蒲田のコンビニの前で、深雪は足を止めた。
店の窓ガラス越しに、テレビモニターが光っていた。ニュースだった。声は届かない。テロップだけが読めた。
《ダンジョン内死亡事故、今月に入り急増——原因は依然不明》
探索から数日が経っていた。あのダンジョンの奥へ潜り、気配を追い、光を見て、そして——何もいなかった。その事実だけが残っていた。拭い去れない不気味さとして。
深雪はテロップを一秒見てから、目を逸らした。
原因不明。その言葉が、腹の底に小石を落としたように沈んだ。公的には原因不明だ。探索者の間を流れる話は、もう少し具体的だった。低ランクで人が死んでいる。傷が整いすぎている。魔物の仕業には見えない——と。
「結局、あのダンジョンでは何も出なかった」
歩き出しながら、深雪は言った。独り言のつもりではなかったが、声に出してみると独り言に近かった。
「……それが、ずっと引っかかってる」
間があった。アスファルトに二人分の足音が響いた。通りの向こうで自転車のベルが鳴り、誰かが笑っている声が風に乗ってきた。日常の音が、いつも通りに続く。
「……見せなかっただけかもしれません」
陽太が静かに言った。前を向いたまま、顔を上げなかった。
深雪はその言葉を、歩きながら飲み込んだ。消えたのではなく、姿を隠しただけ。あの気配は今もどこかにある。そういう意味だった。
何も起きなかったことを、深雪はどこかで安堵していた。あの探索を終えて街に戻り、日常に戻った。その落ち着きが正しかったのだと信じたかった——陽太の一言が、その根を静かに引き抜いた。
「……そうか」
それだけ言った。
陽太は深雪の半歩後ろを歩いていた。いつものことだ。だが今日は、その距離がいつもより少しだけ遠く感じた。
言葉にならないまま、足音だけが続いた。
深雪のスマートフォンが振動した。センターからの呼び出しだった。
※
水瀬梓は書類をテーブルに置く時、必ず角を揃える。
探索者センターの応接室。午後の光が窓から斜めに入る静かな部屋で、梓は深雪と陽太の前に三枚の書類を等間隔に並べた。すずは深雪の隣に座り、背筋を伸ばしていた。
「低ランクのダンジョンで、複数の死亡事故が続いています」
梓は書類の一枚を深雪の前へ滑らせた。
「報道の通り、公的には原因不明として処理されています。ただ、内部の調査では——」
「傷が整いすぎている、ということか」
深雪が先に言うと、梓は一度だけ頷いた。
「ええ。致命傷が一箇所、正確に入っています。争った形跡が殆どない。遺留品の散乱もない。……魔物の仕業とは、思えない入り方です」
すずが隣で手を止めた。書類に触れようとして、指が固まった。
「……人が、人を殺しているということですか」
梓はすずへ視線を向けたが、表情を変えなかった。
「断定はできません。しかし、否定できる根拠も今のところありません」
穏やかな声だ。だから却って重い。断定しない、という言葉の中に、既に確信の色が滲んでいた。
「魔物の学習という可能性は」
「複数のダンジョンで同様のケースが確認されています。魔物の行動様式が一致するとは考えにくい」
深雪は書類を机に戻した。低ランクで人が死ぬ——それ自体が本来ありえないことだった。危険度が低い。構造が単純で、逃げ場がある。初心者が入る場所だ。そこで致命傷を一箇所だけ正確に入れた何かがいる。
「九条さん」
梓の声のトーンが、少しだけ落ちた。書類の端を、一度だけ揃え直した。
「亡くなった方の一人は、先月に資格を取ったばかりです。十九歳でした」
深雪は答えなかった。
「誰かに追って欲しいと思っています。センターとしての依頼、ということにはなりますが——」
