しばらく、誰も口を開かなかった。
結晶の光が届かない区画だった。三人は壁を背にして立ち、それぞれ息を整えていた。陽太は傷を癒した後も呼吸が変わらない。深雪は両手を壁につき、うつむいたまま動かなかった。すずはただ、自分の右腕を見ていた。傷は消えている。皮膚は戻った。それでも、腕を覆っていた熱の感触が、まだそこに残っているようだった。
広間の方向から、光が滲んでいた。
アーチの向こう。輝石の光が、通路の壁を青白く染めて揺れている。揺れ方が、呼吸に似ていた。一定の間隔で、満ちて、引く。あれが止まらない限り、竜はそこにいる。
すずは深雪の横顔を見た。
顎の線が固い。目が広間の方向を向いたまま、動かない。さっきまでの戦闘を反芻しているのか、あるいは別の何かを——今から先のことを、計算しているのか。すずには判断がつかなかった。
(深雪先輩が、あんな顔をしている)
見たことがなかった。迷っている顔ではなかった。何かを押さえ込もうとして、押さえ込めていない——そういう顔だった。
すずは唾を飲んだ。喉が乾いていた。自分の声がどんな音で出るか、確認する間もなく、口が動いた。
「……深雪先輩」
深雪の肩が、わずかに動く。
「これ……続けるの、危険すぎます」
言葉が出た後で、すずは少しだけ後悔した。後悔したが、取り消せなかった。
「一度、戻った方がいいと思います。探索は……中止した方が……」
センターから渡された任務書が、頭の隅に浮かんだ。評定者としての責任。三咲陽太の素行と技術を記録して持ち帰ること。だが、それよりも先に、すずが感じていたのは純粋な恐怖だった。あの竜の目が、こちらを認識した瞬間の感触。骨の芯まで届いてくるような、冷たい光。
深雪は答えなかった。
すぐには、答えなかった。
数秒の間があった。深雪の目が、広間の方向から外れて、床へ落ちる。
「……確かに、無策で突っ込むのは無謀だ」
深雪の声は静かだった。怒っていない。否定もしていない。すずは続けを待った。
「戻る選択肢も、ないわけじゃない」
その言葉は、リーダーとしての言葉ではなかった。探索者として、冷静に現状を見ている——それだけの言葉だった。それがかえって、すずの胸に重くのしかかった。深雪でさえ揺れているのだと、分かったから。
陽太が、口を開いた。
「戻っても、状況は変わりません」
遮るような言い方ではなかった。淡々としていた。ただ事実を述べるような声だった。
「あれは時間を置くほど厄介になります。今が一番、動きが読みやすい状態です」
すずは反射的に陽太を見た。壁から離れて立っている。広間の方向を向いている。背中が、恐れを持っていない。肩が、揺れていない。さっきあれほどの攻撃を浴びて、なぜそんなに静かに立っていられるのか——すずには分からなかった。
「……勝てる、んですか」
声が出た。自分でも気づかないうちに、口から言葉が落ちていた。
「今なら」陽太は言った。「勝てます」
断言だった。根拠を並べなかった。推測ではなく、確認のような口調だった。それが、すずの恐怖の輪郭を、少しだけ変えた。怖い、という感触は変わらない。変わらないが——可能性がある、という感触が、恐怖の隣に生まれた。
深雪が、顔を上げた。
陽太の背中を、一秒、二秒と見た。それから、息を一つ吐いた。大きくはなかった。ただ、腹の底から出てくるような、静かな呼気だった。
「……戻るのは簡単だ」
深雪は壁から離れ、二人の方へ向き直った。
「でも、あれを放置したらもっと危険になる。三咲がそう言うなら、私もそう思う」
すずは深雪を見た。揺れは消えていなかった。それでも、深雪の目には決断の色があった。怖さを踏み台にして立っている、という種類の落ち着きだった。
「今なら、三人で倒せる。私はそう判断する」
すずは何も言えなかった。言えなかったが——頷いていた。自分の意志で、頷いていた。
「だから続ける。やるなら、まず作戦だ」
深雪は二人を交互に見た。
「先ほどの戦いで、気づいたことは」
※
広間の入口から、五歩だけ下がったところに安全地帯があった。
深雪は壁を背にして立ち、陽太とすずに向き合った。広間の光が、三人の足元を薄く染めている。
「頭部か足元です」
陽太は淡々と言った。考えた様子がなかった。最初の一撃を受けた後に探った情報ではなく、最初から知っていたような言い方だった。
「本体の結晶が密でない部分を狙う。側面の鱗は厚すぎて通りません。頭部の基部か、水面下の足首周辺——そこなら継ぎ目が多い」
深雪は一語ずつ整理した。頭部。足首。継ぎ目。情報として正確だと分かる。正確だと分かるから、余計に引っかかる。あの混乱の中で、陽太は何を見ていたのか。
「ブレスの直後が狙い目だと思います」
