褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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戦闘のないお話は難しい……。


第十一話「在るべき空白」

 ダンジョンの出口は、いつも唐突だった。

 

 一歩前が石畳で、次の一歩がアスファルトになる。それだけのことだが、体はいつも少し遅れてついてきた。深雪は出たばかりの外気を肺に入れた。地上の空気は、ダンジョン内の冷えた石の匂いとは違った。排気と夜の湿気が混ざった、どこにでもある都市の空気だった。

 

 廃ビルの入口を抜けると、夜の街が広がっていた。

 

 橙色の光が雲の低い腹を染めている。電柱が等間隔に並んで、遠くで信号が切り替わる。電車の音が、建物の向こうから聞こえた。蒲田の夜は、いつもこうだった。ダンジョンの中で何が起きても、外へ出れば何事もなかったような顔をして、街が続いている。

 

 すずが深く息を吐いた。

 

「……出た」

 

 それだけだった。感想でも報告でもなく、ただ確認だった。深雪も黙って頷いた。陽太は二人のやや後ろに立ち、特に何も言わなかった。

 

 三人は廃ビルから数歩離れて、足を止めた。

 

 すずは肩を回した。左肩に、まだ鈍い痛みが残っている。翼に吹き飛ばされたときの衝撃が、そこだけ時間をかけて消えていた。深雪は長衣の裾を見下ろした。霜の痕がついていた。指先の冷えが、まだ戻り切っていない。

 

 それで十分だった、と深雪は思った。

 

 戦闘の後の静けさは、いつもこういう質だった。痛みと冷えと疲労が混在して、それでも三人とも立っている。それだけで、十分だった。

 

 風が、なかった。

 

 深雪がそれに気づいたのは、理由がなかった。ただ、何かが視界の端を動いた。

 

 建物の隙間、電柱の脇——そこに、何かが漂っていた。明確な形のある物ではなかった。光の粒でもなかった。もっと薄い、黄みがかった何かが、ゆっくりと落ちていく。葉のような、何かだった。

 

 ただ一枚だけ。

 

 風もなく、音もなく、ただ夜の空気の中を、それは静かに落ちていった。アスファルトに着くより前に、深雪の目はそれを見失った。

 

(見間違い、か)

 

 目が疲れているのだと、深雪は判断した。ダンジョン内の結晶の光を長時間追い続けた後では、視界が妙なものを映すことがある。それだけのことだった。

 

「……何か見えました?」

 

 すずが、深雪の視線の方向を追いながら言った。

 

「いや」深雪は答えた。「何でもない」

 

「黄色っぽい何かが落ちたような……」

 

 すずは首を傾げた。それ以上は追わなかった。深雪と同じ結論に至ったのか、あるいは深く考えなかったのか——すずは「まあいいか」と小さく言って、肩の痛みをもう一度確認するように左腕を動かした。

 

 二人の会話が落ち着いた後に、深雪はふと陽太を見た。

 

 陽太は、少し離れた場所に立っていた。深雪やすずが歩みを止めた方向ではなく、一歩だけ横へ外れた場所だった。視線が、深雪には分からなかった。街の方を向いているようで、街を見ているのではない気がした。

 

 視線の先に、何があるのか。

 

 深雪には見えなかった。何も見えないのに、陽太の目は何かを確認するような静けさを持っていた。

 

 一秒か、二秒か。

 

 陽太の視線が、やがて前へ戻った。深雪の方を向くわけではなかった。ただ、何かを確認し終えた、という動きだった。表情は変わらなかった。足が、再び歩き始めた。

 

「センター、寄ってから戻りますか」

 

 すずが、深雪に向かって言った。

 

「そうだな」深雪は答えた。「報告書を出さないといけない」

 

「あ、そっか。……私も書くことになるんですよね、今日のこと」

 

 すずは少しだけ言いよどんだ。深雪はその意味を理解した。何をどこまで書くか——その問いは、まだ答えが出ていない。出ていないまま、センターへ向かうことになる。

 

