褪せ人、帰還す   作:John.Smith

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ゲーム的な要素をもっと出していきたい。


第十三話「兆し」

 廃倉庫の前に、すずがいた。

 

 入口を塞ぐように立てられた仮設の受付テントの脇、コンクリートの段差に腰を下ろして、両手で保温カップを包んでいた。髪はひとつにまとめているが、ところどころ跳ねている。急いで結んだのが分かる。薄いジャケットの袖口には、昨日の記録作業でついたインクの跡が残っていた。

 

 深雪は一度だけすずを見た。眠気の残る目元とは裏腹に、表情はきっちり仕事の顔だ。準備はできている、と判断した。

 

 陽太たちの姿を見つけると、すずはぱっと立ち上がった。カップの中身が少し揺れた。

 

「お待ちしてました」

 

「今日も同行する。準備はいいか」

 

 深雪は足を止めず、すずの横を通り過ぎながら言った。

 

「はい、ばっちりです」

 

 すずはカップをバッグに仕舞いながら、陽太の方を一度見た。陽太は軽く頷いた。それで十分だった。

 

 受付テントには顔見知りの職員がいた。深雪が手続きを済ませる間、陽太は入口の方へ目をやった。

 

 廃倉庫の外壁は、コンクリートが所々剥き出しになり、錆の筋が縦に走っていた。入口の金属扉は撤去されて、代わりに黒い幕が張られていた。その奥から、ここではない場所の空気が滲んでいた。湿っていて、重く、石と土と何か有機的なものが混ざった匂い。

 

 深雪が戻ってきた。

 

「行くぞ」

 

 黒い幕をくぐった瞬間、外の音が消えた。

 

 足元がコンクリートから石畳に変わった。天井は高く、両側の壁は粗く削られた岩肌だった。等間隔に設置された照明器具が、オレンジ色の光を足元に落としている。壁の隙間から細い根が垂れ下がり、先端に水滴が光っていた。

 

 深雪が歩きながら、周囲を見渡した。

 

「……中は結構広いな」

 

 前回入ったのは廃ビル発生のダンジョンだった。天井が低く、通路が入り組んだ空間だった。今回は規模が違う。

 

「今回は自然洞窟っぽいですね」

 

 すずが言った。足元の石畳を踏みながら、壁に視線を走らせている。

 

「人工物の区画だと内装みたいな感じになるんですけど、こういうタイプは地形が読みにくくて……あ、でも探索のしがいはあります」

 

 深雪は短く頷いた。

 

 陽太は一歩後ろを歩きながら、天井を見上げた。岩盤の表面に、細かい結晶が光を反射している。砂岩か、あるいはそれに似た何か。狭間の地の洞窟と構造は似ていたが、空気の質が違った。あちらはもっと荒れていた。戦いの痕跡が、空気そのものに染みついていた。ここにはそれがなかった。

 

 三人の足音が、石畳に低く響いた。奥へ続く通路が、照明の届かない先で暗くなっている。深雪が先頭を歩いた。陽太はその後ろに続いた。

 

 

 深雪が足を止めた。

 

 通路の先に、影があった。丸い。高さは膝ほどしかない。壺を縦に置いたような形で、表面は鈍い白みがかった灰色——釉薬をかけた陶器に似た質感だ。底から短い足が生え、胴の両脇には小さな手がついている。顔はない。ただ、そこに佇んでいた。

 

「……変異魔物。警戒しろ」

 

 深雪は細剣を構えた。それは動かなかった。小さく、ゆっくりと、左右に揺れる。

 

 敵意を感じない。だからといって、安全とは言えない。ダンジョンには油断を誘うタイプの魔物がいる。近づいた瞬間に豹変する個体を、深雪はこれまでに何度か見ていた。

 

 ただ、じっとこちらを見ている。見ているという確信が、なぜかあった。目がないのに。

 

「は、はい……でも……あれ……?」

 

 すずが眉を寄せて、じっと観察する。

 

「動きは遅い。だが油断は——」

 

「……でも、何もして来ないですよ?」

 

「判断を急ぐな。見た目で決めるな」

 

 壺のような何かが、前に出た。短い足でちょこちょこと、少しだけこちらへ近づいた。すずが反射的に身構える。しかし丸い体はそれ以上進まなかった。表面をこちらへ向けて、ただ揺れた。何かを求めるように。人の手を求めるように。

 

「……距離を取れ」

 

「大丈夫です」

 

 陽太の声だった。深雪は横を見た。陽太はすでにそれの前にしゃがんでいた。いつ動いたのか、分からなかった。そのまま、胸の前で静かに手を合わせた。挨拶をするように。

 