梓の目が、一瞬だけ書類の外へ向いた。窓ではなく、机の上の、何もない場所へ。それだけだった。次の瞬間には、いつもの落ち着いた声が戻っていた。
「私個人としても、お願いしたいのです」
窓の外で、鳩が欄干に降り立った。その音だけが、部屋の静寂を僅かに乱した。
※
指定されたダンジョンは、住宅地の外れにあった。
元は食料品か日用品を扱う類の商店だったらしい。シャッターが下りたまま閉まっており、ガラス面には黒い幕が貼られていた。軒先に小さな受付テントが設けられ、施設のランク表示は最下段だった。探索者の資格を取ったばかりの者が最初に潜るような場所だ、と説明書きにあった。
幕を潜ると、足元はタイルだった。
目地が等間隔に入った、どこにでもある床材だった。壁面に等間隔でLED灯が設置されており、通路の奥まで均等に明るかった。壁は加工された石材で、角が整えられている。天井は低く、圧迫感がない高さに抑えられていた。空気は僅かにひんやりとしているが、不快ではない。管理されている、と分かる温度だった。
「……普通ですね」
すずが周囲を見渡しながら言った。
「構造が変わっているわけでもないですし、見慣れた感じです」
「ああ、だからこそ油断できない。先に進もう」
普通だった。低ランクのダンジョンとして、あるべき姿のまま、そこにあった。魔物の気配は奥から僅かに漂う程度で、それも想定の範囲に収まっている。壁に亀裂があるわけでも、通路が不自然に入り組んでいるわけでも、照明が届かない死角があるわけでもない。
こういう場所で、人が死んでいる。
梓が見せた書類を思い返した。致命傷が一箇所、正確に。争った形跡が殆どない。深雪は通路を歩きながら、問題があるものを探した。不審な物は特に見つからない。至って普通のダンジョンだった。見つからないことと、書類に書かれていたことが、頭の中で噛み合わない。
何かがおかしい、という感覚がある。壁を見る。床を見る。天井を見る。どこにも異常がない。それでも、その感覚が消えなかった。ここは安全な場所のはずだ、という認識と、何故かそう思い切れない何かが、深雪の中で並んでいた。
陽太が半歩、足を緩めた。
歩みを落として、周囲の空気を確かめるような速度になった。深雪はその変化を視野の端で捉えて、黙って前を向いた。
通路の奥から、声が聞こえた。人の声だった。
※
魔物の声ではなかった。
切れ切れに、「来るな」「頼む」という断片が通路を伝わってきた。深雪が先行した。すずは深雪の背後につく。陽太は最後尾から半歩遅れて続く。
通路が開けた所に、男がいた。
三十代半ばほどか。探索者の装備を身につけていたが、素材から窺うに、ランクは低そうだった。壁に背をつけて、右手に剣を握っていた。正面に、ずんぐりとした魔物が三体、横に広がって男を壁際へ押し込んでいた。
陽太が動いた。
深雪には軌跡が殆ど見えなかった。剣が収まる頃には、通路に魔物の気配は残っていなかった。
男が壁から力を抜き、ずるずるとしゃがみ込んだ。膝の皮が破れて、乾いた滲みの跡がある。目が充血していた。唇が震えている。
「……助かった」
掠れた声だった。
「いきなり、人に襲われて……必死で逃げてたら、魔物に囲まれて……」
すずが一歩、男の方へ踏み出した。「大丈夫ですか。傷は」
「傷は大したことない。それより——」
男は顔を上げた。深雪を見た。次に陽太を見た。視線が二人の間を動いた。
「なあ……あれが噂の、やつなのか。探索者を、殺して回ってるって。俺の仲間も、突然——」
「状況を話せ」
深雪は遮った。
男の話は断片的だった。入ってすぐ後ろから何者かに襲われた。仲間と一緒だったが、気づいた時には離れていた。顔は見えなかった。体格も、はっきりとは——「でも、あいつは普通じゃなかった」と繰り返した。