すずが口を開いた。壁に手をつき、先ほどの戦闘を反芻するように目を細めている。
「ブレスを撃った後、首の戻り方が一瞬遅くなってました。気のせいかもしれないですけど……あそこなら、頭部に近づける気がして」
深雪は少し驚いた。あの混乱の中で、すずはそれを見ていた。恐怖の中で、観察していた。
「気のせいじゃない」
陽太が言った。すずの目が、わずかに見開かれる。
「ブレス後の硬直は実際にある。俺も確認していました。ただ、継続時間は短い。深雪さんの足止めと合わせて入るのが現実的かと」
「氷で引きつけながら、すずが側面に回る。私が頭を抑えている間に三咲が足首を狙う——そういう順序か」
「それが一番素直だと思います」
深雪は広間の方向を一度だけ見た。アーチの向こうで、青白い光が揺れている。揺れるたびに、通路の壁が明滅した。まるで息をしているようだった。
(あれが、まだそこにいる)
前回の撤退で分かったことがある。攻撃は読める。読めるが、対応できるかは別の話だ。それでも——すずの観察が、陽太の即答が、三人の連携の軸になる。深雪はすずを改めて見た。緊張しているのは顔に出ている。それでも考えている。一度目の恐怖を、二度目の観察に変えていた。
「すず、もう一度硬直を見られるか」
「……たぶん、見えます」
たぶん、と言いながら、すずの目には迷いが薄かった。
「三咲は足首狙いで行けるか」
「問題ありません」
「じゃあ役割はそれで決まりだ」
深雪は息を一つ落ち着けた。陽太の言葉が、また頭の中で繰り返された。今なら、勝てます。断言だった。根拠を並べなかった。それが深雪には、最も答えにくい種類の信頼だった——理解できないのに、信じるしかない、という種類の。
「合わせられる自信はある。三人でないと崩せない相手だ」
すずが頷く。陽太は何も言わなかった。異論がないことは、沈黙で分かった。
「三人で倒す。絶対に」
深雪は広間へ向き直り、一歩踏み出した。
※
広間は、記憶よりも静かだった。
水面が、揺れていない。さっきの戦闘で乱れた水が、時間をかけて元に戻っていた。輝石の破片がいくつか浮かんでいる。霜の痕が岩盤に白く残っている。それ以外は何もなかったように見えた——広間の中央に、あれがいなければ。
すずは深雪の後ろで足を止めた。膝まで下がった水位が、くるぶしを冷たく包む。一歩踏み込むたびに、水面が薄く広がった。音を立てないようにしようとして、音を立てた。立てたくなかったが、立ってしまった。
輝石竜は、動かなかった。
広間の中央で、翼を畳んだまま、ただそこにいた。首が低く、目が閉じている。眠っているようにも見えた——見えたが、すずには分かった。眠っていない。鱗の内側で魔力の光が、一定の間隔で脈打っている。満ちて、引いて、また満ちる。あれは息だ。目を閉じて、ただ待っている。
(また来た、と分かってる)
喉が、締まった。逃げたい、という感覚ではなかった。逃げたい、という言葉にすらなれない、もっと原始的な何かだった。皮膚が、空気の密度の変化を直接読んでいた。
深雪が、左手を水面へ向けた。
冷気が走った。音もなく、床を這うように霜が広がっていく。水面が薄く凍り始め、輝石竜の周囲を弧を描いて囲んでいく。すずには、深雪が何をしているのか一瞬で分かった。逃げ場を作っている。いざとなれば踏める足場を、水の上に敷いている。
竜の瞳が、開いた。
青白い光が、広間を満たした。水面がその光を受けて揺れ、天井まで反射が届く。すずは息を止めた。あの目が、こちらを認識している。三人がここに立っているという事実を、あの目が正確に捉えている。
陽太が、前へ出た。
走らなかった。歩いた。水面を踏む音だけが、静かな広間に落ちた。竜の首が持ち上がる。高く、ゆっくりと——その動きを、すずは目で追った。
首の角度。上がり方の速さ。鱗が光を弾く向き。
前回も同じ動きだったか——記憶の中を探る。分からない。前回は怖くて、動きを追う余裕がなかった。今も怖い。怖いが、今は目が開いていた。
竜の首が、止まった。
止まった、と思った次の瞬間、翼が動いた。
気流が来た。深雪が地を蹴って横へ跳ぶ。すずも反射で後退した。水面を蹴り、岩盤の突起を踏んで、壁まで下がる。風が顔を叩いて、輝石の粒子が霧のように舞い上がった。目を細めて、粒子が晴れるのを待つ。
晴れた。
陽太は、広間の中央に立っていた。
翼の暴風を、どうやって躱したのか。すずには見えなかった。気流が来た瞬間に、すずは視界を失っていた。気づいたときには陽太はそこにいて、竜と正面から向き合っていた。長衣の裾が、残った気流でわずかに揺れている——それだけだった。呼吸が乱れていない。構えが崩れていない。
(……なんで、そこに立てるの)
竜の首が、また動いた。