 陶器の体が、ぺこりと頭を下げるように揺れた。

 

「挨拶した……!」

 

「……知性があるのか?」

 

「いえ。真似しているだけでしょう」

 

「真似……?」

 

「そんな魔物聞いたことないです……」

 

 陽太は立ち上がらずに、それを見ていた。

 

「壺人です」

 

 深雪は一拍おいた。

 

「……壺人?」

 

「はい」

 

「……そうか」

 

 そうか、と言ったが、何も分からなかった。壺人という名称が存在するということは、陽太にはこれが何であるか分かっているということだ。どこで知ったのか、なぜ知っているのか——追及する前に、壺人がすずの方へ近づいた。表面をそっと差し出すように揺れる。

 

「え、これ……どうしたらいいんでしょう?」

 

「やめろ。危険かもしれない」

 

「撫でて欲しいのでしょう」

 

 陽太が言った。壺人はこういう生き物だ、と言いたげな口調だった。撫でられることを好む——そういう習性があると、陽太は知っているらしかった。

 

 すずは深雪と陽太を交互に見て、恐る恐る手を伸ばした。壺人の表面に、指先が触れる。

 

 つるりとした感触だった。陶器そのものだった。温度も低く、滑らかで、継ぎ目がない。

 

「……すべすべ……」

 

 壺人が嬉しそうに揺れた。ころん、ころん、と体全体で喜びを表すように。すずはおそるおそる手のひら全体を表面に当てた。壺人がまたころんと揺れる。リズムができていた。

 

「……可愛い」

 

「……変異魔物に可愛いも何もない」

 

「気に入られたようですね」

 

 深雪はようやく細剣を下げた。壺人を見下ろして、小さく息をつく。脅威ではない。少なくとも今は。それだけは確認できた。

 

「……で、これは何だ?」

 

「壺人です」

 

「……そうか」

 

 二度目の「そうか」も、何も解決しなかった。

 

 すずは壺人の表面をゆっくりと撫で続けていた。壺人は揺れるたびにすずの手に寄りかかるような動きをした。懐いていた。完全に懐いていた。

 

「持って帰ったらダメですかね?」

 

「ダメだ」

 

「ですよね……」

 

 壺人は名残惜しそうにすずの手をぽてっと押した。すずが「また来るね」と小声で言うのを、深雪は聞こえないふりをした。

 

「行くぞ。……ついてくるなよ」

 

 壺人はころん、と一度揺れた。その場に残った。すずは三歩歩いてから、一度だけ振り返った。壺人は、まだそこにいた。

 

 

 通路が開けた。

 

 足を踏み出しかけて、深雪は止まった。

 

 広い。天井が一気に高くなり、岩盤の壁が左右に遠ざかっている。空洞というより、地下に埋まった盆地に近い。天井の割れ目から細い光が筋を作り、その下に——水があった。

 

 黒ずんだ水が、空間の大半を覆っている。淀んでいる。表面に膜が張ったように動かず、光を反射しない。底は見えない。岸際の泥は腐葉が堆積したような赤みがかった黒で、踏めば膝まで沈みそうな柔らかさを見せていた。水面のあちこちに、枯れた草の茎が突き出している。生きているものが、何もない景色だった。

 

 においがした。湿った土と、有機物が長い時間をかけて溶けていくような、重い臭気。

 

「……沼、ですね」

 

 すずが顔をしかめながら言った。

 

 深雪は無言で対岸を確認した。十五メートルほど先、乾いた地面が続いている。迂回路はなさそうだった。行くしかない。深雪が沼の縁へ踏み出そうとした瞬間——

 

「待ってください」

 

 陽太の声だった。低く、いつもより少しだけ速かった。

 

 深雪は足を止めた。すずも止まった。二人して陽太を見る。陽太は沼の縁の手前で静止したまま、水面を見ていた。視線が動かない。表情も動かない。ただ——心なしか、顔色が悪かった。

 

「……何かあるのか」

 

「……沼には、種類があります」

 

「種類?」

 

「触れるだけで皮膚が爛れるものがあります。あるいは、踏み込んだ瞬間に内側から蝕まれるものも」

 

「どんな沼ですかそれ!?」

 

 陽太は答えず、沼の縁に一歩近づいた。しゃがんで、水面に顔を寄せる。鼻が、わずかに動いた。心なしか、顔色が悪い。

 

「三咲さん、大丈夫ですか」

 

「問題ありません」

 

 即答だった。

 

 陽太はゆっくりと立ち上がり、沼の縁を踏んだ。泥が沈む。足首まで埋まる。数秒、そのまま待った。

 