「仲間とはどこで離れた」
「この奥にある広間の手前で。急に後ろから——気づいたらひとりだった」
「背後からの奇襲か。相手は一人か?」
男が視線を落とした。記憶を手繰るような間があった。
「暗かったから……よく見えなくて。すみません」
深雪は黙った。陽太は聞いていたが、何も問わなかった。
「怖かったですよね」
すずが男を労わるように言った。声に棘がなかった。咎める色もなかった。男はその柔らかさに少し落ち着いたのか、一度だけ頷いた。
話しながら、男の目線が動いた。深雪の装備を一度。陽太の装備を一度。すずの腰の剣を一度。ほんの一瞬のことで、すずは気づかなかった。陽太は前を向いたままだった。
「同行させてくれないか」
男が立ち上がりながら言った。
「こんなことを言うのは情けないが、一人じゃ怖い。出口まで……頼む」
すずが深雪を見た。
「深雪さん……」
「放っておくわけには」と言いかけて、口を噤んだ。深雪の表情を読んだからだった。すずは陽太を見た。陽太はただ黙って男を見つめている。
深雪は一拍置いた。
「……調査がある」
「調査?」
「ここで起きた事故の確認がある。それが終わるまで一緒に来てもらう。出口へ送るのはその後になる」
男が一度、口を動かした。何か言いかけて、止めた。
「……分かった」
「では行くぞ」
男が立ち上がった。その拍子に陽太と目が合った。一瞬だった。男の肩が、ごく僅かに揺れた。陽太の表情には何もなく、ただ前を向いた。
深雪は男を連れて、歩き始めた。
※
出発して間もなく、通路の先に人が倒れていた。
男が一瞬立ち止まり、すぐに走り出した。深雪の横を追い越すように、倒れた人影の前に膝をつく。
「そんな……こいつ……俺の仲間だ……!」
探索者の装備だった。男と同じくランクの色は低い。こちらの歳はまだ若く——二十代前半に見える。仰向けで、静かに目が閉じていた。争った形跡はなかった。装備に乱れがない。投げ出されたのではなく、横たえられたように見えた。静かに、丁寧に。
深雪は骸に近づき、傷を確かめた。
致命傷は一箇所だった。胸部。刃の入り方が垂直に近く、力みのない角度だった。最短の経路で急所を選んでいる。骨の位置を把握した上での入り方で、魔物の爪や牙ではあり得ない。人の手が、この角度と深さを計算した。
「……これも、人の仕業か」
意図せず声が、平坦に出た。
傷の周囲を、もう一度だけ見た。血の滲み方が少なかった。刃が入った後、長い時間が経っていない。つまり、男の仲間を殺した犯人はまだそう離れてはいないはず。そして争った跡がないことから、被害者は危険を認識する前に倒れた。
梓の言葉が、死体の前で像を結んだ。
刃が入った方向から体格を割り出せる。深雪は骸の周囲を一歩ずつ回った。着地した際の土の踏み込みがない。正面から向き合ったのではない。相手は被害者の動線を先読みして進路上に待っていたか、背後を取った。いずれにせよ、技術がある。経験がある。そして慌てていなかった。感情が乱れた行為ではない。深雪は膝を伸ばして立ち上がった。確認できることは以上だった。それ以上を読み取るには、今の深雪に材料が足りなかった。
すずは少し後ろで立ったまま、骸を見ていた。探索者として活動している以上、全く耐性がないわけではないだろうが、いつもの快活さは鳴りを潜め、表情は固まっていた。
「……お気の毒に」
それだけを、どうにか絞り出した。
男はなおも頭を下げたまま、動かない。肩が小さく揺れていた。