今度はすずが目で追った。首の付け根から、ゆっくりと右へ傾ぐ。傾いで——止まる。止まった、と感じた瞬間に、光が集まり始めた。牙の隙間から、青白い輝きが漏れてくる。
(ブレスだ)
脚が動こうとした。下がれ、という命令が全身に走った——すずはそれを、一歩分だけ止めた。
見る。
光が集まる速さ。首の角度。牙の開き方。前回と、同じか。違うか。息を止めて、すずは竜の首だけを見た。見た、と言い切れるほど正確ではなかった。ただ、目を離さなかった。
ブレスが来た。
深雪の冷気が前へ出て、壁になった。奔流が冷気にぶつかり、霧になって散る。完全には防げなかった。余波がすずの左肩を掠めた。冷たかった。鋭かった。それだけだった。
沈黙が戻った。
水滴の音が、また聞こえる。
すずは息を吐いた。肩が痛い。痛いが、傷ではない。呼吸は乱れている。それでも——さっきと何かが違った。何が違うのか、うまく言葉にならなかった。言葉にならないが、何かが変わっていた。
陽太が、視線だけをすずへ向けた。
何も言わなかった。確認するような目だった。怪我がないか——そういう目だった。それだけだった。
すずは首を横に振った。大丈夫、という意味のつもりだった。
陽太の視線が、竜へ戻る。
深雪が氷の足場を敷き直している。静かな、機械的な集中力だった。その横顔が、すずには少し遠くに見えた。今の深雪は、すずのことを見ていない。竜だけを、見ている。
竜の首が、また動き始めた。
すずは目を細めた。首の付け根。動きの起点。どこから始まって、どこで止まるのか——今度こそ、最初から追う。
「怖い、けど」
自分の声が出たことに、少し驚いた。呟きのつもりだったが、静かな広間には届いた。
竜の首が、傾いで——止まった。光が集まる前に、すずは次の動きを待った。待ちながら、続けた。
「……見える……!」
首が戻るとき、ほんの一瞬——付け根の動きが、遅れた。
前回と、同じだった。気のせいではなかった。あそこに、隙がある。
※
深雪は冷気を絞っていた。
全力ではない。出し切れば足場が崩れる。輝石竜の周囲を囲む霜の層を維持しながら、同時に視界を確保する——それが今の深雪の仕事だった。広間の水気が冷気に反応して霧になる。霧が晴れれば視界が戻り、竜の動きが見える。晴れるまでの数秒を、深雪は呼吸に変えた。吸って、吐いて、次の判断へ。
陽太が竜の正面にいる。
深雪の視野の端で、陽太は動いていた。最小限の動きで竜の攻撃を外していた——躱す、という言い方では正確ではなかった。攻撃の軌道に重なる前に、すでにそこにいない。先読みなのか反応なのか、深雪には判別がつかなかった。
すずが壁際にいる。
深雪はすずの位置を確認した。怪我はない。怯えているが、足が止まっていない。壁を背にして、竜を見ていた。見ているだけではなかった——竜の首の動きを、目で追っていた。
(……何かを、掴もうとしている)
そう気づいたのは、すずの目が変わったからだった。怖い、という目だった。だが、さっきとは種類が違った。さっきは恐怖が目を押しつぶしていた。今は恐怖の中に、何か細い光のようなものが混じっていた。
竜の首が傾いだ。
深雪は冷気を前へ出した。ブレスが来る——来る前に、霜の壁を一層厚くする。体の軸を落として、衝撃に備えた。
ブレスが走った。
冷気と魔力がぶつかった。余波が体を揺らす。足場の霜が一部剥がれ、水面が跳ねた。深雪は踏ん張り、足場を踏み直した。膝が重かった。消費が、蓄積し始めていた。
竜の首が、戻り始めた。
「ちょっと待って」
すずの声が飛んだ。
深雪が振り向く。すずは壁から半歩出て、竜の首だけを見ていた。表情が、それまでと違った。緊張ではなく、集中——言葉を探している顔だった。
「今、首が戻るとき……ほんの少し、遅れませんでした? 付け根のところ」
深雪は咄嗟に、先ほどの竜の首を記憶の中で巻き戻した。
あった。
言われてみれば——ブレスが終わった瞬間から首が戻り始めるまでの間に、わずかな滞りがあった。見ていたはずだったのに、深雪は気づいていなかった。冷気の維持に意識を割いていたからか。あるいは、見る余裕がなかったのか。
「……そうだ」
深雪は言った。確信ではなかった。だが、否定もできなかった。
「もう一度確認する」
深雪はすずの方を向いたまま、陽太へ声をかけた。
「三咲、次のブレス後の硬直——どのくらい続くか分かるか」
間があった。
短い間だった。一秒、あるいはもう少し。深雪には、その間の質が気になった。考えた間ではなかった。確認している、という質の間だった——何かを検索しているのではなく、すでに持っている答えを取り出す前の、整理の間。
「三秒ほどだと思います」陽太は言った。「首の基部が最も無防備になるのは、戻りきった直後。一秒もないかもしれません」
