楽しんでいただけたら幸いです。
探索者向けの宿泊施設は、センターから歩いて十分ほどの場所にあった。
深雪が「ここだ」と言って足を止めたとき、陽太には建物の外観だけでは何も分からなかった。コンクリートの壁、自動ドア、受付の蛍光灯——知識としては理解できても、体がその組み合わせに追いついていなかった。
手続きは深雪がほとんどやった。陽太は横に立って、求められたときだけ返事をした。
部屋は三階だった。廊下を歩いて、ドアの前で立ち止まった。
「一人で大丈夫か」
深雪が言った。廊下の蛍光灯の下で、表情は読みにくかった。確認しているのか、気にしているのか——陽太には判断できなかった。
「はい」
「食事は、一階に自販機がある。明日の朝、センターに来られるか」
「大丈夫です」
深雪は一拍おいた。すぐには踵を返さなかった。廊下の端に視線をやって、また陽太を見た。
「……何かあれば、連絡しろ」
それだけ言って、歩き始めた。足音が廊下を遠ざかって、エレベーターの音がして、消えた。
陽太はドアを開けた。
部屋の中は、静かだった。
スイッチを入れると、天井の蛍光灯がついた。清潔で、狭くも広くもない部屋だった。ベッド、机、窓、小さな洗面台。陽太は部屋の中央に立って、一度だけ全体を見渡した。脅威がないことを確認する習慣が、そうさせた。
脅威はなかった。
ベッドの端に腰を下ろすと、スプリングが沈んだ。帰還してからすでに何度か経験した感触だったが、慣れなかった。慣れるための基準が、体の中にないのかもしれなかった。
天井を見た。
白かった。染みも、亀裂も、何もなかった。狭間の地の天井は、いつも何かがあった。崩れかけた石組み、霜の結晶、亡者の爪痕、篝火の煤。何もない天井を見上げることが、こんなに情報として少ないとは、陽太は知らなかった。
眠ろうとした。やり方が分からなかった。
横たわることは分かった。目を閉じることも分かった。ただ、その先がなかった。狭間の地では眠ることは回復の手段だった。祝福のそばに座って意識を手放せば、次に目を開けたときには消耗が戻っていた。ここにはその感覚がなかった。「安全な場所にいる」という信号が、体の中から出てこない。
天井が、白いままだった。
ジャケットのポケットから控えを取り出して、蛍光灯の光の下で見た。センターで受け取った、薄い紙だった。
緊急連絡先の欄に、深雪の名前があった。
九条深雪。その下に、電話番号。続柄の欄には「同僚」とあった。間違いではなかった。正しかったが、なぜ深雪がそこに書いたのかが、陽太には分からなかった。
狭間の地では、誰かを頼ることがなかった。
共に戦った者はいた。ゴッドリックの城でも、赤獅子城の背後に広がる砂丘でも、同じ敵を前にして剣を振るった者がいた。だがそれは、向かう先が同じだっただけのことだった。状況を切り開くのは、いつも陽太一人だった。だから、誰かの名前を緊急連絡先に書くことも、書いてもらうことも——その発想が、陽太の中に最初からなかった。
ここでは、そうではない。
陽太はそのことを、今夜初めて、ゆっくりと確かめた。控えをポケットに戻して、仰向けに横たわった。白い天井だけが、変わらずそこにある。眠り方が、まだ分からなかった。蛍光灯を消すことを、しばらく後で思い出した。
部屋の灯りが落ちた後も暗くなったとは言えなかった。カーテンの向こうから橙色の光が滲んでいた。街灯の光だった。狭間の地には、こういう光がなかった。あちらの光は、いつも揺れたり、揺らいだり、形を変えたりした。だがこの橙色は、揺れなかった。動かなかった。ただそこにあり続けた。
陽太はベッドから起き上がり、カーテンに近づいて指先でわずかに開けた。
ビルの隙間に、街灯が並んでいた。窓の下の道路をまだ車が通り、遠くに電車の明かりが見えた。橙と白と赤が、動いては消えた。狭間の地の夜とは、何もかもが違った。あそこの夜は暗かった。篝火から離れれば、足元さえ見えなくなることがあった。ここの夜は、暗くならなかった。
カーテンを開けたまま、陽太は動かなかった。
ポケットの中に控えがあった。取り出しはしなかった。ただ、そこにあることだけを確かめた。深雪が緊急連絡先の欄に自分の名前を書いた——その行動が、陽太の中でまだ形になっていなかった。
書類を引き寄せ、迷いなくペンを走らせ、陽太の前に戻した。それだけの動作だった。説明もなく、理由もなく。ただ、そうした。なぜ自分に対してそうしたのか。なぜ深雪がその欄を埋めたのか。そのどちらも、陽太には結びつかなかった。