「まず行こう」

 

 深雪はそれだけ言った。

 

 三人は夜道を歩き始めた。橙の光の中を、三つの影が並んで伸びていく。深雪の胸の奥に、小さなざわつきが残ったままだった。

 

 葉のような何かが落ちていったあの場所を、深雪はもう振り返らなかった。

 

 陽太は何も言わなかった。

 

 ただ歩いた。二人と同じ速度で、二人よりも少しだけ静かに。

 

 

 コンビニは、夜の街に白く浮かんでいた。

 

「あ、ちょっと待ってください」

 

 すずが足を止めた。道沿いのコンビニを指さしている。

 

「寄っていいですか? 喉渇いて」

 

「構わない」

 

 三人は並んで自動ドアをくぐった。

 

 自動ドアが開いて、冷えた空気が出てきた。深雪は一歩踏み込みながら、蛍光灯の白さに目を細めた。ダンジョンの結晶の光とは違う、均一で無機質な明るさだった。棚と棚の間が整然と並んで、商品が几帳面な顔をして並んでいる。何も脅かさない場所の、何も脅かさない光だった。

 

 すずが先に入って、飲み物のコーナーへ向かった。

 

「深雪先輩、何飲みますか? おごりますよ、今日お世話になったので」

 

「いらない」

 

「えー。……スポーツ飲料とかどうですか、体力使ったし」

 

「気持ちだけ受け取る」

 

 すずはわずかに口をとがらせたが、それ以上は押さなかった。自分用の飲み物を選びながら、棚の前で一人うなっている。深雪は奥へ進んだ。弁当を買うかどうか考えて、やめた。センターへ寄ってから、それから考えればいい。

 

 陽太は、雑誌棚の前で立っていた。

 

 気づいたのは、すずが「三咲さんは何か飲みますか」と声をかけたときだった。陽太は返事をしなかった。聞こえていないのではなかった——すずの声に、肩がわずかに反応した。それでも視線が動かなかった。

 

 深雪は陽太の方を見た。

 

 雑誌棚には、週刊の漫画誌が何種類か並んでいた。陽太はそのうちの一冊を手に取っていた。手に取って、表紙を見ている。ページを開く様子はなかった。表紙だけを、何かを確かめるように見ていた。それから隣の棚へ目を移した。また別の一冊を取って、表紙を確認する。

 

 戻した。

 

 また別のものを取った。

 

 深雪はそれを見ていた。陽太が何をしているのか、最初は分からなかった。三冊目を手に取って、陽太の動きが少しだけ止まった。止まって、表紙を見て——静かに棚へ戻した。

 

 表情は動いていなかった。

 

 それが、かえって深雪の目を引いた。

 

「三咲さんって、漫画読むんですか?」

 

 すずが飲み物を抱えて近づきながら言った。無邪気な声だった。深雪はすずの方を一瞬見て、また陽太へ戻した。

 

「……読んでいました」陽太は言った。「昔」

 

「今も続いてるやつですか? 何の作品か分かります?」

 

「いえ」

 

 短い答えだった。それ以上を言う気がないのか、言えないのか——深雪には判断できなかった。陽太は手にしていた三冊目の雑誌を棚に戻して、少しだけ棚全体を見渡した。

 

「……続きが気になっていたので」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

 すずが、何か言おうとして止まった。深雪も、返す言葉を探した。見つからなかった。

 

 陽太が探していたものは、棚のどこにもなかった。なぜないのかは、深雪には分からない。陽太が何を探していたのかも、分からない。ただ、表情ひとつ変えずに棚から離れたあの動きが、深雪の目にまだ残っていた。

 

 胸の中で何かが動いた。痛む、という感触ではなかった。もっと静かな、じわりとした重さだった。

 

 すずが「じゃあお会計してきますね」と言って、レジの方へ向かった。少し急ぎ足だった。

 

 深雪は正面を向いたまま待った。

 

 戻ってきたすずは、飲み物を一本、陽太の方へ差し出した。

 