「毒ではないと思います」

 

「思います、というのは?」

 

「匂いが違います。危険な沼は、甘い匂いがします。あるいは、鉄に似た匂いか」

 

「甘い匂いの沼……それ、どこで覚えたんですか」

 

「経験です」

 

「どんな経験ですか!」

 

 陽太はすずを見た。一拍おいた。

 

「……話したくありません」

 

 すずは「なんでですか」と言いかけて、陽太の顔を見て、やめた。深雪も同じ判断をした。

 

「……ただの沼地のようですね」

 

 深雪の方を向いた。

 

「進めます」

 

 陽太の言葉を受けて深雪は沼に足を踏み入れた。一歩、また一歩。踏み出すたびに、ぬかるみが足を引き留める。前へ進もうとする力が、そのまま下へ吸われていく感覚だった。

 

「うわ、最悪……靴に入ってきた……」

 

「文句を言うな。足元を見ろ」

 

「見てますよ! 見てるから最悪だって言ってるんです!」

 

 深雪も慎重に足を運ぶ。一歩ごとに沼が抵抗する。思ったより体力を削られる。戦闘でもないのに、じわじわと消耗していく感覚が不快だった。

 

 ふと、気配が続いていないことに気付いた。

 

 深雪は振り返った。陽太が、沼の入口付近で立ち止まっていた。沼には入っていない。何かを——取り出していた。

 

 武器だった。ただし、これまで見たことのない形をしていた。

 

 鉤爪、と呼ぶのが正確だろう。両手に装着するタイプの刃物で、指の間から四本の爪が前へ伸びている。刃は薄く、反りがあり、獣の爪を金属で模したような形状だった。黒みがかった鈍い色をしており、表面に細かい傷が刻まれている——使い込まれた道具の傷だ。陽太はそれを両手に装着しながら、沼の方へ視線を向けた。

 

「……何をしているんだ、あいつは」

 

 深雪は足を止めずに言った。すずも振り返ったが、答えを持っていなかった。

 

 陽太が、動いた。

 

 最初の一歩が、速かった。次の一歩はさらに速かった。鉤爪の先端が水面を叩くたびに、沼の表面を蹴るように体が前へ出る。沈まない。止まらない。水の抵抗を完全に無視した動きで、陽太の影が後ろへ流れた。

 

 気づいたときには、二人の横を抜けていた。

 

 そのまま、遥か先へ。

 

「なんだあれ!?」

 

 すずは理解できないものを見た、と言わんばかりの顔をしていた。

 

 深雪は何も言わなかった。言葉が出なかった。

 

 陽太は沼の向こう、乾いた地面の手前で足を止めた。こちらを向いて、待っている。

 

 深雪とすずは顔を見合わせた。それから、また一歩、ぬかるみを踏んだ。

 

 二人は泥に足を取られながら、どうにか陽太のいる方へ進んだ。

 

 乾いた地面に上がったすずが、泥のついた靴を見ながら言った。

 

「なんだったんですか、あれ……どうやって……私が走るより早かったですよ」

 

 陽太は少し悩む様子を見せてから答えた。

 

「慣れです」

 

 すずは一拍おいた。深雪を見た。深雪は何も言わなかった。ただ前を向いて、歩き始めた。

 

 

 通路が再び狭まった。天井が低くなり、石畳が戻ってくる。沼地の湿気が少しずつ薄れて、乾いた岩の匂いに変わっていった。

 

 すずはまだ靴の泥が気になるのか、歩くたびに足元をちらちらと見ていた。深雪の靴も、縁に泥が残っていた。あの沼地を越えるために使ったものが、靴底の泥にしか残っていない。

 

 頭上で、何かが動いた。

 

 翼だった。天井近くの暗がりに、巨大な影が張りついていた。翼開長は三メートルを超えているだろうか。翼の膜は黒みがかった赤褐色で、所々が裂けたように薄くなっていた。顔は潰れた鼻と、裂けた口だけで構成されている。目が三つあった——縦に並んだ赤い目が、じっとこちらを見ていた。

 

 影が、ゆっくりと翼を広げた。

 

「うっ……気持ち悪い……目が三つ……?」

 

「魔物だ。下がれ」

 

「ああいうの、ほんと無理なんですけど……」

 

「来るぞ——」

 

 深雪の声と同時に、影が急降下してきた。深雪は身を捻って躱した。すずも転がるようにして避ける。風圧が顔を叩いた。

 

「うわっ、危なっ……!」

 

「上に逃げたか……!」

 