理解できないまま、控えの紙の存在だけが胸のどこかに残った。処理しきれない情報が、体のどこかで引っかかっている——そんな感覚だけがあった。
陽太はゆっくりと顔を上げた。
街を見た。橙色の街灯が、ビルの合間を煌々と照らしている。あちらの光は揺れた。この光は揺れない。そのことが、なぜか長く目の中に残った。
カーテンを閉じてベッドに戻った。眠りは、まだ来なかった。
※
食堂は一階の奥にあった。
朝の七時を少し過ぎた時間だった。陽太は階段を下りて、食堂の入口で一度足を止めた。中から話し声が聞こえた。複数の人間の声が重なって、食器の音と混ざっていた。
ありふれた、生活の音だった。
テーブルがいくつか並んでいた。探索者とおぼしき人間が、三組ほどいた。二人組が一つ、四人のグループが一つ、そして静かに食べている男が一人。陽太はトレーを手に取って、端のカウンターへ向かった。白米、味噌汁、焼き魚、小鉢。並べ方に迷った。迷っていると、後ろに人が来た。陽太は端に寄って、場所を譲った。
「ありがとうございます」
声をかけられた。陽太は振り返った。二十代半ばほどの男だった。探索者の装備ではなかった。センターの関係者か、あるいは別の用向きの人間か——陽太には判断できなかった。
「……はい」
それだけ答えた。男は特に気にした様子もなく、カウンターへ進んだ。
陽太は隅のテーブルに座った。壁を背にして、出入口が見える位置を選んだ。選んでから、必要がないことに気づいた。ここに脅威はない。それでも、壁を背にして座ることをやめられなかった。
箸を持った。
白米を一口食べた。温かかった。味がした。悪くはなかった——否、悪くない、という評価の仕方しかできなかった。狭間の地で食べることは、消耗の補填だった。美味い、不味い、という感覚が、まだ戻っていなかった。どうすれば戻るのかは、分からなかった。
四人組のテーブルから、笑い声が上がった。
陽太はその方を見た。何が可笑しかったのか、陽太には響かなかった。一人が何かを言い、残りの三人が笑った。また一人が言い、また笑った。その繰り返しが、食事の時間の中に自然に溶けていた。陽太には、その有り様がどこか遠く映っていた。
狭間の地で、誰かと食事をしたことはなかった。
崩れかけた城壁の陰で干し肉を食べながら、次の敵の配置を考えた。隣に誰かがいたとしても、それは偶然の一致だった。言葉を交わすことも、笑うことも、しなかった。食べることと考えることが、同じ時間の中にあった。それだけだった。
味噌汁を飲んだ。
出入口の方から、また誰かが入ってきた。陽太は視線をそちらへ向けて——深雪ではなかった、と確認して、視線を戻した。
なぜ確認したのかを、陽太は考えなかった。
焼き魚を半分ほど食べたところで、陽太はトレーを返却口へ持っていった。食べ終わってはいない。腹が満ちていなかったわけでもなかった。ただ、ここにいる理由が、もうなかった。
施設の自動ドアをくぐると、朝の空気が返ってきた。
※
空の端がわずかに白み始め、街灯はまだ輝きを残していた。アスファルトが夜の湿気を含んだまま光を反射している。人はいなかった。陽太は施設の前に立って、しばらく空を見た。
そのまま目的地もなく歩き始めた。
蒲田の街は、この時間帯には静かだった。電車の音が遠くにあるだけで、他には何もなかった。陽太は車道沿いを歩きながら、足元のアスファルトの感触を確かめていた。彼の地でいつもそうしていたように。
コンビニが見えた。白い光が、建物の中から溢れていた。自動ドアの前まで来ると、センサーが反応してドアが開き、冷えた空気が出てきた。陽太は一歩、踏み込んだ。
昨夜も、ここに来た。
雑誌棚の前に立ったことを、陽太は覚えていた。雑誌を手に取り、棚に戻してを繰り返す陽太を見て、戸惑っていた深雪とすずの二人。深雪が「行こう」と言い、陽太は後に続いた。あのとき何を探していたのか、深雪には言わなかった。理由もなく言葉を濁した。
十年前に読んでいた作品が、まだ続いているかどうか。ただ、それだけを確かめたかった。嘗ては陽太の日常としてあったはずのものは、なくなっていた。それだけのことだった。
陽太は飲料の棚の前に移った。スポーツ飲料、お茶、炭酸、乳製品、酒——種類が多い。陽太は規則正しく並べられたそれらから一本を手に取り、裏面を見た。原材料名。カロリー。ナトリウム。消費期限。
狭間の地では、食べることに意味を求めなかった。聖杯瓶で術の源を補い、干し肉や苔薬で消耗を補填した。どれを選ぶかは戦場に応じて決めた。この数字の並びから何を読み取ればいいのか、陽太には分からなかった。棚に戻して、店を出た。