「……これ、どうぞ」

 

 先ほどの明るさとは少し違う声だった。気遣いの色が滲んでいた。何か言いたいことがあって、それでも言葉にはしなかった——そう聞こえた。

 

 陽太は飲み物を見て、すずを見た。一拍おいて。

 

「ありがとうございます」

 

 受け取った。それだけだった。

 

 深雪はすずの横顔を見た。それから、また陽太へ目を戻した。陽太は飲み物を手に持ったまま、動いていなかった。雑誌を見ているのか、見ていないのか。棚を眺めているようで、棚の向こうの何かを見ているようだった。

 

「……三咲」

 

 深雪は声をかけた。自分でも、何を言うつもりだったのか分からなかった。

 

 陽太が振り向いた。

 

「はい」

 

 静かな目だった。困っている顔でも、傷ついている顔でもなかった。ただ、こちらを見ていた。

 

 深雪は一秒、返す言葉を探した。

 

「行こう」

 

 それだけ言った。

 

 陽太は頷いた。深雪は先に歩き出した。陽太の足音が、少し後ろについてくる。

 

 白い光の中を通り過ぎて、自動ドアを抜ける。夜の空気が、また戻ってきた。深雪は前を向いたまま歩いた。

 

 雑誌棚の前での陽太の動きが、頭の中に残っていた。三冊取って、三冊戻した。表情を変えずに、ただそれだけをして、離れた。

 

 見つからなかった作品の名前を、深雪は知らない。

 

 知らないまま、それが何だったのかを聞けなかった。

 

 

 センターの記入スペースは、蛍光灯の下に長テーブルが並んだだけの場所だった。

 

 ダンジョン帰還後の報告書は一枚だけではなかった。探索記録、魔物との交戦記録、異常の有無——項目ごとに用紙が分かれていた。深雪は慣れた手つきで一枚目を取り、ペンを走らせた。日付、入場時刻、退場時刻。帰還者の氏名。

 

 氏名の欄に、三人分を書く。

 

 九条深雪。藤宮すず。三咲陽太。

 

 書いてから、深雪は次の用紙に手を伸ばした。緊急連絡先の届け出だった。ダンジョン帰還のたびに提出を求められる書式ではなかった。今回は新規同行者がいるため、追加で記入が必要だった。

 

 すずはすでに書き始めていた。家族の名前と電話番号を、慣れた様子で埋めていく。深雪も自分の欄を記入した。母親の名前。実家の電話番号。探索者になってから変わっていない。

 

 陽太の手が、動いていなかった。

 

 深雪が気づいたのは、自分の欄を書き終えたときだった。隣を見ると、陽太はペンを持ったまま用紙の上に置いていた。じっと、欄を見ている。

 

「……白紙で構いません」

 

 陽太は言った。

 

 深雪は一拍おいた。

 

「いや、構わないわけないだろ」

 

「書く内容がないので」

 

「……それは」

 

 深雪は続けようとして、止まった。書く内容がない。それは言い訳でも、言い逃れでもなかった。ただの事実だった。

 

 すずが二人の方をちらりと見て、また自分の用紙に視線を戻した。何も言わなかった。

 

 陽太はもう一度用紙を見た。ペンの先を欄に近づけて——止まった。名前の欄に何を書くか、続柄に何を書くか。電話番号の欄が、白いままだった。

 

 深雪は正面を向いた。

 

 自分の控えを眺めながら、考えた。考えた、というより——気づいたら、ペンが動いていた。

 

 陽太の用紙を引き寄せて、緊急連絡先の欄に、自分の名前と電話番号を書いていた。続柄の欄には「同僚」と書いた。

 

 書いてから、深雪は自分がしたことに気づいた。

 

 陽太が、深雪の手元を見ていた。深雪は用紙を陽太の前に戻した。視線は合わせなかった。

 

「……それで出せ」

 

 それだけ言った。

 

 陽太は用紙を見た。一拍、また一拍。

 

「……ありがとうございます」

 