陽太が骸の傍に膝をついた。傷の縁に指を近づける。触れるか触れないかの距離で、刃の角度を視線で辿る。数秒、その姿勢のままだった。顎が僅かに動いた——傷の入り方を、自分の中の何かと照合するような静止だった。それだけ確かめると陽太は静かに立ち上がった。
「……魔物では、ないでしょうね」
短い言葉だった。断言でも推測でもなく、事実を確認する口調だった。
誰のものか——その先を言わずに、前を向く。深雪は骸をもう一度見た。その先を、まだ断定できなかった。
男の嗚咽が、通路に低く響いた。
「行くぞ。立ち止まっても、どうにもならない」
※
次の広間では魔物の群れが出た。
天井の暗がりから八体が一斉に降りてきた。胴が太く四肢の短い蜥蜴型で、着地した瞬間に四方へ広がった。前後を封じるように展開する。
「散開——!」
深雪が叫んだ。左手を前に向ける。冷気が床を這い、前方の三体の足を氷で縫いつけた。すずが右側へ回り込んで片手剣を構える。男が深雪の後ろへ下がった——陽太は既に動いていた。
最小限の動きだった。一体が向かえば半歩退いて刃の軌道を反らし、二体が同時に来れば体を一度回して衝突の力を別の方向へ流す。力任せではない。相手の重心を読み、地形を読み、体格の差を利用していた。深雪は自分の前の敵を処理しながら、陽太の剣筋の端を目の隅で追った。
深雪が氷で縫い止めた三体へ、すずが走り込んだ。右から刃を合わせて踏み込み、ひとつを転ばせた。動きに粗があった——膝が浮いた瞬間、押し込みが甘くなる。しかしその乱れを体の本能で補い、踏み留まった。一体目を仕留め、顔色を変えないまま二体目へ向き直す。半年前とは違う、と深雪は横目で確かめた。
深雪自身の前には残り四体がいた。一体の腕が頭上から来た。左手を翳した——冷気の束が前方へ伸び、相手の足元と床をまとめて縛りつける。藻掻く間に踏み込んで一撃で仕留めた。次が横から低く来た。体を半身に絞って軌道を外し、通り過ぎた瞬間に追った。三体目が後方から迫った——即座に反撃しようと踏み込んだ瞬間、既に蜥蜴は倒れていた。深雪には陽太が通り過ぎる残影しか見えなかった。残り一体を深雪が正面から押さえ、それで群れが散った。
その時、一拍、陽太の動きが止まった。
足を踏み出しかけて、その手前で留まる——半呼吸ほど停止したが次の瞬間には動き出していた。何事もなかったように。
戦闘で陽太が乱れる場面を、深雪はこれまでに一度も見ていなかった。相手の剣を受けたわけでも、地形に足を取られたわけでもない。体の内側で何かが引っかかった——そういう止まり方だった。深雪はその一拍を頭の隅に刻んだ。
陽太が共闘の中で、男の何を見たのか——確かめる間がなかった。深雪の前の敵が突進してくる。
群れが散った後、通路に静寂が戻った。すずが一度だけ肩を回して、軽く息を整えた。「……いきなり八体は多くないですか」と言った。怖かったというより、文句に近い声。男はまだ剣を下げたまま呼吸が乱れていた。倒れた影を見て、見て、ようやく剣を鞘に戻した。
陽太は、すずの方へ目を向けていた。
「持っていてください」
すずの手の前に、何かを差し出した。指先ほどの大きさで、鱗のような形をしている。すずが反射的に手を開く。
「何ですか、これ?」
「持っているだけで構いません」
陽太はすずの質問には答えなかった。すずが深雪を見たが、深雪にも分からない。すずは小さく首を傾けてから、それをジャケットの内側のポケットへ滑り込ませた。
※
通路が狭まっていった。
左右の壁が近づき、道幅が狭くなる。隊列は自然と縦一列になった。通路が暗くなるにつれ、男の歩調が緩んだ。深雪が先頭に立ち、すずが続き、男がすずの後ろへ滑り込んだ。陽太は最後尾になった。