朝の空気が、冷たかった。自動ドアが閉まり、白い光が背後に遠ざかった。
※
街に人が増え始めたのは、それからしばらく経ってからだった。
最初は疎らだった。駅へ向かう足早な人間が、一人、二人と現れ、やがて流れになった。鞄を抱えた会社員、制服姿の学生、イヤホンをつけたまま歩く者。陽太はその流れの中に入りながら、全方位に感覚を走らせていた。
背後の足音を、無意識に分類していた。
近い、遠い、速い、遅い。重心の位置。靴底の音の質。十年間そうしてきた。それが当然になっていた。脅威ではないと判断しても、次の足音が来れば、また分類が始まった。狭間の地では、背後への油断が死に直結した。その回路が、まだ切れていなかった。
交差点の手前で、陽太は一瞬足を止めた。
角を曲がる前に立ち止まって、向こう側を確認する——それも習慣だった。曲がり角の先に何がいるかを、体が確かめようとした。向こうには何もなかった。サラリーマンが一人、スマートフォンを見ながら歩いてきただけだった。
陽太は歩き続けた。
スマートフォンを見ながら歩く人間が、通りに何人もいた。画面に視線を落としたまま、人の波の中を進んでいく。陽太の体に、その感覚がなかった。視界の一部を意図的に塞いで歩くことへの抵抗が、体の奥にあった。狭間の地では、視界を狭めることは隙を作ることだった。この街では、それが当たり前の動作として成立していた。
十年、という時間が、そういうことを可能にするのかもしれなかった。
人の流れが、交差点で四方に分かれた。陽太はその中を抜けながら、後ろから来る足音を、また一度確認した。脅威ではなかった。分かっていても、確認した。
——深雪なら、気づくかもしれない。
考えたのは、一瞬だった。自分が角の手前で止まったことに。習慣として背後を測り続けていることに。この街では誰もしない動作を、陽太がまだ手放せないでいることに——深雪なら、気づくかもしれない、と思った。
なぜそう思ったのかを、陽太は考えなかった。考える前に、次の足音が来た。それが脅威でないことを確認すると、陽太はまた歩き始めた。
人の波が、少しずつ薄くなっていた。通勤の時間が、峠を越えつつあった。川の方へ続く道が、前方に見えた。
※
川沿いの道は、人が少なかった。
通勤の流れから外れると、急に静かになった。風が川の方から来ていた。水の匂いがした。陽太は橋の手前で足を止めて、欄干に手をついた。
水面に、朝の光が差していた。
揺れていた。風が吹くたびに、細かく、繰り返し、同じ場所が光っては消えた。陽太はその揺れを見ていた。見ているうちに——篝火が重なった。
狭間の地の篝火は、こういう揺れ方をした。
炎の先端が風に揺れて、影が伸びて縮んで、また伸びた。篝火の前に座るとき、陽太はいつも同じことをした。装備を確認する。消耗を把握する。次の目的地を決める。敵の配置を思い返す。弱点、有効な祈祷、消耗しきる前に引くべき距離。考えるべきことが、常にあった。
篝火の前で、「次に何をすべきか分からない」と感じたことは、一度もなかった。
死んだことは、何度もあった。
斬られて、腐敗に蝕まれて、落下して、炎に包まれて——気づいたときには、また祝福の前にいた。最初のうちは、死ぬたびに何かが揺れた。やがてそれも消えた。死は繰り返しの一部になった。次の試行への、ただの移行。感情が入り込む余地は、どこにもなかった。
そうして積み重ねた死の中には、数えるという行為自体が意味を失った戦いもあった。
マレニアと戦ったとき、陽太は何度死んだか数えるのをやめた。
腐敗の霧が肺に入る感触を、体が今も覚えていた。刃が肩を抜けるときの音を、耳が今も知っていた。それでも篝火の前に戻るたびに、陽太は同じことをした。装備を確認する。消耗を把握する。次の試行を決める。揺れを、その都度削ぎ落とした。削ぎ落とし続けた結果が、今の陽太だった。
水面の揺れが、まだ続いていた。風が一度強くなって、光の筋が乱れ、また元に戻った。
陽太は欄干から手を離さなかった。ここには篝火も祝福もなく、「次へ進むための何か」が、どこにもなかった。狭間の地では、いつも何かが陽太を前へ押し出した。篝火の光でも、敵の気配でも、祝福の導きでも。だが今は、そのどれもがなかった。足を前に運ばせる理由がないと、人の気配だけが際立った。その気配を、陽太は十年のあいだ信用できなかった。
狭間の地では、裏切られたことも何度かあった。