 静かな声だった。感謝、というより確認に近い声だった。深雪は小さく頷いて、次の用紙へ手を伸ばした。

 

 すずが、こちらを見ていた。

 

 目が合った瞬間、すずは素早く視線を逸らした。口元が、何かをこらえているような形をしていた。

 

「……何だ」

 

「いえ」すずは言った。「何でもないです」

 

 声が少しだけ上ずっていた。深雪は一秒すずを見て、それ以上追わないことにした。

 

 三人は用紙を揃えて、受付へ向かった。

 

 職員が用紙を受け取り、確認のために目を通した。陽太の緊急連絡先欄で、一瞬だけ視線が止まった。

 

 止まって、何も言わなかった。

 

 スタンプを押して、控えを返した。それだけだった。

 

 深雪は控えを受け取りながら、自分が書いた「同僚」という文字を思った。間違ったことは書いていない。正しいことしか書いていない——それは分かっていた。

 

 それでも、胸の中に小さな何かが残った。何と呼べばいいのか、深雪にはまだ分からなかった。

 

 

 水瀬梓が現れたのは、受付から戻ってすぐのことだった。

 

 廊下の奥から歩いてくる足音に、深雪は気づいていた。顔を上げると、水瀬がクリップボードを手に持ち、三人の方へ向かってくる。

 

「お疲れ様です。少し、よろしいですか」

 

 声は穏やかだった。それが深雪には分かった——穏やかな声のときほど、話の中身が穏やかでない。

 

 四人は廊下に面した小部屋へ移った。面談室と呼ぶほどの広さはなかった。テーブルと椅子が四脚。窓はなかった。

 

 水瀬が椅子を引いて、深雪の正面に座った。すずが深雪の隣に座る。陽太は椅子を引かず、すずの後ろに立ったままだった。

 

 水瀬はクリップボードを一度テーブルに置いて、書類へ目を落とした。すぐには口を開かなかった。何かを確認しているのか、言葉を選んでいるのか——深雪には判断がつかなかった。

 

「今日の報告書、拝見しました」

 

 一拍おいてから、水瀬は言った。

 

「ボス級の変質魔物。水晶のような輝石で全身を覆われた大型個体ですね。三人での交戦、撃破。」

 

 書類を読み上げているというより、内容を確かめながら言葉を選んでいる——そういう読み方だった。

 

「はい」

 

「三咲陽太さんの記録欄に、また"計測不能"が記載されています」

 

 深雪は答えなかった。水瀬も、答えを待っていなかった。

 

 水瀬は一度、小さく息を吐いた。書類から目を上げて、深雪を見た。

 

「……上層部からの確認事項です」

 

 言いにくそうだった。言いにくそうにしながら、それでも言葉を続けた。

 

「"計測不能"という記録が繰り返されることで、三咲さんのランク評定が進まない。評定が進まなければ、センターとしての管理区分が定まらない。……これについて、九条さんからの説明を求めたい、という話です」

 

「計測不能は事実です。事実を記録するのが報告書の役割だと思っています」

 

「そうですね」

 

 水瀬は否定しなかった。ただ、書類をめくった。

 

「一方で、センターとしては——評定の定まらない探索者が、ボス級変質魔物と交戦した記録を積み上げることに、懸念を示している部署があります。管理上の問題、という整理です」

 

「管理上の問題」

 

「はい」

 

「三咲は今日、仲間を守って戦いました。それは記録に書いた通りです」

 

 水瀬の目が、一瞬だけ動いた。深雪の言葉を受け取った動きだったが、表情は変わらなかった。

 

「九条さん」

 

「はい」

 

「……扱いやすい形に、という表現が適切かどうか分かりませんが」

 

 水瀬は言葉を選んだ。選びながら、クリップボードの端を指先で軽く押さえた。

 

「上層部は三咲さんについて、センターの枠組みに収まる形での再評定を希望しています。測定方法を変えるか、あるいは同行義務の継続を条件として——」

 