列の内側へ滑り込む動きだった。怯えた人間が前を空けたがらない形に見えた。深雪はそれを警戒の外に置いた。
壁の岩肌が迫る。天井が低くなる。深雪、すず、男、陽太——四人が一本に引き伸ばされた。先頭の深雪には、後方の様子が見えなくなっていた。
後ろの足音が、一つ消えた。
狭い通路では、背後の気配が耳に入る。四人分の足音のうち、一つが途切れた。誰の足が止まったかまでは分からなかった。振り返ろうとした瞬間——
すずの背中で、金属の光が走った。
男が刃を返していた。前にいた深雪ではなく、すずへ向けて。躊躇いがなかった。すずが気づいた時には間に合わなかった。深雪が踏み出した。男が刃を引きながら振り向き、通路を塞ぐように深雪の前に立った。体が届かなかった。
すずが前へ崩れた。
「すず——!」
深雪の声が通路で割れた。すずは膝をついたまま前に倒れた。両手を床につき、耐え切れずそのまま崩れ落ちると、そのまま動かなくなった。男がゆっくりと刃を引いた。深雪は男との間へ飛び込んだ。
男が笑った。
細剣が男の剣を受けた。噛み合った。押し込んだ——力が出なかった。出せなかった。Aランクとして積み上げた計算が、後輩の崩れ落ちる姿を目に焼きついた瞬間に、霧散していた。足が動く。腕が動く。呼吸が続く。しかし込めるべき力の根が、切れていた。
男の剣が下から来た。受けるのではなく流す——本来ならそのまま次の一手へ繋げる動きのはずだった。繋げなかった。足が一拍止まった。男が当然のように踏み込んでくる。深雪が後退する。
おかしかった。
動きは体に刻まれているはずだった。選択ではなく、反射で出るはずのそれが、今夜は選択の手前で止まっている。視野の端にすずが倒れている——その像が貼りついて、剥がれなかった。眼球ではなく意識が追っていた。意識の一部を、すずに向け続けていた。
男との剣が交差する。深雪は横へ逸らした。男が踏み込んでくる。深雪が後退する。通路の幅が動きを制限していた——横へ回り込めない、大きな動きができない、それはお互い様だったが、男の動きには迷いがなかった。横へ踏み出したかと思えば、縦の力押しから角度を変えてくる。深雪はそれに細剣で応じ、間一髪で逸らした。体の動きは正確だった——体は動いている。だが決め手に届かない。届きそうになるたびに、壁際に倒れた後輩の輪郭が焦点を奪った。男はそれを感じ取った上で、急いでいなかった。
「最初は、カッとなっただけだった」
男が呟くように語った。斬りながら、粛々と。剣の動きに起伏がなかった。感情が入らない、仕事のような動きだった。深雪を斬る行為と、自分の話をする行為が、男の中で同じ重さで並んでいた。
「分配の話で揉めて、つい——そいつは死んだ。それだけのはずだった。でも二度目をやった時、気づいた」
「黙れ」
「裏切られて絶望する顔が、あった。あれが見たくて、繰り返した。何度も」
また後退した。男の独白が耳に入る度に、思考が乱れる。乱れを意志で抑えようとするが上手く行かない。
男が踏み込んでくる。深雪が細剣を横へ滑らせて刃を受け流す。壁に背がつきそうになった。半歩、前へ切り返した。男が止まった。止まった理由が分からなかった——試しているのか、この距離で十分だと判断しているのか。深雪には読めなかった。
男の独白は自分の犯行だけに閉じていた。他の誰かには触れない。各地の事故については何も言わない——余計なことを語る気がない、という確信が言葉の奥に透けた。これ以上話す必要がない、という確信。
「あのお人好しも、いい顔してたぞ」
男がすずの方へ顎をしゃくった。
「ああいうお人好しだから、死ぬんだよ」
深雪の中で、何かが音を立てて断ち切れた。
