にいた花陽も、同じおにぎりに手を伸ばしていた。
「あ…」
花陽は俺に気づくと、すぐに手を引っ込めた。
「どうぞ…」
遠慮するように、小さな声で言う。
俺は少し迷ったが、そのおにぎりを手に取った。
そして、そのまま花陽に差し出した。
「いいよ、俺パンでも大丈夫だし」
そう言うと、花陽は驚いたように目を丸くした。
「え…でも…」
「気にしないで」
そう言うと、花陽は少し戸惑いながらも受け取った。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる花陽。
その時の表情が、どこか印象に残った。
それから数日後。
「神崎くん…」
後ろから小さな声で呼ばれた。
振り返ると、花陽が立っていた。
「この前は…ありがとうございました」
そう言って、花陽は小さな袋を差し出した。
「これ…お礼です…」
中には、小さなおにぎりが入っていた。
「え、これ…手作り?」
「はい…ちょっとだけ…」
恥ずかしそうに俯く花陽。
「ありがとう」
そう言うと、花陽は少し安心したように微笑んだ。
それがきっかけで、少しずつ会話をするようになった。
「今日は…新しいおにぎりがあって…」
「この前のお米…すごく美味しくて…」
花陽は、お米や食べ物の話になると、少しだけ嬉しそうに話す。
そんな時間が、なんとなく心地よかった。
ある日の放課後。
帰ろうとしていた時だった。
「神崎くん…」
振り返ると花陽がいた。
少し緊張した様子だった。
「今日…一緒に帰ってもいいかな…?」
少し意外だった。
でも、断る理由はなかった。
「いいよ」
そう答えると、花陽の顔がぱっと明るくなる。
「よかった…」
二人で並んで歩く帰り道。
花陽は静かな子だった。
無理に会話を続けることもなく、ゆっくりと歩く。
でも、それが不思議と落ち着いた。
「神崎くんって…優しいね」
花陽がぽつりと言った。
「そうかな」
「うん…」
小さく笑う花陽。
しばらく歩いていると、花陽が空を見上げた。
「…星、綺麗だね」
つられて空を見ると、オリオン座が見えていた。
「花陽、星好きなの?」
「うん…なんだか落ち着くから…」
そう言って、こちらを見る。
「神崎くんと見る星…好きかも…」
少し照れながら言う花陽。
少しだけ、ドキッとした。
その時、花陽がそっと近づいた。
「また…一緒に帰ってもいい…?」
小さな声だった。
「もちろん」
そう答えると、花陽は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう…」
その笑顔は、優しくて――
少しだけ、離れられなくなりそうだった。
この時はまだ、気づいていなかった。
花陽の視線が、少しだけ長かったことも。
帰り道を覚えるように見ていたことも。
そして――
その優しさが、少しずつ変わっていくことも。
第1話を読んでいただきありがとうございます。
今回はまだ、花陽の優しさや控えめな性格を中心に描いた導入回となっています。
しかし、この優しさこそが、後の展開をより強く印象づける要素になっていきます。
神崎悠真と花陽の距離は、まだ穏やかで自然なもの。
ですが、花陽の中ではすでに、少しずつ特別な感情が芽生え始めています。
第2話では、さらに距離が縮まり、花陽の「好き」が少しずつ強くなっていきます。
そして、違和感がほんの少しずつ見え始めます。
優しい花陽が、どのように変わっていくのか――
ぜひ第2話もお楽しみください。