「それは三咲本人の意思を確認してからの話です」

 

 深雪は遮った。水瀬が口を閉じた。

 

「本人が望まない形での評定変更を、センターが一方的に決定できるとは思えません。少なくとも、今日この場でそれに合意するつもりはない」

 

 水瀬はしばらく黙った。クリップボードの端を、指先で一度だけ叩いた。

 

「……九条さんのAランク維持についても、今期の実績は上層部が注視しています」

 

「それと今の話は、別の問題です」

 

 すずが、深雪の袖をわずかに引いた。深雪は引かれた感触を受け取って、それでも前を向いたままにした。

 

「深雪先輩」

 

 すずが口を開いた。水瀬へ向き直って、ゆっくり言った。

 

「私は今日、評定者として同行しました。記録にも書きましたが、三咲さんの行動は——少なくとも私が見た限りでは、チームの安全を優先した判断の連続でした。それを"管理上の問題"という言葉でまとめることに、評定者として同意はできません」

 

 すずの声は、明るくはなかった。だが、揺れてもいなかった。

 

 水瀬はすずを見た。一秒、二秒。

 

「……藤宮さん」

 

「はい」

 

「あなたの評定記録は、上層部も確認します」

 

「それは承知しています」

 

 静かな沈黙だった。水瀬の目が、深雪へ戻った。深雪は視線を受け止めた。

 

 一歩、足音がした。

 

 陽太だった。

 

 すずの後ろから、テーブルの横へ出て、水瀬と深雪の間の空間へ、ゆっくりと一歩踏み込んだ。走らなかった。急がなかった。水瀬がその動きを目で追った。

 

 部屋の空気が、少しだけ変わった。

 

「……確認したいのですが」

 

 陽太は水瀬を見た。静かな目だった。怒っている目ではなかった。だが、何かを測っている——そういう目だった。

 

「あなた達は、敵ですか」

 

 水瀬の表情が、止まった。

 

 すずが息を飲んだのが、深雪には分かった。深雪自身の胸の中でも、何かが急に動いた。敵か。その問いを、陽太はためらいなく口にした。感情的な言葉ではなかった。責めている言葉でもなかった。ただ、知りたいことを、もっとも直接的な言葉で確認した——そういう声だった。

 

 水瀬は陽太を見た。視線を外さなかった。外せないのかもしれなかった。

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 

 水瀬の目が、深雪へ動いた。判断を委ねる目だった。この問いにどう答えるかを、水瀬は深雪に返した。

 

 深雪は、陽太を見た。陽太は深雪の方を向いた。確認するような目だった。怖がっていなかった。追い詰めているつもりもないのだろう。ただ、答えを待っている。

 

「……違う」

 

 深雪は言った。水瀬へ向けた言葉ではなかった。陽太へ向けた言葉だった。

 

「センターは管理する側だ。私たちの邪魔をしたいわけじゃない」

 

 陽太は深雪を見た。一拍。

 

「分かりました」

 

 それだけ言って、すずの後ろへ戻った。足音が、静かに止まった。

 

 水瀬が、小さく息を吐いた。

 

 長い沈黙の後、水瀬はクリップボードを胸に引き寄せた。

 

「……今日のところは、以上です」

 

 立ち上がりながら、水瀬は深雪を見た。

 

「九条さん」

 

「はい」

 

「判断を誤らないでください」

 

 前にも聞いた言葉だった。今日の声には、以前とは少し違う質があった。命令でも、警告でも、完全にはなかった。深雪には、それがかえって重く届いた。

 

 水瀬は部屋を出た。足音が廊下を遠ざかって、消えた。

 

 すずが、息を吐いた。

 

「……終わった」

 

 深雪は小さく頷いた。終わった、とは言えなかった。まだ何かが、胸の中で動いたままだった。三人は少しの間、その場に立っていた。誰も、すぐには動かなかった。

 

 

 センターを出ると、夜が戻ってきた。

 