思考ではなかった。感情でも、なかった。Aランクとして身に刻んできた冷静さとか、戦場での判断基準とか——そういうものが根こそぎ、一瞬で吹き飛んだ。すずを嘲った声が耳の底に落ちた瞬間、深雪の手の中の細剣が、男の喉元へ向かう軌跡を描き——
すずの倒れた場所に、光が宿った。
白に近い金の輝きが数秒だけ滲み、深雪と男の動きを止めた。深雪がその源に目をやると、陽太がすずの傍に膝をついていた。深雪と男が斬り結ぶ隙間で、誰にも気取らずに陽太はすずの元までたどり着き、一人やるべきことを実行していた。光が消えると、陽太は静かに立ち上がった。
すずが、動いた。
倒れていた体が、手をついた。手が床を押した。膝が立った。顔が上がった——「死んだはず」の後輩が、今、立ち上がっていた。
男が固まった。
視線が、すずに向いた。そこだけが止まった。殺したはずの者が、今、立っている。男の口元が小さく動いた。声は出なかった。計算が外れた時の顔だった。
その一拍の隙に、今度はすずの剣が男の背中に添えられていた。膝は揺れ、手も震えていたが、決して男を逃さないという意志で反抗する体を押さえていた。
「勝手に……殺さないでください……っ」
声の震えを抑えて言い切った。
深雪の細剣が止まった。一度は男の喉元へ向かいかけた切っ先を、静かに下す。
深雪は一歩、すずへ向かった。男への警戒はそのままに。すずの肩に手をかけ傷を確かめる——浅かった。命に届いていなかった。ジャケットの内側に、陽太が渡した鱗があった。その鱗はほんの少し、熱を帯びていた。
すずが生きていた。
その事実が、深雪の中を一度かけ抜けた。
※
男が現れた瞬間から、陽太には疑心があった。
見慣れた色が、あの目にあった。怯えの奥に、何かを測る光がある——信頼を装いながら相手の重みを計る、あの色だ。長い時間の中で、陽太は何度もその目を見てきた。見るたびに、次に来るものが分かった。
話しながら、視線が動いた——深雪の装備を一度、陽太の装備を一度、すずの腰の剣を一度。怯えた人間の目が向く場所ではなかった。出口を確かめる目でも、助けを求める目でもなかった。戦力を測る目だった。証言の間も、おかしかった。どこで離れたかは語れた。相手の姿を問われた時、間が生まれた——長すぎる間だった。恐慌の中にいた者が記憶を探るのではなく、語るべきことを選ぶ間だった。
骸の傷が、それを裏付けた。
致命に至った最初の傷は、逃げようとした者の動きを先読みして入れられていた。獣が仕留める傷は衝動から入る。この傷は違った。重心の計算があった。確信を持って振り下ろした者の、人間の刃の痕だった。
魔物との戦闘で、確信に変わった。
群れとの混戦の中、男が一拍、後退した瞬間があった。剣を引き、体重を後足へ移し、次の動きを測った。魔物を前にした者の反応ではなかった。視野が広く、仕留めるべき位置を計算していた。狩りに慣れた者の、待ちの形だった。骸の傷と、繋がった。
戦闘が終わると、男がすずの側へ一歩、寄っていた。
(すずが、狙われるかもしれない)
取り出したのは古い時代、人の身体に生じた諸相の混ざった鱗——坩堝の名残だ。生命の原初が人に刻んだ先祖返り。古くは神聖視され、文明の後には穢れとして扱われた。それを集めて作られたタリスマンは、致命の一撃による損傷を軽減する。陽太は長く魂に格納したまま持ち続けていた。自分には、必要のないものだったから。
だから、すずに渡した。答えを聞かせる時間はなかった。
※
「——全部お前の仕業か」
立ち直ってから、深雪は男を見た。刃を前に保ったまま、掠れた声で言った。
男の顔に、一瞬の空白が走った。
「……何の話だ」
「最近の死亡事故だ。各地で探索者が死んでいる——それも、全部お前か」