深雪は黙った。
三秒。首の戻り。一秒未満の最大の隙。
すずがそれを見つけた。陽太がすでにその数字を持っていた。
(あいつは、いつ計った)
違和感が、また頭の中で形を作った。先ほどの作戦会議でも同じだった。弱点を、考えた様子がなかった。今の硬直の時間も、あの混乱の中で正確に計っていた。深雪は何度目かわからない問いを、また頭の奥へ押し込んだ。今は、使える。それだけでいい。
竜の首が、また持ち上がり始めた。
深雪は足場を確認した。霜が均一に張っている。視界は確保できている。すずが隙を見つけた。陽太が時間を把握している。あとは——タイミングだけだった。
「その隙、逃す手はないな」
深雪は前を向いたまま言った。答えを求めているわけではなかった。自分の判断を、口に出して固めていた。
竜の首が、止まった。
光が集まり始める。深雪は冷気を構えた。次のブレスが終わったとき、三人の動きを合わせる。そこまでは読めた。読めたが——合わせられるかどうかは、やってみるまで分からなかった。
※
ブレスが終わった。
今だ——すずは壁を蹴った。水面を蹴って、斜めに走る。竜の側面へ、首の付け根を狙って。三秒。その数字だけを頭に入れて、足を動かした。
竜の首が、戻り始めた。
遅れている。見えた——確かに見えた。首の付け根が、わずかに滞っている。あそこだ。あそこに剣を通せば——
竜の翼が、動いた。
首ではなかった。翼だった。ブレスの後に翼が来る——その組み合わせを、すずは想定していなかった。翼端の結晶の棘が光を弾いて、気流が横から叩きつけてくる。体が流された。水面を踏もうとした足が空を切り、すずは体ごと横へ吹き飛んだ。
岩盤に肩が当たった。
痛みが肩から首へ走る。視界がぶれた。膝が水面をついて、飛沫が顔に当たった。手の中の剣が、まだある。それだけを確認した。
(……甘かった)
立ち上がろうとした。膝が滑る。水面が揺れていた。霜の足場が、翼の気流で一部剥がれていた。
「すず!」
深雪の声が飛んだ。
すずが顔を上げたとき、深雪はすずへ向かって走っていた。庇いに来ている、とすずは理解した。理解した直後に——竜の首がそちらへ向いたことに、気づいた。
(深雪先輩、だめだ)
「先輩、こっち!」
すずは叫んで、右手を伸ばした。深雪の腕を掴む。体重をかけて、引き寄せる。深雪が体勢を崩しながらすずの方へ倒れ込む——その一瞬後に、竜の首が深雪のいた場所を薙いだ。
水面が爆ぜた。
二人は水の中に転がった。冷たかった。耳の中で音が歪む。すずは深雪の腕を放さなかった。放さないまま、水から顔を出す。息を吸う。深雪も顔を上げていた。目が合った。
「……ありがとう」
深雪の声は、平静だった。平静だったが、かすかに——かすかだけ、違う色が混じっていた。すずは深雪の目を見た。何かを揺れさせている目だった。自分の判断への迷い、と言えばいいのか。守るつもりで走ったのに、逆に危険を招いた——その事実が、深雪の中で何かを揺らしていた。
影が割り込んだ。
陽太だった。
二人の前に立っていた。いつ動いたのか分からなかった。竜の首が次の動作へ移る前に、陽太はすでにそこにいた。剣を構えるでもなく、ただ前に立っている。竜の視線が、陽太へ向いた。
陽太は振り返らなかった。
「慌てる必要はありません」
静かな声だった。竜を正面に見据えたまま、二人へ向けて言った。
「まだ崩れていません」
すずは息を飲んだ。
崩れていない。その言葉の意味を、すずは一拍遅れて理解した。連携が崩れていない、ということだ。すずが弾かれた。深雪が判断を誤った。二人が水の中に転がった。それでも——陽太の目には、まだ勝ち筋が見えている。
(……なんで、そんなに落ち着いていられるの)
竜が動いた。
陽太が横へ流れた。首の一撃が水面を叩き、轟音と飛沫が上がる。衝撃が水を伝ってすずの体を揺らした。陽太は着地した。乱れなかった。呼吸が変わらなかった。竜へ視線を戻す、その動作に迷いがなかった。
深雪が立ち上がった。
すずも立ち上がった。水が滴った。肩が痛い。膝が重い。それでも足は動いた。
深雪が視線をすずへ向けた。一瞬だけ、確認するような目だった。すずは頷いた。大丈夫、という意味だった——正確には、大丈夫ではなかったが、続けられる、という意味だった。
深雪の目が、前へ戻る。
揺れは、まだ消えていなかった。深雪の横顔に、さっきの色が残っていた。守るつもりが守られた。その事実が、深雪の中でまだ動いていた。
すずには、何も言えなかった。言える言葉が見つからなかった。
陽太が、じっと竜を見ていた。
動かなかった。ただ、見ていた。何かを確かめるような、あるいは何かを測るような、その目だった。さっきとは少しだけ——少しだけ違う気がした。
(……何か、掴んだ?)