パッチは宝箱に罠を仕掛けた。ゴストークは親切な顔をして暗室へ誘い込んだ。セルブスは師として接しながら、別の目的のために陽太を使おうとした。陽太はそのたびに、信じることの精度を下げた。下げて、また下げた。信じることをやめたわけではなかった。ただ、確認するまで信じないという習慣が、体の中に根を張った。
深雪を、最初は信じていなかった。
今も、完全には分からなかった。その状態に、名前をつける必要を、陽太は感じなかった。
ただ、水面を見ていた。
光が揺れるたびに、篝火の輪郭が重なって、また消えた。あの場所では、孤独は当然のことだった。誰かと共に篝火を囲む必要がなかった。囲んだとしても、次の目的地へ向かえば、また一人になった。それが繰り返しだった。繰り返しの中に、不足を感じる暇はなかった。
ここでは、その繰り返しがなかった。
次の篝火がなかった。次の敵がなかった。次の祝福までの距離を測る必要がなかった。陽太はただ橋の上に立って、川の水面を見ていた。それが、今の陽太にできることだった。
無意識に、ポケットの中の物に手を伸ばしていた。
取り出さなかった。ただ、外から一度だけ触れた。薄い紙の感触が、布越しに返ってきた。
狭間の地で、誰かを頼るという発想が生まれたことがなかった。頼る前に自分で切り開いた。切り開けなければ死んだ。死んでも戻った。その繰り返しの中に、誰かの存在を必要とする隙が、なかった。
水面の揺れが、また繰り返した。篝火と同じ揺れ方で、篝火とは違う光だった。陽太はしばらくそれを見てから、欄干から手を離した。
センターへ向かう時間だった。
※
センターの記入スペースには、午前の早い時間から数人の探索者がいた。
深雪は奥のテーブルに書類を広げて待っていた。陽太が近づくと、顔を上げた。余計なことは言わなかった。「座れ」と言って、書類を陽太の方へ向けた。
「Bランク相当の調査依頼だ。対象は蒲田から二駅、廃倉庫跡地から発生したダンジョンの中層。変質の兆候が複数報告されている。今週中に一度入る」
陽太は書類に目を落とした。地図、報告された異常の概要、過去の探索記録。読みながら、深雪を見た。書類ではなく、深雪を。
狭間の地で言葉をくれる者は多かったが、その言葉が「どこまで本心か」を測れる者はほとんどいなかった。パッチも、ゴストークも、セルブスも——話してはくれたが、必ず何かを隠していた。
深雪は隠していないように見えた。見えた、というだけで、確認したわけではない。それでも陽太は、深雪の言葉を最後まで聞く習慣がついていた。いつからかは、分からなかった。
「質問はあるか」
「……一つ、あります」
深雪が顔を上げた。
「昨夜書いてもらった連絡先のことです」
深雪は一拍おいた。陽太を見た。書類から完全に視線を外して、まっすぐに見た。
「なぜ、そうしたんですか」
短い沈黙があった。
「必要だったからだ」
それだけだった。説明はなかった。理由を重ねなかった。深雪はそれだけ言って、視線を書類へ戻した。
陽太は「分かりました」と答えた。
答えたが、処理できなかった。必要だった——その言葉の重さを、どこに置けばいいのか、陽太には分からなかった。狭間の地で誰かに「必要だった」と言われたことが、あっただろうか。記憶を探したが、見つからなかった。見つからないまま、深雪が書類を閉じた。
裏切りの記憶と同じ引き出しに、その言葉は入らなかった。信じていないわけではなかった。疑っているわけでもなかった。ただ、その言葉だけが、行き場を持たないまま陽太の中に留まっていた。
「では行こう」
深雪が立ち上がった。書類を脇に抱えて、出口の方へ歩き始めた。陽太は一拍おいて、後に続く。
センターの出口を抜けると、外の光が戻ってきた。
深雪が先を歩いていた。陽太はその一歩後ろを歩いた。風が、深雪の髪をわずかに揺らした。
それが視界に入った瞬間——深雪の背後に、黄金の光が落ちた。
葉のような形をしていた。ただ一枚だけ、音もなく、風とは無関係に、深雪の肩の後ろをゆっくりと落ちていった。深雪は気づかなかった。前を向いたまま歩いていた。
陽太は目を細めた。
その光を、知っていた。狭間の地で何度も見た——黄金樹から零れる、律の光に似ている。ここで見るものではなかった。ここにあるはずのものではなかった。
光は、地面に着く前に消えた。
深雪は振り返らなかった。陽太も、何も言わなかった。ただ、一歩後ろを歩き続けた。深雪の背中が、朝の光の中にあった。
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