「……ああ、それか」
否定でも肯定するでもなく、意味を噛み砕こうとしている口調だった。やがて男の表情が動いた。
「短期間で繰り返せば、流石にセンターも動く。調査が入ればダンジョンの入場記録からすぐに身元が割れる。わざわざ、そんな目立つ真似はしない」
その言葉には、後ろ暗いものを誤魔化そうとする響きはなかった。淡々と事実として告げる声だった。当たり前だろうと言うように。
深雪の思考が、止まった。
では、誰が。その問いが生まれた瞬間、すずの手が少し緩んだ。致命は避けたが、傷を受けた際の消耗がまだ抜けていなかった。陽太はすずの傍にいて間合いが遠かった。三人の動きが数瞬だけ噛み合わなかった。
男はその隙を見逃さず、走り出した。
肩越しに、一言だけ落として。
「また始めるだけだ」
足は緩めず、振り返らなかった。
いつの間にか通路の奥に、白みがかった霧が壁のように立ちはだかっていた。男は僅かでも逃亡の可能性に賭け、迷わずそこへ向かった。
霧の縁まで、あと数歩——
影が、霧の中から出た。
音もなく、霧の縁から軌道だけが現れ、走る標的の体をその速度のままに捉えた。一撃。それだけで男が前へ倒れた。
一瞬の出来事に深雪は動けなかった。足は地面に張り付けられたように固まっていた。動くという選択が、その一拍の間に存在していなかった。
倒れる男の傷を見る。骸に入っていた傷とは違う。男がすずを刺した傷とも、質が違った。それは力みがなく、速く、正確で——確実に命を断つ。そういう傷だった。
それどころか先ほどの太刀筋は——
気付けば陽太がすぐ隣に立っていた。剣は構えず——霧の方を向いたまま、ただ立っていた。その横顔に、深雪はごく細い綻びを見た。
男の骸が、霧に呑まれるように消えていった。
※
男の気配が消えた後、霧だけが残った。
通路を塞ぐ白みがかった霧は動かなかった。壁のように立ちはだかり、奥への道を覆っている。霧の中から光の線が一本、細く流れ出て、そのまま奥へ吸い込まれていった。薄い皮膚の下を流れる血のように、輝きが霧の内側で緩く脈打っていた。
すずが一歩、霧へ近づいた。
指先が霧の縁に触れた瞬間、すずの足が止まった。実体を持たないはずの霧の壁は、すずを拒むように確かな感触を持って押し返した。それ以上は進むな、と言っているようだった。すずはもう一度確かめるように手を伸ばすが、霧は変わらずそこに在ってすずを通さなかった。
「すず、下がれ」
深雪が言った。
「で、でも——」
「ここで待て。傷は治っても体力は戻っていないだろう」
すずは唇を噛んだ。霧と深雪を交互に見て、それから陽太を見た。陽太は無言で首を横に振った。視線は依然として霧の奥を見据えたまま。
「……分かりました」
喉元まで出掛かった反抗の言葉を飲み込み、すずが言った。
守られた者が見送る側に回る——その重さが、声に滲んでいた。それでも残ることを受け入れた。
霧の前に、深雪と陽太が立つ。
深雪は霧を見た。
霧の表面が緩く揺れている。深雪の呼吸に合わせて揺れているようにも見える。あるいは、霧の内側にある何かが、呼吸しているように。
陽太が踏み込んだ。踏み込む直前の横顔に浮かんでいたのは恐れではなかった。知っているものを前にした時の、静かな緊張だった。次の瞬間には、霧が陽太の輪郭を呑んだ。
深雪も間を空けず続く。
白が体を包んだ。視界が消えた。足の裏だけが石畳を伝えていた。
霧の中で、先ほど見た動きが戻ってきた。
鳥肌が立った。美しかった。美しくて、ゾッとした。あれほどの太刀筋を——深雪はこれまでに何度も、隣で見ていた。
まるで、陽太のようだった。
感想お待ちしてます。