すずには分からなかった。分からなかったが、陽太の背中から目が離せなかった。
※
陽太が、動かなくなった。
攻撃をしていない、という意味ではなかった。竜の首が来れば外し、翼が動けば水面を蹴って距離を取る。最小限の動きは続いていた。だが、それ以外が——止まっていた。
深雪には、その違いが分かった。
さっきまでの陽太は、竜と向き合いながらも二人の位置を確認していた。視線が、わずかに動いていた。すずが動けば、そちらへ。深雪が冷気を出せば、角度を読んで立ち位置を変える。それが今は、ない。視線が竜から離れない。首の動きを、一つ一つ追っている。
見ている、のではなかった。
読んでいた。
深雪は冷気を絞りながら、陽太の背中を見た。肩の高さが変わらない。呼吸の間隔が変わらない。竜が翼を動かしても、首を傾けても、陽太の体の軸がぶれなかった。まるで最初からそこに立つと決めていたように——ただ、来るものを受け流しながら、竜の動作を積み上げていた。
すずが深雪の隣に来た。
「……三咲さん」すずが小さく言った。「さっきと、何か違いませんか」
深雪は頷かなかった。頷けなかった、というのが正確だった。
違う、とは思っていた。何が違うのかを言葉にしようとして、できなかった。陽太の背中から目が離せないまま、深雪は冷気を前へ流し続けた。
竜の首が、また傾いだ。
光が集まり始める——と思った瞬間、陽太の足が、ほんの半歩だけ動いた。前でも後ろでも横でもなかった。斜めに、内側へ。竜の首の傾きに合わせるように——違う。傾く前に、動いていた。次の動作を、ブレスが来る前に知っていた。
ブレスが走った。
陽太は、もうそこにいなかった。
深雪は奔流を冷気で受けながら、陽太が移動した先を目で追った。竜の首が戻り始める。硬直が来る——陽太の体が、そちらへ向いていた。向いている、というより、最初からそこを向いていた。
(読み切った)
深雪の胸の中で、何かが形を変えた。
攻略できる、という感覚だった。だが、同時に——遠い、という感覚だった。すずが見つけた硬直を、陽太はとっくに把握していた。自分が維持している足場の意味も、冷気の角度の意味も、陽太の中ではすでに計算の内にあった。深雪が今積み上げているものの全てを、陽太は一回り大きな枠組みの中に収めていた。
(……三咲、どこまで見えているんだ……?)
言葉が、声にならなかった。
すずが陽太を見ていた。深雪と同じものを見て、深雪と同じ場所で止まっているのかもしれなかった。その後ろ姿を、二人して眺めていた
広間の光が、変わった。
変わった、と気づいたのは深雪だった。壁の結晶が、それまでと違う脈動を始めていた。一定だったリズムが、速くなっている。壁だけではなかった。水面の下で、岩盤に埋まった結晶が光り始めていた。青白い光が、床の中から染み出すように広がっていく。
輝石竜が、息を吸った。
ただの呼吸ではなかった。広間全体の魔力が、竜の体へ向かって収束していく感触だった。鱗の内側の光が、脈打つたびに強くなっていく。溜め込んでいる。広間の結晶から、魔力を吸い上げている。
深雪の背筋が、冷えた。
これは、知らない動作だった。
※
竜が、魔力を溜め込んでいた。
初見の動作だった——深雪の緊張がすずにも伝わっていた。あれが何かは分からない。分からないが、今は考えている場合ではなかった。溜め込んでいる間は、竜は動かない。動かないなら、攻めの手を止める理由にはならない。陽太が、すでに動いていた。
踏み込んだ。走るのではなく、水面を滑るような歩幅で——それでも速かった。竜の首の付け根へ向かって、角度を変えながら近づいていく。すずは息を止めて、陽太の動きを目で追った。さっき見た「読み切った」後の動き。何かが違うと感じたあの背中の、続きだった。
剣が、首の付け根へ入った。
今度は弾かれなかった。
継ぎ目を、正確に抉っていた。青白い光が傷口から散り、輝石竜の首がわずかに——確かに揺れた。ダメージが入った。深雪が冷気を竜の足元へ走らせ、霜が足首の結晶に絡みついていく。竜の動きが、一拍だけ止まった。
その一拍に、すずは走った。
側面から、首の付け根とは逆の角度へ。翼が来る前に距離を詰める。剣を振り上げて——竜の翼端が、視界の端に動いた。来る。分かった。分かって、すずは翼が来る方向と逆へ体を投げた。翼が空振りする。着地した。水が跳ねた。膝が痛かったが、足は動いた。
「いいぞ、すず」
深雪の声が飛んだ。前を向いたままだった。すずを見ていなかった。それでも届いた。
(……噛み合ってる)
そう気づいたのは、次の攻撃の後だった。
竜の首が傾ぐ。深雪が冷気を前へ出す。すずが側面へ回る。陽太が硬直へ踏み込む——四つの動きが、別々に動いているのに、一つの流れになっていた。練習したわけではなかった。示し合わせたわけでもなかった。それでも、三人の動きが同じ方向を向いていた。
亀裂が、入った。