 蝙蝠は再び天井付近へ舞い上がり、こちらを見下ろしながら旋回する。距離を保っている。隙を見せない。

 

「……厄介だな」

 

「どうします? あれ、絶対また来ますよ……!」

 

 深雪が細剣を構え直す。すずも片手剣を握り直した。蝙蝠は高い位置を保ったまま、じりじりと距離を詰めてくる。

 

 そのとき——

 

 陽太が、動いた。

 

 胸元から何かを引き出す動作だった。すずには一瞬、何をしているのか分からなかった。次の瞬間、陽太の両手に——弓があった。

 

「えっ……えっ!? ちょ、ちょっと待ってください! それどこから取り出して——ええ……?」

 

 それは武器というより、神殿の柱か何かを無理やり削り出したかのような異様さを放っていた。黒い石肌には、一本の線も迷いなく刻まれた細密な紋様が走り、その巨大な弦を弾けば、大気を引き裂くような重低音が響く。

 

 陽太はゆっくりと矢を番えた。

 

 槍のような長さだった。矢尻は石塊を削り出したような無骨な形で、その質量だけで石畳を割りそうだった。陽太がそれを当然のように引き絞る。

 

 弓を引く腕の筋が、わずかに浮いた。

 

 弦が軋んだ。低く、腹に響くような音だった。重いはずの大弓が、陽太の手の中では普通の弓のように安定している。その静けさが、すずには異様に見えた。周囲だけ時間がゆっくりになったような——陽太の周囲だけが、別の密度を持っていた。

 

 その姿はさながら狩人のようで——

 

 深雪の思考が、一瞬止まった。

 

 蝙蝠が再び急降下を始める。

 

 陽太の指が、静かに弦を離した。

 

 大矢が蝙蝠の胸を貫いた瞬間、内部から破裂するように爆ぜた。黒い羽根と赤い霧が四方に散る。残骸は地面にすら届かなかった。霧だけが、ゆっくりと落ちてきた。

 

 静寂が戻った。

 

「……今の……何したんですか……?」

 

 すずは口を開いたまま、言葉を探して固まっていた。

 

 陽太は大弓を魂へ戻しながら、淡々と言った。

 

「剣が届かないので、弓を使いました」

 

「いやいやいやいや……! なんで蝙蝠が爆散するんですか!? ていうかその大弓どこから出したんですか!!」

 

 陽太は特に答えず、踵を返して歩き出した。

 

「……お前、段々自重しなくなってきたな」

 

「深雪さん、それで済ませるんですか!? 爆発しましたよ!? 爆発!!」

 

「私たちに向けて撃ったわけじゃない」

 

「いや、そうですけど……そうですけど……!」

 

 すずはまだ何か言いたそうだったが、陽太はすでに十歩先を歩いていた。霧の名残が、まだ天井近くを漂っていた。

 

 

 すずのツッコミが収まる頃には、三人は次の区画へ差し掛かっていた。

 

 魔物が三体、通路の奥から現れた。

 

 人型だったが、腕が四本あり、膝が逆に曲がっていた。三体が横に広がるようにこちらを向いている。

 

「下がっていろ」

 

 深雪はすずを制した。細剣を抜かなかった。左手を、前へ向けた。

 

 冷気が走った。

 

 音もなく床を這い、一体目の足元を包む。足首が、瞬時に凍りついた。動きが止まる——その一瞬で、深雪は踏み込んでいた。細剣が右脇腹を貫き、引き抜く。一体目が崩れる前に、次へ向いていた。

 

 二体目と三体目が同時に動いた。

 

 深雪は止まらなかった。左手を横へ流す。冷気が扇状に広がり、二体の足元から這い上がる。霜が胴体を包んだ瞬間、深雪は跳んだ。

 

 二体が、同時に砕けた。

 

 着地した深雪の呼吸は、乱れていなかった。

 

 すずは、動けなかった。

 

 三体を、十秒もかかっていない。氷と剣が一つの動きとして繋がっていた。深雪がいつ判断して、いつ踏み込んだのか——軌跡が、見える前に終わっていた。

 

 すずは以前の深雪を知っている。強かった。確かに強かった。でも、あのときの深雪はもっと——動きの中に、重さがあった。力を出している、という感触があった。今は、それがない。

 

「深雪さん……また、強くなってます?」

 

 深雪は振り返った。息は乱れていない。表情も変わらない。むしろ、戦闘の余韻が身体に残っていないことの方が気になった。筋肉の張りも、呼吸の重さもない。今の戦闘が、準備運動だったかのように。

 

「……そうか?」

 

「なんか……動きのキレが違うというか。今も三体まとめて瞬殺ですよ……」

 