 入ったときと同じ夜だった。街の音も、空の色も、何一つ変わっていなかった。センターの中でどれだけのことがあっても、外はこうして続いている。深雪には、それが今夜に限って、少し腹立たしかった。

 

 すずが伸びをした。両腕を上へ伸ばして、息を長く吐いた。

 

「……疲れました」

 

「お疲れ」

 

「いや深雪先輩もお疲れですよ。あんな部屋に呼ばれて、よく平然としてられますね」

 

「平然とはしていない」

 

「そう見えましたけど」

 

 深雪は答えなかった。すずは腕を下ろして、三人分の夜道を見渡した。

 

「私、こっちの方向なんで。……今日は、ありがとうございました」

 

 すずは深雪を見て、それから陽太を見た。

 

「三咲さんも。あの、さっきの——」

 

 すずは言葉を探した。「敵ですか」という問いのことを言おうとして、言葉が見つからなかったのかもしれなかった。

 

「……びっくりしましたけど、助かりました。たぶん」

 

「たぶん、か」深雪は言った。

 

「たぶん、です」

 

 すずは笑った。少し疲れた笑い方だったが、本物だった。陽太は小さく頷いた。それだけだった。

 

「じゃあ、また」

 

 すずは手を振って、夜道の向こうへ歩いていった。角を曲がって、見えなくなった。

 

 深雪と陽太の二人が、残った。

 

 

 しばらく、二人は並んで歩いた。

 

 どちらが先に歩き始めたのか、深雪には分からなかった。気づいたら、足が動いていた。陽太が隣にいた。歩幅が合っていた。

 

 夜道は静かだった。人通りが少なかった。遠くで信号が切り替わる音がして、また静かになった。

 

 深雪は前を向いたまま歩いた。今日一日のことが、頭の中でまだ動いていた。ダンジョンの水面。竜の首が傾ぐ動き。コンビニの雑誌棚。緊急連絡先の白い欄。水瀬の声。陽太の「敵ですか」。

 

 多すぎた。整理する気になれなかった。

 

 ただ歩いた。

 

「……三咲」

 

 声が出たのは、交差点を渡り終えたあたりだった。自分でも、何を言うつもりだったのか分からなかった。

 

 陽太が、深雪を見た。

 

「今日、泊まるところは」

 

 陽太は少し間を置いた。

 

「……帰る場所、まだ決めていません」

 

 静かな声だった。困っている声ではなかった。事実を述べる声だった。それだけのことを、それだけの言葉で言った。

 

 深雪は前を向いたまま、歩き続けた。

 

 胸の中で、何かが動いた。重い、という感触ではなかった。もっと静かな、じわりとしたものだった。今日何度も感じた、あの感触だった。コンビニの棚の前でも、緊急連絡先の欄の前でも——同じ場所が、また動いた。

 

 帰る場所が、まだ決まっていない。陽太はそう言った。

 

 「ない」とは言わなかった。「まだ」と言った。その一字が、深雪の頭の中に残った。意味を考えようとして、考える前に次の街灯が来て、影の向きが変わった。

 

 数歩、歩いた。

 

 深雪は足を止めた。陽太も、一歩遅れて止まった。

 

「……センターの近くに、探索者向けの宿泊施設がある」

 

 深雪は言った。自分でも、いつそう決めたのか分からなかった。

 

「この後、案内する」

 

「分かりました」

 

 陽太は頷いた。それ以上は言わなかった。感謝でも、安堵でも、何でもなかった。ただ受け取った、という頷きだった。

 

 深雪はまた歩き始めた。陽太の足音が、隣に戻ってくる。

 

 二人の影が、街灯の光の中で並んで伸びた。少し進むと、次の街灯に差し掛かって、影の向きが変わった。また伸びた。また変わった。

 

 深雪は前を向いたまま歩いた。

 

 陽太の言葉が、頭の中にあった。ない、とは言わなかった。まだ、という言葉がついていた。

 

 それが何を意味するのかを、深雪はまだ考えていなかった。考える前に、夜道が続いていた。




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