輝石竜の首の付け根に、細い線が走った。陽太の剣が通った跡だった。一撃では割れない。二撃でも割れなかった。だが、三撃目を入れた後に——結晶の層に、ひびが入っていた。光が、そこだけ乱れて漏れていた。
「……このままなら」
陽太の声だった。
すずは反射的に陽太を見た。竜と向き合ったまま、前を向いたまま——陽太は言った。
「倒せます」
静かな声だった。断言だったが、声を張っていなかった。感情が乗っていなかった——乗っていなかったが、それがかえって重かった。陽太がそう言うのだから、そうなのだろう、と思わせる種類の重さだった。
深雪が、一瞬だけ息を止めた。
すずには分かった。驚いているのだ。陽太があんな言葉を口にするとは思っていなかった——深雪の横顔が、ほんの一瞬だけ緩んで、また固まった。
すずも、少しだけ——ほんの少しだけ、胸が軽くなった。
倒せる。三人で。
竜の首が、また動き始めた。すずは構えを取った。次のブレスを待つ。硬直が来たら、陽太が入る。深雪が冷気で足を縫う。すずが側面を叩く。同じ流れを、もう一度。
四撃目が入った。
亀裂が、広がった。首の付け根の結晶が欠け、その下から、くすんだ青白い核のようなものが透けて見えた。すずは息を飲んだ。あそこだ。あそこが中心だ——あと一撃、正確に入れれば。
竜の首が傾いだ。ブレスが来る。深雪の冷気が前へ出た。壁になった。奔流が霧になって散った。硬直が来る——陽太が踏み込む。すずが側面から合わせる。首の付け根へ、剣が入った。亀裂が、さらに広がった。光が漏れ出している。もう少し。あと少しで——
(終わる)
そう思った、その瞬間だった。
※
広間全体が、光った。
光ではなかった。共鳴だった——深雪はそう理解した。壁の結晶が、天井の結晶が、水面の下の岩盤が、一斉に同じ振動を始めた。バラバラだったリズムが一点に収束して、広間そのものが一つの楽器のように鳴った。足の裏から、その振動が上がってくる。骨が、共鳴している。
竜が、翼を広げた。
最大まで。翼端の結晶の棘が光を弾いて、青白い閃光が放射状に走る。深雪は反射的に冷気を全面へ展開した。壁を作る。厚く、広く——間に合わない、と分かっていても、手を止めなかった。
爆裂が、来た。
音ではなかった。衝撃だった。冷気の壁がぶつかった瞬間、深雪の体が後方へ飛んだ。足が水面を離れた。背中が何かに当たった——岩盤だと気づいたのは、痛みが来た後だった。膝が折れる。視界が白くなる。耳の中で、何かが割れるような音がして、消えた。
静寂が来た。
水滴の音だけが、遠くから聞こえた。
深雪は目を開けた。天井が見えた。結晶の光が揺れていた。体を起こそうとして、腕が震えた。肺に空気が戻ってくる。一息、二息——やっと、膝をついて上半身を起こした。
広間が、変わっていた。
竜の体が、崩れていた。あの爆裂の反動で——首の付け根の亀裂が、さらに広がっていた。結晶の層が剥落し、その奥に、深い空洞のような暗がりが見えた。光が、そこだけ違う揺れ方をしていた。何があるのかは分からない。分からないが——あそこが、中心だという確信だけがあった。
すずが壁際にいた。爆裂の余波で吹き飛ばされていたが、立ち上がろうとしていた。
陽太が、広間の中央に立っていた。
立っていた。
深雪は目を疑った。あの爆裂の中心から、最も近い位置にいたはずだった。それなのに——陽太は立っていた。長衣の裾が焦げていた。肩口が裂けていた。それだけだった。膝が折れていない。呼吸が乱れていない。竜を見ている目が、変わっていない。
(なんで)
深雪の手が、水面に触れた。冷たかった。その冷たさだけが、今の深雪に現実を繋ぎ止めていた。
陽太が、ゆっくりと竜へ向き直った。
核が、露出している。竜の体が、爆裂の反動で硬直している。陽太の目が、その一点へ向いた。向いた、と分かった瞬間に——深雪の胸の中で、恐怖と信頼が同時に動いた。あいつは今、あそこに入ろうとしている。あの状態で。あの平然とした顔で。
「三咲さん!!」
すずの叫びが、広間に響いた。
陽太は振り返らなかった。
※
陽太が、動いた。
走った、という言葉が合わなかった。歩いた、という言葉も合わなかった。水面を踏む音が、一定の間隔で広間に落ちていく。急いでいるように見えなかった。それなのに——気づいたときには、竜との距離が縮まっていた。
すずは立ち上がりながら、その動きを見ていた。
最初の踏み込みの角度が、竜の攻撃を外した動きと同じだった。次の一歩の踏み場が、深雪が霜を敷いた位置と重なっていた。翼の死角を抜けるラインが、陽太が何度も使い続けた、あの最小限の躱し方と同じだった。
全部、繋がっていた。
この戦闘で積み上げてきた全てが——竜の動作の癖、翼の死角、霜の足場の位置、硬直のタイミング——それらが今、一本の線として陽太の体に入っていた。無駄がなかった。無駄がないから、速くなかった。速くなくても、止まらなかった。
(あの人は……ずっと、これを組み立ててたんだ)
すずの胸の奥で、何かが静かに落ちた。