 すずは言いながら、深雪の手元をちらりと見た。何か言いかけて、眉を寄せて、やめた。

 

 陽太が静かに深雪を見た。

 

「……すずさんの言う通りです。動きが……以前より鋭くなっている」

 

 深雪は前を向いたまま、何も言わなかった。

 

「出会った頃の九条さんと、今の九条さんは——まるで違います」

 

 すずが小さく息を呑んだ。

 

 胸の奥がざわついた。否定したい。だが否定できるだけの材料が自身の中にもなかった。

 

 覚醒の成長にしては、早すぎる。その感覚は以前からあった。陽太と出会ってから、ダンジョンに潜るたびに力が跳ね上がっていく。最初は偶然だと思った。次は調子が良いだけだと誤魔化した。その次は——言葉が見つからなかった。誤魔化すための言葉が、もう残っていなかった。

 

「……私も、成長しているんだ」

 

 声に出した瞬間、自分の耳に届いた。言い訳のような声だった。自分でも分かった。

 

 すずは口を開きかけて、閉じた。それからもう一度、小さく息を吸って。

 

「前より……いや、なんでもないです」

 

 それだけ言って、視線を落とした。

 

 陽太は否定も肯定もしなかった。ただ静かに、深雪の横顔を見ていた。評価でも心配でもない。ただ事実として、見ている——そういう視線だった。

 

 その視線が横顔に触れた瞬間、心臓が一瞬だけ跳ねた。

 

 見透かされているような感覚があった。何を、とは言えない。言えないが、陽太の視線がそこにある限り、誤魔化しが成立しない気がした。言葉ではなく、ただ見ている——その静けさが、深雪には一番きつかった。

 

 その苦しさから逃れるように目を逸らした。直視したくなかった。

 

 無言の静寂が空気を蝕む前に、深雪は進み始めた。

 

「行くぞ」

 

 声は、いつも通りのつもりだった。

 

 

 通路を進んでいた深雪が、不意に足を止めた。

 

 重心が僅かに沈む。反射のような動きだった。

 

 何かが、あった。音ではない。気配、と呼ぶには薄すぎる。ただ、背中の側に——何かがある、という感覚だった。

 

「……今、何か……」

 

 振り返った。

 

 誰もいない。薄暗い通路が、照明の光の届く範囲だけ見えて、その先は暗くなっている。魔物の気配もない。足音も、息の音も、ない。

 

「魔物……じゃないですよね?」

 

 すずは深雪の背中に一歩近づいた。声は警戒の色を含んでいる。

 

「分からない。気配が……一瞬だけ」

 

 陽太は無言で周囲を見渡した。剣に手をかけるでもなく、ただ目を細めて、通路の空気を読んでいる。壁を見る。天井を見る。来た道を見る。その表情には焦りも警戒もなく、ただ静かな注視だけがあった。

 

「……気のせい、か」

 

 自分の声が、わずかに硬いことに気づいた。

 

「さっきの壺人みたいに、別の変異魔物とか……?」

 

「……だとしたら、隠れる理由がない」

 

 陽太が静かに口を開いた。

 

「音の間隔から考えると、人……だと思います。確信はありませんが」

 

 深雪とすずが同時に息を呑んだ。

 

「探索者……?」

 

「分かりません」

 

 すずが一歩、深雪の隣に出た。

 

「でも……探索者なら、隠れる理由ってあります? 助けを求めるとか、声をかけるとか……普通は」

 

「……そうだな」

 

 深雪は通路の奥を見つめた。怪我をしているのか、迷っているのか——それならなおさら、気配を隠す必要はない。

 

「……逃げてる、って可能性は?」

 

 すずの声に焦りの色が滲んだ。

 

「魔物からなら、音がするはずです」

 

 陽太が静かに言った。推測ではなく、確認した事実だけを告げる口調だった。

 

「じゃあ……誰が……?」

 

 答えは出なかった。

 

 深雪はもう一度だけ振り返った。暗い通路を見た。何もない。何も——

 

 通路の奥で、細い光の線が一瞬だけ揺れた。

 

(……あの光は、以前にも見た……?)

 

 瞬きした時には、もう消えていた。すずも、陽太も、気づいていない。すずは深雪の横顔を見ていた。陽太はその方向をもう一度見て、それから視線を戻した。

 

 深雪は前を向いた。

 

「……行こう。立ち止まっても仕方ない」

 

「は、はい……」

 

 陽太は振り返り、通路を一度だけ見た。それから何も言わずに、深雪たちの後を歩き出した。

 

 三人の足音が、石畳に低く響いた。

 




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