竜の硬直が、まだ続いていた。爆裂の反動。体の内側で何かが崩れている。その時間を、陽太は一秒も余さず使っていた。
「終わらせます」
声が、届いた。
すずへでも、深雪へでもなかった。誰かに向けて言った言葉ではなかった——自分の中で何かを確認するような、そういう声だった。
※
陽太の目に、それが見えていた。
崩れた結晶の奥。暗がりの中心で、光が脈打ちながら乱れていた。制御を失いかけた魔力が、核の表面で渦を巻いている。狭間の地で見てきた光とは色が違う。だが、構造は同じだった——壊れかけた何かが、それでも中心であろうとしている、あの光。
見えている。
それだけで、十分だった。
「終わらせます」
声に出たのは、自分でも気づかなかった。誰かへの宣言ではなかった。ただ、確認だった。
剣を握る手に、力を込めた。力ではなかった——収束させた。この戦闘で積み上げてきたもの全てを、今この一手に。竜の動作の癖を読んだ時間。深雪の冷気の角度を計算した時間。すずが硬直を見つけた瞬間。亀裂を広げるために入れ続けた傷。それらが今、刃の上に重なっていく。
刃が、光を帯びた。
黄金律の光だった。狭間の地で幾度も致命を刻んできた、あの光だった。ここが狭間の地でないことは分かっていた。この竜が、かつて戦った輝石竜と同一の存在かも分からなかった。だが、構造は変わらない。核がある。その事実だけで十分だった。
踏み込んだ。
霜の足場を蹴り、竜の首の付け根へ向かって体を沈める。翼が動こうとした——硬直が、それを止めた。首が戻ろうとした——亀裂が、その動きを鈍らせる。全ての積み重ねが、この一瞬のために機能していた。
剣が、暗がりへ入った。
手応えがあった。
結晶を割る感触ではなかった。もっと奥にある命へ、刃が届いた感触だった。狭間の地で何度も知ってきた、あの感触。核が、砕けた。
※
すずには、何が起きたのか分からなかった。
音がした。
結晶の音でも、水の音でも、金属の音でもなかった。広間全体が一瞬だけ息を止めるような、そういう音だった。竜の体の内側で、何かが割れた。割れた音が、水面を伝って、すずの足の裏まで届いた。
光が、溢れた。
首の付け根から、青白い光が噴き出した。制御を失った光だった。一定だった脈動が乱れて、乱れて——止まった。
竜が、揺れた。
首が、ゆっくりと下がっていく。翼が、力を失って広間の水面へ落ちた。飛沫が上がった。結晶の音が、広間中で鳴り響いた——キン、キン、キン、と連鎖して、遠くなっていく。鱗が剥落し始めた。光が散り、霧になって、広間の空気に溶けていく。
巨大な体が、崩れていった。
すずは、動けなかった。
立っていた。膝が痛い。肩が痛い。体中が重かった。それでも足が動かなかったのは、痛みのせいではなかった。目が離せなかったのだ。あの動きから。あの光から。崩れていく竜から——そして、その前に立っている陽太の背中から。
長衣の裾が、焦げていた。肩口が、裂けていた。
それだけだった。
※
静かだった。
広間が、静かだった。さっきまであれほど鳴り響いていた結晶の音が、もうない。水面が、揺れを失っていく。飛沫の跡が広がって、また平らになっていく。竜がいた場所には、輝石の欠片と、霜の痕だけが残っていた。光の残滓が水面に溶けて、青白い色が薄く、薄く、消えていく。
深雪は、膝をついたまま動いていなかった。
立てる、とは思っていた。立とうとすれば立てる。だが、体が動かなかった。腕が震えていた。冷気を出し続けた反動が、今になって全身に戻ってきていた。指先の感覚が、まだ戻っていない。
陽太が、竜のいた場所に立っていた。
背中を向けている。水面を見ている——いや、水面の下を見ているのかもしれなかった。何かを確かめるような、静かな目だった。深雪には、その横顔が見えなかった。見えなかったが、呼吸が乱れていないことは分かった。肩が動いていない。立ち方が変わっていない。
あの爆裂を浴びて。
あれだけの戦闘を経て。
それでも、陽太は変わっていなかった。
深雪の胸の中で、何かがゆっくりと動いた。恐れだった。信頼だった。その二つが同じ場所から来ているのか、別々のものなのか、深雪には分からなかった。分からないまま、二つは深雪の中で混ざって、どちらでもない何かになっていた。
水の音がした。
すずが、壁から離れて歩いてくる音だった。足を引きずっていない。ゆっくりだったが、歩けていた。深雪はすずを目で追った。すずは竜がいた場所を通り過ぎて、輝石の欠片を一つ踏み、立ち止まった。
広間を、見回していた。
天井を見た。水面を見た。欠片の散らばった岩盤を見た。それから、陽太の背中を見た。それから、深雪を見た。
すずの口が、少し開いた。
何かを言おうとして、言葉が出なかった。もう一度口を開いて、また閉じた。三度目に、やっと声が出た。
「……終わった……んだ……」
実感を探しているような声だった。終わった、という事実を、声に出すことで確かめようとしているような。深雪には、その感覚が分かった。自分も今、同じ場所にいた。
陽太が、振り返った。
二人を見た。深雪を見て、すずを見た。何かを確認する目だった。怪我の具合を、疲労の深さを——そういうものを、静かに読んでいた。感情は見えなかった。それでも、その目が二人の上を動いた、という事実だけは分かった。
「お疲れ様でした」
陽太は言った。
それだけだった。称賛でも、安堵でも、感傷でもなかった。ただ、終わったという事実の確認だった。
深雪は、その言葉を聞いて、やっと膝から立ち上がった。腕がまだ重かった。足が水面を踏む感触が、どこか遠かった。それでも、立てた。
陽太の背中が、また遠かった。
勝った。三人で、倒した。それは本当だった。本当だったが——深雪の中で、何かがまだ動いていた。あいつは今、何を感じているのか。あの「お疲れ様でした」の奥に、何があるのか。問うても、たぶん答えは返ってこない。返ってきたとしても、深雪には届かないかもしれない。
水面が、静かに揺れていた。
輝石の欠片が、光を失って、ただの石として沈んでいく。
※
広間の出口まで戻ったとき、三人はそこで足を止めた。
誰かが「ここで休もう」と言ったわけではなかった。ただ、足が止まった。アーチの手前、結晶の光が薄くなる場所。水面はここまで続いていたが、通路の石畳が見えていた。すずは壁に背をつけて、ゆっくりと座り込んだ。膝を抱えるでもなく、ただ壁に預けた。深雪が隣の壁に寄りかかる。陽太は少し離れて、広間の方向を向いて立っていた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
すずは天井を見上げた。結晶の光が、揺れていた。さっきよりずっと穏やかな揺れだった。脅威のない光だった。同じ光なのに、こんなに違って見えるのか、とすずは思った。
体中が痛かった。肩が、膝が、脇腹が——あちこちから鈍い声が上がってくる。だが、それよりも重かったのは、疲れではなかった。頭の中に、まだ戦闘の映像が残っていた。竜の首が傾ぐ動き。爆裂の衝撃。陽太の剣が暗がりへ入った瞬間の、あの音。
消えない。
目を閉じると、また見える。
(……こういうのが、ダンジョン攻略ってことなのかな)
三年の経験で、すずはそれなりのものを見てきたつもりだった。ボスも、変異魔物も、初見の脅威も。だが今日のそれは、規模が違った。恐怖の密度が違った。そして——横にいた人間の、次元が違った。
深雪が、息を吐いた。
小さな音だった。すずは深雪を見た。深雪は壁に頭をつけて、天井を見ていた。目が、どこか遠い場所を見ていた。戦闘の疲労だけではない、という顔だった。何かを抱えている顔だった。
すずには、分かった。
センターからの任務書。三咲陽太の評定。記録して、報告する義務。あの竜との戦闘を、あの光を、あの動きを——全部、正直に書いたら、どうなるか。
(深雪先輩は、それを考えてる)
報告すれば、陽太の異質さが記録に残る。センターが動く。今以上の監視が入る。あるいは、もっと別の何かが。深雪はそれを知っていて、どう書くかを——いや、書くかどうかを、今考えている。
すずは膝の上で手を組んだ。
評定者として来た。それは本当だった。今日見たことを記録する義務がある。それも本当だった。だが——今日この広間で、すずが見たものは何だったか。
見たことのない竜と戦った。恐怖の中で、観察することを覚えた。連携が噛み合う瞬間を、改めて体で知った。そして、陽太が竜の中心を穿つ、あの一撃を見た。
あれを、センターの書式に収めることができるか。
できない、とすずは思った。できないし、したくなかった。
「深雪先輩」
声が出た。
深雪が、天井から視線を下ろしてすずを見た。
「……事情が、あるんですよね」
深雪の目が、わずかに動いた。答えなかった。答えないことが、答えだった。
「私にも協力させてください」
すずは言った。
言ってから、少しだけ怖くなった。軽い言葉ではなかった。センターへの報告義務を、意図的に曲げることになるかもしれない。評定者としての立場を、自分から手放すことになるかもしれない。それでも——今日この広間で一緒に戦ったことの方が、すずには重かった。
深雪が、すずを見ていた。
何か言おうとして、やめた。もう一度、すずを見た。それから、視線を前へ向けた。
「……ありがとう」
小さな声だった。感謝というより、受け取った、という声だった。すずはそれで十分だった。
陽太が、二人の方を向いた。
何も言わなかった。ただ、見た。すずと目が合った。すずは少し身構えて——陽太は、また広間の方へ視線を戻した。何事もなかったように、静かに立っていた。
(……分かってたんだろうな、たぶん)
すずには、もうそれが不思議ではなかった。全部分かっていて、何も言わない。それが、あの人の在り方なのだと——今日一日で、すずはそれを体で知った。
結晶の光が、揺れていた。
穏やかな、ただの光だった。
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